フーゴ中心 全年齢 フーナラ・アバブチャ・ミスジョル要素有り


  パラレルワールドエンカウント


 恐らく廊下で誰かがはしゃぎ壁に体当たりでもかましたのだろう。それだけの衝撃で研究室の棚からはみ出る程積み重ねられた冊子等紙類が崩れ落ち、フーゴに頭上から襲い掛かった。
「わあぁーッ!?」
「パンナ!?」
 悲鳴のすぐ後に老婆の声が聞こえた。しかし尻もちを付き紙束達で視界を塞がれ、誰がどんな顔で呼んだのか分からない。
 彼だろうか。皆と共に裏切る決意をし、ボートを追って泳いで行った彼。
 自分の方には戻らないだろうからそれは無い。ボートに乗っていた仲間達の誰かの筈も無い。
 裏切り者たちを見送り違う道を歩むべく足を踏み出した所だ。フーゴ1人だけがただひたすらに未練がましい。
 否――それは可笑しい。何故ならここは大学の研修室で、名を呼んだのは老婆の声。
 プリントに押し潰され有りもしない記憶がこの人生を塗り替えようとしている? それとも虚構の『今』から目覚めて本来の記憶が蘇った?
「パンナ! パンナ、大丈夫!?」
 バサバサと紙を振り払う音。
「教授、大丈夫です」
 返事をして自分でも大事な資料かもしれない紙を払いのける。
 漸く周りが見えた。
 ここは経済学の女教授の研究室。フーゴの祖父母と同年代という大ベテランだが女性という事で与えられた研究室は狭く物で溢れており、棚の横に積み上げられた物に足をぶつけ床を散らかすのは今に始まった事ではないが、流石に棚に入っていた物まで落ちてきたのは初めてだ。
「嗚呼ゴメンなさいパンナ、まさかこんな事になるなんて」
「確かにあれでは片付いた事になっていなかった。早急に何とかしなくちゃあなりませんが、重過ぎる物は無いし打ち所も悪くない。何より下に居たのが貴女じゃあなくて良かった」
 今にも無事で良かったと頭を撫でてきそうなニコニコとした教授の笑顔。
 飛び級で入学し、他より賢く他より幼いフーゴを、それこそ孫のように可愛がってくれている。良い教授に恵まれた。
 もしこれが少年好きの変態親父教授で、自分に手を出す為に見せ掛けの世話を焼いていたとしたら。
 想像するだけで気分が悪くなる。それでいて体験したかのように想像出来てしまう。
 4kgの辞書で滅多打ちにし、そのまま退学になり家を追い出され、底辺のギャングに成り果てていただろう。
 それから出会った巨大組織に所属するギャングにチームを作るからと拾われ、次々に仲間が増える。
 組織のボスから護衛の任務を受け、しかしボスが最低の人間だという事を知り、そして――そして、皆は裏切った。自分は自分の保身故に裏切れなかった。
 正しいのは仲間達だと、間違ってるのは吐き気を催す邪悪なボスの方だと分かっていたのに。どちらについて行きたいかなんて本心は分かりきっていたのに。
 彼らと共に在れないなら、ボスなり何なりに殺されたって。
「構わなかったのに」
「パンナ?」
「あ……すみません、ちょっと」
「立てない?」
「いいえ大丈夫です」立ち上がり、埃を払って「片付けが大変だなと思って」
「そうねえ、私1人じゃあ大変だわ。手伝ってもらえるかしら?」
「と言うより僕がやります。貴女は話してくれていた件と、それから廊下で暴れた学生を見付け出して注意をして下さい」
 教授は年も年だし、元より背の高い方ではないので棚の上の方に物を置くのは難しい。
 フーゴも決して高いわけではないが、この年の平均身長位は有る。
 申し訳無いが並び順に関してはこの際諦めてもらうとして――どうせ見ないだろう。上の方には届かないのだから――崩れ落ちてこないように詰め込ませてもらおう。

 2種類の記憶を持っている、という不思議な状態だった。
 それも前世の記憶というわけではなく、どちらもパンナコッタ・フーゴの記憶。そこかしらに差異は有るが、別人と呼べる程は違わない。
 強いて言えば大学生のフーゴにギャングのフーゴの記憶が割り込んできているのだが、どうにも後者の方が正史に思えている。
 まるで夢の中で現実の事を思い出したかのような。
 早く帰って寝よう。
 これが夢なら覚めるかもしれない。嗚呼しかし、ギャングはギャングでも家族同然の仲間と違い裏切る事すら出来ない恥知らずの除け者だった。
 呑気な大学生の方が良いのではないか。親しい友人は居ないが、それでも生きていける。
 放課後、彼らと過ごした時間に想いを馳せながらよく晴れた空の下を駅へ向かって歩いていた。
 ネアポリスは活気に満ちており大勢の人々が行き交っている。仲良く話している者達や、やや雲行き怪しく喧嘩に発展しそうな者達。そして難癖を付けている・付けられている者も居る。
 体格良く柄の悪い男2人が黒髪の少年をからかっているらしいのが見えた。
 その様子は柔らかな言い方をすればいじめている、正しい表現を用いれば脅している、といった雰囲気。
 黒髪の少年はここからは顔が見えないが『彼』よりも背は高そうだ。『彼』のように細身だし、『彼』のように意外に髪が少し長い。学生服なので『彼』ではない。嗚呼どうにも『彼』を重ねてしまう。
 それだけ頭を占めている彼の名前が思い出せない。
 他の仲間の名前も思い出せない。袂(たもと)を分かつ原因となった護衛対象の彼女の名前も。
 でも、それでもあの黒髪の少年を放っておけない。誰と似ていなくても、同年代で孤独な者同士だから。そんな理由をでっち上げて自分に言い聞かせて、フーゴは3人の方へと歩いた。
「突然すまない」
 声を掛けると3人同時に振り向く。
 からかっているようだった2人は極普通のイタリア人だが、どうにも気になる黒髪の少年は違った。
 顔の掘りは浅くないが東洋人のようだ。肌も瞳も色が薄いが髪が真っ黒なのでそう見える。
 イギリスとアジアのどこかのハーフかもしれない。取り敢えずイタリア人「ではない」のがすぐに分かるこの少年を、異国人だからと差別的な言葉を掛けていたのでは。
「知人に似ていたのでつい。君達3人は友達なのか?」
 急に何をと言われたらそれまでだし、その程度で殴ってくるようならばこちらも応戦すれば良い。
 喧嘩をした事は無いが、超能力的な物を用いた喧嘩では済まない争いの中に身を置いた記憶を持っている。
 ところが反応は意外な物だった。
「友達じゃあありません」
 答えたのはいかつい2人ではなく、彼らに詰め寄られているように見えた少年の方。
「クラスが同じというだけです。先日までは色々と有りましたが、今はもう何もしてきません」2人の方を向き「そうでしょう?」
 振られて2人は何度も頷く。
 少年の声は聞き覚えの有る物だった。口調も、喋り方そのものを聞いた事が有る。
 一方の2人は完全に初めて見る顔。散々いじめていた少年がある日途方もない暴力で反撃をしてきた為に上下関係が逆転したかのような。
 この少年ならやりそうだ。嗚呼、少年の事を知っている。仲間だったに違い無い。しかし名前が出てこないのでもどかしい。
 そして髪の色が違う。今日の昼間に突然宿った記憶では金髪だった。
 最後にチームに加わった同い年の彼は人目を引くハニーブロンドで前髪が特徴的で、後ろ髪ももっと長く編んでいた――
「貴方も僕を心配してくれたんですね、有難うございます」
 にこり――にやり、といった感じだが――と笑う顔を見るのがとても久し振りに思えた。そもそも記憶の中でも頻繁に笑い合う仲ではなかったが。
「……他にも君に声を掛けた人が?」
 それじゃあと離れられたくないので話を続けてみる。
 金髪ならぬ黒髪の少年はやや驚きに目を丸くしたがすぐに真顔に戻った。
「はい、ある人が先日僕を助けてくれました」
「そうか……それは、良かった」
 自分と同じようにギャング堕ちをしない人生を送る事が出来ていて。
 嗚呼でも自分と同じくギャングに成り果てて仲間と再会したいとは思わないのだろうか。
「だからこれから僕が何をしようと、彼らも他のクラスメイトも誰も、何も言いません」
 言わせません、が正しい口振り。
「それじゃあ」
 結局言われてしまった。続く言葉が浮かばない内に、話していた2人とフーゴを置いて少年は立ち去った。その後ろ姿にはやはり見覚えが有る。嗚呼、もどかしい。

 広く無駄に立派な郊外の自宅に帰った所で、誰もパンナコッタ・フーゴに違和感を覚えなかった。大した興味を持っていないのだろう。自分もそうだ。家族に『興味』を持てない。
 寧ろギャングと成り果てた記憶を手にした今は嫌悪感すら有る。
 自分の『抵抗』を彼ら彼女らは家族の恥と捉えた。金でそれを無かった事にし、自分をこの家から追い出した。
 切り捨てたのだ。確かに自分に非が1つも無いとは思わない。しかし建前では自主退学させても、本当はお前の事を想っていると抱き締めてくれればまた違ったかもしれないのに。
 記憶が有るだけでその道を歩んでいない今、主に老教授のお陰で安定して大学生としての生活を送れている。
 毎日の夕食にしては豪勢なそれを食べ、裕福な証と言わんばかりに毎日焚かれる湯に浸かり、就寝前に予習と1つ調べ物をしてから布団に入った。
 予習は決して無駄にならない。例え明日講義を取らなくても、自らの意志で学んだ事が無駄になる事は絶対に無いのだ。
 ただ間違った覚え方をしている可能性は有る。それを正す為に講義は出来るだけ出た方が良い。
 しかし明日は出られない。出ないと決意したのだから、この決意こそ無駄にしてはならない。優柔不断では在りたくない。
 明日はカプリ島へ行く。
 記憶の中では皆でカプリ島へ渡った。そこで重大な任務を請け負った。或る者の護衛。彼女の名前もまた思い出せない。彼女も皆もそこに居るとは限らないが、寧ろ全く思えないのだが、それでも親にも学校にも黙って行こうと決めた。
 急に別の道を歩んだ記憶が芽生えたのは、何か意味が有るのかもしれない。
 無意味な物等何も無いという運命論者が喜びそうな思想を持ったわけではない。だが何か意味が有るのだとしたらその意味を、記憶を手にしてこの先どうすれば良いのかを、自ら調べに行かねばなるまい。

