フーナラ アバブチャ要素有り


  遍く出鱈目で


 本日の任務はある男の護衛。特徴的な赤毛を逆立てて黒く丸いサングラスを掛け、黒いのに派手で目立つ毛皮のロングコートを羽織った190cm近い20代の大男。
 そして今日は彼の妹の結婚式。彼自身は芸能プロダクションの経営もしている芸能人だが妹は違う。その為この結婚式に報道関係者は入らない。
 日柄も良く命を狙うには絶好の機会。
「妹の学生時代からの友人に挨拶をしてくる、ここに居てくれ」
 軽く爽やかな声で男は3人に言い残し離れて行った。揃いの黒いスーツに白いネクタイの3人は頷きを返し残った。
 任務に就いているのはパンナコッタ・フーゴ、ナランチャ・ギルガ、グイード・ミスタの未成年3人。
「俺もうすぐ成人なんだけどな」
「誕生日って来月ですか?」
「3日」
「本当にもうすぐじゃあねーか!」
 そんな季節だからといって結婚式の最中にもロングコートを羽織ったままなのは如何な物か。彼のトレードマークの1つなのかもしれないが。
 しかし彼は今や芸能人としてより、芸能事務所の社長としての方が有名だ。
「つまんねーよなァ、芸能人1人も居ねーし」
「居たとしてもあの事務所、全員10代の少年ですよ」
「ほんっとつまんねー」
 不貞腐れるナランチャの気持ちはわかる。
 隣のミスタも首の後ろを掻きながら溜め息まで吐いた。
「それで街の『ギャング』に『未成年』って指定して『護衛』頼むとか、ズブズブじゃあねーか」
「恐らくそういう事務所でしょう」
「ケツで仕事取ってそう」
「うげぇーっ」
「ナランチャ気を付けろよ、アイツのお前見る目ヤバかったからな」
「止めろよ、そういうの!」
 すっかりチームに馴染んで盛り上がる2人は兄弟のようで、話の内容を考えなければ微笑ましくはある。
 しかしナランチャは本当に気を付けた方が良いかもしれない。助手席に座る彼は運転するのが、隣に座るのがナランチャだと聞いた時にはサングラス越しに芸能人らしく売り物になりそうなお綺麗な笑顔を見せていた。
 芸能人で芸能事務所の経営者で色の方面に宜しくない噂が有るだけで、結婚式に参列するのに3人もの護衛を必要とするのだろうか――
「――結婚式でスモークなんて焚きますか?」
 少し離れた所にだが、細く白い煙が上がって見える。
「まあ少なくとも歓談時間にはやらねぇな」
「一旦外に出しますか」
「何とも無かったらすぐに呼ぶ」
「何とも有ったらオレ達で何とかする」
 フーゴはミスタのように銃の腕に自信が有るわけでも、ナランチャのように小回りの利く体型をしているわけでもない。
 足早に護衛対象に近付き、その背に軽く触れた。
「お話し中すみません、少し外の空気を吸いに行きませんか?」
「……何か有った?」
「何か有るかもしれないので――」
 きゃあ、という女性の短い悲鳴が聞こえた。次いでグラスの割れる音と液体の飛び散る音。
 赤の他人の注意力が散漫しただけではなさそうなので、フーゴは男の腕を取って強く引き走り出す。
「うわ」
 ややバランスを崩したが転ばない。引き摺られるようにではなく、ただ腕を組み合うような姿勢で共に走った。
 煙や悲鳴の発信源は出入口近くでそちらには向かえない。代わりに司会者の控え室等が有る関係者用の小さな通路へ。ドアを開き押し込むように護衛対象を出してからフーゴは振り返る。
 会場は妙にざわついている。結婚式という幸福の場での歓談の筈が、出入口側を中心に緊張感を走らせていた。
「どこだ!」
 男の切羽詰まった声。人より頭1つ高い背をした赤毛の『目標』を見失い焦りを露にしている。
 再び短い悲鳴――恐らく違う女性――が上がり、遂にはテーブル1つの上の物が全て倒れる盛大な音。式の参列者達はあたかもテロに巻き込まれたかのように騒ぎ出した。
「どこだって、そりゃあ」
「こっちの台詞だ!」
 器用に袖に隠していた拳銃を手に、ミスタは近くのテーブルへと飛び乗る。
 ナランチャは足首に隠していたナイフを取る為に屈む。
 その頭上を、ナランチャの頭から上にしてテーブルに立つミスタの腰から下を、先程の白い煙のような物が自我を持って吹き抜けた。
「何だあれは……」
 スタンド攻撃かと思った。しかしどよめきからして他の人々にも見えている。
「火災です! 皆さん、一列になって外へ避難して下さい! 係りの者が誘導します!」
 司会者の女性が機転を利かせて嘘――恐らく――を吐いた。
 これで犯人も放火犯と思われたくなければ皆と共に並んで外へ出る事になる。事前に会場側も可能性が有ると踏んでいたのだろう。
 新郎は無念そうな表情を見せ、新婦はそれでも兄を探すように辺りを見回している。
 次第次第に会場から人々が出てゆく。もうそろそろ暗殺を目論まれた護衛対象をも避難と称して合流させても良いだろうか。
「貴方達どうしたんですか? 大丈夫ですか?」
 テーブルの上に座り込んでいるミスタと、そのすぐ下で同じく座り込んでいるナランチャに声が掛けられた。
「立てねぇ……足が、全然動かねぇ……」
「オレ……何でこんな……」
 2人の様子が可笑しい。
 ミスタは係員が肩を貸しテーブルから下ろされたが、聞こえた言葉通り歩く事も立つ事すらも出来ないでいる。
 ナランチャに至っては膝を付き俯いて己の両手の平を眺めたまま。2人を襲ったのはやはりスタンドなのか。
 スタンド使いが護衛対象に何らかの危害を加えたがっていた事が確かとなると、2人を助けたくともフーゴは背後の彼を守る事を何より優先しなくてはならない。
「なあ君、火災じゃあないんだろう?」
 背後からの声に「違います」とだけ答えた。
 詳細は不確かだから言えない。もしかすると火災以上の危険が有るかもしれない。

 護衛対象を自宅ではなく芸能事務所に送り届けて今日の任務は一応終了した。まさか3人で来たのに1人で『報酬』を渡され帰る事になろうとは。
 事務所の住所が印刷された封筒を手に丁寧に頭を下げて外へ出ると季節柄もう日が暮れていた。
 自宅のアパートメントに直帰せず、チームの事務所としているアパートメントの1室に顔を出して直接報告するか――という考えを見抜いていたように1台の車が停まっている。
「フーゴ」
 助手席の窓が開いて中からレオーネ・アバッキオの低い声がした。
「迎え、有難う」
 そのまま助手席に乗り込みドアを閉めると、何かに追われるように急いで発車する。
「お疲れ」
「疲れたのは僕じゃあなくて2人です」
「今からその2人の見舞いに行く体力は残っているか?」
「行けるなら行きたい」
 それよりも会えるなら、だ。
