目覚まし時計を止めて体を起こす。
 眠たい体を引き摺って廊下を経てリビングへ。
 急いでカーテンを開けると眩しい朝の日差しに思わず目を瞑った。
 窓の無い部屋ではこうして日光を浴びられない。やはり日光が何よりの目覚ましになる。
 バルコニーを太陽が燦々と照らしている。今日も良い天気で良かった。
 足音を立てないようにキッチンへ向かい、エプロンをしたら15分程前に炊き上がった米を混ぜる為に炊飯器を開ける。
 こんな少量を炊くのは電気代が無駄に掛かる気がしたが、前日の夕食分と一緒に炊けば食中毒が怖い。
 それぞれの弁当箱に米を入れれば後は冷めるのを待って蓋をするだけ、おかずは既に作り置いているので3人分の弁当が完成だ。
「よしっ」
 登校準備中に米も冷めて蓋が出来る。
 その足で洗面所へ。
 漸く顔が洗える。3人共用の洗顔を泡立てて顔を洗う。不器用なのかいつものように寝間着のTシャツと着けたままの緑のエプロンが少し水に濡れた。
 顔を拭いて鏡を見れば見慣れたいつもの自分の顔。
 丸い顔と大きく丸い目の所為か、父親に全く似ずなかなか背が伸びない所為か、黒髪をかなり短くしているのに14歳にして碇シンジは稀にだが未だに女子に間違われる。
「あ、寝癖」
 適当に水を付けて誤魔化した。

全て、願うままに

 朝食は出来る限り3人と1匹で、とは数ヶ月前にもう1人の居候が増えた時に皆で決めた事。
 シンジは中学に上がる時にここに来たが、隣に制服を着て座る惣流・アスカ・ラングレーは中学2年に上がるタイミングで転校してきた。
 確かその時に家事当番の分担も決めた気がしたが、もうずっとシンジが1人でほぼ全てを任されているので記憶違いだろう。と、最近は割り切っている。
 赤味の強い金髪に青い目という典型的な白人美少女だが日本語は恐ろしく流暢で、何事においても人より優秀な成績を叩き出せる分、プライドも人一倍と言わず3倍位は高い。
 強気や勝ち気なんて言葉が似合うアスカは眠たいと言いながらしっかり登校準備を済ませ、朝食のトーストが焼き上がるタイミングで椅子に座っているのが毎朝の光景。
「あぁーん馬鹿シンジ、マーガリンは出しといてって言ってるじゃない! 固くて塗れないわよ」
「自分で出しとけば良いじゃないか」
「煩いわねぇ。仕方無いから苺ジャムだけにするわ。ねぇミサト、前にも言ったけどマーガリンよりバターの方が美味しいし体に良いって話じゃない」
「聞いたし知ってるわよ」
 やれやれと言わんばかりにオバさん臭い仕草で手を振る向かいに住む女性が葛城ミサト。この家の家主たる女性。
 少しウェーブが掛かり紫色を帯びた艶やかな髪に、二重目蓋だが涼しげな目元。
 手足は細長く胸は極端に大きく、ウエストは括れてヒップは持ち上がっている、誰が見てもスタイル抜群の美人という評価を得られる筈の容姿だが。
 寝間着のタンクトップにハーフパンツのまま寝癖全開で椅子の上であぐらをかく姿は29歳として致命的。
 化粧っ気が無いというより未だ顔も洗っていない。幸いにも今日は仕事だから出ていないが、休日であればこの食卓に缶ビールが上がっている。
「でもバターって高いんでしょ、シンちゃん」
「まぁ、マーガリンよりは」
「朝のパンの為だけに買うのは、ちょっちねぇ」
「何でミサトは国連直属の研究所勤めなのにお金無いのよ。国際公務員ってヤツじゃないの?」
「お姉さんは色々とローンが有るの。アスカぁ、あんまり私に意地悪言うと、お小遣い減らすわよ」
 それが理由だとわかっているからシンジは何も言えない。
 2LDKのマンションやら高級車やらを買ってきた独身女性がいきなり中学生2人の面倒を見る事になったのだから、きっと苦労は絶えないだろう。
 だからせめて金銭的には余り負担を掛けないように……と思う内に日々の買い物も自分の仕事になっていた。
 ミサトという父とシンジという母とアスカという娘で暮らしているような。
「クォッ! クワァッ!!」
「あぁごめんペンペン、お水出してなかったね」
 そしてもう1人の家族、温泉ペンギンのペンペン。
 テレビ等で見るイワトビペンギンによく似た、しかし性質は全く違う新種のペンギン。眉のような部分の毛が赤く、白い腹がぽってりとした可愛らしい――だが妙に知能が高く変な所がオッサン臭い――愛玩動物。
 愛玩動物以外の何物でもない。つまり研究成果としては大失敗。
 行き場を失った彼――ペンペンは3歳のオスとの事――は葛城家の一員となりこうして暮らしている。
 温泉ペンギンだけあってペンギンとは違い冷たい物が苦手なので、朝食は彼のみ焼き魚。隣に添える水も常温。
 ミサトの晩酌に付き合う際も暫く前からビールを容器にあけておかなくてはならない。
 というかビールなんぞを飲ませて良いのか。
「はい。ペンペンも家事出来れば良いのにね。朝は僕が用意して、夜は帰ってきたらペンペンのご飯食べるんだ」
「クアァ?」
「わかんないか」
 よしよしと頭を撫でる。毛の感触は意外に硬い。
 それにきっと言っている事はわかっているだろう。ミサトの友人の天才博士の見立てでは人間で換算すると8歳位の知能は備わっているらしいのだから。
 改めて席に座り直して手を合わせる。
「いただきます」

