ミスジョル フーナラ要素有り 15歳以上推奨


  Puttanaの恋人


 今晩のレセプションに招かれたのはボスである自分だけだが、幾ら有名なグループの新たなホテルの設立を祝うだけの集いとはいえ単身で乗り込むのは危険過ぎる。
 ジョルノ・ジョバァーナはグイード・ミスタと、1件任務に出ているパンナコッタ・フーゴを連れてゆく事にした。
 ミスタと共に執務室で着替えつつフーゴ――組織末端の人間が脱退したいと言い出したのでその対応に、先に着替えてから向かった――を待っている中で、ミスタが不意に口を開く。
「なあジョルノ」
「はい」
「好きだ」
 ……は?
「俺はお前の事が好きだ」
「それは、どうも」
「だから付き合ってほしい。交際をしたい。恋人関係になってくれ」
 こういったレセプションでもないと見る事の出来ないきちりとしたスーツ姿に似合う真面目な顔。
 普段からこうであれば恋人の1人や2人は余裕で出来るだろう。
 彼の前向きなムードメーカーっぷりを知れば老若男女問わず、自分のような同性だって了承するかもしれない。
「断ってくれても良いぜ。だがその場合変な気は遣うな。俺はフラれたからって好きになった奴に嫌がらせをするとかそういうのは無い」
 世の中には想いを受け入れられなかった事実に憤る人間も居る。今の所そうした被害に遭ってないのは恋愛感情を告げてきた者が皆ミスタのように断られる前提だからだろう。
 付き合ったら何をしてくれるかではなく、付き合わなくても何をする・しないを話してくるのだからミスタも今までの人々のように断られると踏んでいるらしい。
 彼をそんな有象無象の砂1粒と同じ扱いをする筈が無いのに。
「もし恋人になったら」
 良かった。彼らしく断られない、受け入れられる方も考えていた。
 しかしそれは交際の開始だ。
「お前が嫌なら誰にも知られないようにする」
「知られないように?」
「男同士だし、お前にとっちゃあ俺は部下だ。ギャング組織のボスが妾(めかけ)を抱えず部下の男と交際していると思われたくねーなら黙ってるしバレないようにもする」
 そんな交際の仕方、
「寂しくありませんか?」
 予想だにしない言葉だったのかミスタは目を丸くして瞬きした。
「まあちょっぴり寂しいかもしれねーな。どうせなら手を繋いで歩いたり、俺の恋人は可愛いんだぜって自慢したりしたい」
 その方が彼らしい。だがそれは自分らしくはない気がする。
 付き合っても良いが不釣り合いなようなので断った方が良いかもしれない。だが失恋した所で何もしないと言ったが傷付かないとは言っていないし傷付けたくない。
 別れの理由が出来るまで交際してみる、では不誠実だ。だが自分達はギャング、その位で丁度良いのかもしれない。同時にギャング組織のボスが同性の部下1人と懇意にするのはどうなのだろう。良からぬ目で見られるだろうしミスタの手腕も「愛人だからか」と疑われかねない。
「……返事は、今すぐにしないとなりませんか?」
「脈有り?」
「有り寄りの有りです」
「思わせ振りの小悪魔ごっこは止めろ。俺の精神が死ぬ」
「死なれては困るし振り回して弄ぶつもりも有りません。ただ……僕は貴方との交際を考えた事も無かった。考えてみたい、その時間が欲しい」
 今すぐにはイエスと答えられないだけで存分に脈は有る。逆に「今すぐに返事を」と急かすような男とは付き合えない。
「まあもうすぐフーゴも帰ってくるしな」
 わかっていて何故今言ったのか。
 恐らくわざとだろう。恋人同士になれてもなれなくても、フーゴという第三者がもうじき執務室に入ってくるし、彼の帰宅を待ってそのまま会場へ向かう予定だ。早速と手を出さないように、気まずく思われても親しい仲に助けられて仕事に打ち込めるように、この隙間時間に想いを告げてきた。
――ガチャ
 そして話を聞いていたかのようにドアを開けフーゴが入ってくる。
「おいノックも無しに失礼な奴だな、着替え終わってなかったらどうするんだ」
「すみません、急いでいたもので。そろそろ行かないと」
 ただいまの挨拶も無しに少し早口で告げる辺り本気で急いでいるのだろう。
 もうそんな時間かと時計に目を向ける。今から安全運転で向かっても充分に間に合う程度の時間。早めに行動しておきたいタイプか。
 封筒を1つ自分のデスクへ放り投げるように置いてフーゴはすぐに今入ってきたドアの方へと向かう。が、その足を止めてこちらを振り向いた。
「ミスタ」
「ん?」
「車持ってきてもらえませんか? そして出来れば運転してもらいたい」
「良いけど、何でまた」
「僕も一応疲れているので水の1杯位飲みたい」
「お疲れ」
 ミスタが右手を出したのでフーゴはポケットに入れていたらしい車のキーを投げて渡す。
 見事に受け取って「先に言ってる」と執務室を出た。スーツ姿の背中を見送りながら、つい数分前に愛を告白されたのかと改めて思った。
「ジョルノ」
 冷蔵庫――執務室だが置いてある一人暮らし用の小さな物――に近付くでもなく、同じようにスーツ姿のフーゴが名前を呼ぶ。
 彼もまたスーツがよく似合っている。ミスタとは別ベクトルだ。自分とは違いスーツに「着られている」雰囲気が無いのは羨ましい。
「話が有ります。相談というか」
「相談?」
 思わず眉間に皺が寄る。想い人を亡くしたフーゴから交際を申し込まれる事は先ず無いだろうが何故このタイミング。
「それは今しなくちゃあならない話ですか? 急いでいるんでしょう」
「今すぐに答えてもらわなくても良い。だけど今、ミスタの居ない内に聞いてもらいたいんです」
 誰にも聞かせられない話なのかミスタにだけは聞かれたくない話なのか。
「相談に対する答えは今は貰えなくても構いません。頭の片隅に置いてもらいたい話が――」
「どうぞ」
 取り敢えず聞くだけ聞こうと思い促した。
 すると逆に黙り込んだ。余程話し難い事柄なのかフーゴの視線が下方のあちこちに動く。
「僕は」顔を上げ、こちらの顔を見て「結婚しようと思います」
 ……は?
「しても良いなら早い方が良いからすぐにします。今は未だ早い、と言うならしません。ボスは貴方だ、僕という部下の結婚をどう思うか聞きたい」
 先程のミスタのように真剣な目をして言われ、ジョルノは言葉を詰まらせた。
 交際とか結婚とか、人間ネクタイを上まで締めるとそういった話をしたくなるのだろうか。否、フーゴの場合は私服でもネクタイをしている。
「駄目だと言われても逆恨みをしたり駆け落ちをしたりとか、そういう事はしません」
 フーゴも断られた場合を想定した発言をしてきた。
 自信家っぷりはミスタに劣るが、彼が別格とか論外に属するだけでフーゴもしっかりと『自分』を持っている筈なのに。
「もし結婚を許されたら」
 良かった、了承の場合も考えている。
「すぐに役所に書類を提出します」
「……それだけ、ですか?」
「はい、先ずはそれだけです。同居に関しては急いでいません。数ヶ月猶予が有る」
 猶予? と尋ねより先に、
「式を挙げるとか、そういうのは無いんですか?」
 ボスをいの1番に招待したいから真っ先に報告した、というわけではなさそうだ。
「フーゴは……今、16ですよね?」
「未だ早いと言うのなら結婚はしません。今しないのなら意味が無い」
「相手の女性は外国人?」
 どうやらこの問いは意外だったようでフーゴは一瞬小首を傾げたが、すぐにその首を横に振り「違います」と答えた。
 就労目的で来たがビザの問題で早急に、というわけではないのか。
 ならば何故そんなに急ぐのだろう。同年代の自分――とミスタ――はその前の前の段階たる交際で悩んでいる位なのに。
「これも返事を今すぐにしなくても良いんですよね?」
「……これも?」
「いえ、この件についての返事は」
「今すぐじゃあなくて構いません。ただ出来れば、近日中に欲しい」
「わかりました、少し考えたい。だが今は車に向かうべきだ。ミスタが待っています」
 これは確かにミスタにも誰にも聞かれたくない相談だ。急がないとそのミスタに何を話していたのかと訊かれてしまう。
 では行こうとフーゴが執務室のドアを開ける。
 その先へ向かう足取りが今日程重たかった事は無い。

 会場へ向かう車内でフーゴはミスタに運転を頼んだ理由は帰りの運転が自分に回ってくるからも有ると話した。
 帰りも自分が運転すると言っていたミスタだが「帰り道を考えない方がワインが美味しく飲める」と言われてすぐに手の平を返した。そして今、会場で招かれたジョルノ以上に楽しく美味しくワインを飲んでいる。
 今回のレセプションはこの新たに設立されたホテルが提供する料理やワインを著名人に一足先に体験してもらうという名目。
 そのような場に何故地元のギャングを呼んだのか。それは館内に作られた賭場が理由だった。
 金を持たないならず者では立ち入れないカジノだが、それでも後ろめたい事が全く無いとは言い切れない仕様らしい。
 幾ら着飾った所でギャングだし、何より10代の男子3人組なので会場内では大変に浮いている。
 それでも何らかの役に立てればとフーゴは情報収集に余念が無い。
 だからって、
「ボスから離れるなんて」
 呟いた言葉ごとワインを飲み込んだ。
 立食形式にしてビュッフェ形式。1皿1皿の量が少ないのもあり、食事というよりワインに合うつまみといった様子。
 だからか余り強くないのにワインが進んだ。
 ロッソ、ビアンコ、それからスパークリング。度数の高そうな粘り気の強い物も有れば、甘味と炭酸でどんどん飲めてしまう物も有る。
「お前飲み過ぎだぜ」
 真後ろから小さく声が掛かった。
「ミスタ……貴方は偉い。フーゴと違って僕から離れない」
「完全に酔っ払ってるじゃあねーか」
 妙に目が潤むので言う通り酔いは回ってきているかもしれない。
 何百人と収用出来るホールだが大勢が集い人の熱気が――というのは言い訳だ。給仕係が余裕を持って導線を確保出来ている位に広い。
 天井も高く中央の照明に至ってはシャンデリア。どう清掃するのだろう。偶に顔を出している、在籍している学校の体育館の照明のようにスイッチで下ろすのだろうか。
「天井見上げてどうした」
「別に何も。今の僕は考える事がいっぱいで、酒を飲まずにはいられないんです」
 まるで酒乱のような返答にミスタは片方の眉を下げて困り顔を見せる。
「それって誰かに告白されて返事を悩んでるってやつか?」
「よくわかりましたね」グラスの中の爽やかだがビターな味わいのスパークリングワインを飲み干し「僕を惑わす輩に参っているんです」
 辺りに目を配らせてウェイターを探す。視線に気付いて振り向いたウェイターがすぐにこちらへ来た。
 空にしたグラスの回収をしたウェイターはやや垂れ目だが男前で、髪も眉も瞳も黒く魅力的だった。
「甘口の物を」
「畏まりました」
「先刻飲んだ、名前は何だったかな……赤ワインで果物の甘味の感じられた物をまた飲みたい」
「駄ァー目!」
 ミスタがウェイターとの間に割り入る。
「割り物のジュースか何か有るよな? それを持ってきてくれ。炭酸の入ってないやつだ」こちらを向き「お前はスパークリングワインじゃあなく何か食い物で腹満たせ。悪酔いするぜ」
 もうしているような、気持ち良い浮遊感に包まれているので『悪酔い』の心配は無さそうな。
 ウェイターはジョルノがどういう立場の人間で何故呼ばれたのかを知らない。金持ちの息子とその付き人か何かだろうと考え――あるいは余計な詮索はせず――ミスタに「ブラッドオレンジジュースをお持ちします」と言って立ち去った。
「狡い」
「何が」
「ミスタは僕以上に飲んでいる」
「俺は順番決めて混ざんねーように計画的に飲んで――」
 言葉が止まる。
 ジョルノはこめかみをミスタの肩に当てただけだが、それだけで彼は言葉を失ってしまった。
「貴方の事も、他の人の事も考えて、疲れてしまった」
「他の人ってお前好きな奴でも居るのか?」
「僕が彼を好きなんじゃあない。彼が誰かを好きなんだ」
 フーゴが誰かの事を、結婚したいと思う程に。
「支離滅裂」
 その指摘は間違っている。ジョルノが口走っている事に間違いは無く、筋は通っている筈だ。
 但し言っている事には無くてもやっている事には有るかもしれない。交際の申し込みを保留しておきながらべたりとくっ付き甘えるだなんて。
 確かに酔いはかなり回っている。フーゴが誰かと結婚し離れてしまうのは良い気がしないし、今はそれ以上にミスタに遠退かれたくない。こうして触れ合っていたし一層溶け合ってしまいたい。
「お前酒飲んだら甘えたくなるタイプだっけ?」
「さあどうだろう。ここまで腹に物を入れないまま、考え事をしながら飲み続けた事が無い」