 結婚式場の火災というデマで消防車を呼び便乗してナランチャとミスタとを病院まで運ばせた。リーダーであるブローノ・ブチャラティに連絡を入れ、自分は本来の任務である対象を護衛しきる事に尽力した。ずっと2人の事を気に掛けながら。
「お前は大丈夫そうだな」
「つまり2人は……」
「命に別状は無い。今まさに検査を受けてる頃だ。お前が1番変わりが無いように見える」
「僕は『あれ』に当たりませんでしたから。まあ……詳しくは皆の居る場で話した方が良さそうですね」
 2人は当事者だからこそ何が起きたかわかっていないのだろう。1歩離れた場所に居た自分は状況が見えていたし被害の1つも無い。顰蹙(ひんしゅく)を買いそうだ。
「話は変わるが」運転手なので視線は前に向けたまま「芸能人の身内の結婚式なんだろ? 有名女優とか居なかったのか?」
「居ませんでした。結婚する妹は一般人ですからね。流石に綺麗でしたよ」
 芸能人の妹で花嫁で。そう、花嫁なのだ。人生最良の日がこれでは可哀想だ。

 病室のドアを開けるとベッドにミスタ、その奥にパイプ椅子を並べてブチャラティとナランチャとが座っていた。
 ミスタは動かないと言っていた下半身に布団が掛けているので痛々しいが、ナランチャはすっかり元気に戻ったのか目が合うと心底嬉しそうに瞳を輝かせる。
「フーゴ、今日はよくやった」
 ブチャラティからの言葉にも素直に喜べないし誇れもしない。
「何度も確認して悪いが、お前は大丈夫なんだな?」
 頷くと「まあ座れ」と促されたので洗面台――やや狭いがきちんと個室で洗面台もトイレも完備されている――近くに立て掛けられているパイプ椅子を取り、アバッキオと並んで座った。
 ベッドを左右から囲む形を取られたからかミスタが溜め息を吐く。
「俺どうなるんだよ。深刻な雰囲気じゃあねぇか」
 まさか両足が切断されている――と一瞬不安になったが、布団の下には2本の足の膨らみがちゃんと有った。
「……ナランチャは何とも無いんですか?」
 何から聞いて話せば良いかわからず、ベッドを挟んで前に座るナランチャに問い掛ける。
 白い煙らしき物に頭部を掠められていたが、今はある意味いつも通り大きな瞳でじぃとこちらを見ているのみ。
「ナランチャ、君の名前は『ナランチャ』だ」
 不意にブチャラティが可笑しな事を言った。
「え、オレ? そっか、そうだった」
「そうだ。彼はパンナコッタ・フーゴ」
「美味そうな名前。なあ、隣のデカい人もオレの知り合い?」
「彼はレオーネ・アバッキオだ」
「レオーネ(ライオン)かあ。だからデカいのかな。えっと、パンナコッタ・フーゴ、オレ何とも無いよ」
「何とも有るだろ」
 ミスタの言葉に「そうか!」と返して2人で笑い合う。数時間前に見たばかりの光景のようで、何故かちぐはぐな感じがした。
「ナランチャは記憶の1部を失っている」
「え?」
「1部、と言うと誤解が有るかもしれない。日常生活を送る上での物の固有名詞や行動の基準……つまりは手を洗うには水を出す、その為に蛇口を捻る必要が有るという事は覚えている。勿論それが蛇口であり水であり洗うのが手という事も。自分や相手や過去の『記憶』だけを『喪失』した状態だ。簡易な検査結果だが、俺も話していてその通りの印象を受けた」
「記憶喪失なんて検査でわかるのか」
 アバッキオがその低い声で問う。映画やドラマでは医学的な検査をしている所を見た事が無い。
「簡易な検査結果、だ。問診とMRI。あとは頭部の触診もしたな。記憶を引き出す海馬の1部が機能していない。物忘れが激しくなるでも新しく覚えられないのでもなく、過去を取り出す事が出来ない」
 どうすれば治るのか、そもそも治るのか? そう聞きたいのに「治らないと言われたらどうしよう」という悪い考えが邪魔をしてフーゴは口を開けない。
 焦燥に反してナランチャはブチャラティの話を他人事のようにぽかんと聞いている。もしくはわからず聞き流している。
 そんな恐ろしく普段と変わらない彼が自分達の事を覚えていないだなんて。
「ミスタの検査結果は?」
 アバッキオはちらと本人の方を見たが、盛大な溜め息しか返ってこない。
「下半身の機能を失っている。具体的には小腸の中程辺りから下の『神経』が全て停止している。血液は流れているし金槌で膝を叩けば反射して足も上がる。但し自分じゃあ動かせないし、痛いも痒いも何も無い。腹筋の1部にも伝達が届かないから体も起こす事も困難だ。今なら足の爪を剥がしても無反応だろうな」
 予想以上の、溜め息では片付かない程の重症。
「俺今『男』じゃあないんだぜ。神に見離された気分だ」
 ナランチャと違い現状を把握出来ている分より悲壮に見えた。
「何故こうなったか、フーゴ、わかるか?」
「……恐らく、スタンドの仕業だと」
「恐らく?」
「スタンド能力が無い人々にも見えていた。白い煙のような物でした。最初は演出に使うスモークに近い物が煙草の副流煙のように上がっているのが見えた」
「フーゴがすぐに気付いたから、依頼してきた奴は初動で逃がせたんだけどよ」
「応戦しようとした2人の所へその煙が襲い掛かってきた」
 まるで意思を持つ動物のように。
 テーブルの上に乗り上げていたミスタの下半身と、ナイフを取り出す為に屈んだナランチャの頭とを煙が通り過ぎ――
「その煙がスタンドか」
 アバッキオの声にフーゴは再び「恐らく」とだけ返す。
 スタンドならば何故他の人々にも見えていたのか。まさか式場に訪れた人間の全てがスタンド使いではあるまい。
「記憶喪失にして下半身付随にするスタンドか?」
「いや……推測だが身体機能を停止させるスタンドかもしれない。脳味噌も肉体の一部分だ」
 ブチャラティの推測は当たっていそうだ。だが問題は仕組みではなく。
「今後、どうする」
 どうなる、と口走りたくて仕方無かったフーゴとは違い、アバッキオは未だ冷静さを保っていた。
「ミスタは文字通り身動きが取れないからここに入院だ」真横を向き「ナランチャは一見では何とも無いから入院はさせられない」
 よくわかっていないらしいナランチャは1度小首を傾げたが、取り敢えず「自分は入院しない」という所だけを飲み込み頷く。
 長めの前髪が揺れる。そんな微かな動きですらいつも通り。
「これがスタンド能力で頭や足が動かないのなら本体を探して解除させるだけだが、スタンドがした事の結果であったりスタンドが全く関係無ければ治せない」
 遂に出た『治せない』の言葉に体がぶるりと震える。病院らしく無駄に暖かい部屋の中で寒気が止まらなかった。
 もしも子供だったらこのままガタガタと震えていただろう。だがチーム最年少の未成年とはいえ自分はギャングだ。当人達が――片方は理解出来ていないとはいえ――平然を装えているのに自分ばかりが冷や汗をかいてどうする。
