由花子×康一NL 全年齢


  S・D・F


「ほら、歩け! 歩けってば!」
 僕、広瀬康一が必死にリードを引っ張っているのに、この駄犬は完全に座り込んじゃって全然動きやしない!
 飼い始めた頃はこんな事無かったのになあ……それもそうか。その頃は犬も僕もほんの子供だった。
 今やすっかり老犬。それよりも僕自身が高校生になって、犬の散歩よりもやりたい事がいっぱい有る。
 僕がそんな貴重な時間を割いてやってるのに……散歩しなくて良いならしないぞ! と脅しをかけて漸く立ち上がった。でも数歩だけ歩いて濃い色のレンガと薄い色のレンガが交互に積み重なっているとてもお洒落な塀の前まで来ると、また座り込んでしまった。
 もう! 散歩をしないとトイレが出来ないのはお前の方だぞ!
「康一君?」
 そんな憤りを聞かれたかのようなタイミングで声が掛かる。
 声のした方――まあ目の前なんだけど――を見ると山岸由花子さんが居た。
 同級生の女の子。紆余曲折、っていうのを経たけどお付き合いをしてる。真っ黒で長い髪が印象的で、スラッとしていてとても美人。
 だから多分『自慢の彼女』というやつだ。多分。
 この時期らしい黄色いカーディガンを羽織ったワンピース姿は雑誌のモデルさんみたいだし。
「由花子さん、こんにちは」
「こんにちは」笑顔を見せてくれたけど、次の瞬間驚いたように「康一君、犬の散歩中だったのね」
「まあそんな所」
 犬の方は全然ノリ気じゃないけど。
 そもそも僕だって行きたくなんかない。でも犬は外に散歩に出て初めてトイレが出来るから、最低でも1日1回は散歩に連れ出さなくちゃあならない。
 だからこの辛うじて尻尾をパタンと動かして返事をした駄犬だって、小さい頃は散歩に行くよと声を掛けたら、寧ろリードの用意をした時点で尻尾を思い切り振って大喜びしていたのに。なのに今はこの有り様。
「康一君と一緒に散歩が出来るというのに、ちっとも嬉しそうにしないのね」
 由花子さんがギロリと睨んだ。
 これが彼女の悪い所。僕を想っての事だから、良くない所って位に言わなくちゃあいけないのかな。
 由花子さんは僕の事をとっても大好きで、だから他人が僕に低い評価を下すような事が有ると凄く怒る。
 でも……ちょっと、こう……気性が激し過ぎるんだよなあ……
 例えば本当に僕の方に悪い理由が有って相手が嫌な思いをしたんだとしても、由花子さんが怒るのは相手の方。僕が由花子さんと一緒に歩いていて、彼女の話に夢中になって前を見ていなくて、それで誰かにぶつかっちゃったとしても「康一君にぶつかってるんじゃあないわよ!」って激怒してしまう。
 今も犬の方を睨み付けてるし……まあ今は僕じゃあなくて犬の方が悪いけど。コイツがもっと楽しそうに散歩をするなら、僕もこんなに「面倒臭いなあ」なんて思わなくて済むのに。
 なんて事を言おうもんなら、もう2度と散歩をしなくて済むようにと犬をどこか遠くにやってしまう――これは優しい言い方で、ようは死後の世界に送り届けてしまうとかそういう事なんだけど――かもしれない。
 その位過激な人だから僕は必死に言い訳を考えながら笑顔を作った。
「でも僕は犬の散歩をして良かったよ。だってほら、こうして由花子さんに会えたから」
「康一君……!」
 どうやら正しい答えを選べていたらしく、由花子さんはニコニコと嬉しそうな顔を見せる。
 お嬢様みたいな雰囲気も有るしとても魅力的なんだけどなあ、こうして笑っていると。
 でも多分僕はそのギャップが、彼女がキレると怖いって部分も含めて、好きになっちゃったんだと思う。学校が休みの午前中から道端でバッタリ会えて嬉しいのは本当の事だしね。
「毎日散歩させるのが面倒なのは本当の事だけどさ。チワワみたいなちっちゃい犬なら、こんな必要無いんだろうなあ」
「小型犬も外を歩かせる必要が有るそうよ。大型犬のように毎日じゃあないけれど、週に1度位は外のような広い所を沢山歩かせないとならないんですって」
「へえ、そうなんだ。勉強になったよ」
 もしこの愛犬が死んだら、その後に飼うのは小さい犬にしよう! なんて言うつもりだったけれど、それはそれで大変なんだろうなあ。