「そういう飲み方はなあ、特別な相手と2人きりの時にするもんだぜ」
「2人きりになろうという誘いですか?」
「だから思わせ振りは止めろ。手ぇ出すぞ」
「……死んだら困るな」
 思わせ振りな態度で死んでしまうように言っていた気がする。
 ミスタが? 死んでも死なないような男なのに? そんなのは許されない、死んだら殺すぞ! 嗚呼、思考はそれこそ支離滅裂になってきた。
 足元が揺れているような錯覚が起きてミスタから物理的に離れられない。甘えているのではなく単に凭れ掛かっている。
「引き上げるか。ホテルっつーかカジノの概要は掴んだし」
 参加者同士の交流を深められる良い機会――何せ著名人だらけだ。ホテル産業とは関わりの無さそうなグループ企業の会長やテレビで見る大御所俳優まで居る――だが、ギャングが欲する『御縁』は知名度の高い人間ではなく金払いの良い人間。
 まして前者は黒い噂が立たぬように表向きにはギャングと接点等有りませんよと言う顔をしたがる。そこでフーゴの出番だ。容姿も仕草も至ってギャングらしくない。どこぞの業界の将来有望株に見える彼は表への人脈を作るのに欠かせない。
 人当たりが良いとまでは言えないが早々問題を起こす事の無いフーゴがもう様々な情報を集めてくれた頃だろう。
「帰りますか……ああでも、今日は帰りたくない」
「だからそれは特別な相手と2人きりの時に言え」
「じゃあ今から2人きりになりますか?」
「同じネタ繰り返すな!」
「声デカい……」
「悪い」
 頭に響くこの不快感をミスタも知っているらしく素直に謝ってきた。
 それにしてもトップギャングスターが酒に弱いとは笑えない。しかも実は大して楽しめていない。ミルクもシュガーもたっぷりのコーヒーや紅茶の方が良い。
 新鮮な果物のジュースも良い。そういえばウェイターがブラッドオレンジのジュースを持ってきてくれると言っていたような。そんな事ばかり考えていた。色々とつまみはしたが腹は空いている。
「……なあ、何で帰りたくないんだ?」
「何故だろう……寂しいから?」
「寂しいとかお前本当ただの酔っ払いだな」
 そう言いつつ体を引き離さないのは優しさなのか、恋人にしたいと思う相手への下心なのか。
「慰めてやろうか」
「お願いします」
「こら」
「1人で部屋に居たら今以上に酒を飲んでしまう」
 それだけ考える事が多い。ホテルのカジノの事、フーゴの事、ミスタの事。どうすればそこそこ高級な賭博場から金を巻き上げられるか、最も信頼をおける部下にして仲間が新たな家庭を築く事を認めるべきか否か、自分が誰かと恋仲になれるのか、ましてその相手がそんな事を考えてもみなかった同性の部下――
「喉が渇いた、もう1杯ワインが飲みたい。マリブかアマレットをミルクで割った物でも良い」
「酒は駄目。オレンジジュースが来るのを待て。飲んだら帰るぞ」
「カンパリオレンジも良いな」
「もう酒は駄目!」
「声がデカい! 頭が……痛い……」
「だから酒は駄目」
 それでも吐き気は無いので悪酔いではない。酔ってはいるが未だ悪は付かない。

 帰りの運転は予定通り相当量飲んだミスタではなく付き合い程度に留めておいた――らしい。見てはいない――フーゴが担当した。
 行きは座ってシートベルトも締めていたが帰りは足を上げて寝そべっている。
 運転手のフーゴも横にさせるべく助手席に座ったミスタもこの『飲み過ぎ』に心当たりが有るからか咎めてこない。
 舗装された道を走っているので車内は微かにしか揺れずそれが何とも心地良い。もっと酒に飲まれていれば眠っていただろうし、酒に飲まれきっていれば気分が悪くなっていただろう。
「そろそろ着きますよ、起きて下さい」
「起きてます」
「失礼」
 いつもより重たい体を起こす。窓の外を見るとミスタの住むアパートに向かっている事がすぐにわかった。
 帰りたくないと駄々をこねたので自宅に泊めてくれるようだ。追い酒も迎え酒も防げそうなので素直に助かる。
「そういえばミスタは明日の昼、というより朝に近い時間から1件入っていましたね。大丈夫ですか?」
「何が?」
「結構飲んだでしょう? 誰かさんのように」
「俺は自分の飲める度合いをわかってる。誰かさんと違って」
 結局咎められている気がしないでもない。
「お前は何も無かったよな。ジョルノも」
 そうだ、明日はこれといってすべき仕事が無い。探せば出てくるだろうが敢えて探さず、ゆっくりと朝寝坊してのんびりとランチを取って、日の傾く頃から執務室に顔だけ出す事にしよう。
 ミスタはそれまで部屋に置いておいてくれるだろうか。起こさずに朝の用事とやら――さてどんな用事だっただろう。ボスの自分が指示を出した気がする――に向かってくれると良いのだが。そう考えている間に車がアパートの前で停まった。
 2人を下ろしアジトの駐車場に停めると言ってフーゴは車を走らせ去る。
 ミスタが鍵を開けて先に中へ、続くジョルノがドアと鍵を閉めた。
 何度か訪れた事の有るアパートの1室。ギャングになる前から住んでいるのか生活感がびっしりと染み付いている。
「シャワーはどうする?」テレビを見ながら摘まんでいたであろうスナック菓子をソファから近くのテーブルへ移しながら「明日にするか?」
「どうしようかな……」
 本当はもう決まっている。勝手に寝室へ向かい、掛け布団が起きがけにめくったままのベッドに座りそのままぱたりと倒れ込んだ。
「寝るのは良いが靴は脱げよ」
 他人様のベッドを汚すわけにはいかないので、仰向けで靴を脱ぎベッド横へ放り置く。
「あと服も」
「確かに寝心地が悪い。でももう動きたくない。脱がせて下さい」
「そういうのは特別な相手と2人きりの時にって何回言わせるんだよ、もう3回目だぜ? 次は絶対言わねーからな」
 既にジャケットを脱ぎネクタイも外したミスタがこちらへ来る。ワイシャツ1枚のシンプル過ぎる姿は見慣れず逆に落ち着かない。
 じっと見ているの手が伸びてきた。
 ジャケットのボタンが外されネクタイも緩められる。
「脱がせて下さい」
「後は自分でやれ」
 出来ないとは言いたくない性格を知っているからこその言葉は意地が悪く思えた。
「2人きりじゃあないですか」
 特別な相手と2人きりならば帰りたくないと甘えて脱がされても良い筈だ。
 見下ろしてくる顔が唇をきゅっと結び、喉を鳴らして生唾を飲み込み、険しい表情のまま溜め息を吐く。
「ミスタ」
「俺はお前の、特別な相手じゃあない」
「……特別な相手になりますか?」
 なりたいから好きだと、付き合ってほしいと告げてきた。だから断られないだろうという驕りが有った。
 しかしミスタは呆れた様子で首を横に振る。
「今が好機じゃあないんですか」
「酔わせて抱いておしまいのダサい男になるつもりはねーよ」
 意気地無しと囁かれようと。
 それだけ真摯な想いを向けられているのは悪くない。その気持ちを向けさせたままあちこちの男に手を付ける性悪女が小悪魔と呼ばれて人生を謳歌する理由がよくわかる。
「アルコールは人を駄目にするなんて言われますがあれは間違いだ。本性を晒け出させるだけ。駄目な奴が駄目を隠しきれなくするだけだそうです」
 酔って醜態を晒す、甘やかしてもらえるなら男に抱かれても良いやと考える自分はその『駄目な奴』の部類だと自嘲した。
 視界からミスタが消えた。腹の辺りに腰を掛けてきてベッドが軋む。
「それが本当ならそこそこ飲んでお前に手を出さない俺って凄いよな。聖人君子じゃあねーか」
 首を動かしてミスタの顔を見る。目が合う。軽快な、ともすれば軽薄そうな口調に反して無表情に見えた。
「手を出さない程度の好きなのか」体を起こし「手を出せない程の好きなのか、教えてもらえますか」
「後者」
 口調もつまらなさそうなそれに変えたミスタがジョルノの上着に手を掛け脱がし、緩めたネクタイも抜き取る。
「ベルトもお願いします」
「自分で出来ねーの?」
「貴方への任務だ」
「はいはい」
 指示の通りベルトを緩め金具が当たらないように外してくれる。だがそれ以上は無い。何もしてこない。
 上着とネクタイとベルトを手にしてベッドから立ち上がった背を「ミスタ」と呼び止めた。
「好きなら自分の物にしたいとか、そんな風には思わないんですか?」
 振り向いた顔に問い掛ける。
 自分にとって愛情とは執着の言い換えが近い。好きだから欲しくて、手に入れては大事にする。人間の異性――ここでは同性だが――を対象とした場合が恋愛と呼ぶのだと思っていた。
 見守る愛も有ると言うだろうか。それは恋愛ではなく親愛、交際ではなく支援やそういった方面の関係になるべきだ。
「……俺はお前を自分の物にしたい。でも今手篭めにして、それは俺だけの物になったって言うか?」
 言わないんですか?
 そう訊かずに言わないと断言出来て初めて愛とは何なのかを知る者になるのだろう。
 自分には未だ恋愛は早い、もしくは向いていないようだ。相手の気持ちに応えたいのではなく、その好意を利用しようと企んでいる。
 共に居れば楽しい。共に居たい。だが彼だけの物になってまでそう思えるのか。
 否、彼を独占する・彼が誰かに独占されるという『責任』を自分は負いきれるのか。
 それを確かめる為に、試すべく人は交際し、その先に婚姻が有るとしたら。
 フーゴは凄い。
「携帯電話を取って下さい。上着のポケットに入れてある」
「電話? えっと……これか」
 上着を探って取り出したそれをミスタ放り投げず、横になっているジョルノの足の近くに置いた。
「じゃあおやすみ」
「おやすみなさい」
 この流れで同衾(どうきん)の提案は出来ないし当然してこない。家主をソファに寝かせるのは申し訳無いが、自分は彼の上司に当たるし客人だと言い張っておく。
 それにもう動けない。今からやはりソファで寝てくれと頼まれても従えない。
 だが眠る前にしておきたい事が有った。
 目を瞑ってしまわない内にわざわざ取ってもらった携帯電話を操作する。
 アドレス帳から掛けたい相手を探し出し発信。発信及び着信履歴から掛けた方が早かったかもしれない。
 呼び出し音数回の後にフーゴが出た。
「夜分にすみません。今大丈夫ですか」
[大丈夫……]
「寝てました?」
[いや、部屋に着いたばかりです。どうかしたんですか]
 別れてからそう時間が経っていない着信に驚いたようだ。ジョルノはもう1度「すみません」と謝ってから本題に入る。
「貴方の結婚の事で話が」
 電話越しに息を飲む音がした。
「僕にとって相手は知らない女だがフーゴは大事な存在だ。おいそれと認めるわけにはいかないけれど、同時に……希望を叶えられるなら叶えたい。叶える手伝いをしていきたい」
 これも1つの愛の形。独占ではなくただ幸福を願い、共に笑い合う事が最良の。恐らく恋愛ではなく友愛と呼ぶ。
「だから……考えたけれど、未だ答えが出ていない。すみません、僕は何を言っているんだろう」
 これでは酔っ払いの戯れ言だ。
「結婚されたくないわけじゃあないが、変な相手とは……そうだ、その相手に会わせて下さい。それで良いか悪いかを決めます」
 良い相手であれば祝福するし、悪い相手であれば反対する。すっかり失念していたが結婚と言うものは相手次第だ。
[有難う、良かった。紹介しなくちゃあならないと思ってはいたんです。会う事すらしたくないと言われたら、と不安にも思っていた]
「頭ごなしに否定は……まあ正直早いんじゃあないかとは思います。でも早くても悪い事なんて無い。勿論遅くても良い。結婚に適齢期なんて本当は存在しない。ああでも会うのは早い方が良い。相手はどんな仕事をしているんですか? いつ都合が付けられますか?」
[……いつでも大丈夫です。早速明日の昼はどうですか? 僕もジョルノもこれと言った仕事が無いし]
「良いですね」
 昼なら起きてシャワーを浴びる位出来るだろう。多分。この携帯電話で目覚ましを掛けておくか。
 フーゴがホテルレストランを予約しておくと言ったので店名と時間――有難い事に少し遅めの時間――とを覚え、通話が終了した。
 携帯電話を枕横に置き目を閉じた。いつもとは違う香りを感じて、自分の寝具ではない事を思い出す。
 フーゴが亡き『彼』を置いて交際していたのは一体どんな女性だろう。今すぐに結婚したいと思える相手のようだからきっと魅力的なのだろう。だが『彼』を割り切ってしまったのなら、それは少し寂しく思う。恐らくフーゴはそれをも見越して話したのだろう。
 もしもミスタならこの結婚をどう思うだろうか。ミスタにも同席してもらうべきかもしれない。しかし彼は明日朝から仕事が有る。それにフーゴもミスタには未だ知られたくないだろう。
 反対されるから?
