陣凍小説を時系列順に読む


  雲の上にある笑顔


 眠りから脱した陣の眼の前には、凍矢の顔があった。横から見下ろしているその顔には、いつものように表情はあまり浮かんではいない。しかし、色素の薄い唇は、「大丈夫か?」と尋ねた。その向こう側の空には、曇天の暗さと、夜の暗さ以外何もなかった。
 質問の意味が分からずに、陣は「何が」と聞き返そうとした。しかしその声は、別の音によって封じられてしまった。ぜいぜいと鳴っているそれは、彼自身の呼吸の音だ。息が上がっている。今気付いた。しかし何故? 上半身を起こし、軽く頭を振ると、こめかみの辺りがひどく痛んだ。
「大丈夫か?」
 凍矢が再度尋ねる。言葉自体は疑問の形をしていたが、彼はもうその返答も、まだ陣が理解出来ていない「何があったのか」ということも、全て分かっている風であった。
「凍矢……。えっと、オレ……?」
「うなされていた」
「オレが?」
「ああ」
 「そんなことはない」と否定しようとした。だが、2つの白い手が伸びてきて、陣の両頬にそっと触れた。それは微弱な冷気を帯びていて――凍矢の妖術だ――、心地良い冷たさを与えてくれた。と同時に、自分の体温が平常時よりも高くなっていることに気付かされた。「うなされていた」というのは、どうやら本当のことらしい。見かねた凍矢が起こしてくれたのだろう。
「ありがとう」
「ああ」
「冷たい」
「やめるか?」
「ううん。気持ちいい」
 凍矢はしばらくそのままじっとしていてくれた。その間に、陣は少し冷たい空気で深呼吸をし、落ち着きを取り戻した。陣が「もう平気だ」と言うと、凍矢はようやく彼から離れた。
「夢でも見たか」
「そうかも知んねぇ。でも、全然覚えてねーだ」
 目覚めてみればどうということのない内容だった。そんな夢であったなら、どんなに良かっただろうか。欠片も残らぬそれは、却って陣を不安にさせた。心の中に靄がかかってしまっているかのようだ。この曇り空のように。そう思って視線を上げると、分厚い雲が、頭上に蓋をしてしまっているように感じた。なんだか息苦しい。
 凍矢の蒼い眼が、じっと陣を見ていた。見詰め返してみても、元々感情が表に出づらい彼の胸中は全く分からなかった。陣は首を傾げた。
「凍矢、寝ないだか? 見張り代わるだ。夜明けまでまだ時間あるべ?」
 凍矢は「そうだな」と応えたが、その場を動こうとはしなかった。もしかしてその体勢のまま――眼も開けたまま――眠ってしまったのではと思いかけた時、
「今日は、満月だ」
 凍矢が言った。
 陣は再度空を見上げた。しかし、夜空は少しも見えない。雨粒が落ちてこないことが不思議な程の雲が、どこまでも続いているようですらある。
「月なんて見えないだ」
 陣は素直にそう言った。すると、凍矢もあっさりと頷いた。
「見えないが、それでも今日は満月なんだ」
 陣はここ数日、その形状がどうであれ、月の姿を見た記憶がなかった。日中は太陽が出ていても、夜には雨にこそなりはしないが、どこからともなく現れた雲が空を覆ってしまう。そんな天気が続いていた。にも関わらず、凍矢が雲の上にある月の形を言い当てられるのは、つまり最後に見たそれを覚えていて、そこから日数を数えているからなのだろう。何故そんなことをするのかと言えば、答えは明白だ。凍矢は月が好きなのだ。熱を持つことなく夜の闇を照らす、凛と輝く白い月が。
 陣は凍矢の眼をじっと見た。凍矢は「どうした」と尋ねてはこない。が、何かを言い出す様子もなかった。じっと何かを待っているように見えた。
「……あ」
 陣は小さく声を出していた。凍矢の様子は変わらない。
「見に行くだか、月」
 凍矢には出来ないが、陣にはそれが可能だ。可能どころか、風を操り、雲の上に出るなんてことは、地面を歩いて移動することと何も変わらない。それは、ヒト1人を抱えていたところで全く同じだ。それが出来る自分の能力を誇る気持ちよりも、何故もっと早く凍矢の望みに気付いてやれなかったのかと自身を罵りたい思いを抱きながら、陣は立ち上がった。
「いいのか?」
 凍矢は、全く驚いた風でもなく言った。
「んだ。行こう」
 陣が伸ばした手を掴み、凍矢も立ち上がる。その細い身体を、陣は抱え上げた。2本の腕が肩に廻される。少し低い体温は、冷たくて心地良かった。
 風を纏い、陣は地面を離れた。手を振って見送るように、草がざわざわと音を立てる。すぐにそれも遠ざかり、彼等の耳には空気が通り過ぎてゆく音だけが響く。
 雲を抜けると、暗さに慣れた眼には眩しすぎるくらいの光があった。凍矢が言ったように、そこに浮かぶ光源は完全な円形だ。上昇をやめ、滞空へとうつる。ようやく呼吸が出来たような気がした。
「すげー、まんまる!」
