陣凍小説を時系列順に読む


※設定捏造


  何回だって


 『それ』は、どこまでも果てしなく続いているかのように思えた。事実、眼に見える範囲内に『終わり』はない。限りなく広がるに違いない『それ』の名は、『闇』。眼の前に翳した自身の両手の平さえも見えないほどに、深く濃い。自分の視力が正しく機能しているのかを疑いたくなるほどに……。あるいは、今存在しているのは自分の意識だけで、身体はここにはないのではないかと思うほど……。肉体が存在していないのならば、何も見えないのも道理だ。そもそも、見るべき眼すら、ありはしないのだから。
 両腕をいっぱいに広げてみても――あくまでも彼の肉体がそこに存在しており、なおかつ感覚が正しく働いているということを前提とするならばの話だが――、その指先に触れる物は何もない。冷たい『闇』が、ただ静かに漂っているばかりだ。
 ここは一体どこなのか……、いや、それ以前に『ここ』にいる『自分』は一体何者なのだろう。まるで、何もかもをどこかに置き忘れてきてしまったかのように、彼は何も持っていなかった。自分自身の名前さえ、どこかに落としてきてしまった。
(いや、それとも……)
 と、彼は思う。
(置き忘れられたのは……、自分?)
 自分が全てを――世界を――忘れたのではなく、世界に忘れ去られてしまったのではないだろうか。手を離したのではなく、離されたのではないだろうか。そしてそのまま、誰にも――何にも――拾われることなく……。そう思って間もなく、
(どちらにせよ、同じことだ)
 自嘲するように顔を歪ませた。つまりは何もない。それだけ分かれば充分だった。そしてそれは、今存在する唯一にして全てのことだった。
(それにしてもここは暗い……)
 光が存在しないのではなく、闇が全ての光を呑み込んでしまっているかのようだ。その闇のどこかから、わずかな声が耳に届く。それは、必死に誰かを呼んでいるようだった。助けを求めているようにも聞こえる。が、その声が誰のものなのかは分からない。いや、以前は知っていたような気がする。それでも思い出すことが出来ないのだ。そしてその声が呼ぶ名を聞き取ることが、やはり出来ない。それもまた、かつては知っていた名であった気がしてならない。
(……オレを呼んでいるのか?)
 声に出して尋ねてみた――つもりだった――。しかし、その声は音になる前に闇に吸い取られてしまったかのように、響かない。あるいはやはり、声を発する器官がないのだろうか。悲しみを含んだような声は、なおも誰かの名を呼び続けている。
(オレを呼んでいるのか? どこにいる? ここからでは分からないんだ。すまないが、こっちへ来てくれないか?)