 亡き友とまるで兄弟のようだっただけに、弟分と恋仲だと思っていた相手が結婚となれば良い顔はしないかもしれない。
 そしてミスタに関しては別途考える事が有る。恐らく今ソファで眠っている彼との関係をどうするべきか。酒と部下の結婚と亡き仲間の事でいっぱいの頭では考えきれない。

 結婚の予定が有るのだから婚約者と仮定的に呼称するとして。
 フーゴの婚約者が目の前に座り、ジョルノは目を見開いて驚いた。
 言わないがかなり気に入っておりフーゴも気付いているであろうホテルレストランで名前を告げ、案内された窓に面した予約席に腰を下ろすと見計らっていたようにフーゴと彼の婚約者が現れ「待たせてすまない」と2人並んで――婚約者を奥に――座る。
 コースを予約してあるので選ぶのはドリンクだけだとメニューを手渡された所で飛び掛けていた意識が戻った。
「……ヴァルポリチェッラを」
 2日連続で酒を飲まずには居られない出来事に直面するとは。
 赤ワインのヴァルポリチェッラは一定の審査をクリアしたDOCの格付けなので質は保証されている。比較的軽く肉にも魚にも合うのでコース内容を知らないランチには丁度良い。
「僕もそうしよう。君は?」
「グレープフルーツのジュースを」
 可愛らしい声をしていた。余り高い声ではないので媚びた印象が無く、代わりに喋り方は静かでどこか少女めいている。
 ウェイターにドリンクを3つ注文したフーゴがジョルノの方を向き改めて口を開いた。
「僕は……」不意に込み上げた躊躇いに一瞬言葉を飲み込み「……彼女と結婚しようと思っています」
「彼女と、ですか」
 この特徴だらけの女と。
 問いにフーゴは頷く。
 綺麗な黒髪は長く、特に前髪は目に掛かり邪魔臭そうな程。その下の顔は整っているが1つ重大な欠点が有った。
 右目に眼帯をしている。
 単に物貰いが出来ただけかもしれない。しかし眼球が抉られているのかもしれない。左右合わせる為に二重目蓋を形成する美容整形手術を受けたばかりだと言ってくれたらどんなに良いだろうか。
 身長はフーゴよりもジョルよりも低いが、それでも女性の平均かそれ以上は有るだろう。手足が細長いのでスタイルは良い方だ。
 胸元もかなり盛り上がっているが、単に胸が大きいだけではないので誉められない。谷間の見えない服だから減点という意味ではなく、妊娠して押し上げられつつ脂肪が増しているからだ。
 婚約者は妊婦だった。
 3ヶ月目やそこらではなく、一目見ただけで誰にでもわかる腹の膨らみ方。赤子が十月十日で生まれてくるのが本当ならば8ヶ月目には入っている。
 顔をよく見れば同世代か少し上程度だ。妊娠しているので少なくとも20代だと思い込んでいたがこれはもしかするかもしれない。
 女性に年齢を聞くのがタブーでなければ聞いているし、部下の妻となる女性の年齢位聞いても良さそうだが、しかし聞いた所で驚くか納得するか位しかジョルノに出来る事は無い。
 かつては先輩と後輩の仲間関係で今は上司と部下とに逆転していると話しているだろうか。そもそもフーゴはギャングを生業にし、ジョルノもまたその関係であると伝えているのか。もしや結婚をするのでギャング稼業から足を洗いたい、というのが本題なのか。
「彼がジョルノ・ジョバァーナ。今のボスだ」
「今の……お若いですね」
「僕と同じ年。いや、1つ下でしたか?」
「誕生日が来たので同い年です」
 初対面同士を引き合わせる際には目上や親い(ちかしい)相手から紹介するのがマナー。自分ではなく隣に座る女の方が今はフーゴに文字通り近いのだと思い知らされた。
「会うのは初めてだっただろうか?」
「ええ、私達はボスの御顔を見る事なんて早々無いから……前のボスも遂に見なかったし」
 フーゴが深い瞬きをした。彼も――途中で離脱し、自分達が倒した後に再度合流したので――前のボスの顔を知らない。誰もその選択を悪いと言わないのにフーゴは未だに1人悔いている。
「幹部の方とはお会いする事は有るけれど」
「ミスタとは面識が有るんだったな」
「話した事が有るというだけでお客様でもないし、向こうは私の事覚えていないでしょうけど……」
 分かりやすく『可愛い女の子』が好きなミスタだから顔は覚えていても可笑しくない。そう考えると何故か少し腹が立ってきた。
「フーゴ、彼女は組織と繋がりが有るんですか?」
 直接話をするのが躊躇われたのでフーゴに尋ねてみる。
「傘下で働いています。今は休んでいますが」
 妊婦にも出来る仕事が無いとは言わないが、ここまで腹が大きくなれば何もさせられない。自分ならば少し早いが産科病院に入院させたい程だ。
 それに彼女に仕事をさせられない理由は他にも有った。
「目、どうしたか聞いても構いませんか?」
 右目に眼帯をしているので右半分が見えていないも同然だ。もしや前髪がうざったい程長いのも眼帯を隠す為だろうか。
「これは……その……」
 声こそか細いが激しく動揺し視線があちこちに動く。
 ミスタに気に入られたりするからだ。と思ったが、別に気に入られたとは限らない。話をした程度らしいのでもしかしたら本当にミスタの方は覚えていないかもしれない。
 そう思うと急に不憫に思えてきた。
「答えたくないなら答えなくて構いません。ただ嘘は吐かないでもらえると助かります。結婚するとしたら、しなくても交際しているのだから、フーゴの事を間違って覚えてしまう」
「……ぶつけた、というか……怪我をしてしまって、そこがその……化膿してとても見せられないので隠しています。どうせ余り見えないし」
「見えない? 怪我で視力が落ちた?」
 はい、と短く答える。
 視力を失わずに済んだのがマシな程の大怪我か。
 眼球が崩れていなければ良いのだが。痛みに強いタイプであればスタンドで眼球を作ってやっても良い。もうじき母親になるのだから痛みに耐えられるようになっておいた方が良いし、子供を見るなら片目より両目の方が良い。子供にとっても母親が隻眼というのは欠点でしかない。
「怪我は仕事で?」
「はい」
 ただの世間話のつもりだった。次の話題が出るまでの繋ぎ。
 しかし続く彼女の言葉はボスであるジョルノには酷く不愉快な物だった。
「お客様の1人が……」
「客?」
「あ、いえあの、大丈夫です、本当に」
「貴女がどんなに気にしないと言っても、別の人間に同じ事をされては困る」
「処分しました」
 ジョルノがエキサイトする前にフーゴが静かに告げる。
 恋人の目を穢した者を許さない――というより、仕事の延長のような言い方だった。
 仕事熱心なのは良い事だ。彼女は傘下で働いているというのだから仕事の都合で出会ったのだろう。業務内容が人道を外れてはいるが仕事は仕事だ。
「お先にサラダをお持ちしました」
 ウェイターの静かな声。別に気配を消していたわけでもないのに妙に驚いた。それぞれの前にドレッシングの掛かったグリーンサラダが置かれ、その上にナッツが振り掛けられる。
「ドリンクは?」
「お待たせして申し訳ございません、ただいまお持ち致します」
 フーゴの問いに頭を下げてウェイターは立ち去った。
 届いてすぐに乾杯出来るように、また乾杯後にすぐに食べられるように先に運んできたのだろうから未だ手を付けないでおく。
「……客という事は貴女の仕事は接客業ですか? ああ、未だ名前を聞いていなかった。僕は先に預かった通りジョルノと言います」
「私はナランチャと言います」
「え?」
 彼女の『名前』を聞き目を丸くした。
 聞き取れなかったのかと思ったのか隻眼の妊婦はもう1度名乗った。当然ながら同じ名前を。
「その名前は……」
 お前の物じゃあない。その名前は『彼』の物だ!
