モブナラ R18


  目が化け物の子供


「このトマト下さい」
 紙幣を1枚出してきたナランチャ・ギルガに、恰幅の良い女店主はぎょっと目を見張る。
 丸い頬と唇、それから右目は可愛らしい子供のそれなのに対し、明らかに異常な左目を見たから当然と言えば当然だ。
 傷口は無く内側からぶくぶくと腫れ上がり化膿しきっている。
 それに少し『臭う』。左目の膿なのか、はたまたナランチャ自身なのか。
「……いいけど、これはちょっと傷んでるよ」
「オレみたいに?」
「あぁいやえっと、だから半値なんだよ。それを了承してくれる、切り落として使える所だけ食べてくれる人に向けて売ってるんだ」
 大丈夫と紙幣を置いてトマトを手に取る。歩きながら裏返すと確かに親指大の熟れ過ぎた箇所が有った。気にせずにそこへかぶり付いた。
 路上にずらりと果物や花、魚や野菜の店が並ぶマーケット街道は夕暮れ時には殆どが店仕舞いする。
 朝から売られている鮮度重視の商品達は日が沈み始める時間帯には売り切れるか売り物にならなくなっているか。ナランチャは日々後者である売れ残りを買って食べていた。
 家と学校とを飛び出してから持ち物は護身用のナイフと紙幣が2、3枚。時には5ユーロ紙幣が1枚の日すら有る。
 夕方から起きて食事を済ませ、今晩の『仕事』を探し、それで得た金でシャワーか宿か着替えを得る。それ以外の生き方はわからない。朝起きて学校へ通い夕方に家へ帰り眠る習慣はすっかり忘れてしまった。元から自分には向いていなかったのだ。
「……美味い」
 空腹は最高のスパイス。常に腹を空かせているナランチャには傷んでいようが大きなトマトは馳走の1つ。
 煮込み料理向けと思われる柔らかな食感から口の中へ広がる仄かな酸味と、後から追い掛けてくる炎天下に在り続けたからこその絶大な甘味。傷んだ箇所が原因で明日腹を壊したとしても知る物か。
「オレの目もトマトなら良かったのに」
 ぐじゅぐじゅと音を立てそうな程膿んでも、それが美味しいと言い訳をして食べられる。
「……今もそうか?」
 ふと気付いて坂道を上る足を止めた。
 今や左目は殆ど見えていないので階段は避けていた。視力が無いのではなく浮腫の圧迫で物理的に『見る』事が出来ない。
 世界の半分を奪われた。その半分が自分を厭う父や裏切る友人――今は友でも何でもない――だと思えば自由になれたも同然だ。但しこの背には羽ばたく為の翼が無い。
 再び歩き出したが坂道は余りなだらかではなく、様々な意味で足取りは重い。
「腹減った」
 食べ終えてすぐの独り言。もうずっと空腹感に苛まれている。

 段ボールを解体し地べたに敷いてその上に座る。これで少しは汚くないし夜特有の冷えも減る。
 世の中にはその段ボールを幾重にも重ねて住み処にしている浮浪者達が居るが、このマーケット街道にそういった人間は居ない。またナランチャは特定の場所に住み着くわけにはいかない。
 客を得るには話題性が、価値を高めるには稀少性が必要だ。
 夕食時を過ぎてもちらほらと人は通るし、自由気ままな猫も今まさに目の前を横切った。しかし娼婦の類は1人も居ない街道。
 誰も彼もが『お上品』で、実年齢より幼く見えるナランチャの顔を右から見ては心配そうに近寄る人間も、左半分を見ては勝手に悟ったように立ち去った。
 どんどん眼前を過ぎる人の数が減る中で1人、皮の安っぽい靴が真正面で止まる。
「君……」
 掛かった声は意外に若そうで、しかし粘着質な物を感じる。これは、と思いナランチャは顔を上げた。
 目を合わせた男は声の通りの年齢で、酒を引っ掛けてきたのか妙に赤ら顔をしている。
「……何」
「左目どうしたの?」
「どうもこうもない」
 冷たく言い放つ裏でナランチャも理解していた。
 この男からなら、金を得られる。
「オレの目が『これ』じゃあ……勃たない?」
 隠せば良いのかとおどけて左手で左目を隠して見せた。
「そんな事無いよ」
 男の声に浮かれが混ざる。
「色んな良い子達に『お小遣い』をあげてきたけど、君みたいな子は初めてなんだ」
「オレみたいな? 男って事か?」
「いや、君みたいな……そうだな、何て言うか」にぃ、と笑い「目が化け物の子供は初めて会うよ」
 とんだ暴言だ。
 だが、初めて言われたわけではない。事の後に罵られた事も、そういう趣味の輩に嬉々とされた事も有った。
 人差し指と中指を立てる。
 平和の象徴ではなく金額の交渉。しかし男はすぐには乗ってこなかった。
「どこまで?」
「手……と、口」
「どこで?」
「こんな人の通る所じゃあオレ出来ないよ。あっちの角、多分空き家だからその裏で」
「宿は?」
「オレ今手持ちが全然無いんだ」
 だから弾んでくれなんて事は言わない。手早く終わらせて目の前から去ってくれればそれで良い。
 こんな男に残された半分の世界を埋められよう物なら、隠し持っているナイフでグサリと刺してしまう。