 魔界統一トーナメントの勝者煙鬼は、「人間界に迷惑をかけないこと」という法を作った。それに伴い、これまで存在していたいくつかの組織が崩壊し、またいくつかの新しい組織が生まれた。長年続いていた習慣の変化に、誰もが皆、最初こそ戸惑いを感じてはいたが、それでも彼等は彼等なりの『平和』を目指して歩みを進め始めていた。しかし、全ての者が大人しくそれに従ったわけではなかった。今日の魔界の在り方に、異論を唱える者は皆無ではない。中には意図的に問題を起こす者もいる。人間界へ帰った幽助もその辺りのことを考え、妖怪関係のトラブルを処理する仕事をしているらしい。表立って声を荒らげこそしなくとも、新たな魔界の姿を快く思っていない者もいるに違いない。さらには、基より法を理解するだけの知能を持たない生き物も存在する。人間界で言うところの人間に対しての動物、魔界では魔獣と呼ばれる生物がそれだ。そんな者達を『説得』、不可能であれば『始末』するのは、トーナメントに敗れた者達の役目の1つである。かつて――短い期間ではあったが――黄泉の下につき、『六人衆』と呼ばれた彼等6人――すなわち、酎、鈴駒、陣、凍矢、鈴木、死々若丸――も、その例に漏れない。彼等の内数人は人間界にその住居をおいてはいるが、呼び出しがあれば魔界へと足を運び、与えられた指示に従う必要がある。
「場所は癌陀羅の奥……。アバウトだな。おそらくは『始末』を前提とした調査……」
 煙鬼から送られてきた指示書を読み上げる凍矢の顔を覗き込みながら、不服そうな声を上げたのは鈴駒だった。
「それって6人も必要? フルメンバーじゃん。そんなに手強い相手なの? それとも、オイラ達って見縊られてんの?」
「そう言っている間にも向かった方が早い。嫌ならここに残ればいい。後でどんなお咎めがあっても良いならな」
 そう言いながら勝手に歩き出したのは死々若丸で、そのあとを鈴木が追いかける。
「死々若、め! 単独行動は許さんぞ!」
「だからって2人だけで先行かないでよ、もうっ」
「さては手柄を独り占めする気だなっ」
「この場合は2人占めと言うか……」
「とにかく、オレ達も行くぜ!」
 酎と鈴駒が先を行く2人を追って駆け出す。それを見ながら、凍矢はやれやれと溜め息を吐いた。
「作戦も打ち合わせもあったものじゃないな。仕方ない。陣、オレ達も……」
 振り向き、いつも通り人の目線よりもやや高い位置で浮遊している陣の姿を仰ぎ見た凍矢は、そこに不安そうな蒼い2つの瞳を見付けた。
「陣?」
 いつもの陽気な陣はそこにはいなかった。何かあったのだろうか。例えば、体調が優れないだとか……。しかしその予想はそっくりそのまま陣の口から凍矢へと向けられた。
「凍矢、やっぱり顔色悪くないだか? どっか悪いんじゃあ……」
 その場に誰かが残っていたら、「凍矢の顔色って元々良くないよな」と言っていただろう。氷の妖怪である凍矢の肌は、白いを通り越して蒼白い。だがあくまでもそれが彼の平常なのだ。そんな彼の誰よりも近くにいる陣が、それを知らないはずはない。陣が「顔色が悪い」と言うのは、普段と比較してのことだ。彼等が住む人間界の季節は今は夏。1年の内で、凍矢にとって最も過ごし難い時期だ。夏の暑さは氷を溶かすように容赦なく凍矢の体力を奪う。そんなタイミングで舞い込んできた煙鬼からの命令に、陣は何度も不安を口にしていた。「断った方が――」「誰かに代わってもらった方が――」。しかし、凍矢はそれを否定した。根が真面目な彼は、与えられた任務をあっさりと引き受けたのだった。魔界の乾いた空気は、人間界のそれよりも涼しかった。あちらに残るより、こうして足を運んできたことは正解だったかも知れない。それでも急激に体力が回復するなんてことはない。陣の眼は、不安そうに揺れながら、凍矢へと向けられている。
「その話なら、もう終わったと思っていたがな」
「でも……」
「そんなに嫌なら、死々若丸も言っていただろう。お前だけでもここに残るか? 煙鬼には黙っていてやるぞ」
 陣はぶんぶんと首を横へ振った。彼が心配しているのは凍矢だ。自分が残っても、なんの意味もない。
「なら、もう行くぞ。皆が待ってる」
 それ以上聞く気はないと告げるように背を向けて歩き出した凍矢に、陣はしぶしぶ従って行った。

「この辺か」
「ああ」
 癌蛇羅の奥にある森を抜けると、視界は急に開けた。ごつごつとした岩肌の平坦な地面が続いている。かと思えば、それはナイフで切り取ったようにすっぱりと途切れ、その先は魔界の暗い空になっていた。そちらへ寄って行ってみると、眼下に深く抉られたような谷が見えた。断崖絶壁と呼ぶのに相応しい景色の底は、色を忘れてしまったかのように白一色で覆われている。一瞬、雪のようにも見えたそれは、真っ白な花らしいことが窺えた。
「うわ、すっごい。ずっと向こうまで全部埋まってる」
「向こうから降りられそうだな」
「そんなことより、本当にここか? 何かいるようには見えないが……」
 辺りには風もなく、至って静かだ。生き物の気配はしない。そもそも、何を探すべきなのかも彼等は聞かされていなかった。それだけこの場所は、煙鬼の調査の手と支配が及ばぬ辺境の地であると言える。
「少し待つか」
 周囲を歩き廻ったり、地面に腰を降ろしたり、軽い運動をしてみたり、思い思いのスタイルで時間をつぶしていると、やがて後方に広がる森の中から、かすかな物音が聞こえてきた。それは、徐々に近付いてくる。それも、巨大な殺気を抱えて。
「来たか」
 彼等はすでに敵として認識されているようだ。気配は真っ直ぐこちらへ向かってくる。『説得』の必要は、最初からないと判断してしまって良いだろう。
「見えただ!」
 上空から様子を窺っていた陣が声を上げる。それからはやや遅れて、他の5人もその姿を確認した。敵は、黒い獣のような姿で、4本の足を動かして突進してくる。それも――
「複数……?」
 誰かがぽつりと呟いた。敵の影は巨大な塊となっていた。
「群れ!? 聞いてないぞ!」
「そういうことかよ、くっそ! そうだよな! 6人も、絶対多いと思ったんだ!」
「ねぇっ、いっそ死出の羽衣でどっか飛ばしちゃうってのはどう?」
「行き先の指定は出来んぞ」
「それで人間界にでも行かれた方が厄介だ。来るぞ」
 辺りはあっと言う間に怒涛のような喧騒に包まれた。獣の足音、断末魔、爆音。敵は、1体1体がとにかく硬い皮膚を有しており、生半可な技では歯が立たないことがすぐに判明した。1体ずつ確実に仕留めていくしかなさそうだ。
 お互いの攻撃が当たらないように、6人は適当な距離を開けて戦いを繰り広げた。魔獣の巨体の隙間から時折仲間の姿が一瞬だけ見える他は、誰がどこにいるのかも碌に確認出来ない。そんな状況下でも、陣の眼は――戦いながらも――凍矢の姿を追っていた。少し高い位置からはそれが辛うじて可能だった。凍矢は少しずつ移動しながら戦っているようだ。しかしそれが――
(押されてる……?)
 陣にはそう見えた。その直後だった。魔獣の、ひと際大きな咆哮が響く。ほぼ当時に、地面が揺れた。空中にいたために、陣はその振動に気付くのが遅れた。大地には魔獣の角が深々と突き刺さり、大きな亀裂が生じていた。陣は、過去にも良く似た光景を見たことがある、と思った。
 誰かが叫んだ。
 差し出された手の平のように谷へ向かって突き出た地面の一角が、音を立てて崩れ始めた。落ちていく側と残された側。その境界線の向こうには、凍矢がいた。
「凍矢ッ!!」
 陣は風を纏って急降下した。しかし、伸ばした手は空をかき、何にも触れることが出来なかった。凍矢の開いた口から出る音は、瓦礫の音にかき消され、誰の耳にも届かなかった。