 翌朝、通学を装いいつも通り駅へ。しかしそこから向かうのは海岸。
 いつもは部屋に置いたままのかなりの額の小遣いで観光船に乗り、1人カプリ島へ。
 乗客は皆観光客で、この早い時間から行動するだけあって裕福そうな年配者ばかりだった。だからか学生が何故この時間に、といった事を言われず済んだ。もしも言われたら卒業旅行だとでも言うつもりだった。1人でこの時期にするのは理由(わけ)が有ると思い構わなくなる。
 ネアポリスの人間らしく陽気に振る舞う事が出来れば世の中はもっと楽になるのだがフーゴにはどうにも出来そうにない。
 カプリ島が船を繋ぐ唯一の海岸たるマリーナグランデに降り立つ。それこそ陽気で賑やかで、市街地へ向けて歩いているだけで楽しくて、自分も観光に来たのかと錯覚しかけた。
 もしももう1つの記憶に関する情報が何も入らなくても、気分転換に観光に来たと思おう。理想は仲間達との再会だが、それが無理なら取り敢えず賑やか過ぎない飲食店に入りカプリのグルメを楽しもう。
 そう思い半ば目的無く歩いていた足は止まる。
 彼女を見たから。
「あ――」
 駄目だ、名前が思い出せない!
 ある少女を護衛するようにと組織のボスからの命令を受けた。それはボスの娘であり、今通りの向こうを学生服姿で歩いている鮮やかな赤毛の少女。
 護衛させた理由は、ボスの本当の目的は彼女を殺す事に有った。
 自分に繋がる存在は実の娘であっても存在してはならないと自らの手で始末しようとする程の男――唯一の母と死別したと言っていたのでボスが父親=男である事だけは間違い無い――を、仲間達は裏切った。自分だけが裏切れず、そのボートに乗る事が出来なかった。そこまでの記憶を昨日突然『思い出した』ので、彼女の事は余りよく分からない。好きな音楽すら知らない。
 だが名前は知っていた。なのに思い出せない。嗚呼どうしたら。声を掛けても昨日の黒髪の少年のようにすぐに立ち去られてしまいそうだ。
 それならそれで。
「こんにちは」
 通りを急いで渡り目の前に立って、フーゴは必死に陽気を装って声を掛ける。
「……こんにちは」
 少女は足を止め挨拶を返してくれた。
 しかしその顔には不信感がありありと滲み出ている。認めたくはないが睨み付けられている。
「君の名前は?」
「アンタ誰よ」
「すまない、えっと……僕はパンナコッタ・フーゴ。ネアポリスの大学生。君は?」
「何? これ、ナンパ?」
「……そう、君がとても魅力的だから、どうしても話がしたくて声を掛けたんだ。だけど僕はこういう事初めてだから、どうしたら良いかわからなくて」
 した事の無いナンパをしたいと思う程に魅力的。そう言われて少し気を良くしたのか少女は焦らすように一旦視線を外たが、すぐにこちらを見て微笑んだ。
「トリッシュ。トリッシュ・ウナよ」
 そうだ、彼女の名前はトリッシュだ。
 記憶に有るトリッシュはボスの娘で護衛対象だが、今日初めて会ったトリッシュはカプリ島に住む学生。
 お茶でも奢るから話をしようと言うと、トリッシュが1度行ってみたかったという景色の良いカフェに行く事になった。通学中だったのではと尋ねると誤魔化された。自分も大学をサボって来ているのだから深く追求しないでおく。
 観光地価格だが金を使う方法を知らない生活をしてきたので予算は有る。コーヒーと紅茶と、それからケーキを注文して少し話をした。
 好みでも何でもないし――そもそも女性の好みという物が自分でも分からない――彼女の所為で皆がボスを裏切る事になったのだと考えれば逆恨みすらしたくなる。
 だがこう話していてトリッシュもまた自分と同じくギャングとは全く関りの無い生活を送ってきたのがわかる。まるで一昨日の、昨日の昼までの自分のようだ。
「所で貴方、本当に大学生? その、随分若いっていうか、話していても私と変わらない位に思えるわ」
「飛び級で入ったから今16。君は?」
 女性に年を聞くのは失礼に当たる、と尋ねてから思い出した。
「14。もうすぐ15。誕生日にはサルディニア島のレストランに行く予定」
「サルディニア? 凄いな、僕は結構なセレブに声を掛けてしまったみたいだ」
「年に1度だけよ」粉砂糖がふんだんに掛けられたケーキをフォークで切りながら「ママにとって思い出の場所なの。一応今のパパと出会った場所でもあるし」
「『今』の?」
「今のパパは私の本当のパパじゃない……って言い方しか出来ないのがもどかしい。血が繋がってないだけで、血が繋がってる男よりもよっぽど本当のパパだわ」
 血が繋がらない父親と、血が繋がらない『男』という表現。彼女の父親はその男と違い彼女に沢山愛情を注いでいる。
「特別仲が良いってわけじゃあないけどね。第一血が繋がってる男の方とは会った事も無いもの。どんな人なのか全く分からない」
「そうか……」
 ボスの情報が手に入ると思ったのに。
 否、普通の女の子のトリッシュの実父の情報を得た所で何にもならない。大学生の自分は組織のボスがどんな人間か知ろうなんて思ってもいない。
「大事な場所なのよ。今のパパと会えた事は勿論、一夏のロマンスで終わったけれど私を授かれた場所だからって」
 良い母親だ。叶うなら長生きしてほしい。
 夫が居るのだから早々に病死せずに、家族と末永く幸せに暮らせるのではないか。
「私ばかり話してるわ。貴方の事も聞かせて頂戴」
「僕の事、ですか?」
 ギャングをしていれば幾つか話題も有るが、平々凡々と学生生活を送っているので話せる事等何も無い。
「将来何になりたいとか。飛び級で入った大学の学科は何? もしかして私には分からないような研究職に就きたいとか?」
「大学の後、か……」
 自分には将来の夢なんて輝かしい物は無い。
 ただ親に言われるまま良い成績を収め、大学に進み、良い成績で卒業する。親の望みとしてはその後良い企業に入るか経営側に回るか、或いは自分――の学力――と相性の良い法律の道へ進むか。
 だが大学を退学になった記憶を持つ今、自分自身の夢が有る。その記憶の先で行っていたような。
「僕を、パンナコッタ・フーゴを必要としてくれる人の役に立てれば、それで良い」
 高給取りでなくても、社会に認められていなくても。
「仲間の為に知識と知恵を役立てたい」
 ずっとしてきた勉強が大切な彼らの為になる事を知っている。無駄ではない。より学びたい。
「……親には感謝しなくちゃあならないな」
「両親の役に立ちたいって事?」
「いや……僕は君と違い家族と折り合いが悪い。そんな僕を大学に入れてくれた事に感謝しなくては、と思ったんだ」
 飛び級だし学費免除の申請をすれば簡単に通るだろう。しかし大学に通う為の交通費は、毎日の食費も電気代も何もかも、親が出してくれている。ここでの支払いに使う小遣いだって貰っている。そうして金を掛けた子供と不名誉1つで縁を切るのかと思うとやはり好きにはなれないが、感謝はしてもしきれない。
「仲間の役に立ちたい気持ちを自覚出来たのも、親に感謝をしたいと初めて思えたのも、君のお陰だ」
 会いに来て、探してみようとここまで来て良かった。
「有難う、トリッシュ」
 微笑みかけると目を丸くされ、顔を赤くされた。もう1つ会いに来て良かったと思える事が増えた。生まれて初めての、最初で最後のナンパは大成功だ。

 やはり会った時に向かっていた所へ行かねばと言ったトリッシュとは連絡先を交換して別れた。
 少し観光――散策――して船に乗りネアポリスへ戻った。
 家に帰るには早過ぎるが今更学校に向かうのも、と思い昼食を取るべく繁華街をふらついていると警察官から声が掛かった。
「君」
 肩に手を置かれたので足を止めて振り返る。
「学生のようだけど」
 低い声には聞き覚えが有る。その顔にも見覚えが有る。服装は彼が着ている所は初めて見る。そして髪型は全く違う。だがこの警察官は別の記憶の中の、仲間の1人。
「こんな時間にこんな所で何をしているんだ?」
 警察官の名前を覚えていない。警察官の方はパンナコッタ・フーゴを覚えていない。トリッシュや昨日の少年のように仲間だった記憶が無い。
 どうしよう、どうすれば。折角会えたのに。
「答えてもらえないならご家族に訊く事になる」
 優しい言い方だが家出した非行少年に向けられる言葉だ。
「……確かに僕は未成年ですが、未だ注意されるような時間じゃあないと思いますよ」
 家を出たわけではないが家に連絡されたくない。学校をサボったと知られたくない。
 折角親に感謝し明日から益々学生生活を謳歌し学び尽くそうと考えていた所なのだから。
「確かにそうだ。だから聞いたんだ。未成年で学生の君が本来未だ学校に居る時間にどうしてここに? まあ学校が早く終わる日であれば1度家に帰りここまで来る事も出来るかもしれないな」
 しかし今日は行事も何も無い、極普通の良く晴れた日。
 警察官なら訓練校を出ているだろうから詳しくないかもしれないが。
「学生は学生ですが、大学生です」
「え? ああ、すまない……学生証は?」
 鞄から学生証――勿論本物―を取り出し、ギャングであれば仲間の警察官に見せた。
 顔写真とこちらの顔を見比べ、その後書かれている文字を読んでいる。
「16……」
「飛び級で入りました。今日は受ける講義が無いんです」
 最後の1つだけ嘘だが、警察官は「そうだったのか」と学生証を返してくれた。
「凄いな、飛び級なんて。そんな天才の君がどうしてこんな――いや、息抜きも必要だな。きっと勉強漬けだったんだろう。偶には羽目を外した方が良い」
 物わかりの良過ぎる発言につい笑みが漏れる。
「だが16歳である事に変わりは無い。家族や友人を不安にさせるような事はしない方が良い」
「友人……」
 家族はわかる。だがここで友人も挙げるとは。
「16歳なら家族には話せない事を話せる友人が居る頃じゃあないかと思って」
 この顔この声でこんな穏やかな言葉を聞けるなんて。
 家族よりも家族(ファミリー)と呼べる仲間だった彼から。
「『今』の貴方に、そういう人が居るんですか?」
 一般市民の質問が意外なのか警察官は数度瞬きをした。
「……居る」
 仲間として過ごした記憶の中でも見た事の無いような安らいだ表情。
 自分達ギャングの仲間ではさせてやれなかったと思うと少し悔しいが、仲間が幸せな毎日を送っているのは嬉しい。
 年が離れていてスタンドの相性が良くなく行動を共にする事派少なかったが、彼の事を好いていた。確かに仲間だった。胸が苦しくなる位に。
「学生証の通りパンナコッタ・フーゴと言います。貴方は?」
「レオーネ・アバッキオ」警察手帳を出し「警察官は君達市民の味方だ。何でも気軽に声を掛けてほしい」
「相談を……しても?」
「勿論」
「例えば、人探しとか……」
「人探し?」
 何と続けて良いか自分でもわからず言葉が出ない。
 貴方を探していたのだとは言えないし、数時間前に探していた1人に会えた事を報告しても仕方無い。
 だが未だ話を止めたくない。
 嗚呼警察官にこんな事を言っては行方不明者でも居るのかと思われそうだ。もしくは家族以上に仲良い友達が欲しいと駄々を捏ねているかのような。
「それは、ネアポリスの人間か?」
 そう返されるとは思わなかった。恐らくそうなので――トリッシュはカプリ島で会ったが、彼女はあくまで護衛対象。チームの仲間とは少し違う――曖昧に「一応」と答える。
「そうか……」
 アバッキオは視線を右に向け思案する。目を閉じ深く考え、開けた目でこちらを見る。その顔立ちに相応しい、何度も見てきた厳つい目だった。
「ネアポリスの人間関係やそういった事情に詳しい奴を知っている。とても頼りになる奴だ。少し出掛けているが今日か明日にはネアポリスに戻ってくる。もし理由の有る人探しなら、先ずはそいつを紹介する」
 単に昔馴染みに会いたいといった人探しではないと思ったのだろう意味深な言い方。
 アバッキオとアバッキオが信頼しているその人物なら、別の人生を歩んできた記憶に居る仲間と会いたい、なんて話を笑わず聞いてくれるかもしれない。
 その記憶の中のアバッキオは寧ろ鼻で笑ってきたりするタイプだった。
 本当の彼はどちらだろう。とっつきにくい見た目の割には親し気な――親しかったのか。今は未だ会ったばかりだから他人行儀に畏まっているのか。
「有難う、アバッキオ……貴方に会えて良かった。警察官のその服、とても似合っています」
 コスプレを誉めているような言い方になってしまった。だが本心だ。
 元警察官と聞いたがその姿を見た事が無かった。とても似合っている。きっと警察官に向いている。
 アバッキオに吐いた嘘を現実にしてしまおう。
 受ける講義が中止になったから家で勉強するべく帰ってきたと言えば遅い昼食を部屋に用意し、ずっと勉強しているようにと言うような家族だから丁度良い。
 そう、家族なのだ。
 親を好きになるのは無理でも、毛嫌いするのは止めよう。信頼していた教授に裏切られるような事が無ければ、信じ切れずに小さなストレスを抱え続けなければ、良い大学生活を送るというギャングではない道を進めば、色々と違ってくる。根本は変わらなくとも、表層は全く違う良い物に、きっとなる筈だ。