 小洒落たレンガで造られた古民家といった印象の建物――家屋と呼びたいが今は誰も住んでいなさそうだ――の裏に回り込むと人の気配が全く無くて逆に恐ろしかった。
 窓枠に置かれた鉢植えの植物はすっかり干からびているが、一方でレンガの壁をびっしりと覆う蔦は暗がりでも生き生きとしている。
 目の前で男が早々に息を荒くしているのも気持ち悪い。しゃがみ込むナランチャの前で下着ごと膝まで下ろした。
 萎びた生殖器に手を伸ばす。未だ柔らかな感触は自分が便所で用を足す時と何ら変わらない。それを真摯に眺めているフリをして壁を伝う植物に目を向ける。
「デカいな、羨ましい」
 思ってもいない事を適当に吐いておいた。
 左手で根元を支えて右手の平で亀頭を撫でる。やや乱暴にしたのは面倒臭いからではなく手っ取り早い刺激を与える為。鼻で笑いたくなる位にすぐ血液が集まってくる。
「口は?」
「え?」
「手と口じゃあなかった?」
 後払いなんだからと言い訳して手だけで誤魔化すつもりだったがそうは問屋が卸さないようだ。
 ナランチャは舌打ちを噛み殺して首を伸ばし、そのまま躊躇い無く半ばまで口に含んだ。
 舌の上に乗る裏筋の感触が気持ち悪い。だがそれだけ勃起しているという事。このまま適当に手で擦り上げれば早く終われる筈だ。左手で付け根を押さえたまま、右手で男根を握り直す。
 ただ緩く握ったまま手を上下させれば良いだけ。余計な事を考る必要は無い。惨めだとか、馬鹿らしいとか、蒸れて臭いとかそんな事は。
 左手と唇との間を往復する手の平が摩擦で熱くなってきた。
 カウパーが滲み出てきたのか口の中が塩辛い気がする。腹は減っているが男の尿道から出る体液は飲み込みたくない。唇の端から唾液が垂れる。
 このまま口に出されるのは嫌だな。
 上手い具合に飲み込んだフリをして地面に吐き出すのは至極簡単だが、それすらも嫌な日が有る。否、口の中に吐精されるのは毎日嫌だった。
 口は美味しい物を飲み食いして楽しい事を話す為に有る筈なのに。何故自分の口だけ下水処理場のような扱いを受けなくてはならないのか。
 誰かにそんな事を言おう物なら自業自得だと返されるだけだ。そう思うだけで悔しくて、地面にまで蔓延る蔦を見ていた右目が歪む。
「手と口って言っていたけどさぁ」
 性器をパンパンに膨張させながらも気楽な口調にナランチャは咥えたまま顔を少し上げた。
「飲むのは入ってない?」
 元より大きい目を更に大きく丸く見開く。
 嗚呼そうだ、そのてが有った。『契約』には飲み込むは入っていない。口で大きくして手で吐き出させる事が今日の仕事だ。舌先を左右に動かしながら1度大きく頷いた。
 ずるり、と水音を立てて口から男根が離れる。
「……顔に掛けるのかよ。別に良いんだけどさあ」
 唾液塗れの口で趣味が悪いとは言えない。自身の根元を掴み利き手と思しき右手で擦り始めた男は一応お客様だ。
「髪の毛には掛けないでくれよ。髪の毛に付くと洗い流すのが大変なんだ」
 家を出てからシャワーを浴びる時間は極端に短くなったし入らない日も有る。この後手にする金の使い道はベッドが良いと思っていたが、髪に付いてはシャワーを選ばなくてはならない。
