陣凍小説を時系列順に読む


※性的描写を含みますので、生活年齢が18未満の方及び高校生の方は閲覧をご遠慮ください。


  好奇心はネコを×す


 あれだけの決意と犠牲を払って捨ててきた魔界の大地に、彼は今一度足を踏み入れていた。「戻りたい」と一度も思わぬままその場所へ戻って行くことは、多かれ少なかれ障害を伴うに違いない。そう思っていたのに、魔界に辿り着いた途端に刺客が現れることもなく、また、抑え切れないほどの不安に駆られることも、無意識の内に肉体が拒絶反応を示すことも、何ひとつなかった。懐かしむでもなく「変わっていないな」と思った程度で――それも、頭の片隅に一瞬浮かんだだけだ――、こうまでもあっさりと戻れてしまうものなのかと拍子抜けしたほどだ。流石の魔忍といえども、黄泉が支配する癌陀羅にまで踏み入ることは出来なかったのだろうか。そして、意外なほどに自身の心を平静に保っていられるのは、もう“そこ”が自分とは何の関わりもない場所だと割り切ってしまえたことの証明なのか。そう。“帰ってきた”のではない。ただ“来た”のだ。
 もっとも、自分独りではこうはいかなかっただろうとの確信はあった。魔界を出た時から、……いや、それ以前から傍にいてくれた存在があってこそ、今の自分でいられる。これからのことが分からぬ不安はないわけではないが、それを打ち消すほどの強い“光”が、今の彼にはある。もう迷いはない。
 と言っても、それはあくまでも精神的な意味でだ。実を言うと、彼は現在物理的に――道に――迷っていた。前方にも後方にも見覚えのない壁と廊下が伸びている状況で、やれやれと吐いた溜め息を聞く者は誰もいない。
 魔界にやってきてからは、幻海の修行を直接受けることは出来なくなっていた。それでも彼女に組まれた特訓のメニューを日々こなすことを、彼――と仲間達――はやめてしまってはいない。その一環として、誰かが「毒みたい」と称した蔵馬手製の薬を呑むことも、残念ながら継続を――作り手によって――強いられている。
「明日からしばらく留守にします」
 ある日蔵馬はそう言って、各人に薬を欠かさず呑ませる任を凍矢に与えた。
「必要な分は全てこの部屋で保管してありますから、2日に1回、必ず全員に呑ませるように。もちろん、貴方自身も」
 蔵馬は笑顔でそう言った。その笑顔が怖いのだ、この男の場合。
「どうしてオレに……」
「貴方なら、嫌なことでも正式に与えられた仕事となれば、無責任に放り出してはしまわないでしょう? オレが戻ってきた時、薬が残っていればもちろんサボっていたことは分かります。どこかへ捨てたとしても、その分妖力値の上昇がストップしているはずだから、それも。下手な誤魔化しはしない方が身のためだと、皆に伝えておいてくださいね」
 それほど長くはないはずの付き合いの中で、凍矢の性格はすでに把握されているようだ。彼は、薬の保管場所の鍵を――やはり笑顔で――手渡す蔵馬に、「憎まれ役を押し付けられるのは御免だ」とは言えなかった。
 そうして蔵馬の執務室に呼び出された帰り、普段利用しているのと同じ通路をいつも通りに通過しようとした時から、彼の“迷い”は始まっていた。部屋を出ていくらもしない所に、見慣れぬ男が数人いるのが見えた。と言っても、元より面識がある者の方がここには少ない。ただそれだけのことなら、凍矢はその存在を気に留めることはなかっただろう。しかしその場には、『改修作業中』と書かれた立て看板が置かれていた。
「……改修?」
 凍矢がその文字を見ていると、作業をしていた男のひとりが彼に気付いて近寄ってきた。手には工具のような物を持っている。
「済まないが、反対側の通路を使ってくれないか」
 男は凍矢が歩いてきた方向の更に奥を指差した。
「ここは通れないのか」
「ああ。昨夜誰かが酔った勢いで暴れたとかで、修繕が必要なんだ」
「酔った勢い……」
「全く、迷惑な話だよな」
 その“迷惑な”人物の心当たりが脳裏に浮かんだが、しかしそれが仲間のひとりだとでも言えば、どんな巻き添えを喰うか分かったものではない。凍矢は素直に別の道を使うことに同意した。
「行きは問題なく通行出来たんだが」
「強度的に見れば、すぐにどうこうということはないんだ。ただ同じことがあるとな。早めに直しておくようにとの指示なんだ。タイミングが悪かったな。辛抱してくれ」