 崖下は白で埋められていた。雪原を思わせるその景色に、一輪の花が咲いたように、鮮やかな赤が小さく、ゆっくりと広がろうとしていた。しかし、実際には大部分を占めている『白』こそが花弁の色で、『赤』い色は雪そのものではないにしろ、他のものよりはそれに近い存在から流れ出ていた。倒れたその身体に、瓦礫が直撃した様子はない。落下の衝撃も、多くが花によって吸収されたように見える。その点に関しては――少なくともこの時は――幸いであったと思えた。しかし、その中に身体を半ば埋めている氷の化身とも言うべき人物は、起き上がろうとはしなかった。わずかな動きさえも見られない。気を失っているだけなのか、それとも……。花で埋められた谷底は、まるで死者が横たわる巨大な柩のように思えた。
 彼等の敵のほとんどは、すでに事切れていた。地面の崩落に巻き込まれたものもいるようだ。あとのものは、森の奥へと逃げて行ったらしい。残された5人はそろって崖下を見詰めている。その影の内の1つが、硬直から脱して飛び出そうとした。
「凍矢!! 今……」
「待て陣!!」
 地面を蹴って崖下に向かおうとした陣の腕を、ぎりぎりのところで鈴木が掴んでいた。そのまま引き摺られそうになるのをなんとか耐え、普段の陣からは想像も付かないような鋭い眼に睨まれても、鈴木はその手を離さなかった。
「邪魔すんな! ぶっ飛ばすぞ!!」
「落ち着け! よく見ろ!!」
 鈴木のもう一方の手が、崖下を指す。
「ただの花じゃない、夢幻花だ!」
「夢幻花……?」
 魔界にしか生息しないその植物は、見た目はただの美しい花だ。しかし、その花粉には記憶を消去する作用がある。
「じゃあ……。でもっ、それならなおさらっ!!」
 陣は鈴木の腕を振り払おうとした。
「落ち着けと言っている! お前が『風』を使って突っ込んで行ったら、どれだけの花粉が舞い上がると思ってるんだ。ここにいる全員の記憶を消す気か!? そうなったら、誰が凍矢の手当てをする!?」
「っ……」
 なおも「でも」と言える程には、陣は冷静さを失ってはいなかった。だが、こうしている間にも、凍矢は記憶を――陣と一緒に過ごした思い出を――、流れる血と共に失いつつあるかも知れないのだ。強く握った陣の拳は、小刻みに震えていた。
「鈴木! こっちに下に降りられる道があるよ!」
 叫ぶように言いながら鈴駒が崖の淵を指差していた。かと思うと、彼はすでにそこから遠ざかるように走り出している。
「蔵馬をつれてくる! 皆は凍矢をお願い!」
「鈴駒、オレも行く! 2人がかりで探した方が早い!」
 鈴駒の後に続いて、酎が駆け出す。丁度、この場所に向かおうとしていた時の再現のようにも思えたが、数時間前のそれと比べると、なんとも慌しく、重たい空気が立ち込めていた。鈴木と死々若丸、そして陣は、崖の横にある道へ向かった。
 鈴木は陣の姿を盗み見るように視線を動かした。今すぐ飛び出して行きたいのを、懸命に堪えている顔がそこにあった。
「……オレが降りる。お前達はここにいろ」
 鈴木は1歩踏み出し、小さな声で付け足すように言った。
「死々若。陣を来させるな。力尽くでもとめろ」
 死々若丸は無言で頷き、腰の剣に手を置きながら陣の隣に立った。もし陣が本気で動こうとすれば、死々若丸も本気を出さなければそれをとめることは出来ないだろう。複数の緊張感が彼等の周囲を完全に包囲していた。
 鈴木は崖下へと続く小道をすべり降りた。間近で見ると、白い大地はどこまでも永遠に続いているかのように見えた。
 鈴木は腕を口と鼻に当てて、極力花粉を舞い上がらせないように、静かに、ゆっくりと進んだ。そのじりじりとした、ともすればとまってしまうのではないかと思える程慎重な動きに、おそらく陣は苛立っていることだろう。崖の上から向けられる射るような視線を感じる。だがここで判断を誤れば、状況は悪化するだけだ。やがて――ようやく――鈴木は凍矢の元へ辿り着いた。蒼い両の眼は閉ざされてはいたが、その身体を抱え上げると、規則的な脈拍が指先に触れた。生きている。安堵の息を吐きそうになるのを堪え、先程までよりもなお慎重に谷の出口を目指す。道を登り、最後は一気に駆け上がった。
 陣は鈴木の手からひったくるように細い身体をその腕に抱え、強風を纏いながら地面を蹴った。おそらく凍矢の身体に付着しているであろう夢幻花の花粉を吹き飛ばしながら、あっと言う間に遥か上空へと飛び上がっている。
「陣! 癌蛇羅に運べ! 傷の手当てをさせろ! オレ達もすぐに追う!!」
 その鈴木の声は、陣には聞こえていなかったかも知れない。それでも彼はすでに遠くに見える高く聳える城を目指して飛んでいた。