 フーゴは膝の上でぎゅっと拳を握った。
「今後どうする、という質問だが。俺達は今日は解散だ」
 言ってブチャラティは椅子から立ち上がった。アバッキオと、続いてブチャラティとアバッキオの顔を交互に見比べたナランチャも立ち上がる。
 フーゴも足が崩れるのではと思ったが何とか立ち上がった。
「疲れただろう。ゆっくり休むと良い」
 遂には返事をする気力も無くなったか、ミスタはげんなりといった様子で頷く。
 何も無い病室では何も出来ない。体を休ませる事以外は何も。
「『お大事に』な」
 4人が病室を出て行くと、ミスタは怨めしく掛け布団に隠された自分の動かぬ足を見下ろした。

 病院の廊下を若いギャング4人で移動しているのは些か柄が悪い。ブチャラティとアバッキオの後ろを、フーゴとナランチャがいつものように並んで歩く。
「今後どうする、という質問だが」
 再度同じ言葉を告げブチャラティは歩みを止めず一瞬だけこちらを振り返る。全員の靴音が小気味良く響いていた。
「明日ポルポと話をしてくる」
「幹部のポルポと? 何故だ」
「こういったスタンド能力の持ち主が居るかどうかを聞くのも有るが……」
 ブチャラティにしては珍しく言い淀む。
 もしもそんなスタンド能力は存在しない言い切られたら。否、治しようが無いとまで言われたら。
「……ミスタは銃の腕を買われて組織に入った。その『腕』をな」
「腕は無事だな」
「日は浅いが実力は充分に有る。車椅子でもオストメイトでも何でも使えば良い」
 再びブチャラティが後ろを振り向き、今度はナランチャと目を合わせた。
「幹部が残したいと言えば残れる。いや、残される。逆に使えないと判断すれば名前と顔とを変える事になるだろう」
「名前と顔? 変えるって、どうやってだ?」
 自分に言われているとわかってか否かナランチャが無邪気に尋ねる。
「戸籍の改竄と整形手術だ」
 冷徹を繕ったブチャラティは短く告げて前を向き直した。
「今から電話を入れて、明日の午前中には行こうと思う」
「ブチャラティ、俺も行く」
 幹部の指示次第で行動予定を立てるとなるとそれまでの仕事は特に無い。
 もしくは単純にブチャラティを心配してか。未だ小さなチームとはいえ1日で2人も欠いては咎められかねない。
「時間が決まったら電話する。もしかすると朝早くから行動するかもしれない」
「構わない」
「2人は今日の騒ぎの後だ、ゆっくり休むと良い。明日は……そうだな、午後2時以降に集合してくれ」
 フーゴとナランチャへの指示だが、果たしてナランチャは理解しているのだろうか。午後2時を忘れてしまわないだろうか。
「なあ」
 前を歩く2人には聞かれないようにと配慮しているらしい小さな声が掛かる。
「何ですか?」
「集合ってどこに行けば良いんだ?」
 記憶の喪失とは、毎日顔を出す事務所代わりのアパートメントを忘れるという事。
 そして、それだけではなく――
「オレ、帰る家って有るの?」
「……人聞きの悪い言い方はよして下さい」
「でも俺一人暮らしなんだろ? 何歳かわかんねーけど学生じゃあないみたいだし。かと言って結婚とかもしてないみたいだし」
「ブチャラティは何と言っていたんですか?」
「こっちの人?」ブチャラティの背を指し「『ここに居て良い』って」
 何故かナランチャは得意気に胸を張った。
 自分が何者かもわからない状況でその言葉はさぞ嬉しかったのだろう。
 ましてナランチャはブチャラティに焦がれている。今その記憶は無いかもしれないが、きっと胸の奥底に想いが残っている。
 羨ましい事だ。
 ……何が羨ましいのか。
「でもさあ、そうは言っても、オレはさっきの……名前何だっけ? 帽子の人」
「ミスタ?」
「そうそう、ミスタ。オレはミスタと違って元気だから入院はしないんだろ? ここに居ても良いって言っても、病院(ここ)には居られないよな。なあフーゴ……だったよな? フーゴはオレの部屋の場所知ってる?」
 日頃の世間話と何ら変わりない口調。
 でもこれはチャンスではないか。前を歩く2人ではなく自分に尋ねるという事は、自分は『選ばれた』という事。神が自分を選び与えてきた最良の好機では。
「僕の部屋に来ますか?」
「え?」
「その……送って行っても、明日迎えに行っても良いけど、部屋に1人じゃあ不便するだろうし。だったら一層僕の部屋に泊まれば良いんじゃあないか、というだけで。それに君の部屋より僕の部屋の方が事務所に近い」
 言い過ぎた、と思った。送り迎えの約束をすれば良かっただけなのに、何故こんな出過ぎた言葉を吐いてしまったのか。
 しかしナランチャの「良いのか?」という声には喜びが詰め込まれていた。
「有難う、すっげー助かるよ! 自分の部屋に行ってもどこに何が有るとか全然わかんねーだろうからさぁ、不安だったんだ」
 やや声が大きくなったからかアバッキオが振り向いたが、それこそ日頃の世間話に見えたのかすぐに前を向き直す。
「フーゴは一人暮らし?」
「そうですよ。立地が……君が泊まりに来た事も有る」
「オレの部屋にフーゴが泊まりに来た事は?」
「泊まった事は無いけれど」
「じゃあ遊びには来たんだ?」
 遊びに、が正しいか否かは別として。
 相手の家に行く等別段記念になるような出来事でもないと思っていたが、こうして忘れられてしまうと複雑な気分になった。
 自分も何回、何月何日に行ったのか来たのか泊まったのかまでは覚えていないというのに。

 これと言ってテレビ番組は面白くなかったが、音の無い部屋で待っているのは躊躇われたので付けっ放しにしておいた。
 先にシャワーを浴び終え髪も乾かしたフーゴは、シャワーの音が途切れたのを聞いた。次いでバスルームのドアの開く音。置いておいたバスタオルで体を拭き始めただろうか。
 泊まりに来たナランチャに風呂を貸すのは初めてではない。
 自宅よりもこちらの方が事務所にしているアパートメントに近いから、もしくはその他の理由で気軽に泊まっていく。
 それに慣れていたので、初めて来たようにあちこち見回しながらあれこれ尋ねられては気恥ずかしかった。
 まるで恋人を初めて部屋に招いたような――最初にナランチャを招いた時はそんな風には思わなかったのに。あの頃は確か、未だこんな感情を抱いていなかった。いつからだろう、友達のままでは持て余すようになったのは。
 想うだけならば自由だが、男が男をと嫌悪されるかもしれない。もし理解が有るとしたらそれはブチャラティの存在が有るからだろう。彼はナランチャにそれこそ想いを寄せられている。
 自分の好意を認められるという事は、相手の好意は自分ではなく他人へと向く。
「フーゴ」
 声に振り向くと貸すべく置いておいた寝間着を着たナランチャがバスタオルを頭に無造作に巻いた姿で立っていた。