「いや、大したことではない。その……、頑張ってくれ」
「ああ」
 凍矢は軽く手を上げてその場を立ち去った。言われた通りに通路を逆方向へと進み、違う廊下を抜けて、自分が使っている部屋を目指そうとした。が、その時彼は、初めてこの城が思っていたよりもずっと広く、複雑な造りをしていることを知った。敵に攻め込まれても簡単には主の許へ辿り着かせぬためなのだろう、住み慣れた者がどう思うのかは知らぬが、ここへ来て日が浅い凍矢にとっては、それは充分迷路だった。ついには登ってもいない階段を降りている始末だ。これなら無理に入り込んだことのないエリアに立ち入るよりも、蔵馬の部屋に戻って改修作業が終わるまでの暇潰しをさせてもらっていた方が良かったかも知れない。そうは言っても、まさかこのまま城内で力尽きて餓死することはあるまい。それほど深刻にはならず、ちょっとした探検気分にでもなってみるかと、凍矢は歩調を変えずに歩き続けた。
 やがて彼は一本の長い廊下に出た。あまりヒトが行き来する場所ではないのか、照明が抑えられていて少々薄暗い。が、掃除は行き届いているようで、床には埃ひとつ落ちていなかった。彼の感覚が狂っていなければ、ここは地下で、この廊下を真っ直ぐ行けば、方角的には目的地の真下までは辿り着けそうだ。後は近くの階段を見付ければ良い。自室を出て角をひとつ曲がったところにある階段がそれと繋がっていれば問題なし、仮にまた違う道にしか出られなかったとしても、そろそろ居住エリアに着くはずだ。そこにいる適当な者を捕まえて、道を尋ねることくらい出来るだろう。
 静まり返った通路に、自分の足音が響く。ここはどういった用途のエリアなのだろうと思い、試しに手近なドアを開けてみると、施錠はされておらず、室内には棚や箱に納められた大量の紙類が保管されていた。なるほど、倉庫か書庫室のようなものなのだなと納得して、再び歩き出す。
 通路の突き当たりにあるのが登りの階段であると気付いたのと同時に、凍矢は左手前方にあるドアが薄く開いていることに気付いた。室内には明かりが灯されているらしく、細い光の線が廊下へと落ちている。誰かの閉め忘れだろうか。閉めた方が良いのか、それとも触らぬべきなのかを考えながら近付いて行くと、不意に、ドアの隙間の向こうで何かが動いたのが見えた。
「誰かいるのか?」
 気付けばそう声をかけていた。意識したわけではない自分の行動に、少々驚く。誰かいたとしたら何だと言うのだ。何の問題もないではないか。好奇心が湧いたという自覚すらなかった。そもそも自分は、どちらかと言えば周囲の物事に無関心であることの方が多かったはずだ。
(誰の影響だ、全く……)
 好奇心は猫を殺すぞと心の中で苦笑しながら、そのドアに近付いた。もう一度声をかけてみようとした、まさにその瞬間、ドアが大きく開け放たれた。そこに“いた”のが何なのかを認識するよりも早く、伸びてきた“それ”に右腕を掴まれ、室内へと引きずり込まれていた。
 その部屋は、凍矢が思っていたのよりもずいぶんと――先程開けてみた書類が置かれた部屋の何倍も――広かった。小さな家くらいならすっぽりと納まってしまうのではないだろうか。天井も、ワンフロア分の高さではない。床は土で覆われている。ヒトが住むための家具の類は一切見当たらず、代わりに、ここが屋内であることを忘れそうになるほどの大量の草木が生えていた。凍矢の腕を掴み、その身体を宙吊りにしている“それ”も、『巨大な』と形容してしまって良いほどの大きさの植物だった。長い蔦の一本が自分の腕を捕えているのを見ながら、凍矢はその植物の“鳴き声”を聞いた。大きな花――毒々しい赤色をしている――の中心には、動物の口にしか見えない穴と、それを縁取る白いギザギザ――おそらく牙――があった。根は土に覆われることなく床の上で意思を持っているかのように動いている。と言うよりも、明らかに歩いている。どう贔屓目に見ても、食妖植物だ。
 何故こんなものが屋内にと考えるよりも先に、凍矢は空いている方の手の平に妖気を集中させた。
「魔笛霰弾射!!」
 空気を切り裂き、甲高い笛のような音を立てながら氷の礫が花の中心へと降り注ぐ。しかし、開花の映像を逆再生するように閉じた花弁に、それ等は全て弾かれてしまった。硬い物が金属に当たったような音が響く。どう考えても植物から発せられて良い類の音ではない。