 子供のようにはしゃいだ声を出すと、凍矢は「だから言っただろ」と言った。頷き、陣は凍矢にも――それでいて自分にも――月の姿を眺めやすいように身体の向きを変えた。
 やはり、空の上はいい。余計なものは全て地上に置き去りにして、不安からも、完全に逃れて自由になれる。陣は月の光毎呑み込もうとするかのように、大きく息を吸った。そして心の中で呟く。
(うん、大丈夫だべ)
 ふと月から視線を離すと、凍矢と眼があった。おかしい。凍矢の視線も、月へと向いているはずなのに。
「凍矢、ちゃんと月見てるだか?」
 「凍矢が見たいって言ったのに」。そう続けようとした陣は、しかしふと別のことに気付いた。
(もしかして……)
 凍矢は月が見たくてあんなこと――満月のこと――を言ったのではなく、陣が雲の上に出たがっていることを――本人よりも先に――察したのではないだろうか。だが、陣にしてみれば、つい先程まで寝ないで番をしていた凍矢を、自分の勝手で付き合わせるのは気が引ける。かと言って、見張りのいない状態で寝ていろと言うことも出来ない。故に、陣からそれを言い出すわけにはいかない。しかし凍矢からなら……。
「凍矢、もしかして……」
 陣は口を開きかけた。が、少し斜めに傾いた顔が、月光に照らされ、自然に作られたものだとは思えない程美しく見え、言葉はどこかに行ってしまった。
「どうかしたか?」
「……なんでもないだ」
 行方不明になった言葉は、そのまま探さずにいることにした。たぶん、それはもうとっくに地上へ落ちて行ったのだろう。凍矢が何も言わなかったのだから、陣は自分もそうしようと思った。それに、尋ねたところで、きっと凍矢はとぼけるだろう。「なんのことだ?」と。どうせ無駄なやり取りに終わるくらいなら、黙って月を見上げている方がよっぽどいい。せっかく凍矢が連れてきてくれたのだから。
「キレーだな」
「ああ」
「って、全然見てねーべ」
「見えているさ」
「ウソだぁ」
 凍矢は陣を、いや、陣の眼を指した。
「ここに、映っている」
 凍矢はふっと息を吐いた。少しだけその表情が変わる。「あ」と思った直後に、陣の視界は何かに覆われ、完全に何も見えなくなっていた。うろたえたのは一瞬で済んだ。その一瞬の間に、風のコントロールを乱すこともなかった。自分の瞼を押さえているのが、少し冷たい手であることに気付いた。
「新月」
 陣の瞳に映った月を覆い隠しながら、凍矢がくすりと笑う声がした。凍矢の笑顔は、はっきり言って貴重だ。陣は視界を取り戻そうとしたが、まさか凍矢の体重を支えている両手を離してしまうわけにもいかない。
「凍矢、離すだぁ!」
 しかし凍矢はくすくすと笑っているばかりで、なかなかその手を除けてくれない。「それとも月蝕、かな」と言いながらようやく離れた時には、もういつもの表情に戻っていた。
「あー、凍矢の所為で凍矢が笑ってんの見らんなかっただ」
「言ってる意味が良く分からないな」
「絶対分かっててやってるべ」
「さあな」
 陣は頬を丸くしたが、凍矢は涼しい顔をしている。しばらくそのままむくれていたが、凍矢の「陣は初めて飛んだ日のことを覚えているか?」という質問に、やっと表情を戻した。
「初めて飛んだ日?」
「そう」
 急になんだろうと思いつつ、陣はその時のことを思い返してみようとした。が、駄目だった。おそらく、人間が立って歩けるようになった日の記憶を持っていないのと同じようなことなのだろう。いや、生まれた瞬間を覚えていないのにすら近いかも知れない。
「全然覚えてねーだ。たぶんうんとガキの頃のことだし」
 凍矢は「そうか」と頷いた。
「オレは覚えている」
「へ?」
「初めて、陣が空の上まで連れて行ってくれた時のことだ。魔界の空はどこまで行っても暗かったが。今でも、覚えている」
 そう言った凍矢の表情は、とても穏やかだった。本人は微笑んでいるつもりなのかも知れない。
「それならオレだって!」
 陣は凍矢の分までと言うように、万遍の笑みを浮かべた。
「凍矢と一緒に飛んだ時のことは、ぜーんぶ覚えてるだ!」
「全部?」
「全部!」
「そんなに記憶力が良かったか?」
「ウソじゃないだ! 全部! 絶対!!」
 風に混ざって、ふっと息を吐く音が聞こえた。そして、
「答え合わせでもしてみるか?」
 そう尋ねた凍矢の唇は、緩やかなカーブを描いていた。


2015,03,14


『答え合わせ』が出来るってことは、もちろんその『答え』を知ってるってことで……。
わたしが書く陣凍は油断するとすぐ凍矢がへたれるので、陣を支える凍矢を書こう! と思ったのですが、
途中でそのテーマ消えてしまっている気がします。
むずいな。
ってかもう2人がラブラブしてたらそれでいいんじゃね!?
<利鳴>

【戻】


inserted by FC2 system