フーナラ 全年齢 6部読了後の閲覧推奨


  リダルセーニョ


「フーゴと、一緒に?」
 眉間に皺を寄せたブチャラティが尋ねる為に復唱した。
「うん」
 ナランチャは大きく頷く。
 テレビやラジオを付けていない部屋の中はしんと静まり返っていて、ブチャラティが返答を考えて黙ると音が何もしなくなった。
 この度ボスの元まで護衛する事になったトリッシュの『買い物』を誰がするか。リーダーのブチャラティはナランチャ1人に任せ、他の者をこの郊外の小さな一軒家の隠れ家に残すと提案した。そしてナランチャが「フーゴも一緒に来てほしい」と進言した。そこからこの静寂だ。
「……1人の方が姉に頼まれた買い物に見えると思ったんだが」
 思考の途中のようにブチャラティが呟く。
 買い物の内容が――化粧品だとかファッション誌だとかで――男が複数で買いに行くような物ではないので、疑惑の眼差しを向けられた際の言い訳を考えていたようだ。
 確かにそう言われてしまうと反論しにくい。フーゴと連れ立ってそんな物を買いに出掛ける自分も想像出来ない。
「ブチャラティ」アバッキオが呼び掛け「フーゴ1人に行かせたらどうだ?」
「フーゴ1人に?」
 再び繰り返す。眉間の皺は益々深くなった。
「ナランチャは1人で行く自信が無い。だがお前は1人に行かせたいし、俺も1人の方が良いと思う。だったらフーゴに1人で行かせれば良いだろう。道に迷ったりしねーだろうし、何か訊かれても上手く誤魔化せる」
「それもそうだが……」
 ならば何故最初に自分を候補にしたのか。見た目の所為か。姉の尻に敷かれていそうな見た目だと思っているのか。そこまで考えてナランチャは唇を尖らせる。
「駄目だ!」
 その怒りに任せて大きな声で言ってやった。
「……何故ですか?」
 共に行こうと名前を挙げられたフーゴが不安気に尋ねる。
「なんでって、それは、その……上手く言えねーけど、フーゴ1人じゃあ駄目なんだよ。アイツはフーゴだとやっつけられねーんだ」
 自分でなくては駄目とは言わないが、フーゴではやはり駄目だ。
 フーゴは頭は良いし運動神経が悪いわけでもない。ナランチャ自身よりも余程機転を利かせられる。しかしスタンドバトルとなった時に、強力であり凶悪なパープルヘイズで圧勝出来る場合と「勝てない」場合が有る。この後に会敵するのは後者だ。
 対象を小さくしたり自分自身が小さくなったりという厄介なスタンド。猛毒を撒き散らすパープルヘイズで応戦するわけにはいかない。
「アイツって誰ですか?」
「誰って、名前なんて知らねーよ」
 名乗っていたかもしれないが思い出せない。顔だってよく思い出せない。『今』は会った事の無い相手なのだから知る由も無い。スタンド能力については余りにも厄介だったので何とか覚えているだけで――さて、会った事が無いのに何故覚えている事と忘れている事が有るのか。
 ナランチャは「何と無く知っている」が人より多い気がしていた。
 予知能力が有るわけではない。寧ろ予想を外して「今回は違ったのか」と思う事だって有る。
 今回は? 前回はどうだったんだ? 前回って?