「何なんだこいつは……」
 直線的な遠距離攻撃は通用しないと見て、凍矢は氷の剣を生み出した。自分の腕を捕えている蔦目掛けて振り下ろすと、わずかにではあるがその表面に傷が付いたのが見えた。どうやら、蔦部分は花弁ほどは硬質ではないらしい。しかし、利き腕が使えない上に宙吊りにされた体勢の悪さも相まって、決定的なダメージを与えるまでには至っていない。
「くそっ……」
 攻撃を受けたことによって怒った――植物がそんな感情を持つのかどうかは知らぬが――のか、新たに2本の蔦が鞭のように襲い掛かってきた。ただの植物の蔦と、侮る気は到底起きない。自分の首の太さほどもあるそれの打撃をまともに喰らえば、当たり所次第では骨の2、3本は折れるかも知れない。振り下ろされたそれを、片方は身を捩ってすんでのところでかわし、もう一方は渾身の力を込めて振り下ろした剣でなんとか切り落とした。蔦の切断面からは血液を水で薄めたような赤い樹液が噴き出した。それと同時に、金属同士を擦り合わせたような耳障りな“悲鳴”が響く。脳に直接届くようなそれに、凍矢は一瞬眩暈と吐き気を覚えた。
 相手があくまでも植物だというならば――とてもそうとは思えなかったが――、一定の冷気下では活動出来まい。そう思って周囲の温度を下げようとしているのだが、今や皮膚に爪を立てるように喰い込んだ蔦が、どうやら彼の妖力を吸い取っているようで、力が出せない。早く、この拘束を解かなければ……。
(解かなければ?)
 どうなるか――
(考えたくもない)
 掴まれた腕は、血流が妨げられ、すでに指先の感覚が怪しくなってきている。この状態が長く続けば壊死するか、あるいはその前に捩じ切られるか……。こんな危険な生き物がいる部屋に、何故施錠がされていないのか、実に解せない。それとも、この生き物自身が内側から鍵を破壊したのだろうか。
(こいつなら、そのくらい簡単にやれそうだ)
 せめて両腕が使えれば……。凍矢はなんとかしてその拘束が緩みはしないかともがいた。最悪の場合は、自らの手で腕を切断するしかないだろうか。決断するなら、妖気で作った剣の形を維持出来ている間にしなければならない。
 逡巡を断ち切るように、視界の隅で何かが動いた。しまったと思った時には一際長い蔦に左上半身を強打されていた。骨が軋む音が聞こえたが、ギリギリのところで折れてはいないようだ。それでも凍矢の身体からは一瞬全ての力が消えた。
「うっ……」
 がっくりと項垂れていると、彼の身体がゆっくりと運ばれ始めた。視線を向けると、真下に大きな口が開いている。いよいよ“獲物”を捕食しようというのだろう。歯らしき物を有しているところを見ると、丸呑みではなく咀嚼する系か。
 不意に、重力の存在を思い出したように凍矢の身体が落下を始めた。腕を捕えていた蔦が外れている。口の中に落とす気だ。
「行儀の悪い食い方だ」
 凍矢は、残りの妖気を自由になった右手に全て集めた。それは腕全体を覆うような巨大な剣へと姿を変える。鋭い先端を真下……すなわち、食妖植物の口の中目掛けて構える。植物は先程のように花弁を閉じて防御しようとしたようだ。が、凍矢の落下のスピードに追い付くことは出来なかったらしい。全体重をかけた氷の剣は、凍矢の腕の付け根付近まで相手へと突き刺さっていた。耳を劈くような悲鳴を上げ、一度大きく痙攣した後、それは動かなくなった。剣――腕――を引き抜くと、血に似た色の樹液が噴き出た。
「は……はあっ。何なんだっ、こいつは。責任者出て来い」
 息を切らせながら、凍矢は腕に眼をやった。捕えられていた痕が残ってはいるが、骨や神経は無事なようだ。植物の口の中から這い出て床に降りると、樹液の水溜りに足を取られて膝を付いた。
「くっ……」
 手足に力が入らない。いくら息を吸っても酸素が足りない。心臓の鼓動と呼吸は速さを増す一方だ。身体が熱い。頭がくらくらする。何かがおかしい。
「これ、は……?」
 立ち上がろうとするもそれが出来ず、凍矢は水溜りの中に倒れ込んだ。甘い匂いがする。熱い。何かがおかしい。
 不意に、自分の上に影が落とされたことに気付いた。身体を動かすだけの力が肢体に入らず、視線だけで“それ”を見た。樹液を噴き出しながらも、咆哮を上げる巨大な口。
(こいつ、まだ動け――)
「修羅旋風拳ッ!!」