「風呂有難う」
「どう致しまして」
 風呂上がりにすぐ髪を乾かす習慣が無いのは『記憶』とは無関係の本質らしい。
「あのさぁ、何でフーゴはオレに優しいんだ?」
 無邪気な問い掛け。
「皆も優しかったけどさ。えっと……名前何だっけ、こういう髪の奴」両手を輪郭に添え「あいつも優しいっていうか頼りになるなあって思ったけど、フーゴはもっと違う感じ」
「……そうですか?」
「うん。あーでも、悪い意味じゃあないぜ? 優しくしてくれて嬉しいんだけど、何でこんなに優しいんだろうなあって」
 朗らかに言うその顔に「僕は優しい人間です」と宣え(のたまえ)ば良いだけなのに。
 今ならば――開いた口を潤す為に1度唾液を飲み込む。その間も頭の中で止めておけと警鐘がガンガン煩く鳴り響く。
「僕が優しいのは……」
「うん」
「……僕が、君の『恋人』だからです」
 嗚呼言ってしまった。
 嘘を、願望を、出鱈目を。
「うん? あんたが、オレの?」
 丸い目を更に丸くしてナランチャはじっとこっちを見ている。
 なんて冗談だ、とふざける事が出来ない。何せずっとそう言いたかった、言ってみたかったのだから。腹を括って無表情のままフーゴは見返す。そのまま破裂しかねない程煩い心臓の音を無視した。
「オレ達男同士だぜ?」
「そうです。でも僕達は交際している。だから僕は君を特別扱いするんです。仕事仲間の3人から聞いていなくて驚いたんじゃあないですか? 秘密裏ですからね、男同士だし」
 記憶が無い事に付け込み嘘を塗り込んで、言い聞かせるような言葉が口から出任せとして出てくる。
「そっかあ……記憶有った時のオレ、すげーな」
「凄い?」
「だってフーゴが恋人なのに誰にも、一緒に仕事してる奴らにも言ってないんだろ? あの3人とはすっげー仲良い感じがしたけど、でも言ってないんだろ?」
 それのどこが凄いのかと問うより先にナランチャが歩幅を大きく歩み寄ってきた。
「前のオレは知らねぇけど、今のオレは良いだろーって皆に自慢したい! それ我慢してたから凄ぇ偉いじゃんッ!」
 風呂上がり特有の血色の良い顔が目の前で楽しそうに笑っている。
 石鹸の匂いがするし、髪の湿り気までもがわかる程近い。騙され裏切られる事を嫌うよくよく見慣れた顔に、大きな嘘を吐いてしまった。
「恋人同士なら一緒に寝ても問題無いよな」
「寝るって――」
「一人暮らしならベッドがもう1つ有ったりはしないだろ? 床で寝るなんて嫌だなぁって思ってたんだ」
「ああ、そっちの……」
 ナランチャは頭からバスタオルを豪快に取り、どうしたものかと眺めた後にバスルーム前の洗濯機に入れに行く。
 僅か数秒だけ姿が見えなくなった隙に、フーゴは大きく息を吸って吐いた。
「……何故……こんな嘘を……」
 そんなのは恋人にしたかったからに決まっている。
「フーゴは疲れたろ?」
「えっ!? あ……いや」戻ってきた姿に大声を出してしまった。今のやり取りで相当疲れたが「ナランチャは疲れているんですか?」
「んー、何か検査とかよくわかんねーけどいっぱい有ったからなあ。それに火事が有ったんだろ? 気持ちも疲れたかも」
 だから早く寝よう、という意図なのだろう。ナランチャはベッドへと向かいそのまま乗り上げた。
「髪乾かさずに寝るつもりですか。この時期にそんな事したら風邪引きますよ」
「大丈夫だって」
 確かに余り風邪の引くタイプではない。別に深い意味は無いが。
 早く来いと手招きされたのでフーゴは部屋の電気を消してからベッドへ向かう。
 1人で寝る分には寧ろ大きな位のベッドが、小柄で細身とはいえもう1人居るとなると手狭だった。
 本当に交際してこれから何度も泊まるようになるのなら、2人で寝るのにも充分な広さが有る物にした方が良いだろうか。そんな事を考える必要は無いのに、と気付かれないよう小さく頭を振る。
「いつもオレこっちだった?」
「こっち? いつも、とは?」
「寝る時。フーゴがオレの右で合ってる?」
 隣合って寝た事が無い、と言ったらどうなるだろう。
 胸が痛むのは嘘を重ねるからか、それとも吐いた嘘の先が幸せだからか。
「……僕は拘りが無い」
「じゃあこれで良いか。おやすみ」
 ナランチャは仰向けに直って目を瞑った。携帯電話の充電器やリモコンで消した離れた位置のテレビの主電源位しか明かりが無い中でもわかった。
 それだけ近い距離に居る――彼の記憶と引き換えに、こんな幸福を得るなんて。
 疲れていたのかいつもの事か早々に寝息が聞こえ始めた。吸って、吐いて、また吸って。至近距離で、規則正しく。
 ただの仕事仲間、良くて友達としての彼を泊めた時とは違う。違うから、いつまでも見ていられるから、眠るのが惜しい。

「1番背が高く髪が長い人は?」
「あー……とぉーっ……何だっけ?」
 昼に向かい漸く暖かくなってきた道程を歩きながら。
 せめて仲間内の名前位覚えさせようとアパートメントを出てからずっと繰り返しているが、どうにもなかなか覚えない。
 ギャング組織に入りこのチームに入った時、それからメンバーが増えた時、一体どうやって覚えたのだろう。フーゴ、ナランチャ以外の名前は彼にとってそんなに覚えにくい物なのだろうか。
「その3人が一緒に仕事してる人なんだよな? 1人は入院しているけど」
 覚えている事も有るようだ。
「あと2人は、2時までだっけ? 何とかって人の所に行っている」
「よく覚えていますね。厳密には2時まで行っているんじゃあなくて、2時までに事務所に――」
 そこで漸く昼前の招集ではなかった事を思い出した。
「……フーゴ?」歩く速度が落ちたので振り返り「こっちじゃあねーの?」
「いや、そっちなんだが……」
 一体どうしたものか。午後2時『以降』と言っていたのに、このままでは午前中の内に着いてしまう。
「……構わないか」
 遅れるのとは違い、早く着く事に問題は無い。強いて探しても昼食が無いという問題位しか見付からない。どうやらナランチャが泊まりに来た日は翌朝昼前から行動する、というのが体に染み付いていたらしい。
 昼食はパン屋にでも立ち寄れば良い。今なら未だ昼休みに入る前だ。ただ、この通りにある店はどこも顔馴染みとなっているのでナランチャを見て話し掛けてくるかもしれない。そうなると厄介だ。事情を説明しなくてはならないし、その流れで恋人ではないと勘付かれたくはない。店員に恋人同士だと胸を張られる事もまた気まずい。
「事務所の場所は僕の説明でわかりましたか?」
「真っ直ぐ行ったとこ」
「何階?」
「1階?」
 疑問系だったが一応間違ってはいない。
「1人で行けそうですか?」
「うん。でも何で? フーゴ行かないの?」