 突然現れた酎と鈴駒から話を聞き、蔵馬は魔界へと向かった。その途中で偶然会った幽助もつれて癌蛇羅に辿り着くと、出迎えたのは死々若丸だった。
「凍矢は?」
 事情はここへ向かう途中で大体聞いていた。死々若丸が「今鈴木が――」と答えかけると、丁度タイミング良く襖を開けて鈴木が姿を現した。彼は後ろ手で襖を閉めた。
「手当ては済んでいる。傷はもうほとんど塞がりかけている。命に別状はない」
 「ただ」と続いた声は躊躇ったように消えた。
「中に入っても?」
 蔵馬が尋ねると、鈴木は黙って襖の前から離れた。
「入りますよ」
 一応声をかけてから襖を開けると、布団に寝かされた凍矢がいた。頭部に白い包帯が巻かれている他は、ただ眠っているようにしか見えない。その傍らには、陣がいた。深く俯いていて、表情は窺えない。
「一度も眼を覚ましていないそうだ」
 蔵馬の背後から、鈴木が耳うちをするように言った。蔵馬は頷くと、陣に近付いて行き、その肩に手を置いた。
「陣」
 返事はない。
「オレが来たからもう大丈夫です」
 陣ははじかれたように顔を上げた。
「あまり知られてはいませんが、夢幻花には2種類の花が存在するんです。一方は記憶の消去、もう一方は、それを打ち消す作用がある」
「じゃあ……。ほんとに……?」
 蔵馬は頷き、微笑んでみせた。
「打ち消しの効果を持つ蒼い夢幻花を、これから皆で探しに行ってきます」
「オレも……」
「陣はここに」
 立ち上がろうとした陣を、肩に置いたままだった手にぐっと力を込めて留まらせた。陣はわずかに顔を顰めた。
「凍矢が眼を覚ました時に、傍に誰もいないと不安になるでしょう?」
 陣は迷ったようではあったが、大人しく頷いた。蔵馬は念を押すように「待っていて下さい」と言った。
「じゃあ、行ってきます。みんなも、手伝って下さいね」
 陣をその場に残し、蔵馬は皆をつれて部屋を出た。そしてどこからか風変わりなデザインのマスクを取り出した。マスクの繊維の間に、植物の蔓か細い根のようなものが編み込まれているように見える。少々息苦しそうだ。
「その夢幻花の群生地に案内して下さい。捜索中は、このマスクを絶対に外さないように。マスクをしていても、呼吸は出来るだけ抑えて」
「蔵馬」
 蔵馬の声を遮ったのは、鈴木だった。
「時間が惜しい」
「オレもだ。だからこそ先に聞かせてもらうぞ」
 鈴木は襖の向こうを気にするような素振りを見せ、声のボリュームを意識的に下げた。
「お前程ではないが、一応オレも魔界の植物には詳しいつもりだ。だが、効果を打ち消す蒼い夢幻花? そんなものは、聞いたことがない」
「えっ……」
 小さく声を上げたのは鈴駒だった。そして今の言葉が陣に聞こえてはいないかと危惧するように、視線を後方へと向ける。襖は閉ざされたままだ。
「もし、陣に希望を与えるつもりででまかせを言っているなら……」
「でまかせじゃない」
 蔵馬は静かに、しかしきっぱりと言った。
「蒼い花を咲かせる夢幻花は、実在する」
 「ただし」と続けた蔵馬の視線が揺らいだ。
「生きている状態のそれを、オレもまだ見たことがない」
 沈黙が辺りを支配する。すぐ傍らの襖の向こうで、今陣は何を思っているのだろうか――。
「夢幻花が蒼い花を付けるのは、数億本に1本だと言われています」
 蔵馬の言葉が途切れる度に、周囲の沈黙は深さを増していくようであった。沈痛な面持ちで、蔵馬は再度それを打ち破る。
「その群生地に行けば、見付かる可能性は『ある』。それにかけるしかない。数時間以内にその花粉を嗅がせれば、記憶は消えない」
「数時間……?」
 蔵馬を探して魔界につれてくるまでに、時計の長針はすでに数回同じ場所を通過している。
「だから時間が惜しい。他に質問があれば、道中で聞きます」
「いや、分かった。もうない」
「ねえ蔵馬」
 袖を引かれて視線を下げると、正に子供のような不安げな顔の鈴駒と眼があった。
「陣1人で大丈夫かな」
 襖の向こうの気配には、――良くも悪くも――何の変化も生じていない。これまでの会話は、聞かれていないと見て良さそうだ。少しでも耳に入っていれば、おそらく陣は取り乱していただろう。だが、これから時間が経ち、蔵馬達が戻ってくる前に凍矢が眼を覚ましたら……。そしてその時、彼の記憶が消えていることが明らかになったら……。
「誰かもう1人、残った方が良さそうですね」
「幽助、お前が残れ」
 その役目を与えられて、幽助はわずかに眉を顰めた。
「かまわねーが、オレは手当ても何も分かんねーぞ」
「それはもう済んでいる。見ているのは凍矢じゃない。陣だ」
「『何かあった時』に陣をとめられる人が残らないと意味がない。幽助、2人を頼みました」
 幽助が頷くのを確認してから、蔵馬は走り出した。「案内を」と促されて残りの者達も駆け出す。
 すぐ室内に戻るのは気が引け、幽助は中の様子に意識を向けながら、襖を背にしてその場に腰を降ろした。