 声が聞こえたのと、地面が揺れたのはほぼ同時だった。断末魔の悲鳴を上げ、今度こそ忌々しい植物は事切れたようだ。崩れ落ちた巨体の手前には、陣の姿があった。
「凍矢! 大丈夫だかっ!?」
「陣……? どうしてここに……」
「凍矢がなっかなか帰ってこねーから探してただ。したっけ、なんかすんげー音がしたから。凍矢、怪我は? 大丈夫だかっ?」
 陣は今にも泣き出しそうな子供のような顔をしていた。どれだけ心配性なんだと、それを笑うだけの余裕が、凍矢にはなかった。力を使い過ぎたこととは無関係に、彼の身体は異常を来している。
「凍矢……?」
 陣は手を伸ばして凍矢を助け起こそうとした。凍矢は「来るな」と叫んだ。
「何だ、これは……」
 凍矢は自分が今どうなっているのかを把握しようとした。体力と妖力を消耗している。これは時間が解決するのを待つしかない。いくつかある打撲痕は妖力さえ回復すればすぐにでも消えるだろう。掴まれていた右腕には若干の痺れが残っているが、大したことはない。数箇所血が滲んでいるが、それもだ。全身を濡らしているのは自身の血ではない。咽返るほどの香りを放っている樹液がその正体だ。甘い匂い。獲物を誘い出すような。
(まさか、毒?)
 そうとしか考えられなかった。そうでなければ、突然生まれたこの熱を、説明しようがない。傷口から入ったか。いや、それにしては変化が大き過ぎる。おそらく皮膚に触れただけで、その液体は体内に取り込まれてしまっているに違いない。ならば、陣に触れさせるわけにはいかない。
「来るな……ッ」
 熱い。身体の内側を、熱の塊が駆け廻っているかのようだ。肩で息をしながら、水溜りから這い出た。だが、やはり立ち上がることが出来ない。体勢を変えようとした時、彼は身体の中心部に電流が走ったかのような錯覚に襲われた。
「ッ――!?」
 全身が小さく痙攣を起こした。そんなわずかな刺激でさえも、彼の身体は更なる反応を起こす。喉の奥から飛び出そうになった声を慌てて呑み込んだ。自身の肩を抑えて、振動を止めようとした。が、それはどうやら逆効果だったようだ。自分の両手が自分の物ではないかのように、他人に触れられたかのように、身体がびくりと跳ねた。
「なん……で、いきなりっ……」
 彼はもう自分に起こっていることを自覚し、認めないわけにはいかなくなっていた。それほどまでに、その衝動は強い。眼を向けなくても分かる。衣服の中で、彼の下腹部にある器官が、自己を主張するように勃ち上がっている。
(あの樹液……)
 今もまだ凍矢の髪や肌、衣服を濡らしているこの液体。どうやらこれは、俗に言う媚薬のような作用を及ぼしているらしい。
(毒の方がよっぽど良かった)
 得体の知れない液体の力によって、彼は全身を性感帯へと作り変えられてしまったかのようだ。空気が触れるだけで、望みもしない快感を強制的に与えられる。少しでも動こうとすると――いや、例え動かなくても――悲鳴にも似た声を上げそうになる。
「ッ……、あッ。い、やだっ……」
「凍矢……?」
 陣の声は明らかに戸惑っていた。が、凍矢の身に何が起きているのかが分からないためではない。耳まで赤く染めて、眼には涙を滲ませている。そんな凍矢の表情を、陣は知らないわけではない。何故そんなことになっているのか、そして、どう対処すれば良いのかの判断に窮しているようだ。
「凍矢っ、大丈――」
「来るなッ!」
「でもっ……!」
 膝と頭を同時に抱えるように、凍矢は身体を縮めた。そのまま小さくなって消えてしまえるものなら、おそらく彼はそうしていただろう。このままでは、頭がおかしくなりそうだ。 
 そんな凍矢の耳に、足音が届く。一歩ずつ近付いてくるそれに、彼は床にへたり込んだまま後ずさった。手足がガクガクと震える。顔を上げていることが出来ない。熱い。
「見、るな……っ」
 向けられる視線ですら、実体を持って触れてきているように感じる。
「でも、凍矢辛いんだべ? なら――」
 陣の声を遮って、また“あの”金切り声のような咆哮が聞こえた。2人は同時に顔を上げ、ぎくりと表情を強張らせた。その一瞬だけは、押し寄せる波のような衝動を、凍矢は忘れていた。
「まさか、他にも……?」
 先程の植物は相変わらず動いていない。だが、何かが蠢く気配が部屋の奥から確かにした。背の高い草木に隠れて見えないが、同じ植物が、まだいるのだとしたら……?
