陣凍小説を時系列順に読む


関連作品:二人だけの場所で


  存在しないはずのものが見た存在しないはずの光


 彼がつれて行かれたのは、小さな四角い部屋だった。彼の眼の前にあるドアの他には明り取りの窓すらなく、かと言って照明器具の類も見当たらない、あるのはただ、黒い壁と黒い床、そしてやはり黒い天井だけだ。からっぽのその部屋に、唯一――しかし辛うじて――近い物があるとすれば、瞑想室のようなものがそれに当たるだろうか。あるいはそれが部屋ではなく、もっと小さな箱のような形状をしていれば――。
(柩……)
 風に吹かれることもなく、長きに渡ってこの場に留まっているのであろう淀んだ空気が、俄かにその重さを増したように感じた。
「最後の修行を行う」
 彼が告げられていたのは、その一言だけだった。それ以外には何も知らされぬまま、今まで立ち入りを禁じられていた修行場の奥深くへとつれて来られ、こうして暗く何もない部屋へと眼を向けさせられている。
「中へ」
 促されて足を踏み入れたのは、彼独りだった。彼の師はドアの外に立ったまま、一緒に中へ入ってこようとはしない。この中で実戦形式の特訓でも始めるのだろうかという彼の予想は、どうやら外れたようだ。
「凍矢」
 痛みを感じるほどの冷たい師の声は、いつもと同じように彼の名を呼んだ。
「『闇』に打ち勝て」
 それだけ言うと、師は凍矢を部屋の中に残したまま、そのドアを閉ざしてしまった。その途端に訪れる、静寂。そして暗闇。ドアが閉まる音さえも、一瞬にして呑み込まれてしまうほどの……。
「なっ……」
 思わず息を呑み込んだその音すらも、響くことなく闇の中へと消えうせた。
 彼と共にその場に残されたのは、完全なる『闇』だった。彼がこれまで『闇』だと信じてきたもの、触れてきたどんなものよりも、果てしなく深い。そしてそれ自体が1つの意思を持って周囲を取り巻いているのではないかと思えるほどに強力な。
(こんな……)
 接するだけでも恐ろしいと無条件で思わずにいられないほどの『闇』が、こんなにも身近な場所に――いや、それがどんな場所であったとしても――存在していたということに、凍矢は戦慄を覚えた。
 すでに周囲には何も存在していなかった。壁も、天井も、両の足で触れているはずの床さえも、何1つ感じ取ることが出来ない。全て『闇』に呑み込まれてしまっている。
(これが、本当の『闇』……)
 師は言った。「『闇』に打ち勝て」と。
(そんな……出来るわけが……)
 頭の中で否定した、その瞬間だった。今まで静かに重くたゆたっているだけだった『闇』が、眠りから目覚めたように、動き出した。氷よりも冷たい何かが、凍矢の全身を一瞬で駆け抜けた。押しつぶすような強い気配が凍矢を捕らえる。その力を受けて、鼓動が異様に早さを増した。そのくせ、体温は死者のそれのように異常に低い。凍りついた血液が、血管を破裂させようとしながら全身を猛スピードで流れているようだ。眩暈すら覚える不快感。内臓を内側からかき廻されているような錯覚に、逆流した胃液が咽喉を焼く。血液すらも逆に流れているかも知れない。
(無理だ! 出来ない!! こんな場所には、とてもいられない……!!)
 呻き声を呑み込みながら、凍矢は出口を探した。視界が完全に『闇』で覆われている以上、それは手探りで見付け出すしかない。しかし、すぐ近くにあったはずのドアに、彼は触れることが出来なかった。弧を描く手を握り返すのは、ねっとりと重い『闇』だけだ。
 喘ぐような呼吸は、ついに悲鳴へと変化した。
「師匠! ここを、開けてくださいッ!」
 しかしその声は、おそらく外へは届かなかっただろう。真の『闇』は、音すら呑み込む。彼の声が響いているのは、彼の内側だけだ。仮に遠くまで届けることが出来たとしても、師は修行の中断を許しはしなかっただろうが。
(嫌だ! 嫌だ、嫌だ! 今すぐここから出たい!!)