 2人の分のコーヒーを入れ終えた時にインターホンが鳴った。
――ピンポン
「いーかーりーくーん!」
 自動で録画を開始した玄関のカメラに2人の男子がわざとらしい笑みを浮かべている。
「出たわね馬鹿2人組」
 食後のコーヒーに口を付けながらアスカが横目に見て吐き捨てる。
「あ、トウジ日直だからだ今日早いんだ。じゃあミサトさん、僕出ます」
 おっけーと返すミサトもコーヒーを飲みながら、朝の日課のニュースをタブレット端末でチェックしていた。
 2人の友人はミサトを見に来ているのだが、このだらしない格好のままの同居人はとても見せられない。
「シンちゃん、今日紙のゴミの日なんだけどお願い出来る?」
「雑紙はもう玄関にまとめてありますよ」
「あぁん助かるぅ」
「馬鹿シンジ、弁当持った?」
 これは忘れ物の心配ではなく、自分の分も持っていけの意。
「のんびりしてて大丈夫? 遅刻しても僕知らないよ」
「良いのよ、ミサトに車で送らせるから」
 研究所に向かうには遠回りになるが、何故かアスカには甘過ぎるミサトは乗せていくのだろう。
「じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 タブレットから顔を上げて見せる笑顔。ミサトの家で下宿出来て良かった。

 通学路の下り坂道の歩道は3人が並んで歩くのには狭く、シンジは2人の間を1歩下がる形で歩いていた。
 ミサトの見送りが無かった事に友人2人は強く残念がって見せたが、それは一瞬で終わらせて朝に映える談笑を始める。
「日直なんてホンマかったるいわ」
 関西弁の鈴原トウジは制服ではなく、今日もまたいつも通りの黒のジャージ姿。
 黒髪は短く、肌も浅黒く、並んで歩く3人の中では背も1番高い。
 この容姿に反して運動が苦手なのだから笑えるが、シンジとしてはやはり男らしい見た目は羨ましい。
 2人だけで街に遊びに出た時に中学生カップルに間違われた事を思い出すと未だに悔しさが込み上げる。
 口調通り関西出身で、6歳も離れている妹の怪我だか病気だかの関係で中学に上がるタイミングでここへ引っ越してきた。
 それなりに栄えた市の中学校とはいえ私立ではないのだから生徒の大半は同じ小学校出身という中、知った顔が1人も居ない者同士として何故か意気投合した。
「でも委員長1人にはさせられない仕事量だからねぇ」
 もう1人は相田ケンスケ。制服のワイシャツをだらしなく出し、靴も踵を踏んだまま歩いている。
 だが不良ぶって見えないのは彼の背がシンジよりも更に低いからだろうか。
 それとも異様なまでに世渡りが上手いからだろうか。余所の土地から来た2人と難無く打ち解けて、2年に上がるよりも先に仲良し3人組となっていた。
 アスカが言うには3馬鹿トリオだが。3とトリオが重複しているのはアメリカに国籍を持つアスカらしい。
 馬鹿と言われ続けている自分や実際に成績が良くはないトウジが馬鹿の括りに入るのはまぁ仕方無いとして、ケンスケは何が馬鹿呼ばわりされるのか理解し難い。
 確かに少々マイナーな部類の趣味を持ってはいるが、勉強も運動も人付き合いですらも上手い事やっている。
 調子が良い、という意味で馬鹿を使う物だろうか。
「あぁそうそう、転入生が来るんだって?」
「せや。なんや色々手伝わんとアカンらしゅうてな。同じ日直でも何で今日やねん」
「女の子かもしれないよ」
「せやったらええけど、どっちなんかケンスケは知っとるか?」
「さぁ知らないけど。でも惣流みたいにすっごい可愛い子かもしれないと思って、日直の仕事頑張れよ」
「惣流のどこが可愛いねん」
「顔」
「いやまぁ顔は……けどあれ中身滲み出過ぎやろ」
「そうかなぁ、俺惣流のあーいう勝ち気な所、良いと思うよ。ツンデレって感じで。俺達にデレは向けられないけど」
「僕にはケンスケの趣味はわかんないや……」
 異性の趣味こそが馬鹿呼ばわりされてしまう所以か。

 担任教師は薄い頭髪が全て白く、だが年寄り特有の黒めの肌をしている。15年程前まで根府川に住んでいたから、という無関係な事象を理由にアナログ一辺倒の老人。
 威厳も何も無いがシンジは嫌いではなかった。不良を公正させる事に夢中な若い熱血教師は品行方正な生徒には不愉快でしかない。自分にとっては正反対のこの担任位が丁度良い。
「えー今日は、転入生を紹介する」
 嗄れた声を向けた先の扉が開き、転入生の男子生徒が入ってきた。
 異様なまでに白い肌、色素の全く無い白い髪、流れる血のような突き刺す赤の瞳。
 制服のカッターシャツと黒いパンツでなければとても同じ人間には見えなかったかもしれない。
 袖口から伸びる細い両手はポケットに入れたまま、優雅に前へと歩く足もまた長く、その体躯がよく映える目も鼻も口も整った顔立ち。
 1テンポ遅れて女子達がざわめきだした。
「渚カヲルといいます」畏怖する程に美しい目はシンジを捉えて「宜しく」
 今、自分を見た?
「キャー格好良い!」
「すっごーい!!」
 遠慮が無いタイプの女子達が口々に騒ぎ出す。
「静かに。皆、仲良くするように」
 その必要が無い位に女子のほぼ全員が騒いでいる。悲鳴のような声まで上がった。
 数少ない該当しない女子の代表であるアスカは不満そうに舌打ちした。学年の変わるタイミングだから自分の場合はここまで騒がれなかったのだと悔しく思っているのだろう。
 女子はアスカだけにしても、男子の大半はきっとやっかみを抱くに違い無い。
 男子までも魅力する、とは言い難かった。ここまで異端では『虐め』が起きたりしないだろうか、なんて不安が込み上げてくる。
「渚の席は廊下側の後ろの空いている席だ」
「はい」
 そう思ってる間にも、今朝トウジが運び入れていた机へ向かう間にも、渚カヲルは横目でこちらを見ているようだった。
 あの恐ろしい赤い目で。

