後ノ雫


 “あの夢”を見なくなってから1ヶ月が経とうとしていた。“あの一件”に関わった人々は、すでに日常の生活に戻っていっている。“あの場所”で見聞きしてきたことが、彼女達の今度にどんな影響を及ぼしたのかは、俺には分からない。が、少なくとも俺自身は「一件落着」と安堵だけしているわけにはいかない。俺達は生きている。生きている以上は、働かなければならない。“あの一件”に関わることになった切欠は、そもそも取材だったはずだ。と、嫌でも思い出させようとしてくれる同居人がいるものだから、そろそろ本格的に机に向かわなくてはいけない。集めた資料は同居人兼優秀な助手である累がもうまとめておいてくれたらしい。“あれだけのこと”に巻き込まれてまだ1ヶ月だと言うのに、このところ累はなんだか活き活きしている。それも、“あの件”に関わる以前よりも。『ありえない体験』、『恐ろしい経験』、『悪夢のような数日間』。なんの捻りもない煽りを付けようとすると、そんな言葉がすぐに浮かんでくる“あの一件”だが、そこで累が“なにか”を得たのだとしたら、きっと“あれ”は意味のあることだったのだろう。
 ぼんやりと窓の外を眺めながらそんなことを考えていると……、
「先生?」
 きた。
「なんだか楽しそうですね? お仕事は順調ですか?」
 振り向いた先にあった顔は、にこやかに微笑んでいた。そんな表情を、俺の手がペンを持ってすらいないことを知りながら向けてくるのが累の恐ろしいところだ。執筆は最初の予定よりも大幅に遅れている。もちろん、累はそのことを把握していて、心の中ではなかなかエンジンがかからない作家に苛立っているに違いない。
 累は机の上にコーヒーカップを置いた。ペンより先にカップに手を伸ばしたら、いよいよ怒られるだろうか。だが白い湯気と共に立ち上る香りに抗うのは、正直難しい。よし、これを飲んだら“本格的な執筆”を始めようと決めて、俺は温かい液体に口を付けた。同じコーヒーだが、密花の店で飲むのとは味が違う。確か同じ豆を使っていると聞いた覚えがあるが、違いが生じるのは何故だろう。あちら――黒澤密花――はプロで、こちら――鏡宮累――はアマチュアだから。そんな単純なことなのか……。だが、その違いはと言うと、単純に美味いか不味いかという性質のものではない。良いとか悪いとか、そういうものではない部分が異なっている。不思議なものだ。ちなみに俺はどちらのコーヒーも好きだ。
「先生?」
 カップの中を見詰めたまま動かなくなった俺を不審に思ったのか、累は訝しげな表情をしていた。その顔を見て、ふと、「この黒い液体は“あの水”に少し似ている」と、くだらないことを考えてしまった。やめておけば良かった。
「お口に合いませんでしたか?」
「いや、なんでもない。少し考え事をしていただけだ」
 首を振って再びカップを口元に運んだ。
「うん、美味いよ」
 そう言うと、累の顔に笑みが戻った。
「さて、そろそろ書き始めるか」
 今回の“取材”は俺が“当事者”に“近付き過ぎて”しまったこともあり、上手くまとめるのに苦労しそうだ。さてどうしようかと唸りながらも、コーヒーの残りと反比例するように原稿用紙は少しずつ文字で埋まっていく。ようやく本格的にエンジンがかかってきたか。そう思い始めた頃、
(ここでなにか花を持ってくるとしたら、何が良いだろう)
 ふと思い付いて、本棚にあるはずの図鑑を取りに行こうと顔を上げた時、窓の外の景色が夕陽に照らされて真っ赤に染まっていた。いつの間にかそんなに時間が……。黄昏時は、“こちら”と“あちら”の境界があいまいに……。
「先生……? どうかしましたか?」
 思わず探そうとしてしまいかけた声に尋ねられて、我に返った。
「……いや、なんでもない」
 ふとした瞬間にまだ“引き摺られている”自分に気付かされてうんざりする。それを振り払うように軽く頭を振って立ち上がった。
 今度こそ、本棚に向かう。
「確かこの辺りに……」
 何年か前に買った植物図鑑があったはずだ。表紙の色は、確か緑。作品内に具体的な植物の名を登場させる時にお世話になっている書物だ。しばし視線を廻らせ、記憶の中にある映像と一致する物を探す。
「……ん?」
 俺は本棚に並ぶ本の背表紙をなぞる指をとめた。そこにあると思っていた目的の物が見当たらない。まさか“見えなくなってしまった”のか?
「累」
「はい」
「密花に電話を……」
「またですかっ!?」
 累は呆れたような声で言った。実際、呆れているのだろう。
「本当にないんですか? 毎回黒澤さんの手を煩わせるのは、正直どうかと思います。今回だって……」
 累ははっとしたように言葉を切った。そう、今回密花――達――を巻き込むことになったのも、俺の依頼が切欠だった。明るく振舞ってはいるが、やはり累も多少は“引き摺って”いるのだろうか。
 数秒間の沈黙。それを打ち破ったのは、累の声だった。
「黒澤さんに依頼する前に、もう一度よく探してみましょう。前だって失くしたと思っていたノートが、棚の隙間から出てきたことがあったじゃないですか」
 累は少々わざとらしいくらいに声のトーンを変えて言った。俺はそれに乗ることにした。
「違う。あれは間違いなく消えていた。あの場所は絶対に確認していた」
「先生は『探せない人』なんです。絶対に見落としてました。『ちゃんと探した』なんて信用しないで、私が探しなおせば良かった」
 累は腕を組んで頬を膨らませると、「ぷい」っと横を向いてしまった。俺は堪え切れずに少し笑った。
「一体何を探しているんです?」
「図鑑だ」
「緑色の?」