 だらしなく伸びた前髪を左手でかき上げた。
「髪の毛に掛からないように気を付けるよ」
「ありがと」
「君みたいな目が化け物の子供の髪の毛に掛けるなんて在り来たりな事はしないさ」
 え、と問うより先に。
 片目が見えていないから一瞬何が起きたかわからなかった。
「痛ぇッ!」
 しかし左目の鋭過ぎる痛みに何をされているかすぐにわかった。ゴム毬のような感触が膿んで膨らんだ患部をぐりぐりと擦っている。
 眼底の神経にまで痛みが走る。腫れ上がりの隙間から入り込むカウパーが目に沁みた。
「痛ぇ、痛いッ! 止めろっ!」
 喚く自分の声の合間に今日1番興奮しているらしい男の荒々しい息遣いとガシガシと乱暴なまでに性器を摩擦する乾いた音が聞こえる。
 剥き出しの神経を嬲られているような激痛に身を捩り掛けたが、男の手がそうはさせまいと後頭部を押さえた。
 隠し持っているナイフへと手を伸ばしたいのに柄にすら触れられない。それ程痛みに苦しみ焦っている。
 次の恐怖を予感して目を閉じると同時に男の低く唸る声が聞こえた。
「ッ! ああぁぁぁあぁっ!」
 痛くて、余りにも痛くて、射精に合わせて悲鳴を上げた。近隣の住人の事なんて考えていられない。
 膿と精液が混ざり合って左目の中に入り込んでくる。
 生温かくて粘り気が有って、まるで涙を流すように頬を伝う。しかしゆっくりと、どうぞご覧下さいと言わんばかりに。
 激痛が鈍痛――但し取り除けない――に変わり始めた。鼻が曲がりそうな程の悪臭が追ってきた。
「痛ぁ、は、あ、うぅ……して、や……」
 殺してやる。
 左手は前髪を上げたまま、右手で患部には触れないように精液を拭う。指先にまとわりつく臭い熱が不快だった。
 粘液に塗れたこの手にナイフを掴んで刺してやる。心臓か喉を一突きに――否、もっと痛みを与えなくては。耳を削ぎ落として十指を順番に切り落とし、痛みの中で失血死させてやらなくては。
 そうだ、憎い相手を前にナイフを手にすれば自分は必ず相手を殺してしまう。
 怒りに任せて命を奪ってしまう。それが日の下を歩く人間であっても。
 泡混じりの白濁液に穢れた手の平に、ナイフではなく紙幣が3枚乗せられる。
 先程まで自身をしごいていた汚い手で指を曲げられ紙幣を握らされた。
「金……」
「俺この辺の人間じゃあないからさ、もう会えないかもしれないし」
 その『色』がこの1枚。右手の中にはどろりとした感触とその所為で湿って今にも破れそうな紙切れ。
「可愛い目が化け物の子供が居たって知り合いに話しても良いかな? そいつも独身で、ちょっと金が有る奴なんだ」
「……好きにすれば」
 精液が咥内に入らないように口は最小限にしか動かさない。
 手にした金を手放してはならないから、という言い訳を自分にしたナランチャはそのまま衣服の乱れを直して背を向けた男を見送る。
 あの取り分け見映えが良いわけでもない背中を刺してはならない。殺してやりたい程憎い相手なんて、そのまま殺してしまうから。
 ナイフはあくまで『護身用』だ。身を護る為に振るわなくては。自分や愛する者の身を。