 昼休みが始まると真っ先にアスカが席に座るシンジの目の前に腕を組み立ちはだかった。
「シンジ、弁当」
「ちゃんと持ってきてるよ」
 日本人が好む西洋人らしい顔立ちのアスカだが、その顔は決して可愛いだけではない。
 見下ろされると迫力が有り過ぎる。
 端的に言って怖い。
「……ほら」
 ランチマットに包んだ弁当を取り出す。手渡す赤い方がアスカの分で、もう1つの青い方がシンジの分。大きさは同じ。
「箸も入ってるわよね?」
「この前はゴメンってば。あれから気を付けてるよ」
 ならば良し、と奪い取られる。
「シーンージー君っ!」
 そこへ鈴の音のような可憐な声が後ろから。
「うわっ!?」
 椅子の背ごとガバッと抱き付かれる。
「いや〜ん、これじゃ胸が当てられないぃ〜」
 不服そうな言葉とは裏腹に楽しげな声。
「あぁびっくりした。マナ、こういうの止めてよ」
「えぇーシンジ君つまんないっ!」
 言いながら離れて、踊るように目の前へ。
 霧島マナ。クラスメートの女の子。スレンダーな体に短い赤毛の、だが顔も声も非常に女の子らしく愛らしい。
 明るくて元気で可愛い分ちょっと自信家で。だからなのかアスカと少し似ている。
 アスカを日本人にしてお淑やかな女の子を足した感じ。
 それだけならさぞモテるだろうが、どうにも自分以外の男子とは距離を置いている事をシンジは知っていた。
 その分シンジには何故かこうもべったりだが。
「ねぇシンジ君、今日もお昼はお弁当? 一緒に食べようよ、あっちで」
 指した先には女子が5人程机を寄せ合って座っている。
「……止めとく」
「ぶー! シンジ君が居ないとつまんないよぉ」
「そんな事言われても困るよ」
 別に女子達に蔑ろにされているわけではないし、寧ろ1人は手を振って呼んでくれてはいるが。
「ほんなら霧島、屋上来るか?」
 横からトウジとケンスケの助け船。
「屋上?」
「そうそ。俺達屋上で昼飯食うからさ。なぁシンジ」
「え? あぁ、うん」
「屋上なんて暑いじゃん」
「ワシら男は屋上の風に吹かれて食うんや」
 マナは効果音が付きそうな程顔を歪めて「じゃあまたね」と女子5人の輪に向かっていった。
「2人共、有り難う」
「礼なんてええわ」
「じゃあ屋上行こっか」
「暑いだろうなぁ。今日風あんまり無いし」
「文句有るんかい」
 そして笑いながら3人で廊下へ。
 扉を閉める前に横目で見た教室には女子が全員居て驚いた。
 マナを含めた6人グループと、アスカと学級委員長の2人組と、それ以外の女子は1つの席を取り囲んでいる。
 勿論転入生の席。
 大勢で1人を囲んで、まるで芸能人みたいだ。
 そんな俗っぽい例えしか浮かばなかった。
 人垣の奥に白い髪が見える。何といっただろうか、形は他と変わらないのに生まれ付き色素が無い為に滅茶苦茶な高値が付いていた魚を思い出す。
 転入生は愛想とすぐわかる笑顔をその大勢に向けていた。
 にこにこと、にこにこと、ぎやりと。
 またあの赤い目がこちらを向いた気がして、目と目が合ってしまった気がして、シンジは急いで目を逸らし扉を閉めた。

 学校の屋上は大抵扉に鍵が掛かり入れない物だと思っていたが、この中学は高過ぎる頑丈なフェンスが有るからか生徒の立ち入りが許可されていた。
 放課後には吹奏楽部や演劇部等体を使う文科系の部が活動していたりもする。
 昼休みになれば自分達の他にも何組も昼食を取っている。今日は暑いからか少ないようだが。
 あっという間にパン2袋を平らげたトウジは組んだ両手をフェンスの上に乗せている。
 これは一応禁止行為の1つ。もう1つはボールの使用。
 トウジを挟んでシンジとケンスケはフェンスに背を預けて弁当――かたや手作り、かたやコンビニ――を食べていた。
 勿論フェンスに体重を預ける事も本来は怒られるが。
「良いよなぁ、シンジの周りは美人ばっかりで」
「そうかなぁ」
「そうだよ! 自覚無いわけじゃないだろ?」
「うーん……」
 確かに可愛かったり綺麗だったりする女性との接点は多いが。
「性格に難有りやろ、惣流も霧島も」
「あとあれ、隣のクラスの転校生の女子」
「根暗そうやんけ。まぁ確かにべっぴんさんやし、大人しゅうて守ってやりとうなるわな」
「俺の好みとは違うけどさ」
「ちゃうんかい。惣流や霧島よかよっぽどええやんけ」
 唸るケンスケとトウジは好みのタイプが違うようだ。
「まぁ何よりミサトさんやな。ホンマ羨ましいわぁ」
「それこそ性格が問題だよ」
 小声で思わず漏らす。容姿に似合わず研究員としては優秀らしいが、それ以外においては目も当てられない。
 だがそんな彼女の事は嫌いではない。恋愛とは違うベクトルで大好きだ。
 こうしてミサトが誉められて否定したくなるのは好きだからこそだろう。
「あとミサトさんの友達の、研究所の博士! あの人も美人だよなぁ」
「リツコさん?」
「そうそう。名前で呼んでる関係とか羨ましいよ」
「べっぴんやけど、あの人も気ぃ強そうやな」
「年上のお姉様な感じが良いんだって!」
 確かにミサトの友人の赤木リツコは美人の部類だが。
 派手に染めた金髪と、白衣の下は大抵ボディラインの出る服でそれがまた似合っている。博士号を取得した天才というイメージを覆す華やかな美女。
「そういえばリツコさん、2人の事ちゃんと覚えてたよ」
「マジかよ!」
「うん。来た時に2人の事聞いてきた。いつだっけ……委員長が来てた日なんだけど」
 2−Aの学級委員長は洞木ヒカリというアスカの無二の親友。
 委員長らしい生真面目さを持った女子生徒で、異国からの転入生たるアスカを心配しすぐに仲良くなっていた。
 そばかすという悪い特徴は有るが平凡な容姿で、いつも長い髪を2つに結っている。
 不真面目に振る舞いがちなトウジを目の敵にしているみたいだが、マナのように男子を毛嫌いしたりはせず、こちらへの態度も良好なのでこちらも悪くは思っていない。
 寧ろアスカが家に呼ぶ際には大抵手作りの菓子を持参し分けてくれる。将来キャリアウーマンにでもなりそうに見えたが、案外家庭的な女子らしい女子かもしれない。
「はあぁ〜羨ましい! 何かこう、ラッキースケベ的な事とか起こったりしてないの?」
「スケベ? 無いよ、そんな事」
「ぎょうさんおっても何も無いならつまらんのとちゃう?」
「いいや、見られるだけでも俺は嬉しいね」