「ちょっと用事を思い出したので」
 典型的な嘘の文句を吐いてしまったと少し後悔したが引く事はしない。
「良いですか? 僕達は真っ直ぐ行った先のアパートメントの1階を事務所としています」
「うん。ここ真っ直ぐ行って、1階」
「1人で行けますね?」
「大丈夫」
 慣れ親しんだ道を歩けば記憶を取り戻して迷わず事務所に着けるかもしれない。記憶という概念がそういう物ではないという事は置いておいて。
「2人が居なくても入っていて……2人の名前は?」
「んー……こういう髪した奴と、背のデカい奴」
 名前はどこに行ったとは言わず、フーゴは挨拶代わりに片手を上げてパン屋を目指し道を曲がった。

 昼食の入った袋を片手に提げて事務所へと辿り着いたフーゴが見たのはナランチャの背だった。
 確かに事務所の中に入っていろとは言いそびれた。しかしまさか張り付くように窓から中を覗き見ているとは思わなかった。後ろから近付きその肩を掴む。
「あんた何やってるんですか」
「ここであってるかなって見てみたんだけど」
 言って再び窓の中へと視線を戻した。
 フーゴは肩に手を置いたまま同じように中を見てみた。もしも泥棒の類いが居ては困る。
「あ……え?」
 間の抜けた声が出た。
 事務所の中には2人の男。泥棒でも強盗でも何でもない、事務所に居て当然のブチャラティとアバッキオが居る。
 何故かキスをして。
 それも飛び切り濃厚な、テレビドラマ等でも早々お目に掛かれない、映画――特に年齢制限の有る――の撮影でもしているかという程の物を、窓から離れた所で立ったままじっくりと。
 ブチャラティは顔に添えられている手で上を向かされているが、合意の証に両手をアバッキオの腰に回していた。
 角度を付けていた顔が離れた。しかし唇は離れても舌は絡み合ったまま離れない。2人の伸ばした舌が暫し睦み合い、漸く離れたと思うと再び唇同士が重なる。
 ここまで来ると「未だ服を脱いでいなくて良かった」と思ってしまった。
「……いや、何で出歯亀しているんだッ!」
 掴んでいる肩を強く下へ押してしゃがませ、自分も窓の下にしゃがみ込む。
 時間を考えると今覗いたばかりではない筈だ。フーゴが店で会計をしてここに来るまでの間ずっと見ていたに違い無い。
 しかし2人は来るようにと言っていた午後2時まで続けるつもりか? 未だ2時間近くは有るのだから、それこそ服を脱ぎその先に進んでしまわないか?
 事務所でそんな事を、と言うつもりは無い。しかし数時間後に人が来る場でそんな事を、とは今すぐにでも言いに行きたい。
「2人も恋人同士?」
「え? 誰と誰が?」
「あの……何だっけ……ブチャラティ?」
「ブチャラティと」
「……一緒に居る、デカい奴」
 漸く1人の名前を覚えられた事は誉めるべきかもしれない。
「あんな事をしているんだから、まぁそういう関係なんでしょうけど……」
 しかし聞いた事が無かった。2人と恋人が居るか否かの話をしてこなかったし、そもそも2人『が』とは想像もしなかった。
「一体僕達は2時までどこに居れば良いんだ……」
「入っちゃあ駄目?」
「駄目に決まっているだろッ! と……」中に聞こえないように声を潜め「あんな中に入っていくつもりですか」
「ドア開けたら誰か来た! ってなんねぇの?」
 確かに数ヶ月前から玄関扉は立て付けの悪さの所為でかなり大きな音が立ち、それを聞いて来客等を知る習慣が全員に出来ている。
「でも止めさせたら悪いかなあ」
「……悪くないですよ」
 悪いのはドアの軋みが聞こえるまでは誰も入ってこないと確信している2人の方。
 フーゴはナランチャを連れ中から見えないように屈んだまま玄関口へと向かい、わざとドアの音を立てて――意図しなくても鳴っただろうが――豪快に開けた。

 曰く、過去に組織に所属していた男のスタンド能力だろうとの事。
 勿論試験(テスト)の結果に身に付いた能力で、しかし最初に配属されたチームが諸事情――曰く、聞かない方が良いとの事――で実質上の解散、新たな所に拾われるわけではなかったという話をブチャラティは幹部から仕入れてきた。
 スタンドは近くの煙に擬態出来るビジョンと『停止』させる能力を持つ。効果は「成長していなければ10日程度」なので本体を始末する必要は一応無い。
 どこに属するでもなく、今更堅気に戻る事が出来るわけでもない。可哀想と言えば可哀想な男。だからと言って芸能人に嫌がらせを繰り返す事は許されないが。
 ブチャラティはナランチャに向かい「10日ばかりの休暇だと思っても良いし、これを機に足を洗っても良い」と言った。言われた本人は――自身の仕事内容についても忘れているのだから――ぽかんと聞き流していたが、ブチャラティはナランチャを真っ当な世界に返してやりたいのだろう。
 この事を伝えにブチャラティとアバッキオはミスタの入院する病院へと向かった。10日もすれば足が治るのだからミスタも安心する筈だ。
 フーゴとナランチャの仕事は『謝罪』だった。護衛を依頼した男に、結局結婚式を台無しにしてしまった事を詫びなくてはならない。
 芸能事務所の狭い応接室で深々と頭を下げる若いギャング2人に、しかし所長は丸いサングラスの奥の目を細める。
「俺も新郎新婦も怪我1つ無かったのは君達のお陰だよ」
 護衛した者自ら足を運ぶ事に意味が有ると思っていたが、舐めるように注がれる視線を考えると許してもらえるように年少組の2人を手配したのかもしれない。
「1番大人っぽい子が一緒に来ないのは、もしかして怪我でもしたのかい?」
「軽傷です、ご心配無く」
「それはすまない事をした……治療費は俺が負担するよ」
「お心遣い有難うございます。ですが僕達は『覚悟』の上で依頼を受けていますから」
 サングラスは黒いが、その奥の目がフーゴではなく隣のナランチャの顔に移るのが見えた。
「妹には詫びに何か贈り物でもしようと思う。安物でも良いから可愛らしいブローチでも。やはり少し、可哀想な事をしたとは思うから」
「やっぱ復讐してやりてぇ! とか思う?」
 何を言うんだ、と肘で小突くが間に合わない。
「どうだろうなあ。俺も逆恨みを買ってあの日やその前みたいに嫌がらせ紛いの事を受けているんだとしたら、仕返しをしたいなんて思っちゃあいけないんだろうけど。ただ妹の事を想えばもう2度と俺と関わりたくない、って思う程度の目には遭ってほしいなぁとは思うかな。正直に言えばね」
「凄ぇな、人間出来てるーって感じがするぜ」
「ナランチャ」
 はぁいと肩を竦める。
 だがフーゴも同じように思っていた。悪い噂を背負うわりには爽やかとでも言うのか、自分達ならば売られた喧嘩は最高値で買うのだがこれはギャングの思考回路だと改めて気付かされた。