 よく働く頭を持っていれば深く考えたかもしれないが、考え込むのは自分に合わない。第一これは考えた所で答えが出ない類の事象だろう。
 未来に起こる事を前以て知っていれば幸福だとは果たして誰が言ったか。知っているようで忘れていたり記憶違いだったり、記憶と少し変わっていたりするのだからちっとも幸福ではない。
 それに避けられぬ悲劇は知っていれば心労が増えるだけだ。
 例えばこの後、何日先かはわからないが、フーゴとの別離が待っている。ナランチャは何故かそれを知っていた。
 しかし回避方法はわからない。どうすれば離れ離れにならずに済むのかは知らないので意味が無い。
 覚悟をしておける? フーゴと離れんのは嫌なのに、覚悟も何も無いっつーの。
 死別ではないので一時的に離れるだけ、生きていればまた再会出来る。そう思おうとすると、しかしそれは永遠の別れになるのだという要らない記憶が邪魔をしてくる。
 死別なのか。フーゴではなく自分が死ぬのか。フーゴと離れて少ししてから。嗚呼きっとそうだ。何故ならフーゴと離れて1年後――否、1ヶ月後の事すら「記憶に無い」のだから。
 人間誰だって死ぬ時は死ぬ。母親が良い例ではないか。フーゴと離れる事が自分の死の条件だろうと踏んで離れたくないと思った事は無い。フーゴと共に居る間は死なないなんて事は有り得ないのだから。
 ただ離れてしまうなら、その瞬間を最後にもう2度と会えなくなってしまうのなら、一緒に居る今の内にもっと沢山話をしていたい。
 それだけの事に過ぎない。1人で車を転がしよくわからない買い物をするよりも、フーゴと談笑しながら一緒に任務を遂行したいだけ。運転も買い物もフーゴが居た方が絶対に良い。
 ブチャラティの言う事もアバッキオの言う事もわかる。だが2人共勘違いをしている。ナランチャは行きたくないとかフーゴに行かせたいとかではなく、ただ一緒に居たいだけでしかない。
「別に2人で行かせたって良いんじゃあねーか?」
 気だるげな声。階段に座り込み、隣に座るジョルノの肩に頭を預けながらミスタが言った。
 ミスタは先の戦闘でかなりの怪我を負っている。
 腹を撃ち抜かれ――何でも撃たれたのではなくミスタ自身の放った弾丸らしいが、反射攻撃の出来るスタンド使いではなかったらしい。聞いてもよくわからない――ブチャラティのスタンドのジッパーで無理矢理塞いだが出血が多かった為に貧血状態との事だ。
 医者に掛かるべきだがギャングの銃創を診察してくれる医者は少ない。折角誰にも見られずに潜む事が出来たこの隠れ家からかかりつけ同然にしている病院まで向かう事は出来ない。
 血液不足で思考回路が鈍っているであろうに自分の味方とも呼べる発言をしてくれるとは。嬉しいけれど静かに休んでいてもらいたい。
 それにしてもこんな重傷を負うとは。ジョルノ辺りがスタンドで怪我を治せるようになってからは一層無茶な戦い方をするようになったが、それまではこんな大けがをしてくる事は無かった筈だ。ホチキスで留めれば何とかなる程度で済んでいた。
 ――気がする。
「僕もフーゴとナランチャの2人で行くのが良いと思います」
 凭れ掛かられたままジョルノも援護してくれた。
「恋人への贈り物を一緒に見る友人、という関係にでもすれば良いんじゃあないでしょうか」
 それなら男2人が女性向け雑誌を買っても可笑しくない。
 ただ恋人役がフーゴで自分がその友達だったり、彼の恋人の弟役だったりしたら少し不満が残る。
「トリッシュの護衛は僕達4人ででも出来ると思います」
「4人になっちまうのか……やっぱりナランチャ、お前1人で行け」
「彼女も含めて5人」
「それなら大丈夫だな。フーゴ、一緒に行ってやれよ」
 寧ろ今のミスタは戦力外なので3人で護衛する、が正しいのでは。
 ミスタの適当な発言は置いておくとして。
「悪くないアイディアだとは思うがブチャラティ、どうする?」
 アバッキオが腕を組んだままブチャラティへと尋ねる。リーダーへの絶対的な忠誠と、それ以上の友情とか信頼とかそういった感情を持っている。
 だが問題はそこではない。ジョルノを受け入れる気の無いアバッキオが、今彼の発言に同意するような物言いをした。
 否、『今回は』受け入れる気が無い、といったわけではないのかもしれない。好意的とは言えないながらもそこまで嫌悪していない。思い返せば過去には見せなかった筈のスタンドの姿も見せている。
「フーゴ、お前はどう思う?」
「僕は僕1人でもナランチャ1人でも、僕とナランチャの2人でも何でも構いません」
「じゃあ!」
 ナランチャが大声を出すと皆が一斉にこちらを向く。止められないが、少し恥ずかしかった。