 突然、陣が床を蹴った。かと思うと、彼は躊躇うことなく凍矢の身体を抱え上げていた。その拍子に、細い肩が大きく跳ねた。
「なッ……!?」
「少しでいいから! こっから移動するのだけ我慢してけろ!!」
 そう言われて我慢出来れば何も苦労はしない。陣が風を纏って飛び出した瞬間、凍矢は思わず彼の肩にしがみ付いていた。毒液なんかよりもよっぽどタチの悪い液体が陣の身体に触れてしまうことに構っている余裕等あるはずもない。限界だ。何かに掴まっていないと完全に崩れ落ちてしまいそうだった。いや、そうしていても、一瞬意識が飛びかけた。
 陣は隣の部屋へと移動した。そこは、先程までいたのと比べるととても小さな部屋で、何も置かれておらず、空っぽだった。今後他の部屋のように物置部屋か何かになる予定なのだろう。
 静かに床に降ろされた凍矢は、蹲り、肩で息をしながら、寒さを堪えるように身を縮め、全身の痙攣を抑え込もうとした。
「凍矢、大丈夫だか? その、ごめん……」
「大丈、ぶ、じゃ、……ないッ」
 それだけ返した後は、喘ぐように息をするだけで精一杯だ。呼吸のために大きく開いた口からは時折甘さを含んだ声が出かける。
「はッ、……はぁっ、ア……」
「……なあ、凍矢?」
 返事は出来ない。
「もしかして、なんだけど、ひょっとしてさっきイっ――」
「言うなッ、馬鹿ぁ……」
 足の間を、樹液とは別の液体が濡らしているなんてことは、言われるまでもなく分かっていた。それを改めて他人の口から聞かされるだなんて、何たる恥辱だろう。いきなり抱き上げた陣が悪いのだ。汗なのか涙なのか樹液なのか分からぬ液体で、凍矢の顔はぐしゃぐしゃになっている。
「ごめん」
 陣はしゅんと下を向いてしまった。その頬は、わずかに赤みを帯び始めている。同じ樹液に触れてしまった彼にも、その作用が出始めているのだろう。おそらくは無意識なのだろうが、彼はそわそわと落ち着きなげに身体を揺らしている。
 一度達したにも関わらず、凍矢の熱塊は依然形を失ってはいない。今一度の開放を渇望するそこは、己の肉体の一部であるとは信じられないほどにコントロールを失っている。息さえ殺していなければ、全ての制御を奪われそうですらある。
「っ……、んッ。く……」
 樹液の作用の所為か、それとも酸欠か、頭がくらくらしてくる。彼の中で自尊心を保とうと努める部分が、少しずつ抵抗を放棄してゆく。
 ちらりと視線を上げると、陣と眼が合った。彼はびくりと跳ね上がると、慌てて立ち上がろうとした。
「あ、えっと、げ、解毒剤! 解毒剤があったらいいだなっ? 医務室……ううん、誰か、……蔵馬呼んでくるだかッ?」
 触れた量の違いのためか、その液体による効果には差があるようだ。どうやら、陣にはまだそんなことを言っている余裕があるらしい。だが凍矢はもう駄目だった。
 咄嗟に伸ばした手は、立ち上がりかけた陣の手を掴んでいた。驚きの視線が向けられるが、もう何かを考えている余裕はない。凍矢は、陣の手を掴んだまま立とうとして、結局それが出来ずに倒れ込んだ。その体重は陣の肩に受け止められた。
「凍矢っ、しっかり――」
「じ、ん」
 肩に掴まり、耳元に唇を寄せた。囁いた言葉が何と言ったのかは、自分にも分からなかった。彼は自分を保つことをついに諦めた。意識しないままに放った言葉は、紛れもない彼の百パーセントの本心だったのだろう。それは、陣の何かを揺さぶったようだ。
「凍矢っ、今ッ――」
 声が上擦っていた。その顔は赤く染まっている。彼の燃えるような色をした髪に負けないほどに。
 何か言おうとしている陣の唇に、凍矢は口付けた。それは、水に落ちた者が空気を求めて水面を目指すのに似ていた。
「じん」