「あんたが良い奴だったってさ、えっと……今入院してる奴にも言っても良いだろ?」
「入院までしているのか!?」
「ナランチャ! 本当に大丈夫ですから。ああでも、今日休んでいる仲間にも言っておきます。依頼主である貴方が良い人だと言う事を」
 数日後の成人になった後であれば任されなかったのに、と思っているかもしれない彼に。

 時間を考えても報告は明日で良いだろうと判断し帰路についた。極自然とナランチャもフーゴのアパートメントに『帰って』来た。
「あの赤い髪のデカい人、良い人だったな!」
 言いながら自分の部屋のようにベッドの上へ座る。
「そうですね」
 日頃帰る前にと立ち寄った時の彼と全く同じ流れだ。フーゴもその隣へ腰掛けた。
「あとさぁ、入院してる帽子の……名前何だっけ?」
「ミスタ」
「そうそう、ミスタも良い奴だよな。話してて楽しいもん。足が動かなくてショックなのは見てわかるけどさぁ、それでも何か『自分は大丈夫だ』って思ってそうっつーか、実際大丈夫なんだろ?」
 足を揺らしながらからからと笑って話す様子は騙す事も騙される事も未だ知らない子供のようで。
 嗚呼、そうか。信じた友人に裏切られた事も忘れているのか。
 そう思い当たるとこの呑気な横顔こそが本当の顔かもしれず――とはいえ数日前と何ら変わり無く見える。
「……なあ、フーゴ」
 妙にそわついた声で呼ばれたので真横を向く。背の高さが違うので少しだけ見下ろす形になる、筈だった。
 ネクタイを掴まれ引き寄せられて、顔が触れ合う程に至近距離に迫った。否、唇同士で触れ合っている。
 何を食べていたのか柑橘類を連想する程爽やかな香りが鼻孔を埋め尽くして思考回路を切断してくる。ぐりぐりと押し付けられる薄い皮膚の感触の事しか考えられない。
 どうする事も出来ずに文字通り固まっていると漸く顔が離れた。
 それでも未だ近い顔がじっとこちらを見上げている。
「な……何故、こんな事を……?」
 数瞬前まで触れ合っていたナランチャの唇が開いたが、自分の心臓の音が煩過ぎて声は聞こえないかもしれない。
「何でって、俺達も恋人同士なんだろ?」
 言い終えてその唇を尖らせた。
「あの2人はしても良くて、俺達はしちゃあ駄目なんて言わせねーぞ」
 確かにキスの1つや2つやその先だって恋人同士ならするだろう。本当に恋人同士ならば。
 10日もしないで恋人同士ではないという記憶を取り戻してしまうのなら、一層その前に恋人同士がする事全てしておいたらどうかと脳内の悪魔が囁く。
 海馬の機能が停止していて記憶が取り出せないという事は『今』の記憶を一次的な仮想フォルダを作りそこに保存している状態だろう。再び過去のファイルが引き出せるようになれば今使っている仮想フォルダはゴミ箱に行く。中身をそのまま、2度と思い出す事も無く。つまり――忘れてしまうのだ、と脳内で踏ん反り返っている悪魔が言い訳を用意してきた。
「君は……」今にも掠れそうな声を振り絞り「……キスが好き?」
「うーん、多分。覚えてないんだ、フーゴとキスしてきた事とか、その時思った事とか。忘れちまってて悪いんだけど」
 思い出はこれから作れば良いのだから何も悪くない。そう甘く囁けばきっと信じるだろう。今の疑う事すらも忘れてしまった彼ならば。
「もう1回しますか」
「良いのか?」
「君が嫌ならしない」
 嫌だなんて言う筈の無い、断るわけが無いと踏んで頬に手を添える自分は最低だ。今にも笑い出しそうな程の期待を浮かべて目を伏せる顔に顔を近付ける。
 見誤らないように、存分に近付けてから自分も目蓋を閉じた。
 ほんの僅かに唇を開けたままナランチャのそれに口付ける。やはり柑橘類のような香りが感じられた。
 舌を伸ばし唇を突くと、相当驚いたのか両手が両腕を掴んできた。袖ではなく腕を。強い力で掴むものだから少し痛い。
 まさかキスが唇と唇を重ねるだけとは思っていまい。数時間前に濃厚なそれを見てきたのだから、同じ事をされるだけの覚悟はしている筈だ。そんな言葉をナランチャではなくフーゴ自身に脳内で言い聞かせる。
「……ん……」
 鼻から息と共に声が漏れた。
 合わせて決意したのか唇が開く。フーゴは急いでそこに舌を捻じ込んだ。この機会を逃すわけにはいかない。漸く、漸く好意が積み重なり『恋』と呼べる感情を向けるようになっていた相手と結ばれたのだから。
 咥内に漠然と在る舌に触れたので、自身のそれを必死に絡める。
「んっ……ん……」
 初めてかもしれない――少なくとも自分達の間では初めての――感触に驚いているのか怯えているのか、腕を掴む手の力が益々強くなった。
 拒みたいなら舌を噛んだり、せめて大きく頭を振ってみたりすれば良い。そうではないのだから、なんてまるで犯罪者のような心理で舌を押し付ける。
 良い家に生まれ育った自分はとうに捨てた。ギャングとして堕ちたのだから、らしく欲しいままに手に入れれば良い。
 ふと唇が離れたがフーゴの伸ばした舌はナランチャのそれを逃がさない。舌だけで繋がるのは数時間前に見た恋人達のようだ。
 だが彼達と違い自分は子供なのか舌の付け根が疲れてきた。顔に触れていた手を肩へと滑らせてから舌も顔も離した。
「はぁ、はぁっ、はぁ……あ……はぁっ」
 ナランチャは何かを言いかけたが荒過ぎる息が邪魔をして言葉になっていない。何も言わせないまま、ベッドと自分の体でサンドするように押し倒す。
 言えば気を悪くするだろうが体は小さかった。華奢と呼ぶにも至らない程に細く、決して屈強ではない自分ですら簡単に手中におさめる事が出来た。
 大暴れされれば一溜まりも無いと思っていたのに――思っていたのか。組み敷きたいけれど暴れられてしまうからと夜な夜な思っていたのか。そんな考えを抱く己の卑小さが恥ずかしい。
 だというのに手は止まらず、この時期ではやや肌寒そうなナランチャの服を捲り上げる。
「はぁっ、はっ、はぁっ」
 言葉が出てこないのかひたすらに速く荒い息を繰り返している顔に、フーゴは自身のそれを近付ける。頬に口付け、耳たぶを口に含み、首筋に舌を這わして。その都度小さい悲鳴のような声が息の合間から聞こえた。
 右手を捲った服の中へと進ませる。肌はこちらが焦る程に熱い。
「はっ……ん、オレ、はぁっ、どうすれば……どうすれば、はぁっ、良い?」
 必死に言葉にして尋ねてくる。
「どうもしなくて良い」
 肩に痕を残すべく肌を吸う合間に答えた。身を任せてくれればそれで良い。上手く出来るか否か、初めての事に悦ばせられるかはわからないけれど。
「でも、はぁっ、オレっ……はぁっ、はぁッ、いつも……いつもはっ、どうやって……はぁっ、忘れててっ……はぁっ」
 いつも?