 昨日(さくじつ)の出会いはこの平穏過ぎる世界においてはとても刺激的で中々寝付けず、フーゴにしては珍しく朝寝坊をした。
 遅刻こそしなかったが朝食をはじめとした準備中も通学中も、最初の講義も頭の中を「眠たい」が占めるのは初めてだ。
 ギャングをしていればそんな日も有った。しかし大学生をしていると早々無い。一夜漬けはしない。睡眠時間を削った分は知識として残りにくい。
 講義を受け、昼食を取り、教授の研究室へむかう足を止めた。
 今日はもう帰るかな……
 トリッシュとアバッキオの言葉で学びたい気持ちが非常に強くなっている。だがあの研究室はどちらかというと憩いの場だ。
 直接的な質問や読みたい論文が有る場合にはとても協力的だが、特に無い場合は日頃の協力に感謝して片付け等をする。
 フーゴにとっても気分転換になっていたが、今は「気分を変えたい」とは思っていない。今日の講義で新たに学んだ事をより深く掘り下げたい。
 図書館に行こう。この大学の付属のではなく──蔵書は充分だが「更に勉強か」とからかわれるのは避けたい──家の近くの市立図書館でもなく、市街地に有る大きな国立の図書館へ。
 駅へ向かい迷わず乗ったケーブルカーを下りて図書館までのんびり歩く。王宮に隣接しているので観光地として有名な筈だが、大学近くよりも更に学生街と呼べる勢いで学生風の若者が非常に多い。
 時間帯の所為も有るのだろう。図書館の前の階段には多くの学生達が腰を下ろしていた。
 特に女学生が多く、スクールカーストを反映させているのか上の段になればなる程服や化粧が派手だ。
 それに図書館の前だというのに本を読んでいる若者は少ない。読書が目当ての人間は館内に入るからか。大半が本ではなく飲み物を片手に『お喋り』を堪能している。
 人間の耳は多くの音声を拾う際、自分に関係の有りそうな言葉から聞き取るように出来ている。特徴的な声――例えば赤子の泣き声のような――の方がより耳につくが、もし同じような年代の大勢が同じ言語を喋っていたら、聞き覚えの有る声で聞き覚えの有る名称を呼ぶのが1番耳に飛び込んでくる。数段上った所でフーゴの耳に1つの『声』が聞こえた。
「ジョルノ!」
 この声!?
 躓き掛けた足を止める。
 ギャングをしていた記憶の中ではよく聞いた声。よく喋る男だから沢山聞いていた。
 後から仲間になったのに下手をするとリーダーよりも多く聞いたかもしれない。
 組む事が特別多かったわけではなく。寧ろ正反対だった。見た目も中身も持ち合わせていた能力も。
 そのよく聞いた声でよく聞いた名前を呼んだ。否、ジョルノ(太陽)なんて日常で使う言葉だし、我が子にそう名付ける人もそれなりに居るだろう。
 だから期待してはいけないと自分に言い聞かせながら、図書館の前なんて似合わない男だからと唇を噛み締めながら、その場で顔を動かし声の主を探す。
「居た……」
 小さく呟く。大勢の雑踏の中でこの独り言はきっと誰にも聞こえない。
 遠目に見える横顔は確かにあのムードメーカー――を通り越して、時にはトラブルメーカーですらあった――の彼の物だ。よく覚えている。顔も声も。
 帽子を被って涼しげな服を着ている、というのは記憶と一致している。しかし色こそ派手だが柄が一切入っていないのが気になる。彼もまた自分のようにギャングではないのだろうか。ギャングイコール柄物の服、というわけではないが。そちらの記憶の中の彼は頭のてっぺんから爪先まで色も柄も激しく派手を極めていた。
 そしてその派手なかつての仲間が呼び掛けたのもまたかつての仲間だ。
 最後に仲間になった金の髪で未だ学生の、こちらはその記憶の姿そのままだ。
 髪は後ろに編んでいるし手には学生らしく借りてきた本。そして返事をしている横顔。ギャングをしていた記憶の中の顔と変わらないし、一昨日見たそれとも同じ――一昨日見たあの黒髪の少年はやはりこの金髪の少年だ。
 言葉が可笑しい。
 黒い髪が何故いきなり金髪に? どこまでが『ジョルノ』でどこからが別人なのか。
 訊いて、みよう。
 フーゴは2人に静かに近付く。
「すみません、お待たせしました」
「お前本当に本読むの好きだよな」
「知識が得られて面白い。貴方も読めとは言いませんが、ただ今度は一緒に中に入ってみませんか?」
「図書館にィー?」
「博物館附属なだけあって綺麗なんです。貴方の知る店を教えてもらったから、次は僕の知る所を」
「まあお前が俺とデートしたいってんなら、ついてってやるけどさ」
 立ち上がった帽子の男はわざとらしいまでに親しげに肩に手を回した。
 金髪の少年は嫌がる事無く、しかし必要以上にベタベタとするでもなく自然に頷く。
「行こうぜ」
「待て、ジョルノ!」
 先程初めて聞いた、何度も呼び掛けた事の有る名前で呼び止めた。
「……何だテメー」
 ギロリと睨み付けてきたのは「ジョルノ」ではない、帽子の男の方。ギャングとしてはこちらが先輩なのに、年と容姿の所為で完全敗北だ。
「何でジョルノの――」
「待ってミスタ」
 それだ。
 帽子の男の名前はそれだ。
「ジョルノ、知り合いか?」
「いえ……でも」じっとこちらの顔を見て「一昨日、助けてくれようとした」
 彼の中であれは助けようとした、にカウントされるらしい。確かにそのつもりで声を掛けはしたが。
「改めて有難うございます。えっと、名前は?」
「……フーゴ、パンナコッタ・フーゴです」
「フーゴですね。僕はジョルノ・ジョバァーナ……と、一昨日名乗ったんでしたっけ。いや、だとしたら貴方の名前も聞いている筈だ」
「ああいや、一昨日、ほら、あの2人に呼ばれていて、印象的な名前だったから」
 一昨日絡んでいた――今思えば変に怯えてもいた――2人がジョルノをジョルノと呼んでいますようにと願いながら。
「印象的かァ? お前のパンナコッタって名前の方が覚えやすいぜ」
「生憎ながら『美味そうな名前』としか覚えていない奴が多い」
「あーそれ有りそうだな。カタラーナとか呼んじまいそうだ。俺もフーゴって呼ぶとするか。ああ、俺はグイード・ミスタ」
 先程の睨み付けから一転、にこやかに握手を求めて来る。
「えっと……宜しく、ミスタ」
 懐かしい響きの名前。初めてと久し振りの混ざった気持ちで手を取る。拳銃使いの通り名を持ち、この手で何人も屠ってきた――のはギャングをしていた場合の話であって、今のミスタは組織に属していそうにない。ただのチンピラ風情といった雰囲気だ。
 実際仲間になる前はそんな生活を送っていたらしいので。
「ミスタはジョルノの先輩? OB?」
「いいや」離した手で頭――ミスタにしては地味な帽子――を掻き「ガッコー関係無い所の友達。ちょっと前に助けたっつーか助けられたっつーか」
 ジョルノがミスタのどの言葉も訂正しない辺り嘘ではなさそうだ。
 2人は特殊な能力の相性が良く、新入り同士だが何度かコンビを組んでいた。
 互いにギャングにならなくても親しくするのは自然なのだろう。微笑ましい気持ちは有るが、羨ましい気持ちも入り混じっている。
 ギャングをしていた自分にもそんな存在が居た。学校に通いたい彼に1度は大学まで進んだ自分が勉強を教えてやっていた。復習にもならない低レベルの、だけどすぐに音を上げる彼と喧嘩をするのが楽しくて。
 彼がヒーローと仰ぎ憧れるリーダーを妬んだりもした。だがリーダーは自分を拾い上げてくれた、自分にとってもヒーロー。ギャングに堕ちたと表現しているが、リーダーに拾われていなければより酷い人生を歩んでいただろう。もしかすると生が途切れていたかもしれない。
 2人に向ける気持ちと、今どこで何をしているか分からないリーダーに向ける気持ちは少し似ていた。
「一昨日って、一昨日の昼か? 夜か?」
「何がですか?」
「ジョルノと会った時間だよ。金髪になってから会ったのか?」
「ミスタ、昨日突然なったんです。一昨日じゃあありません。そんなに変わった瞬間が気になりますか?」
「そりゃあ気になるに決まってんだろ」
「変わった……?」
 確かに染めた――脱色した――では済まない、一切の黒さが無い金髪になっている。
「昨日いきなりこの髪になりました。死んだ実父の遺伝のようです」
 前髪を触りながら言うが、髪の毛とはそんな急に伸びて一気に色が抜ける物ではないだろう。
 まして15年振りに遺伝子が活動するとも思えない。遺伝子工学を専攻していれば好奇心のまま色々質問していた。
「しかしよく分かったな。俺最初見た時びっくりしたぜ」
 驚くだけでは済まない変わりようだが、フーゴとしてはジョルノといえばこの髪だ。寧ろ一昨日の黒髪のジョルノを見てジョルノだと思った――名前こそ出て来なかったが――事の方が凄い。
「1度会っただけなのに、人の顔を覚えるのが得意なんですか?」
「どうだろう」決して苦手ではないが、数式やら法則やらを覚える方が得意なので「……金髪の方が、よく似合っているから」
 厳しい表情ばかり見せてきたジョルノの顔に笑みが乗る。
「だよなー、似合ってるよな! 絶対こっちのが良い!」
 ミスタは再び肩に腕を回してジョルノの顔に顔を近付けた。
「良かった……」
 思わずつぶやいた声にミスタは瞬きを1度したが、フーゴは首を振り平静を装う。
「それじゃあ僕は本を読みに来たので」
「ではまた」
「今度は美味いもんでも食いに行こうぜ」
 自然と別れた。
 トリッシュと違って連絡先も交換していないのに、まるですぐにまた会うかのように。
 きっとまた会えるのだろう。この街に居れば会える。探せばすぐに見付かる。
 派手な金髪と帽子の組み合わせだからというのも有るが――こうして立ち去る後ろ姿もまた目立つ――縁が2人と結び付けてくれているような。
 2人が親しくなったように、訪れた先でトリッシュと出会えたりその帰りにアバッキオとも巡り会えたように。
 同じようにギャングになっていない『彼』や彼が憧れる皆のリーダーにも会えるのでは。
 会ってどうしよう。それこそ食事の1つにでも行けば良い。仲間だった記憶が確かに有るのだから。
 仲間は助けたい。今のギャングではない自分に出来るのは今以上に知識を身に付ける事だ。
 既にミスタとジョルノという収穫は有ったが、フーゴは2人が見えなくなるより前に本来の目的の図書館へと歩き出した。

 連日の新たな出会い、もしくは再会で変に浮かれていた。そもそも別の人生の記憶がいきなり芽生えたのだから調子が狂うのは当然だ。
 躁の方に振り切っているから良いものの、例えば教授に『乱暴』されかけた所までの記憶しかなく仲間と会えていなければ、突発的で巨大なストレスによるうつ病を発症していても可笑しくない。
 そんな教授と接する事の無い――存在しない、ではない。大学構内で見掛けた事が有る。今の所接点は無く向こうは自分を認識していないようだが――幸福な人生。
 アバッキオ、ミスタ、ジョルノもギャングにならずに済む良い人生を送れているのだろうか。
 トリッシュも危険の無い日々のようだし、未だ見ぬ『彼』やリーダーの男も同じく幸せに生きているのだろうか。
 そうであってほしいし、願わくばそんな2人に会いたい。
「パンナ、最近の貴方は今までにも増して意欲的ね」
 背中に掛けられた優しい声。この老女教授の下で学べる事がどれだけ尊いか思い知ったのも有り、今日もまた研究室で参考になりそうな文献を読み漁っていた。
「学びたい気持ちがより強くなったんです。目的が少し変わりました」
「目的?」
「良い点を取りたいから、目的の為に良い点を取りたいに変わったんです。この件に関する論文有りましたよね、探しても良いですか?」
「そっちの棚よ。でも最後に出したの、結構前なのよ」
 教授が指した棚に沢山詰まれている大きな封筒を1つ1つ見ていくと『まとめ』と日付だけが書かれた物が有り、中にはばらばらのルーズリーフに手書き文字で、しかし詳細に纏められている論文が出てきた。年を重ね大量の書物等に囲まれているのによく覚えている。
「良いわねえ、パンナに夢が出来たのね」
「夢なんて……」
 子供が口にしそうな可愛らしい響きの合う物ではないので気恥ずかしい。
 それに。
 今居るこの世界が、あるいは先日から記憶のみを併せ持っているギャングに堕ちた世界が、正しい方の自分が眠り見ている『夢』なのかもしれない。
「その夢に関しては教えてもらえなさそうね」
「だから夢って程じゃあ……その、確かに夢と呼べそうな程、淡いというか不確かです」
「不確か? 目的が、ちょっとぼんやりしているのかしら」
「ある人達の為に。だけどそのある人達の半分位にしか会えていない。会えなくても幸せにやっているなら、なんて自分に言い聞かせてはいるけれど……本音は、やっぱり、会いたいんです」
 アバッキオの言っていた家族に話せない事も話せる『友人』は居ないが、そんな何でも話せる『恩人』は彼女だなと思った。
「2人に……1人の役に立ちたいと強く思うし、もう1人には……彼は、僕にとって凄く特別です。きっと違う状況に有るから僕が助けるなんて事も無くて、だから……あんな関係にはなれないかもしれないけれど」
 元から拾い上げてやったなんて驕ってはいない。ただあれは自分と***の出会いという奇跡のような瞬間だった。嗚呼、あの時とそこから続く気持ちをこんなにも鮮明に思い出せるのに、名前は出て来ない。
「会いたいなら会いに行けば良いじゃあない」
 顔を上げて手書き文字の論文を追っていた目を教授に向ける。
 穏やかそうな顔に穏やかそうな笑みを浮かべて。心が解きほぐされていくし、何より大事な事に気付かされた。
「……会いに、行けば良いんだ」
 トリッシュに繋がる物を探しにカプリ島に行ったように。
 その後偶然仲間達に会えたから忘れ掛けていたが、始まりは自分の行動だった。1歩を物理的に踏み出したから彼女にも仲間達にも出会えたのだ。
 探した所で会えないかもしれない。だが探せば会えるかもしれない。
「どこに居るか分からないけど。でも」
「そうよ、行っちゃいなさい」ニコニコ笑顔のまま目を閉じて「パンナ、貴方は未だ若いのよ。自由な時間が有るし健康な体も有る」
「今しかないなんて思いませんけど、ちょっと行ってきます。人探しが上手い人が居ると聞いているし、その……これを読み終えてから」
 行動開始が遅い事は有っても早過ぎる事は無い。
「ええそうしなさい。何ならそれ、持って帰っても良いわよ。貴方は失くしてしまったり、失くしてしまいそうな人に又貸ししたりはしない子だから」

 アバッキオの特殊な能力はその場に居た物をビデオテープのように再生する事なので人探しには向いていない。
 犯人探しには向いているので警察官の彼とその能力の相性は良さそうだが、ギャング組織に入る際に身に付けた能力となると警察官をしている限りは使えないかもしれない。
 だからアバッキオが言っていた人探しが出来るネアポリスの事情通とは自分の能力の暈した言い方ではないだろう。
 実際にそういう知人が居ると踏んで、あるいは毎日会っていた彼に数日振りに会いに、フーゴはアバッキオが居ると思われる警察官詰め所へ向かった。
 大学で講義を受けて研究室で色々と読み漁ってからなので、市街地に着く頃には日が暮れていた。家に「研究室に残るので夕食は要らない」と言っておいて正解だった。もし人探しが出来なくても近隣の美味い店を聞いて食べて帰れば良い。
 しかし警察官個人と話をするには、呼び出すにはどうすれば良いのだろう。
 何係なのか聞いておけば良かったな……いや、所属する課が分かった所で会わせろとは言えないか。
 それより聞くべきだったのは休みだ。ここまで来て休みの可能性が有る。
 意外に小さな詰め所の前でフーゴは立ち尽くした。
「君」
 雑踏の中で明らかに自分に向けられた声に振り向く。
「何か困っている事でも有るのかい?」
「あ……」
 初めて見る顔の警察官。
 アバッキオと同じ服装だが、顔も背格好もアバッキオとは全く違う。詰め所前にただ立っているだけの少年を見て声を掛ける心優しい警察官だ。
「いや、困っては……」すうと息を吸い「困っていた事が解決しました。そのお礼を言いたくて来たんです。レオーネ・アバッキオという方は居ますか?」
 居るでも休みでも違う場所でも知らないでも何でも良い。何が解決したのかという大嘘の内容を聞かれなければ。
「アバッキオに助けられたのか。何だか嬉しいな、アイツがきちんと働いているのを君のような市民が知っていてくれて、感謝をしたいとまで言ってくれて」
「親しいんですか?」
「同僚というやつかな」若いがやや厳つい顔立ちに柔和な笑みを浮かべ「組む事が多いんだ」
 嬉しいのはこちらの方だ。仲間が本当になりたかった職に就き、そこの仲間と不快信頼関係を築いているのだから。
「暫く前から悪い噂が流れているけれど、アイツはそんな奴じゃあない」
「悪い噂?」
「学生に言う事じゃあないけれど黒い噂というか……あくまで噂だけど、ギャングと付き合いが有ると言われているんだ」
「ギャング……」
「噂だよ、根も葉も無い。この前も傷害事件を起こしたギャングを捕まえたばかりだし、もしかしたら幼馴染がギャング組織に入ったけれど縁が切れないとかが有るのかもしれないが……でも本当に、アバッキオは良い奴なんだ」
 噂よりも本人を信じてくれる。この警察官が近くに居てくれればアバッキオはギャングに堕ちたりしないだろう。
 それなのにギャングと関係が有ると噂されるとは。見た目の所為かと笑っておこうか。
「出ていなければ中に居るから呼んでくるよ。それとも中に入りたいかな?」
「いえ、緊張するので外で」
 分かったと笑顔を見せてくれた警察官は中に入りアバッキオを呼んだ。
 声が遠のいていく。返事が有るのか聞き耳を立てたい。
 そんな浮ついた時間は僅か数秒で、すぐにアバッキオが出て来る。
「フーゴ……来たのか」
 人相が良いとは言えないと思っていたが、穏やかな笑い方をすると素直に「格好良い」と思える。自分と同年代の女子なら恋心を抱きかねない。
「あの、少し話をしたいな、と」
「何だ?」
「人探しをやっぱりお願いしたくて」
 急に険しい顔付きになった。
「失踪事件とか、そういうわけじゃあないんだな?」
 礼を言いに来たというのが嘘だから不満を持ったわけではないようだ。
「違います。ここまで来たけれど決してそういう人探しじゃあありません。その……ネアポリスに詳しい人に訊けたら、という人探しです」
 そうかと言って胸を撫で下ろし、しかし視線を右に逸らす。
「……丁度会う予定が有る」こちらを向いて目を合わせ「フーゴも一緒に会おう。飛び級する程頭が良いから誤解をしないと思う」
 一体どんな人物なのだろう。アバッキオはその人物を大勢に紹介したいような、また誰にも知られたくないような態度を見せる。女性で美人で恋人でボディタッチが多いのか。
「もうすぐ仕事が終わるんですか?」
「俺は今晩夜勤だ。食事休憩の時に会う話をしている」
 警察官なのだから夜勤が有るのは当たり前だ。失念していた。あの日、真っ昼間に出会えたのはやはり奇跡だ。
「何時からですか?」
「休憩には今からでも入れるが、その『顔の広い男』が店に来るのは……30分位後だな。先に行って待っているか」