 凍矢の思考回路は最早他のことを考えられなくなっている。懇願するように見詰めると、今度は陣の方から、おずおずと控えめな口付けを落としてきた。それを凍矢は、貪るように受け止めた。舌を絡めて、音を立てる。2人の内どちらがそう働きかけているのかは定かではない。やがて凍矢は、自分の力で陣の肩にしがみ付いていることが出来なくなった。それを察した陣は、彼の身体をそっと床へと降ろした。たぶん、床はひやりとしていて冷たかったのだろう。しかしそれを感じている暇は凍矢にはない。
「凍矢、……いいだか?」
 初めての行為ではない。だが普段の“それ”とあまりにも様子が違っている。“いつも”なら、陣がじゃれ付いている内に仕方なく……というような流れが多い――少なくとも凍矢はそのように振舞っている――。そうでなかったとしても、凍矢がこれほどまでに――まだ始まってもいないのに――乱れることはそれこそ初めてのことかも知れない。陣は明らかに戸惑っている。が、それ以上の欲求に呑まれることを望んでもいる。それは傍目からでも明白だった。確認の言葉を口にしながらも、その胸中はもう決まっているに違いない。
 凍矢は口を開いた。短い声を発するための酸素を取り込むのに、酷く苦労した。
「はや、く」
 返した言葉と視線は、陣の理性を捨てさせるには充分だったようだ。彼は覆い被さるように凍矢の首筋に唇を押し当てた。息が直接触れ、本来冷たいはずの身体は熱を増す。もうこれが最大だと思っていた心臓の音は、2つ重なって更に響いた。
 凍矢の皮膚の上に、もう樹液の赤い色はなかった。全て吸収されてしまったのだろう。彼か、陣のどちらかの身体に。
 陣の手が凍矢の衣服にかかる。そのまま着衣を剥ぎ取ってゆく動きは丁寧だった。そうでなければ、凍矢は布が肌を掠めるその感覚だけで再び絶頂を迎えていただろう。凍矢が一糸纏わぬ姿になると、陣も自分で服を脱いだ。鍛えられた身体はすでに汗ばんでいる。そしてその中心は、はっきりとした屹立を保っている。だがそれを、いきなり閉じた蕾に押し入れることは出来ない。陣は凍矢の肌に残る白濁を指で救い、それをその場所に塗り付けた。陣の指の動きに合わせるように、凍矢の口からは堪え切れなかった甘い声が漏れ出る。
「アッ……、はっ、んんっ」
「凍矢、我慢すんな。もっと聞きたいだ」
「っ……!」
 凍矢は歯を食い縛り、両手で口を抑えた。それを見て、陣はにやりと笑った。「なにを……」、そう思った直後に、陣は脈打つ凍矢の先端に爪を立てた。
「――!!」
 大きく背中を仰け反らせながら、凍矢は白い熱を放った。開いた口からは音にならなかった声が迸った。内部に差し入れられた陣の指を肉壁がぎゅうと締め付ける。
「凍矢、今何本入ってっか分かるだか?」
 そんなことを聞いてくる陣を、凍矢はきっと睨み付けた。が、涙が滲んだ眼でそんなことをしても、何の効果もなかった。いや、むしろ火に油か。
「凍矢のここ、もう入れられそうだべ。まだそんなに解してねーのに。これもあの植物の所為だべか」
 中でぐるりと指が動いた。達したばかりで敏感になっているそこは、すぐさま凍矢の身体を再び熱で満たした。2度の射精で――極わずかにではあるが――落ち着いたかに思えた欲望は、瞬時に蘇ってしまった。
「あっ、アアッ」
「凍矢、どうすっだ?」
 陣は極浅い箇所ばかりを撫でながらそう尋ねた。絶対にわざとだ。凍矢に抗う術がないことを承知で、そんなことを言っている。自分だってそろそろ耐え難くなってきているはずなのに。
「っ……、お前ッ」
「んー? 言わないだかぁ? そんならオレ、好きにすっけど」
 言うなり陣は、凍矢の胸部にある小さな飾りをべろりと舐めた。
「ひッ!?」
 反射的に伸びた手が陣の頭を抑えようとする。しかし陣は、そんな力等存在していないかのように、舌先で狭い範囲への愛撫を続ける。
「やっ……あっ、じんッ、やめ……」
 必死で抗議するが、陣はやめるどころかつんと尖ったそれに歯を立てた。
「ああッ!」