「すごい……。こんなに……」
 谷底を埋め尽くす白い花を見て、蔵馬は思わずそう呟いていた。人間界で正体を隠しながら生活している彼は、必要に迫られて周囲の者に対してその花の花粉を使用したことが過去に何度かあった。ある程度は馴染みのある花だと言える。しかし、そんな彼でさえこれだけの広範囲に大量に生息したそれを見るのは、初めてのことだった。
 分母が増えれば、それだけ目的の物がそこに存在する確率は上がる。しかし、作業中に生じる危険もまた増加する。うっかり花粉を吸い込めば、記憶を失う人物が増える。加えて捜索にかけられる時間は限られている。
「今からここへ降りて行きます。先程も言いましたが、このマスクを絶対に外さないように。それから、移動も出来るだけ静かに」
「もしここになかったら……?」
「……凍矢が花粉を吸い込んでいないことを祈る」
 鈴木は凍矢の身体を抱え上げた時のことを思い出そうとした。呼吸によってその胸が上下している様子を見た記憶はない。落下の衝撃で一時的に息がとまっていたのだとしたら、不幸中の幸いだ。しかし、断言は出来ない。間違いなく確認したのは脈だけだ。あの時は動転していて、そこまで意識が廻らなかった。だが今そのことを悔やんでも仕方がない。鈴木は蔵馬のあとに続いて崖下へ降りた。

 何か声がしたような気がして、幽助が静かに襖を開けて中の様子を窺うと、陣も凍矢も、全く動いていないのではないかと思える程、先程と同じ姿勢でそこにいた。凍矢はまだ眼を覚ましていないようだ。何か声をかけるべきかと考えてはみたが、その言葉が見付からない。それどころか、下手に口を開けば、数億分の一という奇跡に近い確率に縋るしかないという事実を、うっかり洩らしてしまいそうな気さえする。
(思った以上にしんどい役目だなこりゃ)
 幽助は息を吐いた。
 幽助が近付いて行っても、眠っている凍矢はもとより、陣も何の反応も見せなかった。幽助がそこにいるということに気付いているのかさえ危うく思えた。
 幽助は身を乗り出し、眠っている凍矢の顔を見た。作り物のような透き通った肌に、薄っすらと浮かぶ打撲痕が痛々しい。だが、そんな凍矢よりも、俯く陣の姿の方が見ていて心が痛む。
(おい凍矢。お前の相棒、今すっげー顔してんぞ。早く眼覚まして、何とかしてやれよ)
 心の中で呟いた声に、応える者はもちろんいなかった。