「こういうの、はぁ、どうすれば、んッ……」
 だからどうもしなくて良いと聞かせるように、吸い付くだけでは痕が付かないので噛み付いた。
 嗚呼、痛い思いをさせてしまった。大事にしたいと思っていた筈なのに。だというのにこれで自分の所有物である証が出来たと思い上がってしまう。
 本当に大事にしたいのなら彼の気持ちを第一に考えなさいと頭の片隅で誰かが叱ってくる。
「……こう?」
 フーゴの指先が乳首を掠める事を受け止めるように、幼く肘ばかりが目立つ細い両腕が腰へと回された。
 体がより密着し、互いに服の下で激しく主張している勃起を押し付け合う形になる。
 まるで数時間前に覗き見た2人の密会のようだ。
 アバッキオとブチャラティの――どうしたら良いのかわからずブチャラティの真似をしているのかもしれない。ナランチャにとって彼は英雄そのものだ。きっとこういった関係に、自分とではなくブチャラティとなりたいだろう。
 そう思っていた記憶が無いのを良い事に、好奇心に付け込んで結ばれてしまおうだなんて。
 脳の動きが戻れば忘れてしまうのだから体を暴いておいてしまおうだなんて。
 ゆっくりと体を離して見下ろした肩に残る未熟故に小さな痕が、まるで指を差し自分を嘲笑っているように見えた。
「……僕は、僕は何て――」
 何て下種なんだろう。
「はぁ、はぁっ……フーゴ?」
 ベッドシーツに頭を預けて上目に見てくる顔は、頬が赤く目が潤み期待が浮かんでいる。
「違うんです」
「え? 違うって、何が?」
「僕達はこんな事をして良い関係じゃあないんだ」
「何で? これって『あれ』だろ? そりゃあ男同士でやるのは……でもオレ達恋人同士なんだから、別に良いじゃあねーか。嫌なのかよ」
「恋人同士じゃあないんだ」
 言ってしまった。
 あれだけ荒かった息が鎮まり何かを言いかけたらしい口を開いたまま。元より大きな目を丸く見開いている。
 この顔に一体何から話せば良いのか。
「……嘘だったんです。恋人だなんて嘘なんです」
 嘘という単語を繰り返す事しか出来ない。鼻の頭が熱い。嘘の裏の真実と共に涙も零れそうだった。
「優しくするのは好きだから。単にあんたの事を好きだから優しくしてきただけだ。誰だって好きな相手には優しくする。でも……誰も好きな相手に恋人だなんて嘘は吐かない。好きな人を騙した僕は……僕は、最低の下種だ」
 ナランチャは小さく「そんな事無い」と言って体を起こす。
 再びベッドに座り合い互いの顔を見ている。だが向け合う感情は先程までとは全く別の物。2人の関係性が変わってしまったのだから。
「ごめんなさい」
 漸く出てきた言葉と共に、遂に涙も一粒零れた。
「……泣くなよ」
 泣いてもどうしようも無いのだから。重々承知しているフーゴは手の甲を目に押し付け涙を拭う。
「何でフーゴが泣くんだよ。泣きたいのはオレの方だよ」
 それはそうだ。危うく性的に暴かれる所だったのだから。
 しかし今から泣いてどうぞと言うより先に、ナランチャは小さめの声で急くように言った。
「折角フーゴと恋人同士だと思ったのに違うのかよ」今にも頬を膨らませんばかりに不貞腐れ「こんなにフーゴの事好きなのに」
「……え? 好きなのは、ブチャラティじゃあなく?」
「ブチャラティって背高い人だっけ」
 人差し指を顎に当てて考え「違ったかも」と呟く。覚えたのは先程の一瞬だけだったようだ。
「兎に角オレはフーゴが好きなんだよ。だって初めて会った時思った」
「初めてって、いつ?」
「病院で! 初めてフーゴ見た時、よくわかんねぇけどすっげー嬉しかったんだよ。だからオレはこの人の事が好きなんだって思ったんだ」
 だから目が合うだけであんなにも瞳を輝かせていた。
「何故……僕の事を……?」
 こんな下種な行為に走ろうとした自分なんかを。
「何でって、だからそんなの知らねーって、覚えてないんだからさァ。でも好きなものは好きなんだよ! フーゴだってそういうの有るだろ?」
「有る! 僕は……僕だって、好きだ……」
 君の事が、こんなにも。
 数えればきりの無い思い出の積み重ね達を理由に好きなのだとは思う。だからこそ何が切っ掛けかと訊かれても答えられないし、例え思い出全てを忘れてしまっても好きなままだろう。
「前のオレ、何でフーゴに好きって言わなかったんだろう。ちゃんと好きって言っとけば本当の恋人同士になってたかもしれないのに」
 真相心理に気付いていないからだとしたら。
 その感情を覆っている全ての事象――自分の都合や相手の気持ちや社会的立場等――を喪失して、丸裸にされた感情はちゃんと『好き』だったとしたら。
 拒まれても良い、と覚悟した上でフーゴはナランチャの手を取り握った。
「僕が告白する側になりたいから、言わないでいてほしい」
 待っていてくれと願って繋いだ手に力を込める。
 苦労を知っている筈なのに滑らかで柔らかな、そしてほんの少しだけ自分より体温の高い手。
「オレ、多分待つのとか苦手だぜ?」
「記憶を取り戻したらすぐに言いますから」
 その時にきちんと、共に過ごしてきた自分が恋人足り得るのかを考えて判断をしてほしい。
 出来ればこれから10日前後、この蛇の生殺しに耐えるという誠実さも加点してもらいたい。

 本日の任務はある男の護衛。特徴的な赤毛を逆立てて黒く丸いサングラスを掛け、黒いのに派手で目立つ毛皮のロングコートを羽織った190cm近い20代の大男。
 そして今日は彼の休日。彼は芸能プロダクションの経営もしている芸能人だが妹への贈り物を買いに来ただけ。その為この買い物に報道関係者は近付かない。
 天気も良く命を狙うには絶好の機会。
「あの露店商のブローチを見てくる、ここに居てくれ」
 深く低い声で男は3人に言い残し離れて行った。揃いの黒いスーツに色違いのネクタイの3人は頷きを返し残った。
 任務に就いているのはパンナコッタ・フーゴ、ナランチャ・ギルガ、そして先日成人したばかりのグイード・ミスタの3人。
「酷ぇ誕生日だったぜ……」
「もう2度とミスタはあの人からの依頼は受けずに済みますね」
「これからも頑張れよ、ナランチャ」
「オレに言うなよ!」
 ニューイヤーが近付き賑わう街中で若者3人が談笑している光景はそれ程浮いてはいない。ただいやにカッチリとしたスーツ姿なので通りすがりの人々の中には小さな違和感を抱きちらと見てくる者も居る。
「誕生日と退院祝いとクリスマスを兼ねて何かプレゼントでも用意しましょうか」
「それ良いな。ミスタ、何欲しい?」
「一緒に年越す彼女」
 何ともまた無理な物を。