 待ち合わせている店は約束しているのではなくいつも利用する馴染みの店といった様子で、奥の方の窓が無い壁沿いのテーブルで食前酒――勧められたがフーゴは年齢を理由にジュース――を飲みメニューを見ながら待っていた。待つというよりメニューを開いただけで、飲み物に口を付けてすぐ。
「待たせたか、アバッキオ」
 聞き慣れた初めて聞く声の主の顔を見る。声を聞く前からきっとそうだろうという気はしていた。
「初めまして」
 ギャングの記憶の中で自分達チームのリーダーだった男は、その記憶と寸分違わぬ姿で握手を求めてくる。
「……初めまして、パンナコッタ・フーゴです」
「俺はブローノ・ブチャラティだ」
 懐かしい声、懐かしい名前、懐かしい手の温かさ。
 ブチャラティは席に座りウェイターを呼びアバッキオの方を向いた。
「例の件だが──いや、この話は後でも良いな」
 ウェイターがすぐに来たので早速注文する。
 そのウェイターが立ち去った後に、今度はフーゴの方を向いた。
「アバッキオから人を探していると聞いた。出来る限り協力しよう」
 初めて会った名前しか知らない男──ブチャラティの目には子供に見えているかもしれない──に、いきなり手を貸してくれるのは見返りを求めているからではない。ブチャラティはそういう男なのだ。
「誰を探しているんだ? おっと、名前は分からないんだったな」
「アバッキオから聞いているんですね。それでも探せますか?」
「絶対に見付け出せる、という約束は出来ないが、探すし探せば見付かるかもしれない」
 会いたかったのは貴方だ……貴方は僕の、原点……
 そう言って泣き出したかった。その位に変わっていないし会えて嬉しい。
「だから君が知っている情報を全て話してくれ。名前を忘れた幼馴染でも、顔も知らない実父でも、夢に出てきた女の子でも探したい」
「夢に……」
 ドキリとした。別の人生を歩んだ記憶という夢のように淡い情報で『彼』を探し見付け出し、会えるのだろうか。
 会えないかもしれない。会えないだろう。そんな無茶はブチャラティであっても叶えられないだろう。
 それでも。
「おいフーゴ、本当に夢に出てきただけだったりするのか?」
 ブチャラティと会うべくお膳立てをさせておいてと怒られるかもしれない。否定も肯定も出来ず手元のナプキンをぎゅっと掴む。
 しかしアバッキオの顔には心配そうな表情が浮かんでいる。助けたいと思ってくれているのが伝わってきた。
「……名前が、思い出せないんです。知っているのに……男なのに男っぽくない名前のような……顔も黙っていれば女の子みたいな綺麗な顔で、えっと……誰に似ているだろう」
「顔は覚えているんだな」
「はい。1つ年上だけど幼く見えます。背も僕より低い」
「1つ上?」
「僕は16で探している人物は17。だけど、言ったら怒られるけれど、正直14歳位に見える」
 2人が笑いを押し殺した。フーゴも釣られて笑いそうになったが堪える。
 それからブチャラティは話を深く考えるようにゆっくりと瞬きをした。
「学校には行っていない……いや、行っているかもしれない。僕が知っている彼は学生じゃあないんですが」
 自分が大学に通うように***もまた学校に──嗚呼やはり名前は思い出せない。それにこちらではどう生きてきたかわからないから、他に言える事も無い。
 母親は眼病を患い亡くなった。が、こちらでは生きているかもしれない。家出する程折り合いの悪かった父親とも上手くやっているかもしれない。
 自分を含めて皆それぞれ変わっている。彼も恐らく何かしら違う生い立ちだろう。
 ジョルノに至っては髪の色が違った。尤も後に会った時にはよく知る金髪になっていたが。それでも見た目が全く変わらないのはブチャラティだけだ。
 ……何故ブチャラティは変わらないんだ?
 改めて見る。顔も髪も服装も、何もかもが向こうの記憶と同じ。ブチャラティだけ生い立ちが変わらないのか、それとも彼だけ見えない所が大きく違うのか。
「17歳なら、学籍は有るが通っていない、という事か?」
「いえ……すみません、分からない事ばかりで」
 責め立ててこないのは探したい気持ちに嘘が無いと、そして本当に言えないのではなく知らないという事が伝わっているからだろう。
「もしかしたら違うかもしれない。学生をしているかも……けれど彼は僕の知る限りでは学校に通えず、ギャングチームに所属していました」
「ギャング?」
 聞いている2人は揃って眉を寄せた。
 2人が向こうの記憶のようにギャンクになっていなければ、ギャングなんてものは社会の食み出し者でそんな話はしたくないから当然の反応だ。ましてやアバッキオはギャングと付き合いが有ると噂されて同僚に心配されている。
「それは、何という組織のどんなチームか分かるか? お前の言う「学生をしていなかったら」の話でいい」
 ブチャラティの声が低くなった。
「組織の名前、ですか……?」
「別にどこに所属していようと悪いようにはしない。だが、もしかしたら……」
「ブチャラティ、心当たりが有るのか?」
「いや、フーゴの挙げた外見の特徴を持つ者は知らない。だが知らないだけで新しく加入した可能性は有る」
「もし居たら探せるな」
 ああと頷いてからまたこちらをじっと見る。
「……あの」もしかして、ブチャラティは「ギャング、なんですか?」
 間。それからブチャラティは視線を僅かに下げた。
「そうだ」
 見た目に変化が無いのはここでもギャングをしているから。必ずしも違う人生を歩んでいるとは限らない。
 凄く納得がいった。そして自分の探す仲間の最後の1人もギャングをしている可能性が有る。
 しかし『彼』は自分と出会いブチャラティに紹介したのを切っ掛けにギャングになった。
 違う切っ掛けでギャングになったとしたら、違う組織かもしれない。ブチャラティもすぐに思い当たりはしないと言っている。
「因みに、答えたくなければいいんですが、ブチャラティは何故ギャングになったんですか?」
「幼い頃に父を殺された。復讐した。罪を犯した親の居ない子供が生きていけるのはこっちの世界だけだ」
 どうやら本当にブチャラティだけは境遇等が全く変わらないようだ。
「だからフーゴ、お前はギャングになってみよう等とは思うな。その探している人間が本当にギャングだったとしても、お前までこちらに来る必要は無い」
 ギャングに勧誘してきたのはブチャラティなのに、と思うと可笑しかった。
 だが仲間入りを打診されたのは大学も家も追われた自分。裕福な家から大学に通っているならギャングに堕ちる必要は無い、寧ろ来てはならないとブチャラティは思ってくれている。
「……ん? 彼が言っていた、アバッキオがギャングと繋がっているというのは、この事?」
「それは誰から聞いた?」
 アバッキオの脅しを含むような低い声。
「誰って……同僚になると言っていた方です。よく組んで行動すると言っていた、貴方を呼んできてくれた警察官の。そういう噂は有るけれど、アバッキオは決して悪い奴じゃあないと言っていましたよ」
「良い同僚が居るな」
 ブチャラティが優しい声音で穏やかに言った。
 だからアバッキオもギャングの世界に足を踏み入れるなという牽制も有ったのかもしれない。だがアバッキオは少し照れ臭そうに「フン」と鼻を鳴らす。
「因みにフーゴ、どういう関係なんだ?」
 名前も生い立ちも分からなくても、ここまで伝えられるのだから見ず知らずの他人ではない。
 だが彼との関係は何と言うのだろう。
 仲間だった、で良いのだろうか。友人とは少し違う。ギャングチームだった時にそこで相棒のような――等と言っても伝わる気がしない。
 ただ複雑な関係ではない。何故なら。
「好きな人です」
 これに尽きた。
 共に行動をしたから好きになった。ならばこちらでも出会えばきっと好きになる。
 容姿以外は曖昧なのは一目惚れだからと解釈されるならそれで良い。そんな青臭い感情を抱いていた。
 はたから見ても仲睦まじくしていたが、向こうがどう思っていたかは分からない。ただ、居心地良く思ってくれていれば嬉しい。恋人同士になりたいなんて恐れ多い事まで望まない。嗚呼、それが自分の本音か。
「探しているのは男なんだよな?」
 アバッキオの問いに、自分が男を好く男だと言ってしまった事に気付く。
 気持ち悪がられるだろうか。熱心な宗教家で、罪人として捕まえる、なんて事は流石に無いよう祈るしかない。
「男でも女でも、難しい話だな……だが出来る限りの手は尽くそう。もし他に尋ね人に関する事で何か思い出したら連絡をくれ」
 ブチャラティは紙ナプキンを取りそこに電話番号を書いて寄越してきた。
「有難うございます。僕は携帯電話を持っていないんですが……」
「俺から家に掛けるわけにはいかないな。何かわかったらアバッキオに伝える。アバッキオ、お前からフーゴに電話をしてくれるか?」
「まあ俺は構わないが……警察官から電話が有っても大丈夫か?」
「落とし物なり何なり言い訳は出来ます。それに……」
 それに、きっと連絡は来ないだろう。
 少なくとも朗報は来ない。これだけで見付けられる筈が無い。
 フーゴは紙ナプキンを受け取り、鞄の中へ大事にしまう。
 新たに分かった事が有ると連絡したい。だがきっと、もういいんだと打ち切りの連絡をするだけだろう。
 こんなにも会いたいのに。
 だがブチャラティとも会えて良かった。連絡先まで知る事が出来た。この紙ナプキンは宝物だ。
 初めて会ったかのように色々と話をしながら3人で食べる夕食は最高に楽しかった。

 『彼』と会うにはどうすれば良いだろう。アバッキオ・ブチャラティと別れた後にあのあたりを探してみれば良かったと思いながら、駅から大学への道を歩く。
 ギャングをしていれば朝方には行動しないのでこんな所で会う事は無い。
 カプリ島へ行ったようにもっと『行動』を起こすべきなのか。昨日は教授の後押しのお陰でアバッキオに会いに行った。その『行動』のブチャラティと知り合えた。
 しかし、何処に行けば?
 出会いはこのネアポリスだ。フィレンツェやそれこそカプリ島に行ったりもしたが、そこに長らく住んでいた事は無い。
 どんな家に住んでいるのだろう。実家は極普通の一軒家だったらしいが、こちらでも同じ家に居るのだろうか。
 組織に入ってからは1人でアパートに住んでいた。名義含めてブチャラティが手配した。こんな立派なアパートではなく、と駅と大学の丁度間辺りにある大きなアパートメントを、足を止めずに見上げる。
 フーゴの家は裕福だが郊外に有る。本当の金持ちは都心部に住む。そして大金持ちはこのアパートのように駅前『ではない』所に住む。運転手付きの自家用車が有るからだ。
 このアパートのペントハウスには一体どんな人間が暮らしているのだろうかと見上げていた目線を真正面に戻す。
 と、人影が見えた。
 斜め後ろからではどんな顔か分からないと思った時、視線を感じたか心を読んだかこちらを向く。
「あ……」
 足は止まるし小さくだが声も出た。
 『彼』だ……!
 ボサボサの黒髪の間から半分程見えた顔は間違い無く、強く探し求めている彼だ。そう認識すると体格も彼と同じだと、彼本人なのだと分かる。
 しかし漸く見付けた彼はすぐに背を向け走り出してしまった。
「待って!」
 初対面の人間のこんな言葉に従う者は居ない。
 フーゴの手を伸ばす姿を見るでもなくあっさりと、うんと遠くへ走り去る。
 追い掛ければ良かった。否、後悔しても意味は無い。必要なのは行動だ。「ああすれば良かった」が遅い今この瞬間、どうするべきか。
 フーゴは来た道を戻る形で走った。
 毎朝通る道なので使った事は無くとも目的の物が有る場所は分かる。
 足が速いと思っていなかったが、そこにはすぐに着いた。
 公衆電話だ。丁度誰も使っていない。受話器を上げ金を入れ、紙ナプキンを取り出し急いでダイヤルする。
 数回の呼び出し音。
――カチャ
 出た!
「ブチャラティ! 僕です!」
「ん……その声はフーゴ、か?」
「そうです!」
 明らかに寝起きの声だが自分と認識してくれたのでそのままの勢いで話を続けた。
「聞いて下さい! 僕の探している人の事です!」
「ああ……」
「見た目が、昨日話した通り僕より背は低く童顔で、髪はブルネットで伸び放題で、ええとそれから、走って行ってしまった。けれど、今、見たんです!」
「……何? 今、何処から電話をしている? 見た場所からか?」
「見たのはアパートの前です、デカいアパートで、そこに住んでいるわけじゃあない。きっと、近くでもない」
「走って行ったのはどっちだ?」
「追い掛けられなかった。相変わらず猫のように素早いままだったし、それにあの格好じゃあすぐに見失う。人の多い所に行ったら見分けが付かない」
 何とか口は回っているが心臓は早鐘を打っていて思考が全くまとまらない。もしかしたら正しい言葉を話せていないかもしれない。
 1番大事なことを伝えなくては。この情報が有れば探し出して、見付けてもらえるかもしれないのだから。
 フーゴは大きく息を吸って吐いた。言いたいが言いたくない。2つの気持ちが苦しい程にせめぎ合う。
「彼は……」何だ、とブチャラティに急かされた。もう1度だけ深呼吸をし「……ゴミを、漁っていた……」