 魔界の空には太陽がない。その傾きから凡その時刻を知ることは出来ないが、人間界ではもう、日没の時間が迫っている頃だろうか。うんざりする程白い景色に苛立ちをぶつけるわけにもいかないまま、すでにそれだけの時間が過ぎ去ってしまった。捜索済みの範囲は着実に広がっている。しかし、谷の終わりはまだ見えてすらいない。
 時折、残された猶予を窺うような視線が自分へ向けられていることに、蔵馬は気付いていた。気付いていながら、それに応じることはなかった。
(そんなことは、オレにだって正確になんて分からない――)
 少しでも長ければと願う気持ちはある。しかし、そんなものは何の役にも立たない。
 あるいはとっくに見落としてしまったのではないか。戻って探しなおすべきか否か。そんな思案の時間が作業効率を悪くする。少しずつ募っていたはずの苛立ちが、やはり少しずつ薄らいでゆく気がした。それは諦めからくるのだろうか。それとも夢幻花の中に長くいすぎたのか……。口と鼻を塞いでいても、長時間の作業は危険だ。
(そろそろ……限界か……)
 その時不意に、視界に色が出現した。それまで白以外の物を見ていなかった眼は、『それ』を認識するのが一瞬遅れた。『それ』は、形こそ周囲に有り余っている花と同じではあった。しかし、その花弁は、魔界には存在しない青空と同じ色をしていた。
「……え?」
 蔵馬がそれをついに見付けたというのではない。蒼い花は、何者かの手によって差し出されていた。蔵馬が顔を上げるとそこには――
「飛影……? どうして……」
「この程度、オレが探し出せないとでも思ったか? 邪眼の力を舐めるなよ」

 眠っている凍矢の上体を、蔵馬は陣の手を借りて起き上がらせた。凍矢はうっすらと眼を開けているが、何かを『見て』いる様子はない。意識が覚醒する一歩手前の段階と言ったところか。
 飛影の能力の1つである千里眼によって見付けられた花の花粉は、すでに効果を高めるために他の植物と調合されて、粉状の薬にその姿を変えている。それをグラスに入れた水に溶かし、凍矢の口許へと運ぶ。少し上を向かせ、薄く開いた唇の隙間へ液体を流し込む。彼は抵抗もなくそれを飲み干した。
 わずかな時間、彼の眼は虚ろなままだった。限界まで不安感を育てた陣が何か言おうと口を開くと、正にそのタイミングで、力なく垂れ下がっていた凍矢の手が、ぴくりと動いた。それは、そこに彼の意識が戻ってきた合図のようだった。
 時間は、実を言うとかなりぎりぎりであると思われた。凍矢が夢幻花の花粉を吸い、それを打ち消す薬が出来上がるまでの時間は決して短くはなかった。もしかしたらすでに手遅れである可能性は充分にあった。しかしそれを口に出して言う者はいない。言ってしまえば、その言葉は力を持ち、現実になってしまいそうで――。
 その答えが示されるより先に、陣は凍矢に抱き付いた。細い肩を強く抱き締める。
「凍矢……」
 「頼むから、忘れてしまわないで」。そんな言葉が発せられるものと、誰もが思った。しかし、
「もし」
 その声は力強かった。
「もし、凍矢がオレと会ったことも全部忘れちまっても、オレは何回だって会いに行くから」
 記憶を失ってしまった凍矢は、凍矢ではない。そんなことを言われれば、一番困惑するのは自分が誰かも分からなくなってしまった凍矢自身だ。しかし陣は、そう言い捨てるつもりはない。それすらも受け入れて、共に新たな記憶を作り上げていこう。それが、仲間達が戻ってくるまでの間に出した、彼の結論だった。失った記憶は、きっと作り直せる。自分達、2人なら。
「だから」
 陣の声はわずかに震えていた。
「ここにいさせて。……もう1度凍矢と出会わせて……」
 「お前なんか知らない」「ついてくるな」と拒絶されることだけが怖い。彼が心を完全に閉ざしてしまうことだけが恐ろしい。そう、かつて、出会ったばかりの頃の彼のように……。
 訪れた沈黙の中で、ほとんどのものが停止していた。唯一、ゆっくりと動き出したのは、凍矢の手だった。その2本の腕は、静かに、陣の背中に廻された。
「陣」
 小さな声が、陣の耳に届いた。
「大丈夫。オレはここにいる。どこへも行っていない」