 パグだっけ? 顔が大きいから犬なのに帝王切開じゃあないといけない犬種も居るって聞くし。
 ……そう、僕はなんだかんだで、このついに目まで閉じてここで寝てしまいそうな犬の事が大好きなんだ。
 人間にしたらもう結構な年。怪我も病気も無いけれど、数年前のような元気だって無い。いつか来る別れの日を思うと、今から悲しくなってしまう。
「由花子さん、ちょっと聞いてくれる?」
「なあに?」
「僕のファーストキスの話」
 由花子さんは2回パチパチと瞬きをした。
「飼い始めたばっかりの頃は散歩ってなると喜び過ぎちゃって尻尾を振るだけじゃあなく、顔中舐めてきてたんだ。今じゃあすっかりそんな事もしないんだけど」
 こうして話している間もすっかり寛いじゃって、いつイビキをかいても可笑しくないって様子だ。
「それでね、本当に顔のどこもかしこも、何も付いていないのにベロベロ舐めるもんだから、それを見たお母さんが「康ちゃんのファーストキスが奪われちゃったわね」ってよく言ってたんだよ」
 いつの間にか言わなくなったし、いつの間にか舐めなくなったし、いつの間にか僕も犬も揃って散歩は面倒臭い物って思うようになっちゃったけど。
 最初は気にならなかった。っていうより、僕としてはからかわれたり舐められる事自体無くなって良かったなって思ってた筈なんだけど、でも最近はちょっと寂しい。
 僕が散歩に連れて行きたがらないのは『成長』の範囲だけど、犬の方が散歩を面倒臭がるなんて『老化』の証だ。別れが近いなんて思いたくない。なのに今ちょっと思っちゃった。嗚呼、もしかしてそれを実感させられるから散歩が楽しくなくなったのかな。コイツも僕がそう思ってる事を見抜いて、だから喜ばなくなったのかな。
「それで――って、由花子さん?」
 不穏な空気を感じ取ったので声を掛けてみた。が、微妙に視線が外れたまま返事も無い。
 由花子さんはじっと僕じゃあなくて色違いのレンガを積み重ねて作られた塀の下の方を見詰めている、というより睨み付けている。
 うん、わかってる。由花子さんが見ているのは塀じゃあなくて、その下に座り込んで眠たげな顔をしている犬を、僕のファーストキスの相手を見ているんだって事位。
 彼女は僕の事となると凄く嫉妬深くなって、子供の頃の笑い話のような思い出にまで嫉妬する性格だった。これは大変な事になったぞ、どうしよう。
「えーっと、由花子さんのファーストキスはいつ?」
「そんなの康一君とのキスに決まっているでしょうッ!」
 周りの家のガラス窓がビリビリと音を立てて、そのまま割れてしまうかと思った。声の大きさじゃあなくて、その中に超音波が含まれていそうな感じがして思わず耳を塞ぎたくなったけれど、そんな事をしたら由花子さんは益々ムカッ腹を立ててしまうから我慢した。
 今僕がすべき事はスタンド能力でもある髪の毛を逆立てて辺り一帯を破壊しかねない彼女の怒りを収める事だ。
 例えば僕もファーストキスだった、なんて嘘を言ったら逆上というか正常に激怒するというか、益々ブチギレさせてしまうだけだ。今まさにファーストキスの相手に関して怒っているのだから。由花子さんは1度キレたら他の事は何も考えられなくなる、例えば東方仗助君みたいなタイプとは違う。
 普段見た目に反して温厚で滅多に――特に自分に関する事では――怒らない仗助君と由花子さんは正反対って言っても良いかもしれない。由花子さん、黙っていれば結構おしとやかそうにも見えるもんなあ。
「所で由花子さん」だから僕はそんな彼女が大事そうに抱えている物を指差して「それ、なあに?」
「これ?」
 急に見た目通りのお嬢様みたいな優しそうな声になった。
「うん、先刻から気になってたんだ。その紙袋には何が入っているのかなあって」
 薄い茶色の紙袋は長いフランスパンがはみ出しているのが似合いそうなお洒落な雰囲気で、でも何も出ていないし口も開いていないから由花子さんが何を持っているのかさっぱり見当が付かない。
「ふふ、これの中身が気になるのね」
 どうやら今回も『正解』だったらしく由花子さんは嬉しそうに目を細めて、紙袋を開けて中の物を取り出した。そして僕によく見えるようにと広げる。