「多数決ってやつで、俺とフーゴの2人に決定じゃん!」
 ブチャラティが目を閉じて小さく溜息を吐く。
「……わかった」ゆっくり目を開けて「2人で行ってくれ」
「やったーッ!!」
 そんなに喜ぶ事かと主に当人たるフーゴに呆れられたが気にしてはいられない。
 長い時間共に居られるとか、過去の経験と違う流れだとか、そういった事に喜んでいる場合でもない。
 これはナランチャに与えられた任務。買い物と護衛は結び付きにくいが、それでも課せられた使命に変わりは無い。先ずは任務を達成する事が第一。俄然やる気が出てきた。

 トリッシュが指定したブランドのストアはローマに有る。頬紅1つの為にそこまで行く事は出来ない。が、近くのショッピングモールにも取り扱いが有るとの事で先ずはそこまでナランチャが車を走らせた。駐車場に停めて中に入り、目的のブランド店舗へ。
「オレこういう店来るの初めてかも」
 フーゴは「そうですか」とだけ返事をした。自分もそうだとは言わなかったし、初めてではないのかもしれない。
 自分よりも年下のフーゴだがこういったブランド店には彼の方が似合っている気がする。
 天井は高いし床は照明を跳ね返す程ピカピカに磨かれているので落ち着かない。並べられている女物の服やら鞄やら香水やらに「場違いだぞ」と責め立てられそうだ。
 化粧品の一角は口紅の見本色がずらりと並び華やかだが、パッケージは全て覚えやすいロゴが入っているものの黒1色で地味な印象すら有る。化粧品特有の臭さは無いがやはり居心地は悪い。
「チークって言ってたよな」
「はい」
 フーゴがここですと指したのは四角く黒い箱の並ぶ箇所。見本を見る限りどうやら箱の中のコンパクトも黒いようだ。
 並ぶ色見本は5つ。
「えっと、どの色?」
「2番と言っていました」
 色見本の左から2番目には『02.LOVE』と書かれていた。
「こんな色してたっけ」
 コンパクトの中には左側に四角いチーク、右側にブラシが入っている。
 チークは4つの山のようになっていて、左の上下が白に近い薄いピンク色、右の上下がそれよりは濃いピンク色。他の色と比べると少し子供っぽい。
「実際に肌に塗るとまた違った印象になるんじゃあないでしょうか。それに彼女は華やかな赤毛だから、こういった明るい色合いの方が似合うと思います」
「へー、フーゴは化粧品にも詳しいんだな」
「別に詳しくありませんよ。本人から聞いただけですし」
「聞いた? 私明るい色が似合うのよって?」
「似合うじゃあなく好きだと言っていました。人間好きな物の方が似合うようになるでしょう? このブランド自体が好きだから新色が出る度に吟味すると。今年の秋冬の新色は――」
 言葉が止まった。
 フーゴは口を開けたまま何と言おうとしたか思い出そうとするように何度も瞬きしている。
 その横顔に普段なら「うっかりさんだなあ」と笑って言うのだが。
「なあフーゴ、ファッションショーってさ、半年後に流行るやつやるじゃん。そういう事だよな?」
 だから春の今、秋や冬に流行らせようと企画された化粧品の話をトリッシュとしていても何ら可笑しくない。
 会ったばかりでろくに会話をしていない筈の、上着で手を拭かれた程度しか接点が無い筈の2人が、未だ発表されていない色の化粧品の話をしたって。
 自分の見えない所で2人で話をしているのだとしたら嫉妬してしまう。
 どちらにとは言わない。これだけフーゴを好いているのだからトリッシュにするのは当然で、しかしフーゴにもしてしまう。トリッシュとも親しくなりたいと思っていた。
 この後、彼女は『自分』だとナランチャは気付く。
 それは確かフーゴと別離する瞬間だったような。その際フーゴが、自分達と違う道を選ぶ――あるいは、自分達と同じ道を『選べない』――のは、彼女の事を知らないからと言っていた。
 使っている化粧品を知っているという事はもしかして『今』のフーゴは。
「フーゴさ」
「はい」
 先程の発言はフーゴにとっては失言だったのか酷く暗い様子で返事をする。
「……トリッシュの好きな音楽、知ってる?」

 頼まれていた買い物は全て完了した。
 但し『買う』所まで。これをトリッシュの手元に届けて初めて任務遂行になる。
 後は帰るだけ。行きはナランチャの運転だったが、帰りはフーゴが運転してくれる事になった。
 買い物した物達は後部座席に置いたのでナランチャは助手席に座る。
 フーゴの運転する車に乗る事は多いが、助手席に座り2人きりのドライブというのは余り無いかもしれない。真面目に運転する横顔は端正で見ていて飽きない。
 尾行されていたら『撒ける』ように迂回する約束の通りに車は走り初めて見る道に入った。