 大学で受ける講義がこんなにも頭に入ってこないのは初めてだ。そう思いながらもフーゴは開いたノートに講義内容とは全く関係の無い事を書き纏めている。
 誰より大切な『彼』を見付けた。会えたのではなく見掛けただけ。
 声も掛けられなかった。待てとは言ったが彼はきっとその声を覚えていないだろう。
 すぐさまブチャラティに連絡して彼の事を話した。跳ねるように逃げて行った彼を追い掛けられる自信は無いし、探すのはやはりブチャラティの方が向いていそうだと思ったからだ。電話口でブチャラティも正しい判断だと、機転が利くと言っていた。
 ブチャラティは先ず彼がゴミを漁っていたアパートメント近郊を調べると、だからフーゴは学校に行くようにと言った。あの優しく力強い声音で。
 別に必須の講義ではないと、そんな事をしている場合ではないと言うと「それなら丁度良い。今見た尋ね人の事を書きまとめて、授業が終わってからアバッキオに渡してくれ」と言われた。電話はそこで切られている。
 落ち着いて言葉にして、尚且ついつでも読み直せるようにするのはとても良い事だ。頭が良いと言われてきた自分よりも、変わらず学校に行けていないであろうブチャラティの方が余程頭が良い。
 冷静さを取り戻せばフーゴも思い付いただろう。それだけあの時は混乱していた。
 教授の有難い御言葉をBGMに──別の記憶では退学に至る要因の男だから非常に腹立たしくミュートしたいBGMになっているが──今朝『見た』ままを箇条書きにしてみている。
・名前 思い出せない。
・顔 半分程しか見えなかったが変わらない。童顔。非常に汚れていた。また疲れた顔をしていた。
・髪 黒髪。遠目にもベタ付いて見えた。記憶に有るより伸びていた(顔が半分隠れる程)
・服装 汚れていた。見覚えのない服、安物、体型には合っている。
・体型 知っている通り小柄で痩せ型。近くで見ていないが記憶にあるより更に痩せている。
・所持品 特になし(ゴミを1つも持って行かなかった)
 この位しか思い浮かばない。
 声を聞ければ書ける事が格段に増えたのに。声は記憶と同じだろうか違うだろうか。それに違う国の言語を喋るのかもしれない。折角会えたのに手掛かりは殆ど増えていない。フーゴは半分も埋まっていないノートの上に突っ伏した。
 これをアバッキオに見せて何か進展が有るとは思えない。
 かと言って今ブチャラティが見付け出してきてくれるとも思えない。
 今まさに探してくれてはいるだろうが──やはりこんな所には要られない。一緒に探すべきだ。一応言われた通りに書き纏めたのだからもう良いだろう。
 しかしこの教授相手に目立ちたくない。
 偶々代打と称して講義を繰り広げているが、成る程教授としてはやはり悪くない。知識が豊富で話し方も上手くて、この状況でなければきっと多くを学べる。
 そうして騙されたのだとフーゴは顔を上げる。こちらでは変態趣味は無いかもしれないが、それでも目を付けられないように他の学生達と同じ振る舞いをしなくては。

 昼食前に大学を出てアバッキオの詰め所へ向かうべく乗った電車に揺られながら、アバッキオは昨晩『夜勤』だと言っていた事を思い出した。
 夕食を終えて別れた後に自分は帰って寝たが、アバッキオはそのまま仕事をした筈だ。
 警察官の夜勤が何時から何時までを指すかは不明だが、僅か2〜3時間で帰ってはいないだろう。逆に今も勤務中という事も無いだろう。
 どちらにしろ今この時間に詰め所に居なく家で寝ているのでは。
 目的地で降りたがさてどうしようと取り敢えず繁華街へ向かった。相変わらず賑やかでナポリは観光都市だというのがよく分かる。
 しかし観光客を狙ったスリが居たりと決して治安が良いとは言えない。
 物乞いは居ない。職業としてのそれも。ネアポリスでは物乞いとしての仕事が確立されていない。ただ物乞いを狙った武装集団も存在していない。
 ギャングになる直前、大学と家を追い出された後は住処(すみか)や仕事の無い貧困者への福祉を最大限利用して生活していく事を考えた。
 ネアポリスでは厳しいが出来ない事も無い。もし『彼』が今朝見た通りに家が無いのなら、それに応じた国の援助を受けるべきだ。
 未成年なので先ずは親戚筋を頼る事になるが、それが嫌ならブチャラティに頼んで何かしら都合してもらえば良い。今のブチャラティがギャングとしてどれだけの地位に居るかは不明だが、ブチャラティならきっと何とかしてくれる。
 一縷の望みが見えた。物理的にも光が見えた。前方を眩い位の金の髪が歩いていた。
 後ろに1つに編んでいる。間違い無い、ジョルノだ。
「ジョルノ!」
 小走りに近付き呼び掛けると、人違いなんて事は無くジョルノが振り向く。
「フーゴ、奇遇ですね」
 足を止め僅かに微笑んだ。
「……ジョルノ、学校は?」
「貴方と同じ理由でここに居ます」
 サボり仲間と認定されてしまった。
「待ち合わせをしています。時間は決めていませんが、いつも落ち合うのはもっと遅い時間なのでジェラートでも食べようと思ってここに来たんです。この先に美味いジェラテリアが有るんです」
 ジョルノはこちらに顔を向けたまま足を進める。自然とフーゴも歩き出す。
「本を読んで待ったりはしないのか」
 2度目に会った場所が図書館なので本が好きなイメージが付いていたのだが。
「ネアポリスの屋外は本を読むのには煩過ぎます。出来れば静かな所で静かに読みたい。それに目に悪いと言われるけれど少し暗めの所で読む方が落ち着いて好きなんです」
「まあ読書は静かな場所の方が良いというのは同意しますよ」
「それじゃあ同志のフーゴ、一緒にジェラートでも食べませんか。ジェラートは屋外で誰かと話しながら食べても美味い」
 どうしたものか。恐らく詰所にアバッキオは──未だ、あるいは今日は──居ないので時間は有った。
 そんなに美味いならと思うし。
「話すだけで気が紛れる事も有るし、もしかしたら僕が解決の糸口を持っているかもしれない」
「……ジョルノの目から見て、僕は何か悩んでいるように見えましたか?」
「難しい質問ですね」その割には淡々とした様子で「僕は未だ知り合ってから日の浅い貴方の『普段の様子』を知りませんから、いつもと比べて悩んでいるようだ、とは思いません」
「なら何故?」
「フーゴは悩みを抱え込みやすそうだな、と思いました」
 人を見た目で判断するのは良くない、とは言えない。性格が顔に出るとは言わないが、生活は体型と肌に出るし趣味嗜好は服装に出る。
「悩みも何も無いなら、フーゴなら僕と一緒にジェラートを食べてくれそうに見えた、でもいい。そのついでに学生らしく、嫌いな教師とかどの女の子が可愛いとか、そういった話をすれば良い。そういう物だと最近聞きました」
「そうか……そういう物だったな、学生とは」
 クラスメイトは、同級生は皆ライバルという物ではない。
 別の記憶で仲間という物を知ったが、こちらでは全く知らないままだった。
 ジュニアスクールでは勿論、大学に飛び級してからもそういった話をしている人々を見てきたのに、この概念に触れるのは酷く久し振りの気がする。
「学生というより友達でしょうか」
「友達か……」
 確かに同じギャングチームに所属しているわけではないので仲間とは言い難い。
「僕と友達は嫌でしたか?」
「まさか」
「じゃあ友達同士でジェラートを食べに行きましょう」
 ジョルノは既にジェラテリアを目指して歩いている。今から断るにはフーゴが不自然に方向転換しなくてはならない。
 少々強引で見た目には余り食に興味の無さそうな友達が気に入っているジェラートを食べる事にした。