 ナランチャが独りで過ごすのかとからかい始める前にフーゴは「贈れそうにありませんが」と前置きした。
「参考までにどんな人が良いんですか?」
「そうだなあ、美人」
「一瞬も迷いませんね」
「理想だろ? 現実じゃあなくて。だったら美人は外せないだろ。東洋系っぽいエキゾチックさが有るような感じの、いやでもブロンドも捨て難いな。スタイル良くて足もすらっと長い感じで、あと年下」
「わかる、ブロンドの年下って良いよな。あと足長くて背が高いのも良い。オレなら性格もしっかりしてる感じの人が良いな」
「でも俺よりは背が低い方が良い」
「そうですね、僕も自分よりは小柄な方が良いです。多少子供っぽく見えても一緒に成長していけそうならそれで良い」
 互いの事を話していると気付いてフーゴとナランチャは目を合わせる。
 お互いがお互いの、理想の恋人。
「中身はそうだな、ピストルズ全員と仲良く出来そうな奴が良いな」
 それが最も難しいのではないか。
 特にNo.5辺りは異様に引っ込み思案ですぐに泣き出すから手に負えない。悪いとは言わないが、ミスタにもそんな一面が有るのかと考えさせられた。
 フーゴにはフーゴのスタンドのような一面が確かに有る。曝け出してしまった事も有る。
「お! 来たぜ来たぜ、美人の彼女候補じゃあないけど」
 スタンドのレーダーを右目で見ながらナランチャはその方角を向いた。
「すっげー息の荒さ。一直線にこっちに走ってきてやがる」
「ほぉ、お出ましになったか」
 ミスタもまた顔の側に彼の6人のスタンドを出してその先を見た。雑踏の中で掻き消される足音はしかし、近くまで来ると流石によくわかる。
 ばたばたと煩い足音で、息切れを起こしながら走ってくる。目標は勿論芸能事務所の所長様。
 煙と同化してしか行動が取れないらしいスタンドは出していない。代わりに恐らく刃物か鈍器かは手にしているだろう。
「来た」
 フーゴだけはスタンドを出さない。あの目に映すまでもない、走り迫る卑劣な男を。
 3人の目の前を走り過ぎた男は、華やかに逆立てた赤毛の男の背中に向かって一撃を繰り出した――筈だったが、逆に喰らった。
 背の高い赤毛の男が振り向き様に後ろ拳を振るった、というのは見せ掛けで細身の棍棒を思わせる凶器で殴り付けた。一見こそ特殊警棒のようだが、実際は細長い筒状の袋にそこいらの小石を積めただけのブラックジャックだった。ごすんと鈍い音を立ててめり込む凶器の力で、本来切り掛かる側だった筈の男は地面へと突き飛ばされた。1人の男が吹き飛び倒れたので辺り一帯はざわめく。
 ギャング3人が見せ物ではないと牽制をするより先に、赤毛の男がアスファルトに伸びている男の腹を跨ぎ立った。
「テメーのスタンド、面白いよな。使い方によっちゃあ相当恐ろしいと思う」
 低い声で言いながら特徴的な赤毛のウィッグを毟り取って放り投げる。
「実際迷惑被ってんだよ。何でか知らんがあの日以来「見られているかもしれないから」と言って俺の部屋以外じゃあ腰に触る事も禁じられた」
 この日の為に買った黒く丸いサングラスも外して地面へと捨てる。現れた顔に男はさぞ驚いただろう。付け回していた事務所の所長ではなく見覚えの無い男――アバッキオなのだから。
「どうしてくれんだよテメー、これからクリスマスだぜ?」
 男のスタンド攻撃を受けた翌日に逢瀬を覗き見られていた事をブチャラティは気付いていたのだろう。誰がとまではわからないからこそ、他人を停止するスタンド能力を持つ者に警戒するのは至極当然だ。
 つまりは見事なまでに逆怨みのお手本。
 覗き見ていたナランチャはその頃の記憶をもう手放していると教えてやりたいが、自分も見てしまいましたと白状する勇気はフーゴには未だ無い。
「ちょーっと聞きてーんだけどさァー」
 隣に居た筈のミスタがいつの間にやら地べたに仰向けで横たわる男の額を踏んで話し掛けていた。
「カテーテルって知ってるか? お前やった事有るか? 抜いた後小便したら痛くて痛くてよォー……原因になった奴ちょっと殺しておかないと駄目かなって思うわけだよ、俺としては」
 こちらは逆怨みとは言い切れない。しかし殺さないように言われた事を忘れられては困る。
 常時べったりと付くタイプではない護衛紛いだけを連れて買い物に出る日を言い触らし、それに引っ掛かった所を『軽く』痛め付けて2度と依頼主に関わらないように宣誓させるのが今日の任務だ。
「依頼主の前に引き摺り出さなくて良いのかなあ? ボッコボコにする前に顔見たいとか……思わないか、男の子供が好きな変態らしいし」
 赤毛の依頼主には申し訳無い事に、ナランチャは彼の懐の広さに触れた日の記憶が無い。一次保存をしておくだけのフォルダはもう破棄してしまった。記憶を取り戻す為に仮初の記憶を捨てた。
 もしかすると良い人ではあるが実際に性的指向はそちらに向いているかもしれない。今日の任務――作戦――を伝えた時にも1番幼く見えるナランチャを意識していた。あの様子を思い出すと12月らしい寒さが蘇る。
 ついでに手遅れかもしれない。アバッキオはしゃがんで馬乗りに近い体勢からブラックジャックで男の腹を殴打し始めた。
「でもアバッキオの言う通りおっかねースタンドだよなぁ。結婚式の途中からなァーんにも覚えてねぇんだもん。起きたらフーゴん家(ち)だし10日位経ってるし超怖ぇ」
「腹いせに参加しますか?」
「いや、オレはいいや。だって起きたら……フーゴが好きだって言ってくれたし」
 嬉しそうに歯を見せて笑う。
 記憶が戻って、目覚めてすぐに愛を告げられさぞ動転しただろう。だがあの場の勢いが無ければ秘めたままにしていたかもしれない。
 本人に「記憶が無くても好きだ」と言われなくては想いの1つも告げられない意気地無し。そんな自分はこの先も本当に望む未来へ繋がる選択肢を選べない事が有るだろう。
 それでも。
「君が僕を忘れても、僕が君を忘れても、僕の気持ちは変わらない」
 クリスマスにはしゃぐ子供のような笑顔の側に居られる今がとても幸せだから。


2017,12,10


イタリアの成人は18歳、5人の平均身長175cm位、から思い付いた話であって実在の人物や団体とは関係有りません。
記憶喪失は忘れてる相手に恋人ですって嘘吐くのが王道ですよね。って盛り上がったから真夏の東京で書きました。
相変わらず医学的に可笑しな点が有りますが気にしてはなりません。
<雪架>

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