「そう。高かったんだあれ」
「そんなところを気にしているんですか……。あれなら確か……」
 累は本棚に向かった。さっきまで俺が立っていた位置だ。俺がやったように、累も背表紙を端から順番に指でなぞっている。そして、
「……あれ?」
「ほら見ろ」
「……確かに、1冊分隙間がありますね……」
「俺の勝ちだな」
「か、勝ち負けの問題じゃありません! どこか他の場所へ動かしたんじゃないですか?」
「いや、そういえば最近全く見ていなかったな」
 累がどこかへ片付けてしまったのかと思ったが、どうやら違うらしい。2人そろって首を傾げても、目的の物が姿を現すことはなかった。
「やはりここは密花に……」
「うーん、私がついていながら……」
「しかし寄香はどうするか」
「あ、そういえばそうですね。何かあるんですか?」
「買った時のレシートはもうとっくに捨ててしまっている」
「そんな物が寄香になるんですか?」
「冗談だ」
「最後に見たのはいつでしたっけ」
 少なくとも“あの一件”よりも前であったことは間違いない。となると、短くてももう1ヶ月以上はその存在を認識していないことになる。記憶を遡るにしても、それだけ経ってしまっているとなると……。
「そういえば先生」
「ん?」
「少し前に、誰かに何か貸すと言っていませんでしたか?」
「……あ」
 それだ。学生時代の友人から連絡があって、そう、それだ。
 斯くして俺は、受話器の向こうにようやくそれを発見することが出来た。電話機越しに友人の申し訳なさそうな声が聞こえてくる。
『すまん、返しそびれていた』
「いや、こっちも少しばたばたしていたんだ」
『来週なら返しに行けると思うが……』
「出来れば早い方がありがたい。実は締め切りが迫ってきているんだ」
 今も助手に監視されているんだとは心の中だけで続けた。
『もしお前がこっちに来られるなら、今からでも構わないんだが……』
「本当か。それは助かる」
『駅まで来られるか? 俺もそこまでなら出られそうだ』
「ああ、大丈夫だ」
『それじゃあ持って行くよ。電車の時間が分かったら連絡してくれ』
「分かった」
 受話器を置きながら、今すぐ出れば今夜中には仕事を再開出来そうだと考えた。それなら、助手も納得してくれるだろう。問題は……、
「先生、どうでした? 返してもらえそうですか?」
 累が尋ねる。
「ああ。取りに行けばすぐに渡してもらえることになった」
「ほんとですか。良かった」
 そう言った累の顔は、窓から差し込む夕陽に照らされてオレンジ色をしていた。“あの時”も奇妙な夕陽を見たことを思い出す。山からの“迎え”に誘われ、ふらふらと出て行った後姿……。あれから、もう1ヶ月になる。それなのにまだ、俺は累を1人にしておくことに不安を覚える。全ては霊の影響だった。そう思いたい。だがもしも元から累の中にあった“何か”が霊に同調してしまっていたのだとしたら……? そして、“それ”がまだ完全には消えていなかったら……。
 この1ヶ月間、24時間ずっと近くにいたわけではない。それぞれの用事で留守にすることは何度もあった。それでも今は、無性に夕陽が累を呼んでいるように思えて……。
「先生?」
 首を傾げる累。今日だけで何度も眼にした仕草だ。俺は同じように「なんでもない」と繰り返すことしか出来ない。
 累は「そうですか」と言った。そして、
「じゃあ、早く行きましょう? あまり遅くなるとあちらにも迷惑がかかりますし」
 その言葉の意味はすぐには呑み込めなかった。『行きましょう』。『行ってらっしゃい』でも、『行ってきます』でもなく。
「お前も行くのか?」
「お一人で行かれるつもりだったんですか?」
 そう尋ねてきた表情を見て分かった。累も、俺が一人でふらふらとどこかへ行ってしまうのではないかと危惧していたのだ。まだ俺は信用されていないらしい。なんだ、信用ない同士だったのか。
 俺は無意識の内に息を吐くように笑っていた。
「ついでだから、食事でもしてこようか」
「先生がご馳走してくれるんですか?」
「まあ、たまにはいいだろう」
「え、本当ですかっ」
 俺が部屋を出ると、累は当然のような顔をしてついてきた。その足取りは軽い。
「帰りまでに何を食べたいか考えておいてくれ」
「はーい。なにがいいかな。先生ノータイだからなぁ」
「おいおい。ドレスコードかよ。高いところは駄目だ。時間がかかるところも」
「ふふ。分かってます。冗談ですよ」
 外に出ると太陽はほぼ見えなくなっていた。早々と姿を見せた星々が、空が真っ黒になることを阻止している。雲は見えない。雨の気配は全くない。
「よし、行くか」
「はいっ」
 累は頷くと、俺の横を歩き出した。


2015,08,30


累の性別なんて不明のままでも二次創作は出来るさ! と思ってたら、気付いたら書いてた(笑)。
累って家族とかどうしてるんでしょうね。学校は行ってるのかな? あれって制服??? 謎の多い子ですね。
「綺麗に撮れました?」「モデル通りだな」とかふっつーに軽い感じで会話してた頃の2人が大好きです。
あとラストの「信用ないな」のシーン!!
先生、累を幸せにしてあげて。
先生の後ろをついてくるだけだった累が、先生の隣を笑顔で歩ける、そんな2人になりますように。
そんなことよりタイトルが思い付かなかったよ。本当はもっといいタイトルを考えてあったのに、それは『見えなくなって』しまったみたいだよ。
影見出来る人がいればなぁー。
<利鳴>

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