「碇シンジ君」
 楽しい日常会話に亀裂を生じさせるような聞き慣れない声。
 名を呼ばれて顔を上げるとそこには例の転入生。
「やあ」
 ポケットに手を突っ込んだまま、少し屈んで目を合わせてきた。
「どうも……あの、僕の名前、どうして?」
 にこりと屈託の無い笑みを向けられる。
 病的なまでに白い肌は晴れ渡る空の下が似合わな過ぎて不気味だった。
「何や転校生、もう昼飯終わったんか?」
 振り向いたトウジが尋ねた。フェンスに背中を当ててカシャンと音がする。
「終わったよ」
 短い返事はしかしシンジの方を見たまま。
「図書委員だと聞いたんだ。図書室に案内してもらえないかな」
 他に候補者が1人も居なかったので立候補して、だがどちらかというと成り行きで図書委員になっている。
「別に良いけど……今から?」
 自分は未だ弁当が残っている。
「駄目なのかい?」
「昼休みは貸し出ししてないんだ」
「じゃあ借りるのは放課後にするよ」
 そうは言うが立ち去らない。
「……案内するよ」
 少し苦笑は漏れたが立ち上がる。
 自分もある意味転入生だった。今隣に居る2人に助けられて、こうして楽しい学校生活が送れている。
 転校初日で友達の居ないクラスメート。女子に囲まれてはいたが、その所為で男子とは未だ話をしていないかもしれない。
「シンジ、弁当どうすんだ?」
「予鈴までに戻らなかったらそのまんま教室持ってって」
「おーけー」
 ケンスケはひらひらと手を振ってくれたが、トウジは心配そうな表情をしていた。
 放課後までお腹が鳴らないと良いけど。

 図書室までの道程がやたらと長く感じられたのは、通り過ぎる人々が皆こちらを見ていたからだろう。
 シンジの1歩後ろを歩く転入生は遠目にも目を引く程白い。
 人間が目立つ理由に白いからなんて物が有る事を初めて知った。
 それでいて目を逸らしたくなる程奇怪なわけではなく、寧ろ目を奪われる程度には容姿が整っている。
 自分ではなく自分の後ろの人間を見ているのは理解しているが、ぶしつけな視線は漸く辿り着いた図書室の扉を開ける時に逃げ込むような気持ちにさせた。
「誰?」1歩踏み出して中に入るより先に、書架から人影が飛び出て「碇君?」
 厳しい声音から一転、安堵の中に歓喜も混じった物へ。
 声の主は長い黒髪と黒縁の野暮ったい眼鏡、白く柔らかそうな肌をした小柄な、目尻と口元のほくろが特徴的な美少女。
 だがもっと特徴的なのはこの中学校において黄色いベストにグリーンのプリーツスカート、つまりは別の学校の制服を着ているという事。
「山岸さん、来てたんだ」
「どうしても気になってお昼を食べる前に」
「じゃあこれからご飯?」
「そうなの」
 容姿も言動も大和撫子という単語がよく似合う図書委員。
「ねぇ、後ろの人は……?」
「うちのクラスにも転校生が来たんだ。だから図書室案内してた所」
「初めまして、渚カヲルといいます」
「初めまして……山岸マユミです。あの、宜しくお願いします」
 返事は無かった。
 それはまるで宜しくしたくないという意思表示のようで気まずく思えたし、目の前のマユミのも同じ事を感じているように見える。
「……それじゃあ私はこれで」
「うん、またね」
 背が高くないので歩幅も狭い印象だったが、あっという間に去っていった。
「今の子、誰なんだい」
「名乗ったじゃないか。山岸マユミさん。君よりだいぶ前に、隣のクラスに転校してきた子だよ」
「そういう事じゃない。君との関係さ」
「関係? 同じ図書委員だよ。僕と違って本が好きだから図書委員やってる」
「君は本が嫌いなのかい?」
「別に嫌いじゃないよ、当番の日は読んでるし」
 2週間に1度位の割合で放課後の図書室開放時に司書の真似事をするのが図書委員の主な仕事。
 放課後が潰れるので毎日活動の有る部に所属している人は出来ない。ましてや飲食が禁止されているのでやりたがる人も少ない。
 昼休みにこうして他に誰も居ないのはそれが主な理由。
「なのに彼女と仲が良いんだね」
「良いって程でもないけど……でも隣のクラスだし、本が好きだからって他の委員の分まで残ってやってる所見たら、僕も助けてあげたくなるっていうか……」
 他にも他人に口外したくないので言わないが、マユミの家庭環境への同情も有る。
 本人から聞いた微かな情報といやに広まっている噂話を組み合わせると、夫と別居し女手1つでマユミを育ててきた母親が死亡し、暫く離れて暮らしていた父親に引き取られてここへ転入してきたらしい。
「君と少し似ているね」
「えっ!?」
「彼女、芯は強いのに自己主張は余りしないように見えたよ」
「そういう事か……」
 家庭の事かと思った。シンジも経緯は大いに違えど母は死に父に呼ばれてここへ来た。
「同じ図書委員の先輩にも言われた事有るよ、お前達は雰囲気似てるなぁって。だから一緒に仕事回されて、それで他の人より多く話す機会は有るかも」
 そうなんだ、と穏やかな笑みを向けられる。
 クラスメート達を相手にしていた時の商品のように作った笑顔ではなく、生まれたての我が子を慈しむようなそれは、くすぐったくもあるし違和感を覚えた。
 決して悪い気はしないが、何故初対面の挙げ句こちらから積極的に話し掛けたわけでもない自分に?
 しかも顔が近い。