「お待たせ致しました」
 ウェイトレスの声ではっと我に返った。アイスペールや各種飲み物、グラス等の置かれたワゴンを運んできたのでウェイトレスではなくソムリエと呼ぶべきか。
 ソムリエの女性は慣れた手付きでタンブラーに氷を入れてグレープフルーツジュースを注ぐ。
 見た目にも爽やかなそれを奥の席のコースターの上に置いた。
 続いて同じワイングラスをフーゴとジョルノの前に置く。
「彼は余り強くないのでチェイサーに水も貰えるだろうか」
「畏まりました」
 真面目な物言いだが昨日の酔い潰れ具合いを茶化す気持ちが有りそうだ。
 ワインを注ぎ終えてソムリエが去る。フーゴが早速グラスを取った。
「飲みましょう。この店は常に客に気を配る。飲み始めないといつまで経ってもメイン料理が来ない」
 だから祝い事を連想させる『乾杯』は言わなくて良い。
 シャンパンを連想させるスパークリングワインにしなくて良かった。結婚の話をする場だというのに、ジョルノに祝いに近い感情は一切無い。
 口に含んだ赤ワインは苺のような甘味と酸味が絶妙な味わいで、しかし奥にワインらしい苦さも潜んでいる。普段ならば美味いの一言だが、気持ちの問題なのか「雑草のようだ」と思ってしまった。
 飲み始めたのだからもう食べ始めても良いだろう。ジョルノはナッツの香りが既に美味しいグリーンサラダにフォークを入れる。
 よく似合っていたので疑問を持たなかったが、思えば彼の名前は本来女性に付けられるそれだ。名は体を表す。彼は少女めいた可愛らしい顔立ちをしていながら柑橘類のように爽やかに明るかった。
 これから結婚する相手の名を呼ぶ度に、フーゴは彼を思い出したりしないのだろうか。それとも。
「同じ名前だから、ですか」
 口の中の葉物野菜を飲み込んでぽつりと呟く。
 ナランチャと名乗った女は「名前?」と尋ねてきたが、フーゴは半ば視線を逸らしてだんまりを決め込んでいた。
 それぞれの皿に手が付けられたのを見計らったウェイターが次のメニューを持ってきた。水牛のモツァレラチーズであるブッファラとトマトのカプレーゼが中央に置かれた。サラダ以外のメニューは取り分ける形式らしい。
「僕が取り分けて構いませんか?」
 返事を待たずにフーゴは皿を3枚用意し、トマトとチーズとを均等に乗せる。
 人数が半分になってしまったチームの3人で食事に行くと大抵フーゴが――ジョルノの方が目上だから、ミスタには任せられないからと――取り分けてくれる。自分が加入する前にも、今フーゴの隣に座る女と同じ名前の彼に取り分けてやっていたのだろうか。
「美味しい……!」その同じ名前の女が口元を抑えて「こんなに美味しいカプレーゼ、初めて」
「客に食わせてもらったりはしないのか?」
「一緒に食事なんて取らないわ」
 恋人同士の会話にしては違和感が有った。
 付き合い始めで相手の食の趣味を知らないのは仕方無いにしても、フーゴの質問もその答えもまるで相手の仕事に興味の無いような。自分の仕事で手一杯だからと言われればそれまでだが。
「具体的にはどんな仕事をしているんですか?」
 ギャングに牛耳られている接客業ならば夜間に露出の高い服装で酒を売る仕事だろうと見当が付くのに尋ねてみた。余り夜の匂いを感じさせる容姿ではないので、もしかしたら店長のみが密接な関係に有る服飾店だったりするかもしれない。
「私の仕事は……その、今はもう、暫く前からお休みを頂いてます……」
 膨らんだ腹では働けない、となるとやはり前者なのか。
「子供を産んだら復帰するんですか?」
 それとも他の、所謂昼職に就くのかと尋ねたつもりだったが。
「体がどう変わるのかわからないので、未だ何とも……出来れば、もう……辞めたいです。でも赤ちゃんを育てるのはお金が掛かるから、今以上に実入りの良い仕事なんて知らないし……だけど私、生まれてくるこの子に母親が娼婦なんて業を背負わせたくない……」
「……娼婦?」
 頷かれた。
「自分の体を使う、ただの肉体労働。僕達の仕事よりはマシだ」
 フーゴがフォローを入れる。
 金銭目当てに春をひさぐ女に抵抗――嫌悪感。或いは賤しいと蔑む気持ち――が無いと言い切れないのが本音だが、結婚を機に廃業して夫に一途で貞淑な女となるならば過去の出来事の1つに過ぎないと割り切れなくもない。
 まして街娼はギャング組織と深い関係に有る。生真面目に法律を通して店を構えるタイプであっても「可笑しな客から守ってやろう」と後ろめたさにつけこみみかじめ料を回収している。実際に問題が起きた時、指示を出した事が有った。
 幹部のように地位が上がり金に余裕が出来れば上客にもなる。利用した事の無いジョルノも娼婦とは今外を、このホテルの下の大通りを歩いている女とは比べ物にならない美貌と技術を持つと知っている。
「お待たせ致しました」
 話の邪魔をしないタイミングで訪れたウェイターが空になった皿を取り、そこに大きな1枚のピザの乗った皿を置いた。
 コースメニューのピザはクワトロフォルマッジ。4種類のチーズという名前の通りふんだんにチーズの使われたピザ。この店ではブルーチーズも使われているのが見てわかる。
 音を立てずに蜂蜜の入った手のひらサイズの丸い容器を隣に置きウェイターは立ち去った。
 フーゴがピザカッターを手に取り、中央から綺麗に縦に一直線に切った。問題はここからだ。6等分に切るのは中々に難しい。
「蜂蜜は乳幼児には駄目だけど妊婦には問題が無いそうなので良かった」
 話しながらも上手い具合いに×印を入れる形で6等分した。正確に測れば均等ではないかもしれないが、見た所どれが大きいどれが小さいと文句を言う隙が無い。
 そのピザが妊婦の口に入ればまた「食べた事が無い」と喜ぶ声が聞けるのだろうか。
 こんなに美味しいピザは初めてだと、男根を幾つも咥えてきた娼婦の口が言うのだろうか。
「……本当に、フーゴのなんですか」
 それぞれの皿に移そうとしたフーゴの手が止まる。
 こちらの方が大きかっただろうかと穏やかに問う彼の子供なのだろうか。売春婦は様々な男をその身体に受け入れてきた。フーゴの子種だけを宿すなんて、ピザを6等分にするよりもきっとずっと難しい。
 はち切れんばかりの腹に子供を宿す前からフーゴと交際していたのだろうか。付き合いが無くても、例えば客として買ったのだとしても良い。出会いや始まりなんてどうだって良いのだから。
 だがそこまで腹が膨らむのに掛かる月日を考えると随分と昔に、かなり忙しい時期に火遊びをしていた計算になってしまう。
 フーゴが? 知識でしか子作りを知りませんとでも言い出しそうなのに?
 この売女に唆された? 金を奪うべく近付き悪い遊びを教え、孕んだフリをして更に金を巻き上げるつもりか?
 嗚呼それよりも恐ろしいのは。
「客の子供だったりはしないんですか」
「ジョルノ」
 先の問いの意味に気付きフーゴが低い声で名を呼んできた。
 皿に乗せられたピザはチーズがとろけて大変に美味しそうで、この後のメインディッシュが霞んでしまうのではと心配になる。
 メインよりも先にピザが来るという事は、そのメインは低温調理されている可能性が高い。鶏のカチャトーラだったら嫌だなと思った。
 もっと嫌なのは、
「本当は誰の子供かわからないんじゃあないんですか」
 フーゴの子供かもしれない。だが違うかもしれない。
「誰の子供かはわかっています」
 彼女の返答は力強い意思を秘めた声だった。戸惑いがちな声しか聞いていなかったので本当に『彼の名前を名乗る女』が出したのかとジョルノはその顔を見る。
 右目は眼帯で見えない。しかし左目でこちらを見据えている。困ったように眉を下げているが目を逸らしはしない。
「私のお腹の中の赤ちゃんの父親が誰なのか、母親の私はわかっています。だから産むんです」
 母親の直感だけでわかる筈が無い。が、産科医の診断が正しければ逆算するだけで割り出せるのでそれは言わないでおく。
 それも日に何人も客を取っていたら出来ないが、といった話もしない。それよりも女の言葉に含まれる重大な意図がジョルノには見えていた。
「つまり、フーゴの子供じゃあないんですね」
 たっぷりと十数秒待ったが返事は無かった。肯定である何よりの証。
「何故その父親と結婚しないのかは聞かないでおきます」
「有難うございます……」
 病で亡くなったのなら劇的だがどうせ良くてヤリ逃げ、悪ければ不倫で妻と別れる気も認知する気も無いと突っぱねられたやのだろう。
「ただ何故フーゴと結婚するのかわからない」
「結婚をすれば僕がその子供の父親になる」
 また言葉に詰まる女の横からフーゴが割り入る。
「法的にはそうなりますね。なりたいんですか? 『父親』に。急いでなる必要無いでしょう。他の誰でもない貴方との子を産んでくれる女性と結婚した後に父親になれば良い」
「そういう事じゃあない。それじゃあ彼女の子供に父親が居ないままだ」
「だから何ですか。父親が居なくても夫が居なくても貴方には関係無い」
「それは……」
「まして子供を言い訳にしている。彼女が妊娠していなければ結婚なんて考えませんでしたよね? 今流産したら、それでも結婚しますか? イエスと答えられなければ子供は切っ掛けじゃあなく言い訳だ」
 2人共「結婚しよう」とは思っている。しかし「相手と結婚したい」と思った事は今まで無かったようにも思える。ジョルノはワイングラスを手にしたが、飲むよりも先に話したくて仕方が無いのでそのまま続けた。
「貴方は『彼』と同じ名前であれば娼婦でも妊婦でも誰でも良いから結婚したいんですか?」
「名前は……偶然です、偶然同じだけだ」
「違う名前であったとしても結婚して子供の父親になってやろうと同情したんですか? したのなら素晴らしい博愛主義者だ。いいや貴方の場合は愛が無い、誰も愛していないから博愛でも何でもない。結婚を考えているというのに貴方は彼女を愛しているといった旨を未だ一言も発していない。女性ならば誰もが聞きたがる言葉を何故言わないんですか? 僕が居るから? 2人きりになれば耳にタコが出来る程に言っている? そうならそうと答えて下さい」
 僕は彼女を愛している。そう言われたら引き下がっても良い。だが絶対に言わないと確信している。嫌な奴に成り下がったが気にしてはいられない。
「偶然同じ名前ですか。産まれてきた子供の名付け親には僕がなります。僕は貴方のボスですから。偶然『ナランチャ』という名前を付けてやるから精々愛玩すれば良い!」
――カンッ
 ワイングラスをテーブルに叩き付けるように置き直す。
 割れなくて良かったが中身は少し零れた。折角の綺麗なテーブルクロスに数滴。まばらな血痕のようで不気味だった。
「私の名前、そんなに変わっているんでしょうか……」聞かされていないらしいナランチャと名乗る女は困惑した様子で「……反対されるのなら、結婚はしません」
「1人で産んで育てるつもりか?」
「そうするしか無いもの……」
 ここでもやはり、結婚したいと、愛しているのだという言葉が出てこない。そういった想いが互いに無いのだろう。
 ならば何故。
「……何故、堕胎しないんですか」
「それは……私が、産みたいからです」
 産みたいだけなのか、とは聞かないでおいた。はいそうですと、育てる気は有りませんと答える人間は居ない。
 共に育ててもくれない男を――フーゴとは違い――愛しているから繋がりを得る為に産むつもりか。
 さぞかし立派な性交相手なのだろう。こんな男に愛されたのだと自慢して回りたくなるような。嗚呼まるで自分の母と実父だ。ジョルノの顔に乾いた笑いが浮かぶ。
「産むだけ産んで育てない、は許されない」
「精一杯育てます」
「貴女の出来る限りがどこまで続くか見物だとは思わない。僕は「予定より早くに出産した為に亡くなってしまった命」を美しい花に変える事が出来ます。堕胎ではなく、貴女は美しい花を眺め――」
「命を軽んじるな!」
 沸点が低めのフーゴにしてはよくここまで抑えていた。一周してそう思わせる怒声だった。
 当然のようにウェイター――1番体格が良い――がこちらへ歩み寄ってくる。
 フーゴが静かに「僕にもチェイサーを」とだけ言って追い返す。水を飲むより先に冷静さを取り戻していた。
「確かに貴方のスタンドは生命を誕生させる事が出来る。だからと言って生命を簡単に摘み取って良いわけじゃあない」
 全ての生命を毒で絶てるスタンド能力を持っている、大勢の人々を殺してきたギャングが何を言っているのだろう。今更命の尊さを説かれても困る。何故ならそれはもう充分に『失う』という形で学んでいる。
「軽んじているのは……アンタの方だ」
 自分の事だと思い隻眼の妊婦は膝の上の紙ナプキンをぎゅっと掴む。しかしジョルノの目は真っ直ぐにフーゴに向いていた。
「僕が、ですか」
「恋愛をして交際をして結婚をして、新たな命が誕生して親愛に変わる。最初の恋愛を違う相手に向けたまま結婚して子供を育てるなんて、そこに……」
 そこに愛情は生まれる物なのかもしれない。
 ただ自分に与えられなかっただけで。
 寂しい、虚しい、悔しい、悲しい。湧き上がる理解出来ない感情が抑えられず、ジョルノはその場に立ち上がる。
 結婚したければ組織を抜けてすれば良いと、自分の配下には置いておけないのだと怒鳴り付けてしまえば良かったのに。そう思いながら逃げ出すように店の外へと走った。

 円形を約半分にするのはそこまで難しくはない。縦に真っ直ぐ線を引くだけなのだから意識すれば誰でもそれなりに出来る。
 つまり左右でかなり大きさの違うカットピザが出来上がるという事は、ミスタは何も考えていないのだろう。
 2人で分けて食べるのだから、そこから更に半分にして4分の1ずつにすれば、左右不揃いの上にもう1つ不揃いにすれば総量は同じになりそうだ。
 しかしミスタは4という数字が大嫌いだった。