 弾かれたように身体が仰け反る。が、いつの間にか陣の手が彼の中心部を握り込んでいた。塞き止められた熱が、痛いほどに脈打った。
「あっ、そんなっ……いや、だ。陣っ」
「凍矢」
 陣は凍矢を抱き起こすと、溜め息を吐くように言った。
「凍矢、すっげぇめんこい。なあ、今度は一緒にイクべ?」
 耳元での囁き声に、凍矢はガクガクと痙攣するように何度も頷いた。
「い、イキたい。お前、とっ、イキた、いっ」
 自分からそんなことを言うなんて、普段の彼なら耐えられなかっただろう。だが今は、そんな羞恥すら快感に直結しているように感じる。今なら、痛みすら快楽に代わるだろう。
「陣が、欲しい」
「うん。オレも凍矢が欲しい」
 凍矢の額にキスをすると、陣はゆっくりと2つの身体を繋げていった。

 窓のない地下室はどのようにして換気すれば良いのだろう。そんなことを考えながら、横たえた身体を丸めたままの姿勢で、凍矢は荒い呼吸をなんとか抑えようと努めた。手を伸ばせば届く距離で、こちらは仰向けに寝転がった陣がやはり肩で息をしている。自分自身は何度か意識が途切れた自覚があったが、陣の方は少なくとも今は眠ってしまってはいないようだ。
「凍矢ぁ?」
 返事はしなかった。それでも凍矢の意識がはっきりしていることは分かったのか、陣は言葉を続けた。
「何回イった?」
「聞くな馬鹿」
「あの植物すっげぇ」
 陣は少々掠れた声ではははと笑った。
(笑い事じゃない)
 よく正常に戻れたなと思うほどだ。樹液の効果が最も強い時等は、完全に自分が自分ではなくなっていた。あのまま壊れて、二度と自分に戻れないかも知れないと思ってしまったくらいだ――しかも「それでもいいか」と考えてしまうほど、お互いの身体を求め合うこと以外の関心を持てずにいた――。思い出しただけでも顔から火が出そうだ。意識と一緒に記憶も飛ばしてしまえば良かった。もっとも、陣の意識と記憶まで飛ばそうと思ったら、それこそ凍矢の身体は壊れていただろうが。元々の体力の差の所為か、それともやはり体内に入り込んだ樹液の量が違うからか、陣は手足を投げ出すように床に寝そべってはいても、凍矢のように疲れ切った顔はしていない。凍矢は「クソっ」と、口の中で小さく悪態を吐いた。
 どのくらいの時間が経ったのか、まるで感覚がない。先程の陣の質問の答えも分からない。だが、少なくとも数十分程度しか経っていないということはないだろう。そうでなかったとしても、いつまでもこんなところで倒れているわけにはいかない。しかも全裸で。同じことを考えていたのか、いつの間にか陣は起き上がり、脱ぎ捨てた服を手繰り寄せていた。
「凍矢、大丈夫だか? 立てっか?」
「……もう勃たない」
「あーあ、凍矢が壊れただ。そんな下ネタ言うなんて」
 誰の所為だと思いながら手を伸ばすと、それに気付いた陣が手を伸ばし返してきた。腕を引かれながら、何とか起き上がろうとする。そこへ――
「良い知らせと悪い知らせがあります」
「うわぁッ!?」
 突然の声に、陣は飛び上がった。一方凍矢は声も出ないほどに驚き、息を呑んだ。一瞬手の力が抜けて、彼の上半身は床に落ちてゴンと鈍い音を立てた。奇妙な色の星が見えた。
 いつの間にか、部屋の中にはひとりの男が立っていた。
「く、蔵馬っ……!?」
 陣は床に散らばったままだった衣服を掻き集め、凍矢目掛けてぶん投げた。咄嗟の配慮は有り難かったが、おそらくその姿はすでに蔵馬の眼に入ってしまった後だろう。それでも陣は2人の間に割って入るような位置に移動しながら尋ねた。
「な、なんで、蔵馬が、こんなとこにっ?」
 ここで何があったか察しているだろうくせに、その男は涼しい声で言った。
「だってここはオレが管理している部屋のひとつですから」