「それは……カーディガン?」
 僕はファッションに詳しいとかじゃあないから見たまんまを訊いてしまった。
「ええ!」
 楽しそうに返事をしてくれたから良かったけど。
 由花子さんが広げて見せてくれたのは黄色いカーディガン。由花子さんが羽織ってる物よりもちょっと薄い色をしている。
「こういう色、余り好きじゃあなかった?」
「綺麗な色だと思うよ」
「良かった!」今にも飛び跳ねそうな程に喜んで、それから屈んで僕にそのカーディガンを当てて「やっぱり康一君によく似合うわ」
「僕に? って事は、これもしかして僕への……」
「そう、康一君の為に編んだの」
 手編み!?
「幾ら春というよりも夏が近いとはいえ、未だ夜になったら冷えるでしょう? カーディガンを1枚羽織れば冷えから守られるし、それにウールで編んだから吸湿性が高くて汗をかいたら逆に涼しく感じるのよ」
「へえ……凄いね、えっと……知らなかったなあ」
 何と言うか、それを手編みで作れちゃう事を知らなかった。
 ウールって羊だよね? 羊の毛糸って、もしかして結構高いんじゃあないのかな。ましてデパートかどこかで買ってきたばかりに見えるカーティガン……値札が付いていても可笑しくない出来栄え。
「これを渡したくて、康一君の家に行く所だったの」
「え? そうなの?」
「受け取ってくれるわよね……?」
「勿論」
 もちろ『ん』を言い終わる前に由花子さんは僕の肩にカーディガンを掛けてくれた。これじゃあ逆に袖を通せない……かといって袖を前で結んだらテレビに出てくる映画の監督みたいになっちゃうんだけど。
 確かに夜や昼でも雨の日ならちょっと肌寒いって時も有る時期だけど、でも今は良い感じにお日様も出ているから全然寒くなくて、ようは「今は必要無い」なんだけど。
「あったかいね」
 多分僕の事を想いながら編んでくれた物だから。
 散歩の途中だって事を忘れたように端っこで座り込んでいた老犬も、昔の散歩に行くよって言った時のように元気良く尻尾を振っている。
「……って、どうしたの? このカーディガン、お前も着たいの?」
 わん、と一際大きな声を上げた。
 どんなに欲しがってもあげないよ。これは僕が貰った物だし、お前に着せたら毛だらけになっちゃうだろ。
 由花子さんなら犬の服だって簡単に編み上げてくれるだろうけど、でも彼女の中では僕のファーストキスを奪っていった憎き恋敵と書いてライバルと読むような存在なんだろうし。
「似合ってるって言いたいのね」
 由花子さんがしゃがんで犬の頭を優しく撫でた。先刻の返事とは違う「くーん」と鼻を鳴らすような声を上げて、もっと撫でても良いよって言うみたいに少し頭を低くしている。
「あの……由花子さん、犬とか嫌いじゃあない?」
「別に嫌いじゃあないわ。康一君が飼っている、大事なワンちゃんなんでしょう?」
 ワンちゃん、なんて呼び方は似合わないお年寄りの大きな犬だけど。
「ちょっぴり羨ましくなっちゃったの。犬って猫とか兎とかと違ってちゃんとご主人様を守る性質を持っているというから、キスまでしたご主人様の康一君の事をきっとどんな恐ろしい事からも守ってくれるんでしょうね」
 この犬にそんな事が出来るかなあ? でも出来たらちょっと格好良いな。
 由花子さんは犬とか猫とか兎とか飼ってないのか訊こうと思ったんだけど。
「私も康一君の事を守れるようになりたいわ」
「あ、そっちが羨ましいんだ……」
 何が可笑しいのか疑問に思っているのは僕だけのようで、2人――1人と1匹――とも凄く楽しそうにしている。もしかしたら本当に、そのカーディガン似合っているよって、作ってくれて有難うって言いたかったりするのかな。


2020,05,10


BLっぽくファーストキスをテーマに候補の中に入れた筈なのに、それを引き当てておきながら何故かNLを書いていた。
最近古い一人称小説を読み漁ってたので一人称やりたくなってしまったのです。
<雪架>

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