 身体のどこにも正常な部分は残っていないように思えた。そして、異常をきたしているのは、彼の肉体だけではなかった。形を持たぬ『闇』は、凍矢の精神を――肉体を介してではなく直接――侵蝕し始めていた。少しずつ、しかし着実に『喰われていく』という感覚。『自分』が徐々に削り取られてゆく。暴力でもって肉体を犯されるよりも、まだ酷い。『闇』に取り込まれ、それでもなお『恐怖』だけは永遠に存在し続けるだろうという確信。『自分』が別のものへと変化してゆく。
「うあああアアアアァァァアアァアッ!!」
 悲鳴を上げた口をなおこじ開けて、『闇』は彼の体内へと入り込む。
 いっそ気を失ってしまえたら、どんなに幸せなことだろうか。しかし『闇』はわざと力を加減し、嬲り、弄び、ギリギリまでしか凍矢を追い詰めはしない。
 凍矢の身体は全力で『闇』を拒んだ。小さな毛穴の1つ1つでさえも。叫ぶことをやめ、歯を食いしばり、両手で耳を塞いだ。それでも『闇』は凍矢の中へと拡がってゆく。あるいは、外から『闇』が進入してきているのではなく、彼自身の中に潜む『闇』が、呼びかけに応じているのだろうか。きつく閉ざした眼からにじみ出てくるのは、泪か、それとも液体へと姿を変えた『闇』か……。
 もう1秒たりとも正気を保っていられる自信がない。だが同時に、時間の感覚はとうに失ってしまっている。永遠に続く1秒の中で、彼は師の姿を思い出していた。冷たく、暗い瞳、名を呼ばれるだけで身体を強張らせずにはいられない抑揚のない声。あれは『闇』だ。師は「『闇』に打ち勝て」と言った。おそらく彼自身が、過去に凍矢と同じようにこの部屋に満たされた『闇』に挑んだのだろう。そして勝利し、『闇』の力を己のものとした。この部屋では、何代にも渡って同じことが繰り返されてきたに違いない。この中に存在していられるのは『闇』のみ。それを拒む者、力のない者は、命を落とし、『闇』に呑まれ、『闇』となり、ここに残る。そして『闇』はその濃さを増す。またある者は『闇』に勝ち、その力を得て『闇』となる。師のように。どちらを選んでも進むべき道は『闇』の中にのみ存在する。そうして続けられてきた儀式にも似たこの力を受け入れることが、凍矢には出来なかった。師のように完全なる『闇』になってしまうことを、彼の中の何かが拒んでいる。
 自分の身体を抱き押さえようとした両手は、彼に何の感覚も伝えなかった。それほどまでに、周囲の『闇』と彼の境界は曖昧になっていた。彼は、すでに自分の身体はそのほとんどが『闇』に溶け出してしまい、今はむき出しの心臓がただ暗い部屋にぽつりと残されているのではないだろうかとさえ思った。自分の存在が、どんどん弱くなってゆく。いや、逆だろうか。強大な『闇』と同化して、逆に強くなっているのかも知れない。そんな不明確な力の中で、凍矢はいつの間にか恐怖や不快感を感じてはいなかった。おそらくそれを感じるべき器官が、最早存在していないのだろう。
(もう、いい……。早く、済ませろ……)
 力のない者には死を。それがこの世界のルールだ。
(力が及ばなかった……。それだけだ)
 透き通るような蒼い両方の眼が残されていたとしたら、彼はそれを静かに閉ざしていただろう。
 その時だった。今まさに消えようとしている僅かな意識に、微かな音が響いた。
『――――』
(おと……?)
 いや、違う。
(こえ……)
『――凍矢』
 それは知らないはずの温もりに似ていた。だがそんなものは、いや、そもそもそんな声がここに存在するはずがなかった。『闇』に呑み込まれない音は、凍矢の中にしかない。そして今となっては彼自身もその形を保ってはいないはずなのだ。僅かな意識が最期に見せる、幻想の類なのだろうか。温もりが名を呼んでくれる。それが『死』なのだとすれば、そう悪いことではないのかも知れない。
『凍矢』
(また……)
 先ほどよりもはっきり聞こえた気がした。聞き覚えのある声だ。
