拍手お礼小説−2
近付いて、すんすんと音が立つ位に鼻を引くつかせて匂いを嗅ぐ。
ずっと猫の様だと思っていたけれど、これではまるで人懐こい子犬の様だ。
「何してんだよ……」
「んー、何の匂いだろう?」
未だ匂いを嗅いでいるのがわからないのか、と言われないだけ良かったかもしれない。
香澄は周りの目を気にする事無く翳の髪の匂いを嗅いでは小首を傾げるという行動を繰り返している。
ここは電車の中で、何の気無しに隣の県の立派な図書館に行ってみようという話の流れに従った日曜日の午後だった。
待ち合わせは決して遅くなかった筈だが、何故か電車に乗るより先に話し込んでしまって、昼食は地元の駅近くのファミレス。
日曜日の昼間は家族連れが多くてまさにファミリーレストランといった光景に男2人で入るのは妙に気まずかった。
しかし今の状況よりはマシだろう。
電車の座席は対面電車。1番端の翳の肩に手を置いた香澄が、その顔を翳の耳の上辺りの髪に近付けて匂いを嗅いでいる。
「何度も嗅いだ事が有るのに、思い出せないんだ、この匂い……」
「俺の髪の匂いじゃ……」
「違うよ! 今日の翳の髪の匂いがいつもと違うから、気になって仕方無いんだよ」
人間は嗅覚が『思い出す』という点では1番優れていると言う。
見る力や聞く力、味わう力と比べれば劣っている嗅ぐ力だが、見た物や聞いた物や味わった物よりも、嗅いだ匂いから記憶を辿る事の方が早いと言われている。
勿論俗説に過ぎないのだが。
しかしそれを鵜呑みにしても、香澄が思い出せないのは記憶力が乏しいからではないだろう。
彼の場合『見て覚える力』が極端に発達している。
何事も見て覚えてきたのなら、匂いを嗅いでも見ていないから判らないのなら仕方無い気がしていた。
かと言って、いつまでもこうしていられては堪ったものじゃない。
「恥ずかしいから、そろそろ……」
「もうちょっとで思い出せる筈だから、くすぐったくても少し我慢してて」
別にくすぐったくはない。そんなに息が強いワケではない。
それよりも言葉通りに純粋に恥ずかしい。
髪の匂いを嗅がれるだけなら我慢が出来る。場合によっては嬉しいかもしれない。……なんて事は口が裂けても言えないが。
但しここは電車の中だ。そして昼間で乗客も居る。時も場所も嬉しさを感じられない条件の中。
それでも「止めてくれ」ではなく「早く思い出してくれ」と願う辺りは翳も心根が優しいのかもしれない。
「……まぁ、シャンプーは新しいのにしたけど」
「新しいの?」
何故それを早く言わない? と言いたげにすぐさま香澄は返した。
「あぁ……よくわからないけど、変えた」
「どんなの? うーん、シャンプーの、石鹸の匂いって感じじゃないんだけどなぁ……どんな成分なんだろう……」
目を閉じて再び匂いを嗅ぐ香澄。
もしかすると様々なシャンプーボトルの裏に書かれた成分を思い出しているのかもしれない。
無理が有る様な、香澄からするとその方が早いのかもしれない様な。
「……さくら?」
ぽつり、と香澄が呟いた。
「桜?」
「うん、桜の匂い……かもしれない」
違うんじゃないか?
言いはしなかったが花見なんて行っていないし、第一桜の季節はとうに過ぎてしまっている。
「……そうだよ、これ桜の匂いだ!」
確信を得た香澄は隠しきれない笑みを浮かべてその顔を放し、きちんと座り直した。
「新しいシャンプー、桜の匂いがするシャンプーなのかな?」
「知らないけど……特に何も書いてなかった気がする」
「そっかぁ。でもこれ絶対に桜の匂いだよ」
何故だろう、余り嬉しくない。
折角香澄が嬉しそうな顔をしているのに、どうしてか嬉しくない。
「良い香りだよね」
明らかな誉め言葉だと判っているけれど、素直に喜べない。
早く、少しでも早く駅に着いてもらいたい。
もしくは汗をかいて匂いを誤魔化したい。……否、汗臭いと思われるのはやはり癪だ。
「桜の香り、好きだなぁ」
「……あ」
「ん? なぁに?」
「いや、何でもない。俺は桜の香り、そんなに好きじゃないだけ」
「そうなの?」
「好きじゃない……いや、嫌いでもないけど。何て言うんだろう、苦手?」
「そうだったんだ」
ふーん、と小首を傾げながらも納得する香澄には申し訳無いと思う。
本音を言えば桜の香りなんて好きでも嫌いでもない。無論苦手とも思っていない。
こんな話を桜の季節に、桜の名前を持つあの人にされたら参ってしまう。
もしもまたあの人の前に出る機会が有ったら、前日の風呂でこれは使わないでおこう。
きっとすぐに苦手な理由を言い当てられてしまう。たかがシャンプー1つで笑いものにされるのはゴメンだ。
澄んだ香りのする彼への思いをからかわれて堪るものか。
2015,08,10