 蔵馬が部屋を出ると、廊下で様子を窺っていた者達と眼が合った。彼等は「どうだった?」と結果を聞いてはこなかった。すでに全て知っているようだ。
「陣のやつ、タイムリミットがあることを知ってたのか?」
「さあな。オレ達の会話が聞こえてたなら、もっと騒ぎ出してそうだが……」
「根拠のない不安ってところか」
「それにしても邪眼なー。その手があったかぁ」
 幽助の声に、廊下の隅に立っていた飛影は呆れたような顔をした。
「馬鹿か貴様等は。どれだけ動転していたんだ」
「でもお前の居場所なんてオレ達知らねーしよぉ。まず飛影に頼んで飛影を探してもらわねーとな」
「そのセリフは前にも聞きましたね」
「そうだったか?」
「ああ、貴方達はいなかったか。とにかく、飛影、ありがとう」
 蔵馬が微笑むと、飛影は「ふんっ」と顔を背けた。
「貴様等に協力したわけではない。持ち場の近くをうろうろされるのが眼障りだっただけだ」
「かわいくねーやつ」
「ほんとに」
 くすくすと笑う幽助と蔵馬に背を向け、飛影は「帰る」と宣言した。幽助が「またな」と声をかけたが、返事はなかった。
「ねえ蔵馬。オイラ達が探してた蒼い花は、本当に効いたの?」
 鈴駒が蔵馬の顔を見上げながら尋ねた。
「なに言ってんだよ。だって凍矢は陣の名前を呼んだじゃねーか。記憶がなくなっちまってたら、陣のことだって――」
「『元から忘れてなかった』って可能性もあるでしょ。花粉を吸ってたかどうかは分かんないんだよ」
「他にあるとすれば、『陣の想いが奇跡を起こして――』とかか」
「うっわ、サブイボ! なんでそんなくっさいセリフが言えるかなぁー」
「こいつの頭は壊れているんだ。どんな薬を使っても治療は不可能だ」
「死々若、どーしてお前はそうぽんぽんと暴言が吐けるんだ。お前の口こそ壊れてるんじゃないのか」
「おーい、話逸れてんぞ」
 蔵馬はくすくすと笑った。
「確かに、元々記憶が無事だった可能性はありますね」
「やっぱり?」
「でもオレは解毒薬が効いたんだと思ってますよ。そうじゃあないとオレ達の苦労が無駄になりますから」
「なるほど……」
「見付けたのは飛影だけどね」
「そうだ。あの異常発生した夢幻花、煙鬼に報告したら、焼却処分することに決まったらしいぜ」
「焼却……」
「じゃあ飛影の仕事か」
「それで不機嫌そうにさっさと帰って行ったのか」
「オレ達も、そろそろ解散しましょうか」
 蔵馬の提案に、異議を唱える者はいなかった。
「オレはこれから、この蒼い夢幻花を残った花粉からなんとか繁殖させてみるつもりです」
「そしたらまた似たようなことにはならないってことか」
「ええ。上手くいけば」
「人体実験が必要なら、鈴木を使うといい」
「おいッ」
「いつもヒトを実験台にしおって。少しはその身をもって思い知れ」
「お前まだ耳のこと根に持ってんのか!」
「え? 耳? なになに、耳って?」
「余計はことは聞かなくていい」
「それじゃあオレ達は帰りますんで……」
 蔵馬は陣と凍矢がいる部屋の襖を開けながら言った。
「凍矢、一応しばらく安静に……って、あれ?」
 そこに、2人は早速いなかった。凍矢が寝ていたはずの布団はもぬけの殻だ。2人の代わりのように、開け放たれた窓から風が入り込んできていた。
「窓から? 何考えてんだあいつら……」
 幽助が窓から身を乗り出すと、遠くを飛ぶ小さな影が見えた。陣と凍矢に違いない。
「どこ行くんだあいつら」
 溜め息を吐くように言った幽助の横で、蔵馬は険しい表情をしている。
「あの方向は……」
「あ? どうかしたのか?」
 いつの間に変身(?)したのか、小鬼のような姿の死々若丸が、窓の淵にぴょんと飛び乗って外へ眼をやる。
「あそこへ行く気だな」
「あそこって……例の崖か!?」
 唯一その場へ行っていない幽助が戸惑っている間に、死々若丸はすでに窓から外へ出ている。他の者も、出口へ向かって廊下を駆け出していた。