 半分になったピザを3分の1に切った。それも先のフーゴと違い適当を極めた切り方なので3つ共大きさが全く違う。
 繰り返すが2人で食べるピザだ。6つにまで分ける必要は全く無い。
「無駄な事を」
「何か言ったか?」
「いいえ。無駄じゃあない、意味の有る事だった」
 4つに分かれた物を見ないで済めば目の前のミスタの機嫌が悪くならない。鼻歌の1つでも歌い出しそうな『ご機嫌』のままでいてくれる方が、一緒にかなり遅い昼食を取る相手の機嫌は良い方が良い。
 それに久しく自分でピザを切り分けていないジョルノとしては失敗してからかわれるより切ってもらう方が良い。またかなり大きなピザなので4つより6つに分けた方が食べやすい。1人納得し炭酸水を飲んだ。
「てっきりマルゲリータにすりゃあ良かったって言ったのかと思ったぜ。お前はピッツァと言えばマルゲリータって位マルゲリータ好きだろ」
「ネアポリスに生まれてマルゲリータを嫌いな人間なんて居ません」
 それだけ美味い。
「お前生まれたの日本って言ってなかったっけ」
「撤回します。ネアポリスに育ってマルゲリータとマリナーラを嫌いな人間なんて居ません」
「ああマリナーラも美味いよな。で、そんなチーズの無いピッツァも好きなお前がどうして、チーズだけのピッツァが食いたくなったんだ?」
 人類の縮図かと思う程に不平等過ぎる6つに分かれたクワトロフォルマッジの1切を取って齧り付きながらミスタは尋ねる。
 小一時間前に居たホテルレストランで見たクワトロフォルマッジが大変に美味しそうだったから。同じグループのレストラン――但しこちらは比べるとかなり敷居の低い、『リストランテ』ではなく市街地に有る中では高級寄りというだけの『トラットリア』――に入ったのなら注文せずにはいられなかった。
 しかしどこから話したものか、という面倒臭さが有ったのでジョルノは「美味そうなので」とだけ答えた。ブルーチーズは使われていないようだが黒胡椒らしきスパイシーな香りがして実に美味しそうだ。
 フーゴとその仮称婚約者とについて相談したいわけではない。愚痴として零した所で同意は得られないだろう。的確なアドバイスをされては逆上したくなるだけなのが目に見えている。
 それでもミスタに会いたかった。レストランを出てホテルの廊下を走りエレベーターに乗り込み、そこで電話を掛ける位に。
 ジョルノの一緒に昼食をとらないかという提案にミスタは今手が空いた所だと答えこの店はどうだと言われた。
「……蜂蜜、掛けないんですか?」
「あ?」
 ミスタの目がピザの皿の隣に置かれた小さな容器に向く。
 先程の純粋蜂蜜とは違い水飴の多く含まれているであろう蜂蜜。
「俺ピッツァに蜂蜜は付けない派」
「美味いのに」
「だからお前が全部使って良いぜ」
 嬉しい言葉に顔が綻ぶ。今日起きてから初めて笑った気がした。
 今朝は目が覚めると既にミスタの姿は――ソファにも部屋のどこにも――無く、食卓テーブルに「シャワー使って良し、合鍵無いからスタンドで出入りしてくれ」と走り書きのメモが有った。御言葉に甘えシャワーを浴びてドライヤーも借り、スタンドでドアを植物にして外に出た。きちんと施錠されたドアに戻してある。
 その時は未だフーゴが結婚したいと思う相手とはどんな人間なのだろうと、良くも悪くも想像が付いていなかった。
「お前蜂蜜好きなのか?」
「それ程じゃあ……ないけれど、チーズと蜂蜜の組み合わせは他のメニューで食べる事が無いので」
 独占を許可されたので蜂蜜の容器にピザの一切れを突っ込みディップする。
「切羽詰まった感じだったから緊急を要するのかと思ったら飯を食おうだし、実際に会ってみたら本当に朝から何も食ってませーんって顔してるだけだし、まあ俺としちゃあ安心したし頼られてるって感じもするから良いんだけど」
 思えば昨日交際を申し込まれた。つまりは愛の告白だ。愛されているという驕りが有るから断られないと踏んで誘った、とは思われていないようだ。
「頼りにしていますよ、貴方の事は」
 この前向きさはやはり良い。心地良いし、素直に好きだと思えた。
 嗚呼そうだ、好きなのだ。今抱く好意こそが恋愛感情で、人間はこれを元に交際し、年齢を満たした男女であれば結婚をする。
 好きでもないのに交際を飛ばして、この国では1人としか出来ない結婚をそんな所に使ってしまうなんてどうかしている。それともフーゴは本当に仮称婚約者の事を好きなのだろうか。目を患った妊婦に同情しているだけに過ぎない筈だ。それも名前が、偶然『彼』の名前だからに違い無い。
 フーゴには彼を好きでいてもらいたい――のは、何故だろう?
「僕はナランチャの事が好きなのかもしれない」
 勿論今日初めて会った女性の事ではなく。
 かつてチームを共にしていた、今は亡き仲間のナランチャ・ギルガ。2つ程年は上だったが自分よりも小柄で童顔で見た目の通りに明るく名前の通りに爽やかで、今頃空の上で他の亡き仲間達と上手くやっているだろう。
 恐らくだがフーゴとは特別深い仲だったように思う。確かにナランチャは死んでしまった。フーゴに新たな恋に踏み出すなと言う権利なんて持ち合わせているわけがないし、そもそも同性同士だし恋愛ではなかったのかもしれない。それでも、未だ暫くフーゴにはナランチャを想っていてほしい。
 そう思い呟いたジョルノが顔を上げると、ミスタが目も口もポカンと開けていた。
「どうしました?」
「いや……そうなの、か?」
「何が?」
「お前今、ナランチャが好きって」
「ミスタは彼の事を好きじゃあなかったんですか?」
「いや好きだけど」
「僕だって好きでした。いや過去形じゃあなく進行形で好きです」
 死んでしまったって向ける気持ちは変わらない。
 ただもう2度と会えないだけで。会えない寂しさが上回れば好きではなくなるのかもしれない。フーゴは今その状況なのだろうか。この解釈には無理が有るだろうか。
「恋人にしたいって意味での好きとかじゃあないんだな?」
「違います」
 そう思っているのは自分ではない。別の人間だ、と思っている。別の人間の彼であってほしい。
「なら良いんだけどよォ、俺昨日言った通りお前の事がそういう意味で好きなんだぜ? ここで恋愛相談とかされたら堪ったもんじゃあねーからな。相手の男だか女だかをぶっ殺してた所だ」
 倫理観の有る人間ならばここで、こんな所で殺すなんて物騒な言葉を使うなと言うのかもしれない。しかし自分達はギャングで既に何人もの人間を殺してきた。殺されて当然の人間しか殺していない、は言い訳にはならない。
 生命を奪ってきたのは事実。特にミスタは引き金1つで容易に葬ってきた。蔑ろにしているのか。それとも殺してきた人間だからこその言葉のあやなのか。
「男でも女でも、ですか」
「お前が男は駄目だったら、昨日の時点で俺の事無理だ何だ言ってるだろ」
「でも女も対象かもしれないと思っている」
「そこは、まあ。兎に角、どっちが相手でも俺は殺してやりたいの。まあ1番好きな奴が居なくなった所で2番じゃあなきゃ繰り上がらねーし、そもそも好きな奴殺されたら腹立って嫌われるかもしれねーって話だけど。だけどよォー人の好きな奴掻っ攫ってく野郎なんざぶっ殺したくもなるだろ?」
 店員も他の客もこちらを意識していないのは幸いだがそろそろこの話題は切り上げた方が良いだろう。
 しかしその前に1つ訊いてみたい事が有る。
「もしも僕がフーゴを好きだったら?」
「フーゴを? 好きなのか? そういう意味で?」
「もしもの話です。貴方が殺したいと思う僕の1番好きな人、仲間のフーゴだったらどうするんですか?」
「殺す」
 潔い即答。
「本当に?」
「あの世でナランチャに会わせてやるよ」
 フーゴの好きな人は離れた所にだが既に居る。だから辞めて自分にしておきなさい。
 やはりミスタにとって「殺す」は使いやすい動詞でしかないらしい。こっちの方が余程命を軽んじているじゃあないか! と言った所で、本音ではないのだからと宥められてしまう種類だ。
「ミスタ、聞いて下さい」
「はいはい」
「どうやら僕は自分の考えを否定されるのが好きじゃあないみたいです。こうした方が良いと言った提案の話ではなく、自分の好きな物はこうだといった日頃の思考の話です」
 例えばチーズのたっぷり乗ったピザに、更にたっぷり蜂蜜を付けて食べる事を否定されたら。
 それでは本来の味が、という否定なら仕方無い。作った人間に言われたら尚の事。だがチーズと蜂蜜の組み合わせを好いてはいけないと言われては腹が立つ。害は無いし食べるのはこちらだ、と反抗するだろう。
 指先が汚れる位に蜂蜜を付けてサクサクの「みみ」まで食べ切り手を拭いた後に、残る中でも大きめの次のピザへ手を伸ばした。
 ピザを軽く畳み蜂蜜の入っている皿に付ける。チーズのピザで蜂蜜をすくい上げるような食べ方。見栄えが悪いと言われたらその人の前では控えるが、それはピザの食べ方ではないと言われるのは困る。
 堕胎という母体に酷く負担の掛かる行為を勧めるなと言われたら撤回した。だがその考え方は生命を軽んじているのだと、だからその思考回路を変換しろと言われても、生まれ育った環境に言ってやり直させてくれとしか思えない。
「それは人間誰でもそうなんじゃあねーの? あーそうだ、ナランチャといえばよォ、『ナランチャ』って普通女に付ける名前だろ?」
「まあ比較的」
 名は体(てい)を表す、等と言われては困るので肯定らしい肯定はしなかった。
 『ジョルノ』という名前は男性に付けられる物だが、生まれた国で母に付けられた本来の名前は女性に付けるのが一般的だ。
「結構前だけどナランチャって名前の女に会ってさ。その時は笑い堪えたし、戻ってナランチャに会った時もまた笑い堪えんのに大変だったぜ」
「それ笑う所なんですか?」
「笑うに決まってんだろ。ナランチャと同じ名前の女だぜ?」
 ピンとこないので適当に相槌を打ちながらピザを食べる。
 ナランチャという名前の女性なら会った。先程まで話していた。笑うに笑えない話を。初対面の彼女を嫌う理由は無いのに、あの小綺麗だが片目の無い顔をもう暫くは見たくない。
「女のナランチャは娼婦だったんだけどさ」
「何?」
「娼婦だよ娼婦。元、な」
 もしかして先程ジョルノが会った、同じ人間の話をしているのだろうか。
「今は……娼婦じゃあないんですか?」
「俺が会った時が辞める時だった。結婚するだかしただか言ってたな。後腐れ無く辞めたいっつー相談をしてきたんだよ。まあそこそこ売上立ててたみてーだけど、俺達が引き止める義理とかは無いわけだからお好きにどうぞで話は付いた。もし客が脅してきたとか有ったら追い払う位の事はしてやるけど、少なくとも俺の知る範囲じゃあ未だ聞いてないな。そいつも他の元娼婦も」
 どこかでアイツの妻は元娼婦だと陰口を叩かれているかもしれないが、それは変えられない真実なのでどうしようもない。過去は過去と割り切れないならば娼婦以外の生き方は出来ないし、娼婦を妻に迎え入れられない。
 元娼婦だからといって不倫するのではと言われる事は無いだろう。彼女達は金が欲しいから抱かれているだけだ。それを言われたら金と引き換えに自分達ギャングが乗り込んでも良い。
 夫にだけそれまでに身に付けた技を披露しているとしたら逆に羨ましく思える。見た目に美しい事は確定しているし――等と考えられるのは、自分達がギャングで娼婦と接点が多少なりとも有るからかもしれない。
 同一人物か否かわからないが、彼女は幸せな結婚をして子を宿したのに夫に先立たれたのかもしれない。だとすると失礼な見方をしてしまった。
 ギャング組織のボスである自分は最も『職』を差別してはならない立場にあるのに。金になるかならないかだけで判断しなくては。
 でも、それでも、違う男の子供を連れているのはマイナスだ。そうだ、フーゴの結婚を反対したいのはそれが理由なだけだ。胎児の父親は良い夫だったのかもしれないが悪い男だったのかもしれない。
「僕だって娼婦が結婚しちゃあいけないとは思わないし、妻が元娼婦だからと言って見下したりしない」
「急にどうした? 俺も体売ってんのが誰でも誰の嫁でも気にしねーけど」
 ジョルノの胸中を知らないミスタは飄々と返して自身の唇の端に付いたチーズを親指で拭って舐め取る。
「僕の妻が元娼婦でも?」
「気にしねーな。告白した矢先に結婚すんのかよってツッコミ入れて終わる」
「じゃあ僕が元娼婦だったら――これだと言葉が可笑しいな。僕が体を売って生計を立てていたらどう思います?」
「女相手なら避妊には気を付けろよって言う。あと男相手ならこの後付いてきてもらうな」
 辞めさせる選択肢は無いようだ。交際を断念してるのか、恋人が男娼でも金に余裕が出来て良い程度に思っているのか。
「……って、この後? 新たな任務を入れたんですか? 今日は昼前の会合1つだったと思いましたが」
「それにお前を駆り出すんだよ」
「終わってない?」
「どこまでいっても平行線っつーか、あのスケベジジイ一向にオッケー出さねぇから腹立ってよー」3切れ目のピザに手を伸ばし「そこにお前から電話有ったから昼飯食ってからもう1回話し合おうっつって出てきた。こっちはもう話す事なんて無ぇけどな」
 大口を開けてかぶり付く様子は見ていて気持ち良い。
「マジでお前この後来る気無い? ちょっとそれっぽい格好して」
「それっぽいって、娼婦の? 僕はこの通り男ですが」
「あのスケベジジイなら充分いけるって。見るからにスケベそうだからな。寧ろ男の子なんて貴重な体験だっつってこっちの話呑むかもしれねーな。お、マジでこの作戦イケるんじゃあねーか? お前なら篭絡(ろうらく)した後スタンド使って上手い事逃げてこられるだろうし」
「まあどうとでも出来ますが」
 抜け出す時に小遣いを追加で頂いてやる事だって。