 「やっぱり」と、凍矢は思った。あんな植物が――サイズだけを考えても――屋内に存在していることがそもそもおかしいのだ。何かの目的――あまり詳しく追求したいとは思い難い――で誰かが飼育しているのでなければ。そうなのだとしたら、それは誰か。危険な植物を管理出来る者が、蔵馬をおいて他に何人もいるとは考えられない。
「管理出来てなかっただ。鍵壊れてたし」
「普段はもっと大人しいんです。ただ、ちょうど捕食期に入ったタイミングだったみたいですね。それで暴れたんでしょう」
「ほしょくき?」
「そう。一定の時期が来ると、“食い溜め”を行うんです。あの部屋にある他の植物は、ほとんどがあいつの“餌”だったんですけど、もっと強い妖力を見付けて、そっちに反応したんですね。2日もすると、今度は繁殖期に入ります」
「はんしょく……」
「妖怪の体内に種を植え付けます。良かったですね、今が繁殖期じゃなくて」
 さらりと言われた言葉に、凍矢はぞっとした。『体内に』と言うことは、もちろんあの植物が直接身体の中に入り込んでくるということなのだろう。そうなれば、いよいよ人格崩壊の危機に陥っていたかも知れない。
「一体駄目にしちゃったんですね。貴重な植物だったのに」
「でもあれ、ひょっとしてもう1匹いないだか?」
「あと4、5体いますよ」
「……あんなの飼ってどうするだ?」
「もちろん企業秘密です」
「…………」
 やっぱり恐ろしい男だ。
「じゃ、オレは先に戻りますね。陣にも言いましたっけ? オレ、明日から留守にするんで、その準備もしないと。それに、オレがここにいると、凍矢が“そこ”から出てこられないみたいだしね」
 服の下に埋まっている凍矢に、蔵馬の顔は見えないが、声を出さずにくすりと笑ったのが手に取るように分かった。彼は自分の顔が恥辱に歪んだのを感じた。
「あ、待つだ。蔵馬、さっき言った知らせって?」
「え? ああ、そうだ。教えておいてあげようと思って。“その”効果は、一定の時間が経てば綺麗になくなります。積極的に“排出”したのなら、なおさらね。後遺症も依存性もないので安心してください。それが、良い知らせ」
「……悪い方は?」
「黄泉は眼が見えない分、耳が異様にいいのは知ってますか?」
 服の中に埋もれたまま、凍矢は一応の雇い主の顔を思い浮かべた。開かれることのない2つの眼と、3対の耳……。嫌な予感がする。
 蔵馬は口調を変えることなく言った。
「黄泉の聴覚は国中の人々の会話を聞き取れるほどだと言われています。それが悪い知らせ」
「なっ……」
「えっ、じゃあ、悪口とか言ったら聞こえるだか」
「そこかよ」
「聞こえると思いますよ。城内なんて、余裕でしょうね。言ったんですか?」
「ん? えっ、じゃあここの音も!?」
「遅い」
「そもそもどうしてオレが来たと思います? オレの“庭”が騒がしいから何とかしろと言ってきたのは黄泉ですよ」
「マジか」
「消えたい」
「過ぎたことはどうしようもないにしても、今後はほどほどにね」
 「なんだ“今後”って」と声を荒らげる気力も失って、凍矢はがっくりと項垂れた。身体の節々――とさっきぶつけた頭部――の痛みを感じながら、もう何があってもあの部屋には近付くものかと心に誓った。
 が、彼はまだ気付いていない。あの部屋に入るよりも前に蔵馬から預かった鍵――修行に必要な薬を管理するための物――が、彼の服から落ちて、“あの場所”に残されていることに……。


2016,02,14


ピュアでクリーンでナチュラルな陣も好きなんですけどね、ちょっと黒い陣も結構好きなんですよ!!
なんだかんだ言って闇の者ですもの! そんな一面もあっていいと思うのー!
それにしても癌陀羅在住のヒト達は大変だ。プライバシーとかあったもんじゃあないなぁ。
鈴木さんの怪しげな道具と蔵馬の不思議なお薬は腐女子の強い味方です(笑)。
<利鳴>

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