「あの……」だがそれは指摘しにくい気がして「……渚君、だっけ」
「カヲルで良いよ、碇君」
「じゃあ僕も――」
――ボクモ、シンジデイイヨ。
「ッ!?」
 思わず言葉を区切って息を呑んだ。何だ今の頭に浮かんだ言葉は。
 まるで過去に同じ事を同じ人に同じように言った事が有るような。
 既知感。もしくは現代的に言い換えてデジャヴ。
「シンジ君? どうしたんだい?」
「いやあの……渚、カヲル君は、どういうジャンルの本読むの? 案内するよ、ここの図書室狭いけど」
「初めて入ったけれど、確かに余り広くはないね」
「前の中学校の図書室はもっと広かった?」
「さぁ、どうだったろう」
「カヲル君も市立図書館とかに行く方? 本読みたい人は皆そっち行っちゃうんだよね。人が多いのは課題で読書感想文が時だけ」
「市立図書館は近いのかい?」
「うん、学校からならバス停2個分。歩いても行けるよ」
 前の学校の図書室の話をしないのは可笑しい。転入初日から図書室を知りたがるのに、まさか前の学校では図書室に行かなかったわけではあるまい。
 その不自然さが無性に怖くて自分から話を逸らしてしまった。
 怖いと思う気持ちは確かに有るのに、それでもカヲルと話しているのは何故か楽しい。
 自分の周りには少ない聞き上手なのだろうか。

「さて、奥の方にはどんな本が有るのかな」
 ぐい、と手が引かれた。
 ずっとポケットに入れたままにしていたカヲルの手を見るのは初めてだ。白く細長い指は爪を綺麗に切ってある。
 その右手が何故か自分の左手を掴んでいた。
「えっ、ちょっと」
「奥の棚のジャンルは何だい?」
 見た目に反して意外に力が強い。見た目通り余り腕力の無いシンジはそのまま図書室内の最奥まで手を引かれる。
 傍から見れば仲睦まじく手を繋いでいるように見られそうで恥ずかしい。
「伝記類か。おや、こっちには音楽家の物も有る。シンジ君、歌は好きかい? フルスコアも置いてあるね。楽譜は読めるかい?」
 楽しそうに尋ねてくる間も手が離れない。
「君は、どうなの」
「一応読めるよ。まぁ好きな歌は殆ど暗譜してしまったから、知らない物を改めて読むとなると時間が掛かるけれど」
「そうなんだ」
 意外なような、よく似合うような。
「僕も一応。習ってたんだ」
「過去形かい?」
「今は教わってないから。独学で偶に弾き直すだけ」
「それは、弦楽器?」
 左手の人差し指の腹を、カヲルの親指が執拗に撫でてきた。
「皮が厚くなっている。でも顎に跡は無いからヴァイオリンやヴィオラではなさそうだ」
 そのまま指を絡められる。
 指と指の間を拡げてくるカヲルの細長い指。
 侵食されるような凌辱されるような。

「何……? ねぇ、放してよ」
「他者との一次的接触は不快?」
 不快という程ではない。寧ろこの暑い夏にカヲルの手は体温が低いのか心地良くも有る。
 だがこちらを見る目が怖い。
 優しく微笑んでいるのに、1度見ると忘れられない真紅が恐ろしい。
 そう、忘れられない赤さなのに、カヲルと出会うまで綺麗さっぱり忘れてしまっていたような。
 それに対して心が勝手に罪悪感を生み出してくる。
「今度共に演奏しよう。君の好きな歌を、僕が伴奏をするから」
「それは構わないけど、もう放して。嫌とかじゃないけど、恥ずかしいよ」
「ここには他に誰も居ないよ」
「でも誰か来るかもしれないから」
 だというのにより近付いてくる瞳。
「ずっと僕の目を見ているね」
「だって……」
「赤い色なんて、そんなに珍しい物でもないだろう?」
 確かに彼女と同じ赤はシンジにとっては珍しくも――
「放せよッ!!」
 強く振り払うと漸くカヲルの手が放れた。
 もう掴まれないように左手を胸の前へ、そして右手で隠す。
 底驚いて目を丸くしていたカヲルだが、すぐに柔らかな笑みに戻った。
「その、ゴメン、大きな声を出して」
「構わないよ」
 カヲルは1度目を伏せて何かを思案し、すぐに目を開ける。
「僕の方こそ、君を困らせてしまったみたいだ」
「ううん。まぁちょっとは、困ったって程じゃないんだけど」
「僕は君に会う為に生まれてきたんだよ」
「は?」
 急に何を言っているのか。今度はシンジが目を丸くする番だ。
「君の幸福だけを求めてきた。結果君の周りには幾人もの友達が居るけれど、そうなると僕は君の友達じゃいられなくなってしまいそうだね」
「何の話?」
「君の幸せの話だよ」
「アンタの身勝手の話でしょ」
 不意の声に振り向けば、いつの間にかアスカが立っていた。