「入る金は上納でお前の所にいく。で、俺は自分のお小遣いで任務達成祝いにそこそこの娼婦のおねーちゃんと宜しくやる」
「それは気に入らない」
「どこが?」
「最後に娼婦を買う件(くだり)が。商売女を抱く事がそんなに祝いになるんですか?」
「スッキリ気持ち良いだろ。偶にはそういう事しないと男として腐っちまうぜ? お前が一緒に任務達成だってシャンパン開けてくれるんなら腐らせといても良いけど、でもお前なァーあんまり酒飲めないからなァー」
「飲めないわけじゃあない。そこまで強くはないから余り飲まないだけです。酒より美味い飲み物も知っていますし」
 例えば紅茶とか。砂糖の代わりに蜂蜜を入れて飲むのも良い、と唇に付いた蜂蜜を舐めて思い出した。
「昨日は確かに飲み過ぎました。でもそれは色々と考える事が有った所為に過ぎない。迷惑を掛けたし僕がベッドを陣取ってしまったけれど、今日はこの通り残っていない。第一そこまで飲まなくちゃあならなかった理由は誰に有ると思っているんですか」
 ミスタだけが理由ではないが。寧ろ今はそれ以上に考える事が有る。
 先程赤ワインをがぶ飲みしなかった事を誉めてもらいたいが、どこで誰と飲んできたのか聞かれたくないので黙っておいた。
「コインの表裏で決めちまえばあ?」
「裏が出たらどうするんですか」
「俺と付き合うのが『表』ってわけね」
 チェシャ猫が化けていたのかと思うようなニヤニヤ笑い。
 嗚呼その通りだ、こうして2人で食事をするのがとても楽しい。だから本当は申し込みを受け入れてしまいたい。
 交際すればこういった時間がより増える。今よりも親密な話も出来るし、言葉だけではなく肌も触れ合える。
 男同士だが触れ合ってみたい。寧ろ望んでいる。スケベジジイとやらはお断りだが、目の前でピザを食べきり炭酸水を飲む彼とならば。
「で、裏が出たらどうするんですか」
 諦められてしまうのだろうか。それは悲しいと思った。
「出ない」
「凄い自信だ」
「出させねーよ」
「貴方の幸運に掛けて?」
「おう。まあ本当の所はコインに細工するんだが」
 投げる前にそのコインが可笑しくないか確認すると言って取り上げ、表しか出ないように細工したコインとすり替える。
 イカサマはするのに酔わせて襲う真似はしない。誠実なのか否か。
「そうして俺の物になったジョルノはスケベジジイに差し出せねーから、代わりにフーゴでも差し出すか」
 いきなりその名前が出てきて心臓が飛び出るかと思った。
「アイツは演技とか一切せずに、ちょっと触られただけでブン殴っちまいそうだけど」
「そうですね……」
「ん? どうかしたか?」
「何も」
「フーゴに断られたらやっぱりお前を、とか考えてねーって」
 ジョルノは平然を装い炭酸水を飲む。
「でもスケベジジイに差し出すって意味じゃあなく、マジでフーゴが居た方が話は良い方向に運ぶかもしれねーんだよなあ。アイツ頭良いから。あと見た目が真面目そうで嘗められねーってのもデカい」
「ミスタの方が年も上だし体格も良いし、何より拳銃使いとして牽制出来るから話を進めやすいのでは?」
「そういうのに屈しねージジイなんだよ」
 参ったなぁと帽子越しに頭を掻いた。
「……フーゴに連絡してみたらどうですか」
 名前を出すのに勇気が必要だった。だが自然と、間違えたりせずに言えた。癒しや落ち着きを得る為にもっと糖分が必要だ。ピザの端に蜂蜜をたっぷりと乗せて口に運ぶ。
「アイツ今日オフだろ」
 恋人と、婚約者と過ごしている所を邪魔出来ない。否、ミスタは隻眼の妊婦がフーゴと親しい仲だと知らない筈だ。単に「寝ている所を起こしたら悪い」といった意味合いだろう。
「大丈夫です、きっと。貴方が真剣に頼めば来てくれる。僕の名前を出しても良い」
 仮称婚約者よりも優先してくれる、優先してもらいたい。
「お前から連絡っていうのは?」
「それは、無しです」
 電話であっても未だ話は出来そうにない。
「だよな、2人で仲良くピッツァ食って、仕事になったら呼ぶのかって怒られちまうよなあ」都合良く解釈してくれたミスタは携帯電話を取り出し「でも本当に、ちょっぴりで良いから来られないか聞いてみるか」
「じゃあ僕はこれで」
 食べ掛けのピザを口の中に残したまま立ち上がった。
「帰んのか?」
 咀嚼しながら頷く。
 フーゴから離れたくてここに居るのだから、目の前で電話をされてはここに来た意味が無くなってしまう。
「終わったら報告の電話しても良いか?」
 それにも頷き、ピザの代金の半分プラスアルファ――飲み物の金額は覚えていない――をテーブルに置いた。
 ミスタと居るのはこんなにも『良い』のに。次はどこに逃げれば良いのだろう。

 ジョルノは学生寮の自室でベッドに腰を掛けぼんやりとしていた。特に何をするでもなく、何かを考えるでもなく。無駄に時間が浪費されてゆく。
 昨晩酔いに任せて眠ったが質の良い睡眠がしっかり取れていたらしく体の疲労感は無い。眠たくない。眠ってしまう方が体力が回復出来て良いのに。だがこんな日も有っても良いだろう。自室に1人、自分だけの時間を過ごしても。
 自分の部屋が欲しいだけならアパートメントを借りれば良いのにと、寧ろ土地と家とを買ってしまえば良いのにとよく言われるが、しかし生活に必要な事柄をせずに住んでいられる学生寮から出たくない。
 入居の手続きを代わりにしようかと言ってくれたのは――嗚呼そうだ、フーゴだ。違う事を考えたいのに、考え事をするだけで彼の名前が浮かんだ。
 眠たくないし寒くもない。なので布団は掛けずそのままベッドへ倒れ込んだ。安物のベッドだが優しく抱き締めて受け止めてくれる。
 目を瞑ったタイミングで携帯電話が鳴った。
「電話……」
 声に出して服のどこかに入れっ放しになっている携帯電話を探す。
 先程の別れ際にミスタが報告の電話をすると言っていたからそれかもしれない。彼と話して平穏を、『ジョルノ・ジョバァーナの日常』を取り戻したい。
 すぐに見付かった携帯電話に表示されているのはやはりミスタの名前。受話ボタンを押し耳に当てた。
[俺]
 詐欺か、と笑みが溢れる。
「お疲れ様。で、あってますか?」
[あってるあってる。あー疲れた]
 まるで毎日昇る太陽のようないつも通りぶりに心底安堵した。
[お前今どこに居る? 誰かと居んのか?]
「学生寮の部屋に1人で居ます」
[じゃあ暇だな? これからナランチャの墓参り行こうぜ]
 一言の中に色々と詰まり過ぎていて一瞬返事が出来なかった。暇呼ばわりするなと言えば良いのか、それとも。
「……ナランチャの?」
 その名前を今は聞きたくなかったし、言いたくなかった。声にしてしまった唇を指先で触れる。
[おう]
 聞き間違っているなんて事は無く、勿論同名の別人――例えば昼に会った女性だったり――でもなく。
「……今から行くと、着く頃には真っ暗になっているのでは」
 彼の墓参りならいつでも行ってやりたいのに否定に近い言葉が出た。
[ええー!? ジョルノ怖いのかァー?]
 ムキになって否定した所を連れていく魂胆か。そんな事をしなくても普段ならば時間等気にせず行くのに。普段ならば。今この心境でナランチャに会えるだろうか。
「ミスタが居れば大丈夫かもしれない」
[何だって? 行くって?]
「はい、行きます。車で迎えに来てくれるんですよね?」
[帰りも送ってやるぜ。あ、今日も俺ん家泊まるか? 近くで飲んでそのまま泊まるのも有りだな]
「そんなに首尾が良かったんですか?」
[フーゴのお陰でな]
 彼の名前が出るのは予想の範疇内なのでそこまで動揺しなかった。やはりしっかり仕事の出来る人間だ。
[で、そのフーゴがお前とナランチャの墓参りに行きたいって言い出してよォ]
「え?」
 電話の奥で恐らくフーゴのそれだろう声が「言うな」だの「止めろ」だのと聞こえてくる。
 何故終わってすぐだから未だ一緒に居るだろうと思わずに電話に出てしまったのだろう。否、それよりも何故一緒に墓参りに行きたがり、それをミスタに連絡させているのか。
[ジョルノ]
 電話口の声がフーゴに変わった。
「っ……はい」
 躊躇いは有るが何とか返事をした。聞かれないように一旦電話を離して深呼吸する。
 フーゴに落ち度は無いのだから。悪いのは自分だ。生命の新たな誕生を喜べない、やはり命を軽んじている自分の方なのだ。
 相手の名前がナランチャでなければ、腹の中の子がフーゴ自身の子供であれば、娼婦でなければ健康体であれば、彼女でなければ。全て違えば、果たして祝福出来るのだろうか。
[こんな形ですみません。ミスタの電話から、ミスタから連絡させて。でも僕からじゃあ……出てももらえなかっただろうから……]
 どうしても「そんな事は無い」といった言葉が出てこない。
[……でも、貴方のお陰で気付けた事が有った。それを報告に行きたい]
「僕と一緒でなくちゃあならないんですか?」
[はい]
 即答。
[だからミスタも一緒に、と。僕と2人きりじゃあ、それもきっと断られてしまう……]
「ミスタはオマケですか」
[ははっ]
 フーゴの笑い声が嬉しかった。
 多分フーゴの後ろでミスタが何事かと聞いているだろうし、自分も少し笑っている。
[そうです、そういう扱いです。だからどうですか? 今ならミスタの運転による送迎付きですよ]
「なら行きます」
 これだけ大きなオマケ付きならきっと、ジョルノもフーゴも大丈夫だろう。

 すぐに学生寮まで迎えに来てくれた車に乗り込み――寮生がまた出掛けるのかと聞いてきた。少しだけと答えた――墓地へと向かった。
 ミスタがジョルノにもフーゴにも話し掛けるので車内の空気は重たくならなかった。話題もピザの具の何が好きで何は不味かったかといった物なので2人共『いつも通り』に話せる。
 何か有ったのでは、位には気付いているかもしれない。それで適当な話を振ってくれているのかもしれない。
 案の定日も落ちきった頃合に墓地に着いた。薄暗い中に墓標が並んでいるのは流石に不気味だった。
 地元の墓地に母と並べて眠らせてやって良かった。参る側として。
「ここか」
 墓に刻まれた文字がよく見えないので不安だったがミスタが見付けてくれた。ナランチャの眠る墓。左隣には彼の母親の墓が有る。
 父親は来ているのだろうか。荒れてはいないが花が供えられたりもしていない。
「あ……花を、用意していなかった」
 フーゴが肩を落とす。途中どこにも寄らなかったから仕方無い。それに花ならばすぐに出せる。ジョルノは両手を前に出し、スタンド能力で花を生み出した。
 夜空の下に映えるように月下美人を。ナランチャらしさには欠けるが、白く儚く咲く花は墓参りには丁度良い。
「便利だよなあ、墓参りとか見舞いとか、女へのプレゼントとか出し放題じゃあねーか」
「必要な時は言って下さい」
 言い終えてからフーゴの前で言った事を少し後悔した。植物ではあるが生命を容易に生み出せる、軽い気持ちで扱っていると思われてしまう。
「トマト食いたくなったら出せる?」
「実だけ、は無理ですが」
 熟す前の青い実が付いた苗木なら出せるだろう。
「じゃあ牛肉は?」
「牛か……四つ足の動物は出した事が有りませんが、今度仔牛から試してみます」
「僕にはもう少し現実的に苺をお願いします。赤くて丸くてデカいやつを」
 いつものようにフーゴも会話に加わる。
 嬉しかった。とびきり美味しい苺を幾らでも出してやりたい。そう思って目を向けたフーゴの顔――目が合わないように顎の辺り――は少し寂しげだった。
 そんな彼が1歩前へ出て墓との距離を縮める。
「ナランチャ」
 刻まれている名を呼ぶ。邪魔をしてはならない気がして息を飲んだ。
「僕は君と同じ名前の人を助けていく事にした」
 隻眼の妊婦は今もどこかでフーゴの帰りを待っているのだろうか。ミスタが仕事に呼んでしまったので残念に思っているのだろうか。
「でもそれは結婚とかそういう形じゃあない」
「え?」
 折角何もわからないミスタも黙っていたのにジョルノの方が驚きに短い声を漏らす。
「金銭的な支援をしていきます。それは彼女がまた働けるようになったらきっちり返してもらうから、支援じゃあなく貸すだけか。利子をたんまり付ければいつもの事ですね」
 女に返しきれない借金を背負わせて体を売らせるのはギャング稼業の1つ。
「2人で昼食を食べながら話したんです。僕はプロポーズらしいプロポーズをしていない事に気付きました。でも……プロポーズは出来なかった。したくないから。僕がそういった事を言いたいのは1人だけだから」
 離れ離れとなった日よりも前から、もうずっと。
「君に言うのだって躊躇われるけれど。君はきっと茶化しますよね。縁が無かったから気付けず何を言ってるんだと笑って、本音だと知ったら恥ずかしくてそんな筈は無いと笑って」
 フーゴはちらとすぐ横のナランチャの母親の墓に目を向けた。
「もし君が今母親と一緒に居るなら訊いてみてほしい。そんな事が有るのかと。君は父親と仲が悪かったけど、父親と母親が愛し合って君が産まれた事に変わりは無い。だから愛されたらプロポーズを受ける事も有るのだと、そういった大きな愛情も有るのだと教えてくれると思います」
 ナランチャの母親がどんな人物だったのかはわからない。だが彼を産み育て愛したのだから、きっと素敵な女性だったのだろう。
 他の誰かにとっては平凡な女だったかもしれないが、それでもナランチャにとっては無償の愛を注いでくれた母親だ。
「君は僕が女性と愛し合って結婚する事になったら、それが知らない女性でも祝福してくれると思う。でも……いや、だから大して好きじゃあない同士の結婚だったら反対すると、反対してくれると思う」
 何だってそんな奴と結婚するんだよ、フーゴ! 結婚だぜ、結婚! もっとよく考えろって。何で頭良いのにそういう所は考えられないんだ?