 陣と凍矢を追って癌蛇羅を後にした6人が2人の姿に追い付いた時、彼等は――案の定――例の――夢幻花が咲き乱れる――崖の上にいた。凍矢を抱えて飛んでいた陣は1度地面に降り、凍矢を降ろした後、再び上空へと飛び上がった。一方凍矢は、崖の方へと歩いて行く。
「おいお前等! 何してる!」
 酎が怒鳴ると、2人は平然とした様子で振り返った。そして、
「『やり直し』だな」
「『やり直し』だべ」
 声をそろえてそう答える。
「『やり直し』って、まさかおい……」
「そのつもり……みたいですね」
「やめておきなよ! 危ないよ!!」
「離れてた方がいいぞ。花粉が飛ぶからな」
「分かってんならやめろっつってんだろーがッ!! 陣はともかく、凍矢まで何考えてんだ! アホか!!」
「あ、今のすっげーしつれーだべ」
「『何かあった時』に陣をとめるのは幽助の役目じゃなかったでしたっけ」
「しらね。もーしらねー!」
 そうこうしている間にも、2人はスタートの位置についたようだ。
「この辺だったべか」
「崖が崩れてしまった分、もう少し離れた方がいい」
「りょーかーい」
 呑気な2人に、残りの者達の一部は呆れかえり、更に残りの者はなんとか思いとどまらせようとしたが、彼等に聞き入れる気は全くないようだ。それどころか、とめに行こうとした酎と鈴駒の足下目掛けて氷の礫を放ち、「次はあてるぞ」とまで言い放った。
「なんっちゅーやつだ! せっかく助けてやったのに!」
「さっさと飛影を呼んできてやつらごと焼いてしまえばいい」
「うーん、同意してしまいたい」
「オレはもう帰ってもいいか」
「よし、帰るか」
「凍矢、せめて礼くらい言ってくれませんかねぇ? 失敗してもう1回記憶をなくす前に」
「ちょっと蔵馬! 諦めモードに入らないでよ!」
「それより鈴駒、本当にもう少し離れた方がいいですよ。こっちまで飛んでくるかも」
 数時間前にそこに――正確には今いる位置よりはもう少し崖の外側に――立った時と状況を比べるように、凍矢は辺りを見廻した。もちろんあの時は、彼の顔に今のように穏やかな笑みは存在していなかった。
「全く同じとはいかないが、まあいいだろう」
 誰にともなく頷くと、上空にいる陣の姿を見上げる。暗い空に、朱い髪と白い服が溶け込まずに眩しい。
「陣、準備はいいか?」
「いつでも!」
 陣は腕を振り廻しながら答えた。それを確認し、凍矢は地面を蹴った。
「あの馬鹿、本当にやりやがった」
 崖の向こうへと姿を消した凍矢を見て、酎が呟いた。なおも何か続けようとした口は、しかし陣が起こした強風によって音を奪われていた。崖へ向かって、陣が一気に飛び出していた。
「はやッ!? 陣ってあんなに速く……!?」
 陣の姿も、一瞬で見えなくなっていた。かと思うと、一直線に崖下へ向かって行ったその影は、放物線を描くように――その軌跡は仲間達からは見えなかったが――戻ってきた。腕には凍矢を抱えている。
 6人――その中にはすでに踵を返して帰ろうとしている者もいる――は、思い思いの溜め息を吐いた。
「帰る」
「オレも」
「もう知らん」

 花粉の届かない上空まで辿り着くと、2人はそれまでとめていた息を吐き出した。そして、どちらからともなく笑い出す。呆れ顔の仲間達の姿は、すでに小さくしか見えなくなっている。
「お前の声が聞こえたよ」
 凍矢が言った。
「気が付いた時には、辺りが闇で覆われていて、自分の姿さえ見えなくなっていた。だがオレの名を呼ぶ声が……お前の声が聞こえて、その方向にわずかな『光』が見えた。それを眼指している内に、オレはオレを取り戻していた」
 凍矢は腕を伸ばし、凍矢の肩に巻き付けた。
「ありがとう」
 凍矢の髪に頬を埋め、陣は眼を瞑った。
「凍矢、おかえり」


2013,07,07


こんなに長くなるとは予想外。
書き出しだけで数年悩んだ後は、1週間で書きました。
記憶喪失ネタはお約束だと思っていたのですが、いざ書こうと思ったら、何がどうなるのがお約束なのか全く分からない自分に気付きました。
なかなかに大変でした。
メイン2人の出番少ないですね……。
そろそろ「陣が凍矢を助ける話」ネタを封印したいです。
陣が凍矢を助けてるのと同時に、凍矢も陣を助けてる。依存じゃあなくて共存な2人が好きなんです。
最近気が付くと凍矢ばっかり弱い子になってる気がします。
いかんいかん。
あとセリフばかりなシーンが多くて遺憾ですな。
登場人物多いとどうしていいのか分からなくなります。
<利鳴>

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