 両手で握り拳を作り、怒りを全面に醸し出している。
「シンジから離れなさいよ、ホモオトコ」
「心外だね」
 やれやれと首を左右に振る。
 その様子にアスカの怒りは更に沸点へと上昇した。
「私知ってんだからね、アンタがシンジの事ジロジロといやらしい目で見てた事!」
「アスカ、いやらしい目って……」
 そんな目はしてないとフォローしたいが、やはり他者から見てもカヲルの視線は自分に向いていたのだと思い知らされる。
「こんな所に連れ込んで何するつもりよ」
「カヲル君は図書室に来たいから図書委員の僕に声を掛けただけだよ」
「アンタ馬鹿ぁ!? そんなの嘘よ、嘘に決まってるわ。っていうか何ファーストネーム呼びしてんのよ」
「もう、どうしてアスカはそうやって絡むのさ」
「僕が羨ましいからだよ」
「はぁ!? 別に羨ましくなんかないわよ! アンタは知らないでしょうけどね、私達は一緒に暮らしてんの」
「でも僕のようにシンジ君と図書室で2人きりになった事は無いだろうね」
「むっかぁ〜! 本っ当ムカつくわねこのホモオトコ!」
「図書室で大きな声は頂けないね」
「カヲル君も、アスカ怒りっぽいんだから」
「誰が怒りっぽいですってぇ!?」
「今怒ってるじゃないか」
 こうしてたしなめているようで火に油を注ぐのがシンジ自身で、面白がってわざとガソリンをまくのがカヲルで、見事に着火するのがアスカで。
 今日初めて会った筈だがこんな毎日を繰り返していた気がする。
 思えば確かにこれは自分の幸せかもしれない。平凡で平和で少しばかり愉快で。
 ハーレムだと茶化されるのは、これが板挟みだと誰よりわかっているからで。
 彼女がそんな皮肉を言うのは自分だけ、もしくは自分達だけで。
 だから今この場に彼女が居ないから収拾が付かない。と言っても、居た所だけで他人のフリ宜しく何もされないのだろうが。
 でもやはり居ないのは可笑しいし寂しいし、幸福には届かない。
「ねぇカヲル君」
「何だい、シンジ君」
「だからいつの間に名前で呼び合ってんのよ!」
「もうアスカったら!」
 ちょっと黙ってて、と手を翳す。これもまたアスカを怒らせそうだが。
「で?」
 そんなアスカの存在を完全無視を決め込んで――これまた怒りそうだ――シンジだけを見て微笑むカヲルに。
「ねぇ、綾波はどこ?」

 西暦2000年9月13日、第一の使徒の肉体が滅んだ。
 それは地球の地軸を曲げてしまう程の大爆発。
 だがヒトのDNAを押し付けられたアダムの魂はその傲慢さを赦す事にした。
 巡る中でいつしか地球の支配権よりも『彼』の幸せを尊く思うようになっていたから。
 赦す事で自分以外の使徒は裏死海文書に逆らい未だ目覚めない。
 第二の使徒も目覚めない。肉体と魂が分離されないのだから、神を手に出来ない人類は神の真似事を出来ない。
 だからこそサルベージを成功させられないし、もしサルベージを元に肉体を復元しても入れられる魂が無い。
 綾波レイは存在出来ない。

 そうわけのわからない事を言っている間も渚カヲルは微笑んでいた。
 誰が存在しようとしまいと自分には関係が無いと。
「アンタ、顔に似合わずクズいわね」
 天才と謳われるアスカには理解出来たのか、はたまた意味がわからず強がっているのか。
「日本語で言うなら……そうね、サイコパス? ヘラヘラ笑ってるけど、結局それって自分以外はどうでも良いって話でしょ」
「どうしてそうなるやら。僕はシンジ君の事を第一に考えている、という話をしているのに」
 一斉一代の告白のようで場違いにも照れてしまう。
 だが何故初対面の自分をそんなに気に入ってくれるのやら。
 カヲルはシンジに向ける優しい笑みを誇らしげ、得意気ななそれに変えてアスカを見る。
「僕はシンジ君が笑顔でいてくれれば良いんだ」
「アンタはね」
 そこにお前が居なくても、という宣戦布告と受け取ったらしいアスカだが、いやに冷静な声で続けた。
「所詮それはアンタ自身の我が儘でしかないわ。シンジが本当に幸せかどうかなんて関係無い、シンジの為に何かしてやったってドヤ顔かましたいだけでしょ」
 アスカらしくもない淡々とした声。
 だが、言っている事は尤もだ。その証拠に――
「アヤナミってのが無くても良いって思ってんのはアンタ。シンジが本当に欲してる物をずに、シンジの作り笑いだけ見てる悦入ってる渚カヲルの幸せの話」
 シンジは自分が何故『綾波』が女性の名だとわかったのか理解出来なかったが、それでもその人物が大切だという事は理解していた。
 例えカヲルがどんなに否定しても。もしかするとアスカも要らないと言うかもしれないが。
 それでも綾波の居ない世界は寂しいよ。
 生まれて初めてこんな感情を持った。
 寂しいと思う事が無かったわけじゃない。物心付く頃には母親が居なくて寂しかったし、その母親の命日にしか父親と会えないのも寂しかった。
 葛城家に下宿するようになってからは環境が変わり寂しいと思う事は少なくなった。親友とも呼べる友人が出来て、更には異性を意識する女子達も複数居る。
 嗚呼でも。
 何故母親が亡くなったのか、何故父親が預けた先が『先生』なのか。何故ミサトが今の自分の保護者なのか、何故因果無き女性達が自分の周りに集うのか。
 何故その中に綾波レイが居ない事を寂しく思うのか。
「S・アスカ・ラングレー、折角ここまで運べたのに君は破滅を選ぶわけか。やはり僕は」今までに見た事が無い程の恐ろしい表情を浮かべたカヲルは低い声で「君が嫌いだ」