 テイクアウトをしたジェラートをすぐ近くの公園のベンチに並んで座り食べる。
「美味い!」
 一口食べただけで大きめの声を出してしまい、ランニング中の女性に振り向かれる。
「気に入りましたか?」
「ああ」大きく頷き「使われているのは酸味の少ない、糖度のとても高い苺のようだ」
 こんなに甘い物を食べたのは初めてかもしれない。
 ジェラート自体は初めてではないが『友達』と食べるのは、そして屋外で食べるのは初めてだ。それらも甘く感じる要因なのか。
「フーゴも気に入ったのなら何よりです。食べながら話でもしましょう。今日もまた暑いとか」
 木が影を作ってくれているので陽射しはそこまで浴びていないが気温はしっかり暑い。
「あとは可愛い女の子の話とか」
「ジョルノ、ガールフレンドは居ますか?」
 可愛い女の子の話、と言われても何も思い付かない。なのでここは相手に関する、イエス・ノーで簡単に答えられる質問をした。
 答えが来たらそれを膨らせて尋ね続ければ会話は成立する。
 相手の事を知れるし、相手は自分の事を話せて気分が良くなる。そういった人付き合いの心得は知識としては持っていた。
「居ません、無駄なので。フーゴは?」
「僕も居ません」
 一瞬で会話は終わってしまった。知識は有るだけでは、正しく活用しなければ意味が無い。
 モテそうなのに? 男が好き? 勉強や部活動に力を入れて──いるならこの時間にこんな所でジェラートは食べない。さて一体何を聞こう。
「……ええとジョルノ、嫌いな教師は?」
「教師に好きも嫌いも有りません。余り関わらないので。フーゴは?」
「確かに僕も無かったな。でも授業の上手い下手は有った」
「ああ、それは確かに有りますね。教え方の上手い教師は好きかもしれません」
「大学の講義は更に顕著だ。若い教師は居るが若い教授というのは殆ど居ない。人気が有るのは皆面白い講義の出来る──」
「フーゴ、大学生なんですか?」
 ジェラートを食べる手が止まっている。
「すみません、すっかり同年代だとばかり」
「いや、今16です。大学には飛び級で入っただけで」
「『だけ』を飛び級に使う人は初めて見ました」再びジェラートを口に運びながら「良ければ教えて下さい、大学の事。好きな教授と嫌いな教授からで構いません」
 会話を盛り上げようとしているのではなく、純粋に大学という物に興味が有るらしい言い方。
 友人間の会話とは本来こういった物だ。かつて仲間としてきた。
「好きな教授はおばあちゃんみたいな人です。高齢の女性で、腰も少し曲がっている。だけど知識量は豊富だし穏やかな話し方もあり分かりやすい。彼女が僕の専攻分野の教授で良かった」
「じゃあ嫌いな教授は真逆の若い男? 否、若い教授は殆ど居ないんでしたね」
「ええ、僕の嫌いな教授は男ですが若くない……講義も、上手い。今日久々に受けたけど悪くなかった。いいや……良かった……」
「なのに嫌いなんですか?」
 視線を落とし「はい」とだけ答える。
「……話したくないのなら聞きません。ですが先程言ったように、話す事で気分が晴れたり僕が解決の糸口を握っているかもしれない」
「解決は……もう過去の事なので。それに聞いてもきっと面白くない話だ」
「面白いかどうかを判断するのは話を聞いた僕だけです。それに僕はジェラートをダブルで頼んだ。2倍の量だ。フーゴが話をしてくれないと先に食べ終わられてしまう」
 無理にとは言わないが、と取って付けたように言われても、これは話さなくてはならないではないか。
「ジョルノは……パラレルワールドという概念は知っていますか?」
「パラレルワールド? 平行世界?」
「そうです。知っているなら話は早い。僕はパラレルワールドを、何と言おうかな……見てきました。その先ではその教授は変態で、僕は『乱暴』をされかけました」
「されかけた……された世界線ではないんですね」
「はい。されかけて、抵抗して」4kgで滅多打ちにして「実家からも大学からも追われました。そんな世界線です」
 ジョルノの視線が気の毒そうなそれに変わった。
 平行世界の話を信じてくれているのか。ボコボコにされた挙げ句関係無い世界線でも嫌われている教授に同情しているのか。あるいはそんな話をする頭の可哀想な奴だと思っているのか。
「その世界線は僕にとって嫌な物じゃあなかった。そりゃあ今の穏やかな暮らしの方がずっと良い。家族間の絆は最低限だが有る事は有るし裕福だし、大学生活を非常に満喫している。でも……別の世界線には仲間が居た」
「平行世界を渡り歩く?」
「いや、向こうではこちらの記憶は無かった。ある日突然向こうの記憶が自分の中に蘇って……」
 もしやジョルノにも向こうの記憶が有ったり、という期待はしない方が良さそうだ。
 意味は分かるが道理が通らないと言いたげに眉間に皺を寄せている。
「僕ばかり話してすみません、ジョルノも自分の事を話して下さい。僕もジェラートを食べたいので」
「ああ……」フーゴの持つジェラートの表面が溶けているのを見て「でも僕はこれと言って話す事の無い、至って普通の人間です」
 ジョルノを以てして普通の人間と言うのは無理が有る。気がしたが、一応今の所はクラスメイトからは浮いているらしく突然金髪になり街のチンピラとつるんでいるだけの少年か。
 突然金髪?
 改めて何故なったのかと尋ねる前にジョルノが顔を横に向けて尋ねてきた。
「フーゴは霊感とかそういった類いの物は有りますか? いや、これだと抽象的ですね。フーゴには『コイツ』が見えますか?」
 あの能力の事だ……
 ジョルノが顔を向けている先には何も見えないし感じられない。だがきっとそこに居る。
「精神力を具現化した存在」
「見えるんですか? 初めてだ、この──」
「いやすまない、見えてはいない。こちらの僕には見えないし、僕に『それ』が取り憑いていたりもしない」
 そうですか、とジョルノは肩を落とした。
 しかし取り憑くとは我ながら妙な表現だ。色々と便利な超能力なのに。フーゴ自身のそれの能力が知性の無い毒物という厄介な物だっただけにそう言ってしまったようだ。
「向こうの、もう1つの記憶の方では僕にもそういった能力が備わっていました。君のそれは、もしかしたらこっちのとは違うかもしれないけれど君に似た体型をしていて、だけど僕のはもう少し大人のようと言うか大きくて」
「……パラレルワールドでも僕と知り合ったんですか……?」
「はい。ミスタとも知り合いでした」2人とも知り合い、なんて言葉では済ませたくない仲間で「ミスタのは僕らのそれとは大きく違い、6人の小人です」
「小人? 自分に似ていない場合も有るのか……しかも6人も居るんですか?」
「お調子者だったりクールだったり色々な性格をしていました。それによく喋る」
「喋る!?」
「物も食います。まあでもあれは例外か……僕の周りでその能力を持っている人の大半は自分に似ています。ああ、更に大きな例外で小型の戦闘機の能力の奴も居ました。あれは操縦者が能力の根源なんだろうか……」
 顎に指をやり考える。
 戦闘機が能力で、戦闘機のレーダーを能力ではなく自分の目で見る事が出来る、戦闘に特化し過ぎた能力。
 彼は決して戦闘狂ではなかった。だがハングリー精神のような、生き抜きたいという強い精神の持ち主だった。
「……また僕ばかり話していますね」
「いえ、もっと聞かせて下さい」
 年頃の少年からすれば面白い架空の話、ジュブナイルノベルのような物に聞こえるのかもしれなく、ジョルノは目を輝かせている。
「その戦闘機の能力の持ち主と会いたいんです。こちらでも、という意味で。君にもミスタにも会えた」アバッキオにもブチャラティにも。だから「彼にだけ会えないなんて。漸く見付けても…でも、あの姿……」
 薄汚れた姿で、目が合うなり走り逃げ去ってしまった。
「会えたんですか?」
「話も出来ずに逃げられてしまいました。今人に頼んで探してもらっています。自分でも探したいけれどどうして良いかわからない。向こうは会いたくないかもしれないし」
 だから立ち去った。誰だってゴミを漁る姿は見られたくない。
「その人の名前は?」
「わからないんです。君やミスタの名前も思い出せなかった。顔や性格なんかはしっかりと覚えているのに」
 今もこちらで会っていない人や無かった物の名前は思い出せないでいる。
「仮にその人をAさんとします。イニシャルは違うかもしれませんが名前がわからない以上そう呼びます。フーゴはAさんと会った事が無かった。ああ、平行世界じゃあなくこちらの基準世界での話です。記憶に有るだけで、逃げられたその時までは会った事が無かった」
「はい」
「Aさんにとってフーゴは初対面なのに、逃げられた」
「それについては心当たりが有ります。その、見られたくない所に出会して(でくわして)しまって」
 普段からゴミを漁り食い扶持を凌いでいるであろう彼には常に人と会いたくないだろう。
 今朝のあの瞬間だけ、ただの出来心だったなら──否、それは無い。通学途中にふざけていた所をアパートの住人に見付かった、という反応ではなかった。
「会いたいだけなら、同じ場所に行けば良い。けれど同じ場面に出会しかねない。という事ですか?」
「同じ場所にはもう来ないと思う……」
「似たような場所には?」
「……来ると、思う。同じ事をする為に」
 きっとそうしなければ生きていられない。
 今この瞬間もそうしているだろう。同年代の自分達が僅かなエネルギーにしかならないジェラートを美味い美味いと食べている時、彼は生きるべくゴミを漁り彼の肉体はその栄養を必死に確保し彼の精神は無へ向かう。
「Aさんはこの基準世界でも僕のような能力を持っていますか? 戦闘機を繰り出せそうでしたか?」
「恐らくその超能力は使えないと思う。ジョルノは生まれ付きですよね? Aは僕やミスタと同じく後天的に身に付けました」
 皆ギャング組織に入る際に身に付けたが、ジョルノは違った。旅の最中(さなか)にそう聞いた。
「Aさんの体格は? 物凄く良い?」
「その逆です。小柄で、こっちでも向こうでも細身です」
 まして今朝見た姿に至っては枯れ枝のような不気味な細さ。
 栄養失調に陥っていれば腹だけラクダのコブのように膨れているだろう。
「じゃあ似たような場所で待ち伏せて捕まえるしか無い」
「そんな乱暴な──」
 半笑いで言った言葉が途切れる。
「彼と呼んでいるからには男性、女性や子供じゃあないのだから多少手荒な事をしても構わないでしょう。それに見られたくない場面に出会したのだから、同じ状況に持ち込んで脅すという方法も有ります。小一時間で良ければ付き合います。僕のこの能力は応用が効くので拘束にも使えます」
 真顔で、しかもジェラートを食べながら平然と言ってのけた。
 どちらかと言えばクールで物静かそうな見た目をしているのに──嗚呼、それは自分にも当て嵌まる。
 そしてジョルノはそういう人間だった。冷静に分析が出来るし大胆な行動も取れる。そんな彼にギャング同士として出会った世界線では敬意を表していた。
「あと、Aさんがこの基準世界でも僕と知り合いの可能性は有りませんか? フーゴは先程平行世界のAさんやミスタの能力の話をしました。僕とミスタは既に繋がっている。Aさんも、もしかしたら──」
「それは無い」
 強めの口調で遮る。
「……他にも会いたかった人が2人居て、その2人が既に繋がりが有った」
 だから彼と真っ先に繋がるのは自分だ。
「あとジョルノの知り合いではなさそうというか、ジョルノにも誰にもそういう知り合いは居なさそうというか」
「フーゴが先にAさんと仲良くなりたい?」
「そう、それなんだ。あ、いや、えっと、そうじゃあなくてですね」
 しどろもどろな様子にジョルノは目を細めた。
「それじゃあ」すぐに真顔に戻り「僕の能力が必要になったら呼んで下さい」
 隣に立っているであろう超能力に限らず、知恵なり知識なり発想力なり。
「とは言え僕は携帯電話を持っていないんですが」
「僕もです」
 目覚ましく普及している携帯電話だが、大学生活を送る上で必要ではないので持ちたいと思った事すら無かった。必要性を証明出来れば買い与えてくれるだろうが、仮称Aさんに会いたいからでは無理だろう。
「取り敢えず呼んでみて下さい。聞こえたら駆け付けます」
 ジョルノは立ち上がる。
「食べ終わったし一応待ち合わせているので失礼します。正確な時間の約束はしてはいませんがそろそろ向かわないと待たせてしまうかもしれない」
「有難うございます、付き合ってくれて」
「付き合ってもらったのは僕の方です。あの店のジェラートの美味さを広められて良かった。それに何より面白い話を聞けた。パラレルワールドでは多くの人が僕と同じような能力を持っている……さて、遅れるとミスタがナンパに引っ掛かける事に成功した女の子とどこかに行きかねない」
 待ち合わせ相手はミスタか。
 じゃあまたと言い合い、ジョルノはそのまま歩き去った。
 離れて行っても目立つ金の髪。途中女性2人組に声を掛けられたが手を振り断っていた。一方でミスタはナンパに失敗して大人しく待っているのではと想像すると可笑しい。
 フーゴも相当溶けたジェラートを食べきる。
 立ち上がる前に考えた。
 ジョルノの言う事には一理有る。一理では足りない位に考える事が有る。
 もうあのアパートのゴミ捨て場には現れないだろう。自分に見られたから、ではなく。逃げ出す時に何も持っていなかった。あそこでは収穫が無かった。
 彼がゴミを漁るのはそこに食糧が有るかもしれないから。無い所には用が無い。有るかもしれない所に行く。
 つまり別のゴミ捨て場に現れる筈だ。
 住人のみが出せるゴミ捨て場の付いたアパートは他に有るだろうか。気にした事が無かったので全く思い浮かばない。
 そもそもこの時間だ。どこのアパートであってもゴミは業者が回収した後だろう。エッセンシャルワーカーには頭が上がらないが今ばかりは手抜きして置きっ放しにしておいてくれてもと無理な事を思った。
 明日またあのアパートに来る可能性は0ではない。しかし他のゴミ捨て場の方が可能性は高い。明日を待つより今日行動を起こした方が良い。今の所行動とその為の決意は全て結果が出ている。
 大きく息を吸って、吐いて、先ずはこの公園のゴミ箱へ向かって歩き出した。

 家庭のゴミは決められた時間に決められた場所に出す物なので、大きなアパートの横の収集される直前には食べられる物で溢れていそうな所でも、今この時間には何も無い。
 民度の低い住人が日時を守らず出すかもしれない。という事で治安が特に悪いとされる地域へ足を運んでみたが、実際ゴミが少量捨てられている所も有ったが『彼』の姿は勿論誰かが漁った痕跡も見当たらなかった。
 ゴミの収集の仕組みを失念していた。というか考えた事も無かった。何時に何処に収集車が訪れるのか。
 家や学校に焼却炉が有る時代はとうに過ぎ、フーゴにとってゴミとはゴミ箱に捨てればそれで終わるものだった。それが何時頃収集されているのかわからない。
 本屋で調べてみた。ネアポリスでは家庭や企業のゴミは昼間に収集して回っているらしい。出勤の前に、在宅ワークならば仕事を始める前に、企業ならば前日纏めておいた物を朝1番に、指定されている場所へ出せば業者に収集してもらえる。
 一方飲食店は夜に収集している。営業を終えて作業を終えて最後の仕事がゴミを出す。生ゴミが多いので余り長い時間置いておけない。飲み屋街には明け方収集車を走らせているようだ。朝から晩まで休みが無い。
 夕方と呼ぶには未だ未だ日の高いこの時刻、家庭やビジネス街を巡り終えた収集車はどこを走っているのだろう。
 公園か?
 無駄に歩かずあの公園で張っていればもしかして。否、あれだけ人の多い公園のゴミ箱は漁れないだろう。せめて暗く人気(ひとけ)が無くなってからでないと。
 これから戻ろうか、来るとは限らない公園に。ブランドショップが立ち並ぶ通りを背にフーゴは溜め息を吐いた。
 流石に当てずっぽう過ぎた。治安がやや悪い住宅街には手掛かりが無かったので正反対の高級商店街にと思い来てみたが、この辺りのゴミ箱に食べられる物を捨てる人間は居ない。
 だから人の気配を感じ左を、路地裏と呼ばれる店と店の間でろくに手入れがされていなく雑草が生えてしまった隙間を見たのはただの気紛れでしかなく。
「っ……!」
 居た!
 今朝見たままの彼の姿に足を止めて息を飲んだ。唾液が気管に入り軽く噎せた。その咳き込みに遂に見付けた彼がこちらを向く。
 雑草の上に腰を下ろし、今から食べるつもりのようだが既に契った跡の有るパンを手にしている。髪の毛で隠れていない方の目でじっとフーゴの顔を見ていた。
「……あの」
 声を掛けた。と同時に探し人は立ち上がる。
「ッ、待ってくれ!」
 走り出さないが聞く耳も持たない。背を向けてとぼとぼと疲れきった足取りで立ち去ろうとした。
 腕力に自信は無いが今の彼なら恐らく簡単に、ジョルノの特殊な能力に頼らなくても捕まえられる。
 だけどきっと嫌われる。嫌われたくない。好かれたい。こちらの世界線でも仲良くありたい。
 変わらず好きな人なのだから。
──呼んで下さい。
 脳内にジョルノの声が甦る。名前を呼べと、とっ捕まえる為にその場に呼ぶように言っていた。
 名前を。
 平和に大学生をしていては聞かないから記憶として持ち合わせていない人名を。
 他の仲間達の名前は思い出せなかったけれど。
 聞こえなかった事にされないよう、フーゴは大きく息を吸う。
「ナランチャ!」
 名前を呼ばれて浮浪児同然の姿をしている少年のナランチャは足を止める。
 そうだ、ナランチャだ。彼の名前はナランチャだ。思い出したというより口から自然と出た。
「ナランチャ……待って下さい、ナランチャ」
 繰り返し名を呼ばれてナランチャはうんざりとした様子で振り向く。
 またあの片目と目が合う。色も形も同じなのに、記憶のナランチャとは正反対とも言える精気の感じられない目。
「……アンタ、誰」
 掠れきっているが、間違い無くナランチャの声。言語も訛り無くこの国の物。
 心臓がバクバクと早鐘を打って胸が苦しいし息も荒い。
「何でオレの名前知ってんの」
 質問している筈なのに声に抑揚が無く疑問系に聞こえなかった。
 何から話そう。どこから話そう。嗚呼、どうしたら良いんだ。
「僕と話をして下さい、ナランチャ」
 右手を伸ばす。
「……答えになってない」
 だがフーゴの手にナランチャの手は乗らない。
「僕が誰か、何故君の名前を知っているのか、こんな所じゃあ話せない。店に入りましょう」
「金、持ってない」
 見ればわかる。そうとは言わず、フーゴは更に指を広げた手を前へ突き出した。
「何が食いたいですか? 奢りますから来て下さい」
「……いい。今日はパン拾ったから」
「そんなパンは捨てて、来て下さい!」
 つい大声になる。きっと背を向けている通りでは──高級商店街でハイソな人々ばかりだからこそ──何人かが振り返った気がする。
「誰かの食い掛けじゃあない、作りたてのスパゲッティを食わせますから」
「食い掛けたのを貰ったんじゃあない」
「じゃあそれは……もう一口食ったんですか?」
「違う。カビが生えてたんだ。だからちぎって捨てた」
 どこで拾ったかはわからないが、本来の持ち主は買ってかなり日の立ったパンにカビを見付けて捨てたのだろう。それを拾って、犬やカラスやホームレスの存在を許さない警察官に取り上げられないように隠れて食べようとしていたのか。
「カビは目に見えない形でかなりの根を張る生き物だ。そのパンはもう全てにカビが生えていると思った方が良い」
「……カビを食っても死なない」
「正直言って今のアンタは栄養失調を起こしていて免疫力が低いと思われる。そんな体でカビを取り込めば死なないとは言い切れない」
 ナランチャは手にしたパンを見て、こちらの顔を見て、またパンを見た。
「食っただけで死ぬならオレは死んだ方が──」
「カビの生えたパンは不味い!」
 再びの大声だが、もう誰が何人振り向こうと気にしない。
 ナランチャの目が自分に向けばそれで良い。
「不味いの……?」
 キョトンと目を丸くして、1度瞬きをしてからの問い。
「はい。不味いパンじゃあなく美味いスパゲッティを食った方が良い」
 本当はカビの生えたパンなんて、カビた物なんて食べた事が無いから分からない。カビの味に関する文献を読んだ事だって当然無い。
 知りもしないでした全否定が面白かったのか、何で汚れたかは分からない形以外の全てが汚いナランチャの口元が微笑む。
「スパゲッティは捨てられてないし、盗めなくて」
 口角の上がった口が必死に、ぽつらぽつらとだが話す。別の記憶では偶然見付けたナランチャをブチャラティの元まで連れていくのにこんなに苦労しなかったのに、と思い出した。
「だからもう、ずっと食ってない」
「サラダもスープもドリンクも、食後のジェラートだって付けます」
 嗚呼でも折角だからジェラートはあの美味しいジェラテリアの物を食べさせてやりたい。
 しかしそんなに一気に食べさせては体の全てが驚くだろう。苦しくさえ感じるかもしれない。
「僕の名前はパンナコッタ・フーゴです」
 これでもう知らない人ではない。
 本当は名前を聞いて色々と思い出してほしい、違う世界線では仲間であった記憶に微かにでも触れてもらいたかった。だがそれは叶わなかったようだ。ナランチャは初めて聞く名前を、相変わらず掠れた声で「フーゴ」と呼ぶ。
「奢ってくれんなら、行く」
 パンのような食べ物を持つ前に洗えと言いたくなる程汚れきり爪も伸びた手が、漸く伸ばし続けたフーゴの手に重なった。