「痛たたた……」
 パンナコッタ・フーゴの左手の甲には中指の付け根から手首の軟骨辺りに掛けて、そこまで深くはないが痛々しい傷が走っていた。
「何だよ、フーゴが悪いんだ! オレの事馬鹿にしやがって!」
 もう切ったり刺したりするつもりは『今の所』は無いが、テーブルを挟んだまま一応ナイフを構え直す。
「別に馬鹿になんてしていませんよ……ナランチャ、そのキレやすい性格、何とかならないんですか」
 部屋の奥の椅子にだらしなく座って地方新聞を読んでいるグイード・ミスタがふき出し笑った。恐らく「お前に言われたくない」とでも思っているのだろう。
「ブチャラティが帰ってきたら叱ってもらいますよ」
「何だよそれ!」
 オレがブチャラティに怒られんの大っ嫌いだって知ってるくせに!
「そうしろ、そうしろ。どうせこんな昼間に娼婦なんて居ないだろうし、ブチャラティの今日の仕事はナランチャにお説教で決まりだ」
 このチームのリーダーであるブローノ・ブチャラティはとある駅の近くが街娼だらけになっているから何とかして欲しいとその駅の近辺に住まう人々に頼まれ出掛けていた。
 共に行ったのはレオーネ・アバッキオ。確かに売春婦に声を掛けるのにはここに残った年少組より向いているだろう。もしかすると見目は良いので相手の方から声を掛けてくるかもしれない。
 娼婦が1人持ち場にすればそれだけで、それが数人ともなれば一気に治安は悪化する。
 それでもブチャラティが向かう際に「俺が助けるは駅前の住人だけじゃあない」と言っていた。
 戯れに小遣い稼ぎをしている女であれば追い払い、強要されているとすればその長(おさ)に痛い目を見させる。
 正義のギャングだ。矛盾しきった形容だが、ナランチャにとって彼と彼の思想、そして行動は憧れとしか言い表せなかった。
「しっかし女は楽だよなぁ。股開けば金入るってわけだろ?」
「そんな風に思ってんならミスタもすれば良いじゃあねーか」
「俺は見ての通り男」
「男が良いって男も居るし」
 恐らく買う側はそういった人間が多い。
 夜の路地裏で金を出さなければ満たせない性欲を抱えているから客になる。
「ミスタ知らねーの?」例えば、目が化け物の「子供じゃあなきゃヌけねーって奴も居る」
 向かい合っているフーゴの視線が刺さる。下品だと咎めたいのか、それとも別の意味が有るのか。
 ミスタは新聞を放るように置いてうーんと唸った。
「美人なお姉様に買われるってんなら有りだな」
「あはははは! 無理無理、絶対無理! 美人なお姉様はミスタなんて選ばないって!」
「まぁ確かにフーゴの方が需要有りそうだしなぁ……」
「おい! 僕を巻き込むな!」
 ほらキレた、と茶化すからフーゴは更に激昂する。
 宥めるのは自分の仕事ではないとナランチャは救急箱を取りに立ち上がった。
 フーゴの手はナランチャが切り付けた物に変わりは無い。馬鹿にしてきたから、は怪我の手当てを放置する言い訳にはならない。
 ろくに管理していないので中身が出鱈目な救急箱を手に目を閉じた。
 売春が小遣い稼ぎでもなく強要でもないとしたら。残された可能性は「それしか働き口が無い」に行き当たる。
 ブチャラティはそんな情けない売女達をも救おうと考えているに違い無い。
 他に働き口を用意するのは市政の仕事。どうせ彼らは動かないが。
 怪我や病気、妊娠をしないように。客に無理強いをされないように。体の対価であれ賃金を得られるように。
 陽の当たる路に帰ってこられた時に、きちんと笑顔で居られるように。
 昔の自分を助けてくれたように。そして『今』の自分にしてくれたように。
「はい」
 救急箱から消毒液を取り出し手渡す。
「有難う、ナランチャ」
 どういたしまして、で良いのだろうか。切り付けた本人を前にフーゴは片手で消毒を始めた。
「ブチャラティは、そりゃあ怒るかもしれねーけど、でもオレからナイフを取り上げたりはしないぜ」
「何で言い切れるんだよ」
「オレナイフ使うの上手いから」
 頭上にクエスチョンを浮かべるミスタにも、一瞥しただけで黙っているフーゴにも、わざわざ言ってはやらない。
 殺そうと思えば殺せてしまうのだ。そして指摘の通り自分は「キレやすい」性格という自覚も有る。
 だからナイフは絶対に殺さない、誰にも殺されないよう守り抜きたい、そんな『好き』な仲間に対して振るうのだ。


2017,07,25


誤字酷いマンなので何度か両目とも右目の男にしてました。読み返して直すの大事です。
あと「問屋が卸さない」とかイタリア人が言うわけないけど気にしてはいけない。
<雪架>

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