「ぎぃあぁあぁぁーーッ!!」
 突如響き渡るアスカの絶叫。
 両手で左目を押さえるアスカ。
「痛い! 痛いぃッ!! 痛いぃあぁーッ!」
「アスカ……」
 何故急に? ゴミが入るような風は吹いていないし、確かアスカは視力までもが完璧なのでコンタクトレンズを使っているわけでもない。
 何かしら理由が有るとしても、悲鳴を上げながら足を縺れさせるように後ろへ下がるのは尋常じゃない。
「君はシンジ君を構成する大切な要素だ」
 響く叫びの中で、不釣り合いなまでの冷静なカヲルの声。
 いつの間にかまたポケットに手を入れて、喚くアスカを無感動に眺めている。
 なまじ顔の作りが良いだけに怖い。色白く瞳が赤い所為も有り、不気味なんて言葉では足りない程に。
「思春期の彼に少女としてより近い位置で接し『男』を自覚させる。阻害され続けたシンジ君の成長に一役買えるのだからさぞ光栄だろうね。しかしそこまで驕られると腹も立つ」
 比喩ではなく本当に『腹』が『立った』。それも、アスカの。腹がまるで立ち上がるように、2箇所前面へ飛び出てきた。
 右の胸の下、左の下腹部。
 カヲルが手も使わずに引っ張っているかのように。もしくは内側から内臓の組織が持ち上がるように。
 少女らしい膨らみかけの土台と、女性として子を成す卵巣とを。
「うっぐうぅ……痛い……」
 もう叫ぶ気力も無くなってきた。
「脆い物は嫌いじゃない。君も君でその魂は美しいのかもしれないけれど、いかんせん僕の趣味ではなくてね。脆いが故に折れる事を恐れる細い、だが強く硬い美しさが好きなんだ」
 アスカが左膝を床に付く。それを無表情のまま見下ろすカヲル。
「脆いのを隠す為に汚泥を塗り固めた醜さは好まない」
「……汚泥、ですって?」
 片膝を付いたまま、見上げ睨み付けるアスカ。
「アンタ今、私が……醜いって、ホザいた……?」
 絶対に許さないと、片方だけの碧い瞳が睨み付けている。
「……アンタなんか、殺してやるわよ」
 爪の先まで綺麗に整えたアスカの指がカヲルへと伸びた。
 左手は血を流し続ける左目を押さえたまま。
 殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる――
 永遠に続くと思われるような重たい響きの呪詛は、伸ばしていた右手が綺麗に縦に裂けると同時に止まった。
 どんと鈍い音がしてアスカの体が図書室の床に沈む。
 避けた右腕を庇うように、胎児のように丸くなって。

「あ……」
 心臓のバクバクという煩い音だけが響いている。
 がくんと膝が崩れる。顔を見せない形に倒れたアスカを前に立ってはいられない。
 未だじんわりと血が広がっているのは、アスカが死んでいないからだと自分に言い聞かせる。
 何が出来るわけでもないのに、彼女の熱を確かめたくてそっと手を伸ばした。
「触れない方が良い」冷たい声に触れたい手が止まる「感染症が怖いからね」
 途端に優しい声になり、ポケットに入れていた筈の手を肩へ回してくる。
「何も命を奪ったわけじゃない。彼女の方は僕を殺しにかかってきそうだったけれどね」
「これは……カヲル君が、やったの……?」
 可笑しな質問だと言いながら自分でも思う。
「僕は何も君を男にしたくないと思っているわけではない。ただ君の友達で居たいだけさ。セカンドと寄り添っていてはそれが叶わないみたいだから『排除』した。何を変えられようと曲がらない彼女の性格の問題だ。多少の生い立ちが変われどこの性格になる、そして結果「よくこうなる」だけだよ」
 ……ハイジョ?
「それに君の周りには魅力的な女性が何人も居るだろう? これから先も沢山出会う成長の機会はどこにでも有る……」
「ねぇ」不穏な単語にシンジは精一杯不穏な印象になるような声音で制し「綾波も?」
「ファーストがどうしたんだい?」
 いやに近い顔を避けるように手を退けて立ち上がる。
「綾波も、カヲル君がこうしたの?」
「言ったじゃないか、彼女の魂はここには存在出来ないから、と」
「僕は綾波だけでも助けたい……」
 倒れるアスカを横目に何故こんな酷い言葉が出るのだろう。
 そう思ってる筈なのに、言葉は続かず代わりに涙が零れた。
 ポロポロと頬を伝う涙は妙に熱い。
「ファーストは……」
 カヲルの言葉を遮るように両手で目を覆う。それでも涙は溢れる。
 本当は何も聞こえないように耳を塞ぎたかった。
 息も止めて死んでしまいたかった。
「……どうして『いつも』救えないの?」
 上擦った子供の声。
「彼女は君達とは違うから。言うならば母親、君の初めての他人。だから1つにはなれない」
「1つになんて、ならなくて良いんだ。ただ、ただ……手を……」
 手を取り合って生きていければ。

 アスカに触れる事を躊躇ってしまった右手の平を見る。
 手を握る為に他人である事を選んだのに、この手ではどう足掻いても彼女を救えない。
「シンジ君」
 視界に映る自分の手にカヲルの真っ白な手が重なった。
 優しく暖めるように握ってくる手は白く細く、とても似ているけれど男女の違いが有る。
 だから握り返せない。
「……カヲル君は、綾波の事が嫌い?」
「どうだろう、君はファーストとは手を繋ぐだろうから、そう思うと羨ましくて好きではないかもね」
 茶化す口調と柔らかな笑みには自分への気遣いだけが溢れていて。
「じゃあ、アスカは?」
 名を呼ばれたアスカは意識を手放しているのに、その寝息が健やかな音に聞こえる。
「さっき言った通り気に入らないよ」わざと肩を落として「君と1つ屋根の下で生活なんて。まさか寝室を共にはしていないだろうね」
「まさか!」
 思わず右手に力がこもりカヲルの手を握り返す。
「なら今度僕の部屋に泊まりにくるべきだ。ワンルームだから同じ部屋に寝る事が出来る。ベッドは1つしか無いから、半分使うと良い」
 本来の支配者と、仮初めの支配者が。そして地球に蔓延る個の幾つもが。
 自分と手を取り合って笑い合って生きていけますように。
 改めてカヲルと握り合う自分の手を見比べると、こちらの方が幾分小さくて未だ成長の余地が残っているように見える。
「この手で……チェロを、習っていたんだ」
 ヴァイオリンの2倍の大きさを持つ弦楽器。低音域を担当する。手入れも持ち運びも面倒で、だけど亡き母が趣味としていた。と聞いたので投げ出さずに続けてきた。
 逃げないでここまできた。
「良いね、似合いそうだ。……やり直そう」
「やり直す?」
「僕と君が居て、でもファーストもセカンドも皆も居られるように。それが良いのだろう?」
「うん」
 綾波レイが存在しない世界も、惣流・アスカ・ラングレーが排除される世界も、渚カヲルを殺してしまう世界も、望む筈が無い。
「こうして君と手を繋げて僕は幸せだ。だから今度は君が幸せになる番。僕がシンジ君を幸せにするから」
「カヲル君も」
「一緒に?」
 言って真紅の瞳が驚きと喜びに揺れる。
 カヲルは自分に会いたかったのだろう、と思った。
 だから笑みを返す。
 自分が会いたい彼女とまた会えたら、綾波レイもまた微笑んでくれるだろうから。

EVANGELION:x.x YOU ARE(NOT)THE HERO.