 大きく息を吸って吐いて、緊張を隠せないナランチャはフォークを手に取り最初に運ばれてきたサラダへと向ける。
「……いただきます」
 ドレスコードは無くとも今のナランチャ程汚れきった状態でリストランテには入れないので、より大衆向けのトラットリアへ来た。
 それでも一瞬店員は顔をしかめた。奥の席が落ち着くから好きだと謂いながらチップを手渡して都合させた。ナランチャを壁側の席に座らせ、フーゴは店内から隠すように真正面に座った。窓は壁から少し遠いので景色は見えない。なので窓の外からもナランチャは見えないだろう。
──シャク
 葉物野菜の瑞々しい音。
 目の前でよく見知っているけれど今日初めて会った仲間がみすぼらしい姿のまま食事を始めた。髪も爪も伸び放題で、特に前髪は片方の目を完全に隠している。
 共に過ごしていた場合はこういった野菜や果物を好んでいた。
 調理しなくても食べられるし調理次第で味が大きく変わる。
 もしくは他に理由が有るのかもしれない。亡き母が果物を好んでいたとか。母は早くに亡くなったがとても良くしてくれた事も、一方で父とは折り合いが悪かった事も聞いた。
「両親の事を聞いても良いですか?」
 ナランチャは突然の問い掛けに肩をビクつかせて顔を上げる。
「……良いけど……」
 躊躇いが有った。自ら進んで話したくはないが、ご馳走になっている身では逆らえないといった様子が気まずい。
「アンタは食わねーの?」
「腹は減ってませんし、僕はここのカプチーノが好きなんです」
 実の所若干小腹は空いていたが、今食べてしまうと帰宅後に夕食が入らない。今日は遅くなるから要らないと連絡していないし、そもそもそんなに遅くなるつもりも無い。連日夕食を外で済ませるのは親に良く思われない。
「カプチーノ、好きなんだ?」
「意外ですか?」
 確かに一緒に居る時に飲む事は少なかった。
「ううん、似合うと思うけど……オレ、アンタの事全然知らねーし。フーゴ、だっけ……先にお前が話せよ。何でオレの事知ってんだよ」
 さて、何と話そう。
「ナランチャはパラレルワールドを、平行世界という概念を知っていますか?」
「何それ」
 やっぱり。
「オレはどうしてアンタがそうやってオレの名前を知ってんのかを知りたいんだけど」
「遠い昔に会った事が有るからです」
「そうなのか?」
 人生1度分前に。
「オレはアンタの事、全然覚えてねーけど」
「仕方有りません。その頃会った人は皆、僕の事を忘れていました」
「ふーん。頭良いんだな」
 記憶力が良い事も『頭が良い』の一種になるだろう。
「飛び級で大学に入っていますから」
「すげー」
「僕の自己紹介は終わりですね」好きな事にしたカプチーノを啜り「君の事を聞かせて下さい。先ずは親御さんの事からで構いませんから」
「親……母さんは遠い病院にずっと入院してる」
「生きている!? あ、失礼……その、他意は無いんだ」
 ナランチャがギャングに堕ちた要因の元を辿ると母の死が切っ掛けになっていたので驚いた。尤もこちらではギャングにすらなれていないので『未だ』生きているだけとも考えられる。
「長い期間となると、重たい病気なのかと思って」
「目の病気」
 これ、とナランチャが自身の前髪に隠された方の目を指した。
 ベタついた髪の隙間からちらと見える事が有ったので気付いていた。眼病を患っている。
 目の周りが醜く腫れ上がっており眼球が埋没しかけている。物理的に見えていないのは確かだ。その状態が長く続いていれば視力自体もかなり下がっているだろう。
「でも、もう死んでるのかもしれない。見舞いとか行った事無いし」
「そうなんですか」
「だからあんまり母さんの事は知らないし、覚えてもない。ちっせー頃は一緒に住んでた気がするけど」
 共にギャングをしている世界とは大きく異なっている。こちらのナランチャには母親の記憶という、向こうの彼にとってどんなに薄れようが大切な『良い思い出』が無い。
 母親を知らない事が当たり前のナランチャの前にスープが運ばれてきた。
 サラダの残りを掻き込み、スープも大急ぎで飲む。
 誰も取らないよと言いたいが、取られた過去が有ると反論されそうで出来ない。冷める前に飲んだ方が良いと思い込む事にして黙っていた。
「……父親は? 話したくなければ、それで構いませんが」
「多分生きてる」
 それだけ言って、またスープを飲む。
 皿の中のスープをスプーンですくえない量まで飲んでから「あの男は庭師」と話を再開した。
「昔は母さんの見舞いに行ってるみたいだった。昔っから嫌いだったし嫌われてたけど、何年前だっけ……オレの目がこうなり始めた位から、母さんじゃあない女の人の所に行くようになったっぽい」
 浮気、婚姻関係が続いていれば不倫か。
 もしその時点でナランチャの母親が亡くなっていれば法的には何も問題は無い。
 息子のナランチャの養育を放棄して、街を彷徨わせていなければ。
「もしかして今はその女性の家に入り浸っている、とか?」
 自宅で待っていても帰ってこないばかりか、借金取りか何かが押し寄せてナランチャ自身帰る事が出来なくなった、なんて低俗な映画の冒頭みたいな状態なのだろうか。
「今は、知らない。アンタの、えっと、フーゴの言う通り、どっかに住むようになったみたい」
 気を利かせたウェイターが早々にスパゲティを運んできた。ナランチャは早速麺にフォークを絡める。
 サラダとスープだけで満ち足りる程胃袋が収縮していないのは何よりだ。
「だからもう全然会ってない。なあ、食っても良いか?」
「勿論」
「アンタは食わないのに?」
「飲んでいますよ」
 カップの中には未だ残っている。余り時間が経過していないのではなく飲むのが遅いだけだ。清潔な店内と不釣り合いなナランチャの痛ましい姿に胸が詰まっている。
「会っていないのはどの位?」
「1年と、ちょっと」
 家を追い出されて会わない代わりに食事にも有り付けない、というわけではないのか。
 昨日今日でここまで汚れきる事は無いが、1年もそんな生活で生き永らえる事も出来ない。
 そう、出会うのが1年遅ければ、ナランチャが1年この生活を続けていたら死んでいた──
「オレ1年刑務所に居てさ」
「刑務所?」
「出て家に帰ったら家が無かった」
 そう言ってスパゲティを頬張る。美味いとも不味いとも言わない。
「……刑務所って事は逮捕された? 出所したら家が無い? 何年か前からは妻ではない女性と、え?」
 把握しきれない。
 幼い頃から良い成績を修め続けてきたフーゴは今初めて10歳位の時にクラスに居た、学校の授業に『ついていけない』学生の気持ちが理解出来た。
 もごもごと口を動かし飲み込んで更にもう一口食べようとしたナランチャに、テーブルを指でトントンと叩いて合図を送る。
「ん? ああ、えっと、どこから話せば良いんだ?」
「出来れば最初からお願いします」最初? と小首を傾げられたので「いつ何をして逮捕されたんですか?」
「何もしてない。捕まったのは1年とちょっとと、あともうちょっと前。ちょっと前に出た刑務所に1年居て、捕まったのはその前」
 ネアポリスには誤認逮捕が存在しないとは言わないが、本当は何もしていないのではなくとても些細な、例えば友人と共に盗みでもやらかして、その友人の罪も擦り付けられて、といった所だろうか。
「眼帯してたから捕まった」
「は? そりゃあ成長期に眼帯で片目を完全に覆ってしまうと視力が落ちるので良くありませんが」
「そうなんだ?」
「だからってそれは罪じゃあない」
「クラスの奴が盗んだり、あと人を殴ったりして、その時眼帯してたから、目がヤバくなってきてからずっと眼帯してたオレが犯人って事にされた」
 思い返せば向こうの世界線でもナランチャは一時的だが眼病を患っていた。
 病と言えば病だが、原因は極度の栄養失調だった。出会った時だけでその後再発していないから医者の見立ては外れていない。片目の免疫力が極端に低いという稀なケースなのだろう。
 遊び仲間の勧めで髪を染めたらその遊び仲間に罪を擦り付けられ少年刑務所に入れられた、と聞いた。その後に眼病を発症したと。今のこの状況と少し似ている。
 だが決定的に違う所が有る。捕まるより先に目を病んでいる事ではない。向こうでは遊び仲間に裏切られたが、こちらではただただ罪を被せられた。
「オレ友達とか居ないからどれもオレがやってないって誰にも証明してもらえなくて、あと引き受け何とかが無くて」
「引き受け何とか? ああ、身元引受人か。遠方に入院している母親じゃあ来られ、ない……」
 それだけではなく父親も来なかった。多少親子仲が悪く家に帰らない日が有ったとしても、息子が捕まった事を知らないままの筈が無い。
 本当にナランチャが幾つかの軽犯罪を重ねたと思ったのか、ただただ迎えに行くのが面倒だったのか。
「何とか観察ってやつでそこに居る事になって、ちょっとヤベー奴も目の病気が移るぞって嘘吐いたら近付かなくなったから何とかなった。で、1年経ったから出られるって荷物返してもらって。財布と鍵しか無かったけど。もう来るなよって本当に言われた」
 口角がほんの少し上がる。
 下らない話で盛り上がってニコニコと笑っていた姿を知っているだけに「物足りない」と思った。
 もっと笑っていてほしい。笑顔が見たい。世界の全てを諦めたような目でいないでほしい。
 だが聞く限り、もうずっと笑う事なんて無かったのではないか。
 母が入院してから。もしかするとその前から、物心付いた頃から、笑顔らしい笑顔を人に見せた事が無いのでは。
 信じた者に裏切られるのは辛い。とても辛く向こうのナランチャの心に影を落とした。だがこちらのナランチャは、そもそも誰かを信じた事が無いのでは。
「それで帰ったら、家が半分無くなってて。家と同じ位デカい庭が有ったんだけど、その庭に別の家が建ってた」
 母親の治療費が工面出来なくなったから土地を手放した、なんて話であれば美談だが。
「家の前にも知らない物がいっぱい有った。違う奴が住んでるんだってわかったけど、試しに鍵差してみたらやっぱり開かなかった。多分これで全部」
 誰にも頼れず、どこにも行けず。
「最初は盗んで食ってたけど、盗まれた人に悪いなあとか捕まったのは誰かが盗んだからだったって思って、それから盗むの止めた。でも誰もスパゲティなんて捨てないし、盗むのだって難しいし、それに刑務所だとこんな美味いスパゲッティ出ないからさ」
「美味い、ですか?」
 他にも聞きたい事が有るのにこんな言葉しか出なかった。否、聞きたい事なんてもう無い。何を聞かされても胸が苦しくなるばかりで益々カプチーノが飲めなくなる。
「うん、すげー美味い。だからオレ、張り切るよ。張り切る? 頑張るよ、か」
「頑張る? ああいや、そうだな……食い終わったらブチャラティに会いに行きましょう。良く思われるように頑張ってもらいます」
 尤もブチャラティはまるで我が子のように接していたので、こちらの世界でこの状況でも良くしてくれるだろう。
「その為には先ずアバッキオに会わなくちゃあなりませんね」
 ブチャラティの所在は分からない。電話をしても良いが、どちらにしろアバッキオにも伝えたい。夜勤明けで出勤してくれれば、今日が休みでなければ良いのだが。
「アンタが相手じゃあないのか……まあ、頑張るけど。変な奴じゃあないといいな」
「2人共凄く良い人です」
 片方はギャングだが誰よりも強く優しい男だし、もう片方もまた見た目には怖い物が有るが警察官の方が向いている男だ。
「でも上品って感じのアンタがオレみたいのを拾って持ってく先だろ? まあ誰でも何でもやるけどさ。家も無いから、そのまま住み込めたら良いな。それかもう、痛いとか無く死ぬんだったら──」
「ナランチャ、何の話をしているんですか」
 向こうでもこちらでも『拾った』事になるのは確かだし悪い気もしないが死ぬだなんて縁起でもない話には繋げてもらいたくない。
「アンタだったら良いかなって思ったけど、アンタが良い人だって言うんなら良いかなって言うか……ううん」未だスパゲティは残っているがフォークを置き「誰に何されてもどうでもいいやって。今日は美味いもん食わせてもらったサイコーの日。今日で良い事全部終わり、だけどいい」
「だから──」
「アンタ、オレを『買う』んだろ?」
 買う? 今ナランチャは、買うと言った?
 どういう意味なのか理解出来ない。否、理解は出来る。したくないだけで。そんな事を考えてもらいたくないだけで。
「ドレイにされんのは、本当はちょっと嫌だ」
 人は皆既に運命の奴隷だから、とでも言うつもりかと思ったが違った。
「それなら腕でも臓器でも何でも持ってってくれる方がマシだ。でも殺してからにしてほしい。痛いのは本当は我慢出来ない。そうだよ、オレすっげー叫ぶから、痛くないように殺してから取ってってくれたら──」
「だから何を言っているんだ!」
 バンと強くテーブルを叩いて立ち上がる。
 施しに思われるかもしれないが、それでもしてやれる事を全部してやって、それから側に置きたかった。
 仲間として、友人として、出来れば恋人だったりパートナーだったり、そんな関係として。
 縛り付けて奴隷にするつもりなんて無い。
 働かせたり『奉仕』させたり、ましてや文字通り切り売りする事なんて絶対に無い。こうして本人に頼まれてもだ。
 他の客が一斉に手を止めてこちらを見ていた。
 会話も食事の音も消えてしんとしているので自分の荒々しい呼吸音だけが煩い。
「……僕は君を、そんな風に扱わない」
「折角拾ったのに?」
──バシャン
 すっかり温くなった残り少ないカプチーノがカップから消えている。
 中身を全部ナランチャの顔に掛けていた。
 小石を拾って売る程落ちぶれていない。ただでさえ汚く正直臭い所に飲み物まで掛けられて、こんな子供は売り物にならない。くり貫いても片目しか売れないだろう。
 お前なんて売り物にならないという冗談が言えなかったのは。
「僕は、君の目から……そんな風に見えているんですか」
 カプチーノを掛けられて1度閉じた目が開く。
 暗闇しか見えない目。世界の底辺の黒い部分しか映してこなかった。一筋の希望の光すら見た事が無かった。
 フーゴに限らずどの人間も自分を売ると考えている。
 悪事に使おうとしていると思われた事以上に、そういった有象無象と同じにしか見られていない事が腹立たしかった。
 生い立ちが違えばきっとそんな風には思われなかった。仲間になり親しくなれた世界線では。
 向こうの世界は幸運が重なっていた世界なんだ……
 だというのに、ボスを裏切る事は出来ないと自ら離れてしまった。嗚呼何て馬鹿な事を。その先何が待ち受けていても、こうして近付けないよりはずっとマシだ。
「フーゴ、だっけ」
 ナランチャの口が何かを言おうと開く。
 聞きたくない!
 逃げ出した。
 テーブルを背に走り出した。店を出る直前にナランチャは金を持っていないから食い逃げになってしまうと、財布から適当に何枚もの紙幣を出入り口近くに居たウェイターに押し付ける。
 呼び止められなかった。追い掛けてきてはくれなかった。
 もうこのまま会えないかもしれないのに。
 かもしれない、ではない。もう2度と会わない。会いたくない。
 あんなのは自分が探し求めていた、唯一名前を呼べたナランチャではない、と言うつもりは無いが。
 パンナコッタ・フーゴを認識出来ないナランチャとは共に居られない。