「ナランチャ」
「何?」
「君はこの道、通りましたか?」
「通ってない」
 来る時には通らなかったし、過去に1人でトリッシュの買い物をした時にも通らなかった。恐らく。慣れない土地だから覚えていないだけで迷い込んだかもしれない。自信が無くなってきたが訂正はしないでおく。
「じゃあ道に迷ったりは?」
「うーん……オレは迷ってないと思うんだけどなあ」
 実際に迷っていないと断言して良いものか否か。
「僕が運転しても遠回りしても、1度道に迷わないと敵に遭うかもしれない。一応油断はしないでおいて下さい」
「わかってるって」
 否、何もわかっていない。
 何故適当な返事をしてしまったのだ。今フーゴはとても重大な事を口にした。
 言葉をひっくり返せばフーゴは運転する人を変えたり、違う道を通ったりすれば敵に遭遇しないかもしれないと言った。元に戻して考えればそれは、ナランチャが本来の道を運転すると「敵と遭遇する」。フーゴは「遭遇する事を知っている」。
 フーゴもナランチャのように1度経験したように覚えている――
「一緒に行こうぜ」
 言いたい事が山程有り過ぎて、その短い一言に纏めてしまった。
「どこかに寄り道でもしたいんですか?」
「そうじゃあなくって!」
 一緒にボスを裏切ろうぜ。
 ミスタが大怪我をしてしまったり、アバッキオが少しジョルノに優しくなっていたり、こうして2人で買い物に出たりと色々違う所が有るのだから。
 ただなぞって繰り返すだけではない人生なのだから、共に進もう。
「夢で見たんですが」
「え、夢?」
「そう、長い夢。先刻トリッシュの好きな音楽を知っているかと君は聞いた。僕は知らないと答えたし、実際に知らない。夢の中でも彼女と音楽の話をした事が無かった」
 嗚呼きっとそれは夢ではない。
「代わりに好きな食べ物の話はしましたよ。サラダが好きだと言っていた。ヘルシーな物が好きとはあの年頃の女の子らしい」
 だが同じ世界をもう1度生きていると話した所で信じてもらえないだろう。ナランチャ自身も信じきってはいない。
「良い夢だった。君も出てくれば最高の夢だった」
「あ……そうだよな、オレもアバッキオも、そこに居ないもんな」
「ブチャラティも居ないし、ある意味では寂しい夢でしたよ」
 ナランチャにはジョルノの肉体から元に戻った『記憶』が無い。恐らくその先を経験していない。元に戻る事無く死んでいる。
 その後ブチャラティも自分やアバッキオのように死んでしまったのだろうか。確かブチャラティこそがボスの正体を掴んだも同然だった筈だが。嗚呼、終わり頃は特に曖昧だ。
 だがフーゴが再びトリッシュと会っているのなら勝利を掴んだのだろう。
「君の事はミスタとジョルノから聞きました。離れ離れにならなければと思って泣いた、そんな夢でした」
 有難う、泣いてくれて。
「すみません、夢の話をしてもつまらないですよね」
「そんな事無い! えっと、ミスタとジョルノは無事なのか? そりゃあ良かったぜ、うん」
 だから今度は一緒に来てみないか、そうすれば自分達も含めた2人以外も無事なまま勝利に至れるのではないかと言ってしまいたい。
「オレさ、またフーゴに会えるもんだって思ってたから、あの時まであんまりフーゴの事考えなかったんだ。忘れてたとかじゃあねーぞ!? ただ、その……気にしてなかったっていうか……だからあの時フーゴの事考えたのって、走馬灯とかそういうやつなのかなって」
「あの時とは……いや、何でもありません」
 自分が死んだ時、と言わせない為にフーゴは言葉を止めた。
「色々と終わったらって考えた時。まあオレが終わっちまったみたいだけどな」
 無理に笑いながらナランチャは続ける。
「今は全然思ってないけど、でもあの時オレまた学校行きたいなって、だからまたフーゴに勉強教えてもらいたいなって思ったんだ。勉強なんて面倒臭いし、学校もあんまり楽しかった思い出とか無いし、でも……行きたいなって……」
 それは自分の死期が近付いていたから、なのかもしれない。
 嗚呼きっとそうだ。だから今、今日のこの瞬間まで、フーゴが勉強を教えてくれても「つまらない」「帰りたい」「アイスでも食べに行きたい」位にしか思わなかったのだ。
 過去に戻ってきて――とは少し違うが――再び勉強を嫌いかけていたが、仕組み・からくりにほんの少し気付いただけで、またこうして学校へ通う為に勉強をしたいと思っているという事は。
「フーゴの言う夢の中と今この世界とって、ちょっぴり違うよな? 色んな事が、ちょっぴりずつ違う感じするよな?」
「……しますね。君とこんな話をするのは初めてです」