「だから僕は結婚しない。生涯する事も無いと思う。だけど困っている女性や幼い子供を助ける良い人になったり、女を借金まみれにさせる悪いギャングになるのは、許してくれますよね?」
 ナランチャがもし生きていたら何と返事をしていただろう。ミスタ同様何も聞かされていなく、ぽかんと口を半開きにしているかもしれない。
「子供に父親が必要無い事は僕よりも君の方がわかっているだろうし。金が有れば片親の愛情で充分だ。1人の親が2倍愛せば良いだけだ。あの人は2倍以上に子供を愛する事が出来る人だから、だから大丈夫だと先刻気付いた」
 フーゴの言っている事は尤もで、だからこそジョルノは俯く。
 父親が居ないのならその分母親が、母親が居ないのならその分父親が、子供に愛情を注げば良い。親から子への無償の愛を。
 羨ましい。
 口を衝いて出なかっただけ自分を誉めてやりたかった。
 どろどろと粘り気の強い重たい感情を抑え付けられるだけの冷静さが未だ残っている。
 深く息を吸い、それを吐き出す。気付いたミスタの視線が痛い。視線自体は不安そうな物なのでそれを向けられている『心配される自分』の在り方が痛い。
「大丈夫です」
 極力小さな声で、フーゴには勿論ミスタにも聞こえないかもしれない位の声で言った。
「僕は結局君が好きなんですよ」
 だから同じ名前の女性に肩入れし過ぎてしまった。そんな勘違いに気付き同名の女性に謝罪し、それだけでは気分が晴れないので自分の我儘でしかないのにここまで来た。お陰でフーゴの背中はそこから憑き物が取れたような清々しさをしている。
「ジョルノにも迷惑を掛け――」
 振り向いたフーゴは言葉を続けない。目が合うと酷く驚いたような、動揺したような様子を見せた。
「……すみません、嫌な思いをさせてしまった」
「いえ……」
 声が掠れていた。もしかしたら自分は泣いているのかもしれない、とジョルノは漸く気付けた。掌底で目頭を押さえる。
「……フーゴが、ナランチャを好きで、良かった」
 自分の代わりに亡くなったと言っても過言ではない彼が、無償『ではない』愛を受けていて。
 無償の愛は誰もが親から受けられる物で、ナランチャにはそれ以外の愛を貰っていてほしくて、なのに何故自分は無償の愛を得られていないのだろう? 生まれてきたからには親から愛されるのが当然なのに、どれだけ見返りを要する愛を手にしようとも無償の愛を注がれる事が無いのは何故だ?
「なあジョルノ、フーゴもナランチャと積もる話が有るから帰らねーか? 俺はもう話し終わったし、お前もだろ」
 元気にやっている、と伝えられれば充分なので「そうですね」と返す。
 ナランチャと深い内容ではないのに決して無駄ではない事を沢山話すのはフーゴの役割であってもほしい。
「じゃあ俺達は先に帰るわ」
 誘ったフーゴはジョルノと共に来なければ意味が無いような口振りだったが。
「わかりました」
 既に目的は果たせたようだ。
 結婚の話は白紙に戻した。理由はジョルノの予想や願望の通りナランチャが好きだから。それをジョルノとナランチャに揃って伝えられたので、後はもう各々の自由時間。折角ここまで足を運んだのだから2人きりにしてやろう。
「行くぜ、ジョルノ」
「はい。じゃあまた」
 フーゴと、それからナランチャも。
 墓地を抜ける道すがら自分達が車で帰るのならフーゴはどうするだろうと訊いてみた。実にミスタらしいいつもの調子で「知らねー」という短い答が返ってきた。

 風呂に『浸かる』のは久し振りだった。学生寮のシャワールームには浴槽が無いので――有ったとしても他の学生と並んで入らなければならない。それは避けたいから結局利用しないだろう――最後に入ったのは入学前だ。
 否、養父が湯に浸かるのを面倒臭がるタイプで家の狭い浴槽は滅多に湯が張られなかった。年に1、2度も無かった。
 更に前、生まれた国に居た頃はどうだろう。母はよく風呂を沸かして入っていたような気がする。
 気の所為かもしれない。だが結婚後のその年に1、2度の風呂の日に上機嫌でどこからか買ってきたバスソルト――そう呼ばれている安価な麻薬が有る事を思い出した。勿論関係無い――をたんまり入れてかなり長い時間入っていた。その印象が強いだけで日本に居た頃から、母が未だ独身だった頃から余り『風呂』には入っていなかったかもしれない。
「こんなに気持ち良いのに」
 声が余り広くない浴室に反響した。
 ミスタの運転で途中夕食を取ってから彼の部屋に来た。今日もまた泊めてもらう事になった。今度礼にケーキか何か彼の好む物を買ってこようと誓う。
 昨日とは違い意識がはっきりしているので今日は自分がソファで寝ると言い張ったのだが、しかし客人だのボスだの何だので今日もまたベッドを使わせてもらえる事になってしまった。
 それから「疲れてるだろ? ゆっくり風呂に入っとけ」と沸かしてくれた。ミスタも普段はシャワーで済ますだけのタイプらしい。
 流石に風呂ばかりは先に入ってもらった。カラスの行水とはこの事かという程早く上がってきたので、もしかしたら湯には浸からなかったのかもしれない。自分の為に有難うと礼を胸の奥で呟いてジョルノは洗い終えた顔に浴槽の湯をばしゃばしゃと掛ける。
 風呂は色々な意味で一緒に入れないが、ベッドで一緒に寝る事は不可能ではない。しかし今の関係では駄目か。恋人同士か、互いに全く恋愛感情を抱いていないか、そのどちらかでなければ。
 告白されたのだから後者になる事は絶対に無い。手酷くフッたとしても想いはそう簡単には変えられまい。
 ならば一層恋人同士に――
「ジョルノ」
 浴室のドアをノックする音に重ねてミスタが名を呼ぶ。
「携帯鳴ってるぜ」
「誰からですか?」
「……『東飲み屋年増1』」
 読み上げたミスタも登録したジョルノも吹き出し笑った。
「お前凄い呼び方してんな」
「呼んではいません。名前なんて覚えきれないし、そもそも覚える必要が無い。だからどこのどんな人間かで登録した方がわかりやすい」
 合理的だと誉められても良い位だ。
「東の飲み屋の年増で1……ああ、あの面倒臭い女だ」
「1回切れてもう1回鳴ってるから重要な案件かもしれないぜ?」
「代わりに出て下さい」
「俺が?」
「他に誰が居るんですか。僕は今風呂に入っていて手が離せません。濡れた手で使ったら携帯が故障してしまう。貴方を信用出来ると見込んで頼んでいるんです。仕事関係ならすぐに対応してくれるでしょう」
 そして下らない用件でも何とかしてくれるだろう。
「貴方はそういう男だ」
「もっと誉めろ」
「貴方の手に握られて満悦の携帯電話、耳を当てられたりしたら昇天してしまう」
 それ誉めてんのか? と言われるつもりで茶化したのだが。
「はいもしもし。……名前聞く時は自分から名乗れよ。……あ、そう。で、ジョルノに何か用か? 起きたら伝えといてやるぜ。……は? 起こすわけねーだろ、テメー何様のつもりだ」
 早速受話して強気に話し始めた。そうだそうだ、正式な名前を携帯電話にも登録するのを手間に思う程度の関係だ。もっと言ってやれ。
「俺はコイツの背中まで知ってるぜ。……ああ、そういう事だよ。で、用件は? ……それを俺が伝えると思ってんのか? テメーも良い年なんだからわかるだろ、俺達がどういう関係か。……わかった、それは伝えとく。じゃあな」
 言い終えて早々に通話を終了させたようだ。電話は掛けてきた側が切る、なんてお上品なお作法はギャングの世界には不要。偉い側が切りたい時に自由に切る。
「どんな要件でした?」
「伝えるって言っちまったもんな。「金は要らないから店に遊びに来てくれ」だとよ。今暇してるらしい」
「因みにその前は」
「個人的な話がしたい」
 ミスタがふん、と鼻で笑った。
「コイツそういう電話よくしてくんのか?」
「過去に1度有ります。だが2度『仕事』に関する電話も有った」
「となると着信拒否は出来ねーか」
 だからすぐには出ないようにある意味わかりやすい名前で登録してある。
「で、お前は未だ風呂入ってるのか? 湯冷めするなよ」
「未だ湯は温かいので湯冷めの心配は不要です。ただ少し退屈になってきた。話でもしませんか」
「ここで? 顔も見えないのに?」
「電話だと思って」
 今しがた電話でやり取りした内容が内容なので互いにくすくすと笑い合った。
「ミスタ」
 名前を呼んだ直後に座る気配がした。文字通り腰を据えて会話に付き合ってくれるようだ。
「貴方の『母親』はどんな人ですか?」
「母親……?」
 はてその言葉の意味は、と眉を寄せている顔が目に浮かぶ。
 ジョルノはざばと音を立てて湯船の中で体をよじり浴槽のへりの上で両腕を組んだ。
「どんなって言われてもなぁ……別に普通だぜ」
「普通とは?」
「じゃあお前の母親はどんな奴なんだよ」
 自分で言った事だが確かにこれは難問だ。
 日本人で顔立ちはとても整っていて、真っ黒い髪を長く伸ばした女性らしい女性――これは『母親』の説明になるのだろうか。
「母親って何なんでしょうね」
 そんな物は「子供を産んだ女」に決まっている。
「子供を育てた女」
「え?」
「子供を育てた男が父親、だろ」
「……まあ、父親に関してはそうなんでしょうけど」
 幾ら妻との間に積極的な夫婦関係が有った末に子供が出来て、その子供の顔や声がそっくりであったとしても、DNA鑑定をしてみなければ絶対に自分が父親だとは言えない。
 一方で母親はその体から子供が出てくるのだから、取り上げられた瞬間から絶対に自分が母親だと言える筈だ。
 代理母出産のような相当特殊な場合を除いて。その場合はどちらが母親だろう。卵子を作り出した方か、十月十日腹を痛めて産んだ方か。
 ミスタによるとそのどちらでもなく『育てた方』が母親になるらしい。父親と同じ条件になるのでそれが1番良さそうだ。
 嗚呼そうだ、種付けて逃げ出すような男は父親ではない。子供を育てなければ「子供の母親とセックスをした男」でしかない。この法則でいくと写真を持ち歩いている実父よりも、衣食住を提供してくれてはいた養父の方が父親になる。だがきっと、それが正しい。
 入浴剤によって赤茶色になっている湯――ココアのような甘い香りがする――の中の自分の体を見下ろす。ギャングになってから幾度も死闘を繰り広げてきたが、実際に死んでしまうのではと思う程の骨の折り方をした事も有ったが、それでもスタンド能力のお陰とはいえ傷は1つも残っていない。