(だれ……だ?)
 温かくて、明るくて、少し幼い。ここにはないはずのもの――。
(……じん?)
『オレ、風使いの陣』
 そう名乗った時の陣の姿が、すでに存在しないはずの脳裏に浮かび上がった。幻の少年は、空を飛んでいた。薄暗い魔界の空に溶け込まぬ、眼が覚めるような朱い髪をなびかせながら。少年は笑った。僅かな邪気もない、凍矢と同じ色の瞳で。
(陣……)
 彼は『闇』に住まう魔忍でありながら、少しもそれらしくない人物だった。呪氷使いのトップ、凍矢の師のような冷たい恐ろしさを、陣は少しも持っていない。『闇』に染まることのない存在だった。
(陣……)
 肉体を失い、力を失い、辛うじて残された意識で、凍矢は陣の名を呼んだ。
(陣に会いたい……)
 理由は分からない。ただ会いたいと思った。
(どうすればいい?)
 どうすればもう1度、この欠片に等しき意識が消えてしまう前に、幻ではない陣に会える――?
『約束な』
「やく……そく……?」
『もっと強くなって、一緒に戦おう!』
「つ……よ……、く……」
 とっくになくなったはずの眼が、『闇』の中に浮かぶ白い手を捉えた。その手は、小指を差し出している。
『約束!』
 凍矢は自分の身体を取り戻していた。紛れもない自分の手が、白い光のような手に向かって伸びてゆくのが見えた。
「約束……」
 小指同士が触れた瞬間、そこに僅かな熱が生まれた。そして光が――。
 気が付くと凍矢は、部屋の中央に倒れていた。閉ざされていたはずのドアが開いて、外の明かりが部屋の中へ入り込んでいる。部屋の中を満たしていた『闇』は完全に消えていた。最早欠片ほども残ってはいない。しかし、その力を凍矢が手に入れたというわけでもない。凍矢は凍矢のまま、『闇』に変わることなくただ疲れ果てていた。
 傍らには師がいつもの冷たい眼を向けながら立っていた。彼はどうも納得し切っていないような顔をしていた。凍矢は『闇』に呑み込まれることなく生き延びた。だが『闇』を『手に入れた』ようには到底思えぬ。この結果に、どうするべきかと思考を廻らせているようだ。
「凍矢」
 冷たい声が『闇』の恐怖を呼び戻そうとする。しかし、凍矢の心の中にはそれを打ち消そうとする小さな力が宿っていた。
「『闇』の中で、何を見た?」
「……なに、も」
 かすれた声で答えると、口の中に血の味を覚えた。
 陣に会い、再び『約束』したのだなどと言っても、信じてはもらえないだろう。それどころか、おかしなことになれば陣に危害が及ぶかも知れない。あれは自分の記憶が見せたただの幻だ。実際に陣が何かをしたわけではない。報告の必要もない。
(それでも、お前に助けられるのはこれで3度目だ……)
 それを自分以外の他の誰にも悟られまいと己の心の中にだけ留めながら、凍矢は冷たい床に横たわったまま、冷たい眼と視線を合わせていた。やがてそれがふっと逸らされ、「まあ良い」と告げられるのが聞こえた。
「修行は終わりだ。今後は自分で技を磨け。後日使いの者がお前に所属先を伝えに来る」
 「それまで休め」とすら言わず、師は凍矢をその場において立ち去っていった。それ以降、彼の姿を凍矢が見ることは――彼の生死を問わず――1度もなかった。
 凍矢は眼を閉じた。目蓋を上げていることすら困難なほどに、体力と精神力を消耗していた。今はもう、ただ眠りたい。どこからか吹いてくる温かい風だけを感じながら。


2012,10,08


Start Lineから続く陣凍幼少期連作(今名付けた)第三弾です。
最初の2つは両方とも陣視点がほとんどだったので、凍矢視点でも書きたくて。
そしたら陣の出番がついにないまま終わっちゃいました(笑)。
本当はもっとどろどろした感じに書きたかったのですが、力不足でした。
<利鳴>

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