 こんな小難しい話を出来るなんてと言われるかと思った。
 言ってくれて構わない。言い合いになっても構わない。こういう何気無いやり取りを、もっとずっと延々と、出来る事ならトリッシュの護衛を終えてからも続けたい。
「もしかしたらさ、ボスもちょっぴり変わってて、ただトリッシュに会いたいだけになってる……なんて事無いかな。無いか」
 自分の父親が変わらなかったのだから、ボスも変わっていないだろう。
 またトリッシュが辛い想いをしてしまう。きっと彼女は覚えていないだろうけれど、しかしあの悲しみを再び味わう事になるのは可哀想だ。自分だったら耐えられない。
 耐えられず「ふざけるな」と怒鳴りながら拳で殴り付ける。
「変わってなかったり、悪い方に変わってたら、トリッシュはオレが、オレ達が守る」
 彼女の『護衛』はボスから与えられた任務であり、この再び戻ってきた人生における使命。
「トリッシュだけじゃあない。フーゴの事だってオレが守ってやる」
「君が、僕を?」
 視線をこちらに向けたその目の色が、期待なのか呆れなのかナランチャにはわからなかった。
「だから、だから離れんなよ」
 とりわけ強く、希う(こいねがう)ように言った。この言葉が届きますように。この離れたくない、傍に居たいという想いが届きますように。
「……僕が君を守る、なら」
 視線がナランチャではなく前方へと向いた。車は走り続けている。
「どういう事?」
「僕は君を失いたくない。だから1歩踏み出そうと思う。今アクセルを踏んでいる足の話じゃあなくて、もしまたあの裏切りの時が来たら」
 それこそ運命が二転三転してボスを裏切るべくボートに乗り込むという事自体起きないかもしれないが、もし同じような場面を迎えたとしたらその時は。
「僕は君以外の全てを裏切ろうと思う」
 ボスであっても、世界そのものであっても。
「フーゴ……有難う、であってる?」
「礼を言われるのは可笑しな話かもしれませんね」
 だがフーゴも何と言うのが正しいのかわからないらしく苦笑を浮かべている。もしくは言われて嬉しい言葉なので浮かぶ笑いを隠そうとしているのかもしれない。
「あーでもオレ以外の全部って言っても、ブチャラティ達は裏切るなよ」
「君がブチャラティ達を裏切らなければ良いだけの話でしょ。僕は君についていくんだから」
「なら安心だ! オレ絶対にブチャラティは裏切らないもんね」
 得意気に言う事ではないと隣の席でくすくす笑われた。
 馬鹿にされているようでムッとしたが我慢は出来る。
 別離の時、フーゴは躊躇った末に踏み出さなかったが、ナランチャもまた躊躇いが有った。悩みに悩んで、フーゴとは違う道を選んだ。
 決断に後悔は無いつもりだったが、こうして「やり直し」ているのは自分では感じる事の出来ないうんと奥底に悔やむ部分が有ったからなのかもしれない。
 それが今取り払われた。嗚呼良かった、きっとこれが悔いの無い人生というやつだ。フーゴが隣に居なければ、どんなに他人から見て幸福であってもナランチャ自身は物足りないに違い無い。
 同じ感情を持っていたら良いなと思った所で車が停まる。
 前を見れば赤信号だった。
 田舎道といった雰囲気で隣家は相当遠く、対向車の一切見えない道だというのに律義な事だ。
 しかし通行人は0ではない。前方には誰も居ないし左右には飛び出せる物陰が無いような道だが、後ろから1人の男が歩いてくる。
 のんびりと歩いてきた男は車の真横に来ると立ち止まり、運転席の窓をコンコンとノックした。
「何だ?」
「待った!」
 フーゴが窓を開けて応答しようとするのを遮る。
「君の知り合い?」
「いや……知らないけど、でもアイツ無性に嫌いな感じがする」
「嫌いな感じ?」
 助手席を向いていたフーゴが再び窓の外に立つ男の方を見た。
 丸刈りに近く余り背は高くなく、育ちの良さそうなフーゴと比べればその男の方が余程ギャングだ。
「嫌な感じじゃあなく嫌いな感じですか……」
 もう1度ノックされる。しかしナランチャの直感を信じてくれるらしいフーゴは窓を開けられずにいる。
「……いや、開けても良いぜ。開けないとそいつを倒せないし」
 この悪寒は恐らく敵。多分大乱闘を繰り広げた。きっと『今回』もまた手こずるだろう。だが、負けてはいられない。


2020,08,30


利鳴ちゃんお誕生日おめでとうございます!
どちらかが一巡前の記憶を持っているお話を読ませていただいてきたので、ここで敢えて(?)の2人共覚えてましたネタでした。
タイトルは若干の造語です。音楽用語のアレ的な。
<雪架>

【戻】


inserted by FC2 system