 養父に殴られた事も蹴られた事も多々有ったが、それでも一応は痕が残るような事はされていない。名も知らぬギャングスターに助けられる以前より障害が残る程の事はされなかった。
 ジョルノは首の後ろにアザが有る。写真で見る実父と同じ所に、同じ大きさのアザ。見付けた母親が「父親から遺伝した」と言っていた。養父と違って実父はこの体に残したのだ。
「父親面しやがって、なんて」
「ん? 父親がどうした?」
「独り言です。でも貴方の言葉で僕は『母』を見直した」
 父ではなく母を。
「お前の母親は見直すの所の有る奴ってか。じゃあ俺の母親は、そうだなぁ……やっぱり普通としか言いようが無いなァ」
「ちょっとそこに居て下さい」
 ミスタの言葉こそ勝手に独り言にしてジョルノは浴槽から出た。そしてすぐそこにミスタが居る事を知りながら浴室のドアを開ける。
「わっ、お前、何だよ!」
 やはり座り込んでいたミスタが慌てて立ち上がった。
「そこに居てくれと言いました。命令だと思って下さい」
 風呂場から1歩だけ出て背を向ける。
 ミスタは命令に忠実なのか彼の中に「後ろを向いたからセーフ」というルールが有るのか、離れずその場に立ち尽くした。彼の目に入るようにジョルノは水を滴らせている長い髪を纏めて右肩に流す。
「な、なんだよ……項(うなじ)を見せて誘惑デスカ……」
 たかが男の首を見た所で興奮する性質でもあるまいし、なのに片言で喋る様子が可笑しい。
「首の後ろにアザが有るんです」
「アザ……ああ、それアザか。そんな所怪我したのか?」
「後天性の物じゃあありません。生まれ付き有るアザです。だから痛くも痒くもないし、消える事も無い」
 現代医学の力で見えなくする事は可能かもしれないが、その応用で自分のスタンドで隠してしまう事位なら出来るかもしれないが、顔の真ん中に有るわけでも手の甲のように見える所に有るわけでもない。
 寧ろ自分からは見えない。有るかどうか、消せたかどうかを確かめるには他人の目か合わせ鏡が必要だ。そんな無駄な事に時間を費やしたくない。
「父も同じ所に同じようなアザが有ります」
「アザって遺伝すんのか」
「遺伝性の病によってアザが出来る事は有ってもアザ自体が遺伝するとは聞いた事が無い。ですが写真で見る限り同じ位置に同じ形のアザが有る……と、母が教えてくれました」
 母が写真を指差し同じアザが有るのだと、未だアザの意味もわからない自分に言っている場面を思い返す事が出来る。尤もジョルノにとってはとても古い記憶なので都合良く改竄されている要素も有るだろう。
「今度父の写真を見せます。このアザと見比べてみて下さい」
 会った事も無い実父の写真など人に見せびらかす物ではないが、心霊写真やグロテスクな写真ではないので困らせる事にはならないだろう。そう自分に言い訳をする程度に見てもらいたい、自分の事を知ってもらいたいと思っていた。
 叶うならば写真を手にしたいきさつも話してしまいたい。聞いてもらいたいし、聞きたいと思ってもらいたい。
 母が結婚――未婚だったので再婚ではない――する際に元夫――だからこの表現は間違いだ――の写真の存在に手をこまねいた。誰にも言わないが今の夫以上に愛した男の写真を捨てるなんて事は出来ない。かといって日本の大和撫子らしく夫に操を立てるには手にしたままにも出来ない。
 そこで息子に預ける事にした。妻が元夫の写真を持っているのは許されなくても、連れ子が実父の写真を持っているのは何も可笑しくない。取り上げる事だって出来ない。しかも母は見たい時に息子に見せろと言うだけで良い。
 お父さんの写真をあげるわ。これ1枚しか無いんだから、大事にするのよ――なんて言っていたか否か。これしか無いという事は聞いた筈だが、あの母親がジョルノが後生大事にする宝物をそんな優しい言葉で手渡すだろうか。
 ただ母が結婚後に今の今まで、寄越した写真を見せろと言った事は無かった。入寮するのでジョルノが帰省しない限り見る事が出来なくなるという入学前夜であっても写真の事は言わなかった。いつでも見せるし、頭を下げられれば仕方無しに返すのに。
 母には父を好きであってほしかったのかもしれない。唯一の写真を捨てたくないから寄越したのだと思いたかったのかもしれない。父は自分の『父親』だ。愛し合っていなくても、せめて母だけでも相手を愛したから産まれてきた子供が自分なのだと思いたい。
 そんな『普通』の家庭に生まれ育ちたかった。自分の母親は普通だと言い切ったミスタが羨ましい。母を愛し母に愛され今は隣で眠るナランチャも羨ましい。家族と折り合いが悪かったが礼儀作法をしっかりと身に付け金も掛けてもらえたフーゴや、彼が一時(いっとき)結婚まで考えた母親になる女の腹に居る子供だって羨ましい。
 自分も母に愛されたい。自分が母を愛しているから。
 子供――息子ではなく幼児の意――の目から見ても美しかった。白い肌は夜遊びが激しく日光に当たる事が少ない証だが、それでも美しかった。幼い息子の食事を後回しにしてでも手入れしていた長い黒髪がやはり美しく、男と会う特別な日の化粧はそれはもう。
 きっと普通の家だったら、お母さんと結婚する! なんて言ったんだろうな。
 母はそれを言っては気持ち悪いと返しただろうが、それでもジョルノにとって彼女は唯一で最愛の母親。
 食事は後回しにされる事も有ったが、排泄は最優先してくれた。片付けるのが嫌だからだろうが、それより更に前の身動き取れない時分のジョルノの「オムツを替えた」のは紛れも無く母だ。
 風呂もそうだ。嗚呼思い出した、自分はのんびり湯に浸かるがジョルノを入れるのは面倒臭がった。上がってから拭いたり服を着せたりするのを特に手間に思っているようだった。次第次第にシャワーで洗うのみになったし、その前後から1人で入るように言われていた。1人で入れた。1人で入れるように教え込んでくれたから。そうなれる前は嫌々だろうと入れてくれていたのだ。
「アザを気にして髪伸ばしてるのか?」
「……いえ、そういうわけじゃあないです」
 どうせ自分からは見えない。そもそも他人からも容易に見られる場所ではない。
 母が教えてくれなければ、きっと生涯父と同じアザの存在を知らないままだっただろう。
 突然背中から抱き締められた。
 正しくはバスタオルで包まれた。だからミスタの服が濡れる事は無い。だがバスタオルを掛けただけではなく、分厚い生地越しに抱き締めたまま離れない。
「早く体拭かねーと風邪引くぜ」
 浴室から出てはいるが風呂場特有の温度も湿度も体の前面に当たっているのでその心配は少ない。
 だが、抱き締められたままでいたい。今まで風呂に浸かっていたこちらの方が温かいのだから、こうして抱き締めて暖を取っていろと命令してしまおうか。
「母親ってのは子供に対して無償の愛を注ぐ、みたいなイメージ有るよな」
「まあ、有りますね」
 あくまでイメージであり全ての母親が子供を無条件に愛するわけではない。父親よりはその確率が高い――自分の子供であると確信出来るから――だけであって、世の中には産み捨てる女も居る。
「早く写真見てみたい。俺お前の父親の事何も知らねーし。母親の事も。兄弟は居ないんだっけ? 別に家族構成なんて知らなくても生きていけるけど、やっぱりお前の事はちょっとでも多く知っておきてーからな」
「有難う」
 欲しい言葉の全てをくれて。
「首の所にアザが有るのも知れて良かったぜ。東飲み屋年増1、だっけ? 先刻の奴に何か訊かれたら知ってるんだぞって言える」
 母にも有難うと言うべきだろうか。ミスタに知ってもらう事が出来たのは、巡り廻れば彼女の母のお陰になりそうだ。
「僕も貴方の両親とか生い立ちとかその辺りを色々と聞きたい。教えて下さい、未だ母親は普通としか聞いていません」
「父親も普通」
「それじゃあさっぱりわからない。仕方無い、今度直接会わせてもらいます。所謂挨拶に行きます」
「コイツが俺のボスです、って紹介しろと?」
「それも良いですが、出来れば恋人として紹介してもらいたい」
 浴室に戻る素振りでバスタオル越しの腕から抜け出してくるりと体を回転、全裸のまま真正面から向き合った。
「好きです」
「……は?」
「僕は貴方の事が好きです」
 とてつもなく簡単な事を伝えているだけなのに、理解出来ないのかミスタは瞬きを繰り返す。
「だから付き合ってほしい。交際をしたい。恋人関係になって下さい」
「お前、それ……俺が言った事じゃあねーか」
「あの時は返事が出来ずすみません。でも気付きました、貴方が好きだから付き合いたいと。僕はギャングです。欲しい物は何が何でも手に入れる。頼まれて恋人になるんじゃあなく、自分の好きな人を恋人にしたい」
 自分から交際を申し込まなくては納得のいく交際にならない。告白されたから好きになるのが悪いとは思わないが、こと自分に限っては好きな相手に告白して交際を始めたい。
 そんな気持ちが有ったからすぐに承諾出来なかった、と言い訳をしたい。
「ギャングはギャングでも組織のトップです。欲しい物なら何でも買ってやれます」
「物で釣られるつもりは無い」
 既に湿っているバスタオルをやや乱暴にばさりと体に掛けられた。
「でもお前には釣られちまうだろうなあ」
「僕に?」
「心も体も差し上げます、ってされたら恋人になっちまうだろうなあ」
 相手を立ててやるのは良いが主導権は握りたい。成程、自分によく似た、同じような事を考えている負けず嫌いだ。
 ジョルノはバスタオルを足元に落としてミスタの体に抱き着いた。水気を切りきっていないのでミスタの服が濡れる。
 それでも抱き締め返してくれた。
「ちょっぴりだけ癪な気もしますが、僕の心も体も差し上げます」
「大事にする」
「お願いします。母親みたいに無条件で無償の愛を、なんて事は願いません。貴方からの愛は何としてでも繋ぎ止めるよう努力します」
 母親からの無償の愛は既に与えられていたのだから。


2020,05,03


この後湯冷めと濡れた服とで揃って風邪引くんだろうなぁ。
珍しくタイトルから先に思い付いた話だったりします。プッターナとは娼婦の意。
ミスジョルがチーズピザ食ってる辺りを書いてる時に利鳴ちゃんが次のお題はHONEYというタイトルだから蜂蜜…と言い出して被るかと思いました(被らない)
<雪架>

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