「ただいま」
 平行世界の記憶を手にする以前の自分を思い出し、自然を装って玄関から入る。
「お帰りなさい」
 意外な事に母が出迎えてくれた。
「少し遅かったですね」
「すみません」
「また研究室に?」
「はい」
「そうですか。なら大学に電話してみれば良かったですね」ふうと溜息を吐き「警察の方から電話が有りました」
「警察ッ!?」
 この人生で警察の世話になるような真似はした事が無い。
 と思ったが、少し別の人生ではギャングと成り果てある意味敵対していた。一部は買収出来ていたので完全な敵対とは違うか。
 大声を返した所為で母の目がギラリと厳しい色になる。
「何かやましい事でもしたのですか?」
「い、いえ……心当たりが無さ過ぎて」
「本当? 心当たりは、全く?」
「ああ、その、この前の遅くなった日、どうしても気になって図書館まで行き、その帰りに学生が何故と声を掛けられました。アバッキオという若く背の高い警察官に」
「アバッキオさんと名乗っていましたから、同じ方でしょうね」
 表情が険しいままだ。はて、今の嘘に可笑しな所は有っただろうか。
 まさかアバッキオが母に洗い浚い話したり、事実より悪く考えられそうな事を言うとは思えない。
「落とし物の件で今日来ると言っていたのに未だ見えないが、何か用事が出来たのかと訊かれました」
「ああ……」矛盾の生じないように言葉を考え、多くの嘘に真実を交えて「……丁度警察の方から声を掛けてきたのだから、と落とし物の相談をしました。見付からなさそうだし、その電話でも見付かったら来いとは言っていなかったと思います」
「ええ、今日は来られないのかという確認のみでした。この時間から行く事は無いでしょうと伝えておきました」
「きっともう見付かりません。見付からなくても良いと思っています。だから行くのは無意味です。その分の時間を勉強に充てた方が良い」
「では次に電話が来たらそのように伝えます」
「お願いします」アバッキオの顔を、そしてブチャラティの顔を思い浮かべながら「もう彼らに会う事は有りません」
 彼らの中にはミスタとジョルノも含まれている。そして母は彼『ら』とは誰か聞かなかった。
「では夕食にしましょう」
「遅くなりすみません」
「謝る事は有りませんよ。貴方はお勉強に励み、確かな結果も出せているのですから」
 そう言って母が優しく微笑む。
 滅多に見せない顔。初めて見たかもしれない。否、何度も見てきた、何度も笑い掛けてくれていたかもしれない。
 自分がニコニコとよく笑う子供ではないから気付けなかった。一切意識してこなかった。
「……今日の夕食は何ですか?」
 不意の質問に母は細めていた目を丸くする。
 何と答えられようと「それは好物だ」と言って笑おうと考えていた。

 夕食時に初めて『話』をした。
 食卓を囲み会話をするという極一般的――らしい――事を。
 決して今まで無言で、一言も話さず食べてきたわけではないが、自分の事を話題にするのは初めてだ。
 家族に訊いてもらうのだからそれなりの事でなくてはならないと考え、勉強の事を話した。大学の事ではなく、勉強の事を。何を学びどう役立て次は、といった事を。
 最初に「最近大学での勉強がとても楽しいんです」と言って。
 家族は興味有り気に聞いてくれた。父に至っては自分の仕事の話を、どうやってその職・地位に就いたのかを軽くだが話してくれた。
 学問の素晴らしさを感じて、大して好きでもなかった料理が本当の好物のように美味かった。
 食後先に予習を済ませ、少し長めに風呂に入り、明日の持ち物の確認をしてベッドに入り、温かな布団の中でナランチャを想った。
 ブチャラティ達は会おうと思えば会える。会わないと決めたので会わないが。
 そしてナランチャにはもう会えないだろう。会いたいと思わないが、絶対に思う事しかしないと誓ったが、もしも思った所で恐らく会えない。
 良くて逃げられるだろうし、そもそも運命が自分達を会わせてはくれないだろう。
 こんなに幸せなのに。
 なのに、ナランチャだけはどこまでも不幸だ。
 自分の幸福を分けたいと思う事は驕りで、ナランチャも嫌がるだろう。
 ナランチャを犠牲にして幸せを謳歌し続ける。
 そんな最低最悪な選択をして生きていく世界線。
 生きて――嗚呼ナランチャは明日にも、もしかしたら今この瞬間にも死んでしまうかもしれない。幸福なこの世界より、ナランチャに死が迫った時に助けられる世界が良い。
 病気になったら看病をして、怪我をしたら手当をして。つまり、簡単に言うと。
「一緒に居たい、離れたくない」
 軽い頭痛。眩暈と言った方が正しいかもしれない。
 仰向けに寝ているのに何故。
 天井を映していた目を閉じてすぐに開けた。するとそこには全く違う世界が広がっていた。
 ここは……
 自分がギャングになった世界だと理解しフーゴは息を呑む。
 それもこちらの世界の記憶の最後、途切れる少し前だ。
 ブチャラティとジョルノの乗っているボートに、アバッキオとミスタが乗った。
 ナランチャがブチャラティの命令が有れば乗ると言って、しかしブチャラティは「来るな」と命令した。
 この後ボートは出発して、ナランチャは自らの意志で泳いで追い掛けて、フーゴ自身は1人取り残される。
 裏切り者達を見送る裏切り者。
 組織よりもボスよりも裏切ってはならない存在を裏切った。
 別にナランチャが残ると思ったわけではない。ナランチャさえ居ればとまでは思わない。
 ちらと見るとナランチャは今にも泣き出しそうな顔をしている。
 この後皆を追い掛けるナランチャについていかなかったのは組織を裏切りたくなかったから。でも今は他の何を裏切ってでも仲間と共に在りたい。
 そして彼を引き止めなかったのは責任が取れないから。守り切れると、幸せにしてやれると思えなかった。
 だが、自分や他の仲間達が幸せに生きる『もしも』を見て、彼1人を犠牲にし掴んだそれをフーゴは捨てた。何度でも捨てられると思った。現に捨ててきて、ここに立っている。
 向こうの世界線では行動を起こして皆に出会えた。この世界線に戻ってきたのも恐らく行動を起こしたから。
 行動を積み重ねれば皆で、自分もナランチャも含めた仲間全員で幸せな道を選び歩めるかもしれない。
 ネアポリスで最も巨大なギャング組織を敵に回すのだから、幸福への道程は困難を極めるだろう。
 だが、選ぶ。
「すまない」
 ブチャラティ、抱える物の多過ぎる幹部にさせてしまって。
 ミスタ、逮捕歴を作らせてしまって。
 アバッキオ、警察官の夢を手放させてしまって。
 ジョルノ、ギャングにしてしまって。
 そして何よりトリッシュ。
 ボートに横たわるトリッシュを見た。眠っているのではなく気絶している。顔色が悪く眉を寄せて余りにも苦しそうだ。これを寝顔とは呼びたくない。
 母と新たな父との幸せな生活を取り上げ、ギャングのボスの娘として父の敵のみならずその実父からも命を狙われる過酷過ぎる運命を背負わせてしまって。
「フーゴ?」
 謝罪を呟いた声に気付いたナランチャが不安気な顔のままこちらを伺う。
「ナランチャ、トリッシュは貴方なんでしょう?」
「え……何言ってんだよフーゴ、トリッシュがオレって。意味わかんねー……けど、でも、オレ……トリッシュの気持ちとか、ちょっと分かるかもしれない……」
 存在を知って会いたいと思ってくれた――と勝手に思い込んでいた――実父に殺されかけて手首を切断された少女。
 『今』は勿論、皆が幸福な世界線ですら実父から愛されず街を彷徨っていたナランチャが抱くそれは、トリッシュの物とは似て非なる感情だろう。それでも。
「僕が君もトリッシュも守る」
 向こうの記憶のカプリ島で交換して得た電話番号は、向こうで名前が思い出せなかったように出てこない。
 もし覚えていても繋がらないだろうが、出来るなら今すぐ、トリッシュの目覚めを待たずにトリッシュに伝えたい。
 ナランチャの事のように、君も守り抜くと。護衛の任務を完遂してみせると。
「何言ってんだよ、何が言いたいんだよ……フーゴは、行かないんだろ? ボスを裏切れないもんな。オレだって……でも、オレ、本当は――」
「行きたいんでしょう」
 ボートの上から声は無い。だが4人とも「言うな」という視線を向けてきていた。
 数分前にブチャラティが死闘を繰り広げてきたのが嘘のように、波も揺らめきを忘れたようにしんと凪いでいる。
「僕も、行きたいです」
「え……でも、行かないって」
「他の皆はとんとん拍子に進みましたが、君と会うのは苦労した」
 一体何の事だろうかと首を傾げるナランチャに微笑み掛けた。
「心変わりしたんです」
「この数秒の間に?」
「はい」
 この数日の間に。
 否、もっと長い期間だ。16年分の記憶が有る。殆ど重なっていてもう1つの人生とまでは思えないが、大学に入った辺りからは明確に違っている。
 こちらの世界――向こうの世界でジョルノは平行世界と呼んでいたが、思えばこちらが基準世界で向こうが平行世界だ――で、あちらの世界に行かなければ出来なかった、あちらの世界では逃げ出してしまって出来なかった選択を。
「もう1度言います。一緒に行きたいんです。恥ずかしいから1度だけです。貴方と一緒に居たいんです」
「恥ずかしいのはこっちだよ!」
 行くとも行かないとも言わず、しかしナランチャは手を差し出した。
 この手を取って、一緒に行こう。君の居ない幸福を僕は幸福と呼べないのだから。


2021,12,31


4万4千文字以上有りました(縁起悪いな!/笑)閲覧お疲れ様です。
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