 何を考えていたのだろう。気付けば『いつもの』体育館のパイプ椅子に座っていた。
 体の前には自分のチェロが有った。そう、練習していたのだ。他の弦楽器と違い立ったままでは演奏出来ない。
「何よ、どうかしたの?」
 声は第一ヴァイオリンの少女。
 4つ並ぶ中で1番離れた席。最高音域の担当。
 首を傾げると長い髪が流れる。
「ゴメン、何でもないんだ」
「じゃあ練習、続けましょう」
 聞きたかった可憐な声はすぐ隣の席からした。
 髪の短い少女はヴィオラを構え直す。
 冷たい言い方に聞こえるが、彼女なりに心配してくれている。
 その証拠に赤い目は不安を混ぜてこちらを見ていた。
 そうだ、この目だ。
 白昼夢の中の自分が問い掛けていた。その答えは今目の前に有る。
 鋭さを感じる赤い瞳。だがそれはただ厳しいだけではない。
 切ないまでの愛が有るからこその。……同い年の少女に母性を見るとは。

「皆」
 呼び掛ける声。同じ赤い目を持つ少年。
 常に傍観していたあの時の瞳とは違う。隣の少女と同じ赤なのに、その中には驚きや戸惑いといった物が有る。
 まるで彼も自分と同じく急に現実に戻されたような、急に異世界にでも飛ばされたような。
「漸くお出ましぃ?」
「座って」
「そうよ、早く座りなさいよ」
 少女達に促されて少女達の間の空席に少年は腰掛けた。
 自分の荷物を見て更に驚いている。
 何故驚くのだろう。そんな必要は無いのに。
 それは君が僕と合わせるのに何度も使ってきた、君のヴァイオリンじゃないか。
 腕前では上回っているが、だからこその第二ヴァイオリン。
「……これから合奏だね。遅れてしまったかな」
「ううん、時間通りだよ」
 何時から合わせるかを知っていた。自分も彼も、リアルな夢を見た所為で忘れていたが。
 だがこれこそが夢かもしれない。
 夢の演奏会、弦楽四重奏。
 大切な友人と4人で、仲の良いクラスメートや自分を大事に思ってくれる大人達の前で曲を奏でる日。
 ずっと待っていた。この時を、この時だけを。
 きっとそれは自分よりも少年の方が強いだろう。
 あの真紅が徐々にだが確かに喜びに染まってゆく。
 嬉しいよね、楽しみだったよね。君は僕と演奏したいと何度も言っていたし。
 僕もしたかった。ピアノの連弾なんかも良いけど、こうして皆と皆の前での演奏は憧れだったんだ。
 人見知りのくせにって言われるかな。でも僕、実はそうでもないんだよ。初めて会う度に君とはすぐに仲良くなれる。
 少女達が楽器を顎で挟む。遅れを取らぬように2人の少年も楽器を構えた。
 これから奏でられるのはこのセカイでも最も有名な追走曲。
 チェロは変わらぬ和音を繰り返し、第二ヴァイオリンは主旋律を追い掛け続ける。
 追走曲でありながら、自分にとっては追想曲でもあった。もしくは想われる曲でもあった。

 弦を押さえて弓を引きながら、何故こんな演奏会に至ったのかを思い返す。
 2人の少女やいつの間にかステージ前に居る観客の大人達との関係性。ここはどこで今は何時なのか。
 記憶が定まり始めると、漠然と「きっとまたやり直す事になるのだろう」という諦めの気持ちが胸に渦巻き始めた。
 だけどそれもまた希望だよ。
 どんどん華やかになる曲の間から彼の声が聞こえてきた気がする。
 いつかどこが希望なんだと憤った事が有ったかもしれない。でも、それでも彼は自分を好いて自分の為だけに何度もやり直してくれてきた。
 その過程の1つがこれだ。特異点に過ぎないかもしれないが、それでも何と幸福な奇跡だろう。
 何故なら1番の『可笑しな点』は自分と彼との仲だ。
 永遠の、過去も未来も今も、最高の友達。だけど2人が手を取り歩むには地球の生物はそのままでは存在出来ない。
 結ばれるわけにはいかない2人の間に座る儚げなヴィオラの少女。
 追走曲がサビとも呼べる部分に差し掛かった時に、ずっと会いたかったその少女が微笑むのが見えた。
 こんな時には、こんな顔をすれば良いのだと。


2015,08,03


タイトルはM-11の意訳、英文タイトルは一応マイケミからの引用、のつもり。
去年ふと「来年で空ちゃん10歳、丁度2015年というエヴァイヤーの…あれ、エヴァって放送開始から数えたら20周年じゃね?」と気付いて、
こりゃ何かエヴァネタやっとかないと!と書き始めました。
しかし10ヶ月経っても一向に終わらないので、約11分の1にカットして短い話にしてみました(短くない)
本当はマリが8号機でガイナ立ちしてたり、レイが自爆と過食繰り返したり、カヲルがシンジの墓参りに行ったりと物凄く長かったんですが…
学パロに見せ掛けて、としたかったので学園っぽい部分だけ取り出してLRSっぽく…というよりレイが腐女子オチじゃないかこれ。
全ての子供達に、だから私達の子供の空ちゃんにも、おめでとうを。
<雪架>

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