露康 全年齢 動かない設定


  温もりの冬


 露伴はペンを置き、出来上がったばかりの原稿を眺めた。
 ベタの塗り忘れなし。
 はみ出しもなし。
 修正忘れなし。
 スクリーントーンもしっかり剥がれないように貼れている――最も、露伴はトーンを多用するタイプではないので、該当の箇所はそもそも少ないが――。
「よし」
 一通り確認した後、彼は小さく呟きながら頷いた。
 仕事は実に順調だ。昨日も今日も、おそらく明日も――描きたくて仕方がないほどのアイディアはまだまだ頭の中にたくさん貯蔵してある――。先日行った取材の内容を上手い具合に作品に活かせたとの手応えもあった。
 壁に掛けられた時計――この部屋にある他の物と同様、露伴の所有物ではない――に目をやると、長さと太さの違う3本の針は、午後3時をわずかに過ぎた時刻を指していた。日没までは、あと1時間強といったところか。太陽が沈んで気温が下がってくる前に今日の分の仕事を終わらせることが出来たのは、喜ばしいことだ。
 ここ数日で、冬の気配は一気に強まってきている。そろそろ、もっと北の地域――例えば北海道とか――からは、雪の報せが届く頃かも知れない。神経を集中させて精密な絵を描かなければならないという時に、寒さに指が震えていたのではどうにもならない。しばらくの間は、気温が下がる前に仕事を片付けてしまうことを習慣付けた方が良いかも知れない。
 仕事は至って順調だ。新しい依頼は一定の間隔で入ってきているし、それ等は滞ることなくこなせている。だが、全てが問題なしとは――残念ながら――言えない。
 原稿用紙から目を上げると、そこに見える光景は、自分の仕事部屋のそれではない。広瀬家の2階の奥に位置する小さな洋室。一家の主が書斎にするつもりであったが半ば物置状態で放置されていたというその部屋が、現在の露伴に与えられた仮の居場所だ。彼はとある事情により、財産のほとんど――全てに限りなく近い――を失い、友人の自宅に厄介になっているのだ。
 とはいっても、順調な仕事のお陰で、贅沢を望まずに――以前の住まいの快適さを忘れて――安アパートで我慢するのであれば、部屋を借りることは出来るだろうというくらいには収入も貯金もある。そろそろここを出て行くことを考えるべき時が来たのかも知れないとの思いは、日に日に強くなってきている。
 ともすれば露頭に迷うかという事態に、友人――親友と呼んでも良いだろう――の広瀬康一が手を差し伸べてくれたことには感謝しているし、感動もしている。それに、そうなるに至った――破産の――経験も含めて、なかなかに貴重な体験が出来たとも言えるだろう。だが、いつまでも現状に甘えていて良いとは思えない。
 それに、やはり全く不自由していないとも言えない。居候の身でそんなことを言えば罰が当たるかも知れないが、独りでの生活に慣れ切っていた露伴にとって、常に傍に他人がいる環境というのはどうにもペースが乱れて落ち着かない。他人に気を使わず、静かに落ち着いて漫画を描ける環境は、今彼が欲しいと思っている物のひとつだ。寝食すら蔑ろにしてでも描きたいと思うようなネタが浮かんでいる時に、広瀬夫人――つまり康一の母親――が「ちゃんと食べないといけませんよ」と言って――幼い子供に「食べないと大きくなれませんよ」とでも言うような調子で。小柄な康一の体格を思い浮かべながら、それは息子にこそ言ってやるべきなのではと心の中で呟いた――食事を運んで来るなんてことはしょっちゅうだ。それがあくまでも百パーセントの親切心からそうしてくれているのだと分かるので、余計に無下には出来ない。しかし10分もしないでお茶のお代りを持って来られた時には康一に怒られるのを覚悟で『仕事中の露伴には話し掛けない』との“書き込み”を行おうかと半ば真剣に悩んだものだった――今のところはまだ実行には移していないが――。
 露伴がそれほど仕事熱心でなかったとしても、友人とその家族が疑いようのないほどにいい人であるからといって、その厚意を一方的に受け続けていては申し訳なくもなってくる。
(そろそろ本気で次の住む場所を探すべきか……)
 気を使ってくれる眼差しが、迷惑そうな視線に変わる前に。
 知らず知らずの溜め息を吐いたのと、控えめなノックの音が響いたのはほぼ同時だった。
「どうぞ」
 上体を捻りながらドアの方を向いて返事をすると、現れたのは親切な親友、広瀬康一だった。
「露伴先生、今、大丈夫ですか?」
 ここは彼の家であるというのに、康一は遠慮がちな目を向けてきた。
「ちょうど一区切り付いたところだよ」
 本当はこのまま明日の分の仕事にも着手しようかと――そしてそれを今後の生活についての決断を先延ばしにしていることの言い訳にしようと――思っていたところだったのだが、安堵したような微笑みを見せられ、その言葉は呑み込むことにした。
「良かったら、一休みしませんか? 今、母さんがココアをいれてくれてるんです」
 そういえばそろそろ「露伴先生、お茶のお代わりは?」と声を掛けられてもおかしくないような時間だ。作業の切りも良いし、締め切りまでの余裕もたっぷりある。断る理由はどこにも見付からなかった。
「ありがとう。いただくよ」
 どうやらそれは最適な回答であったようだ。康一の笑みが輝きを増した。
 椅子から立ち上がった露伴に、再び控えめな視線が向けられる。どうかしたのかと尋ねようとすると、
「あの、それで、もし良かったら、ぼくの部屋で飲みませんか?」
「康一くんの部屋で?」
「はい。あの、ちょっと散らかってますけど……」
 この家に厄介になるようになってから、康一の部屋に入ったことは何度かはある――辞書を借りにだとか、それを返しにだとかで――。ごく一般的な男子高校生の部屋といった風なそこは、特別創作意欲を掻き立てられるような場所ではなかったが、自分が描いた『ピンクダークの少年』のコミックスが最新刊まで揃っているのを見付けて、素直に嬉しく思った。だが露伴は、用がない時に彼の部屋を訪ねて行くとはしないようにしていた。康一に限った話ではない。住人達の生活に極力干渉しないこと。それは、他人の人生を書き替えることが可能な己の能力を必要以上に使用しないと決めていることと同様の、露伴の“ルール”だ――露伴のことを身勝手で図々しい人間だと思っている者も少なからずいるようだが、そのくらいの分別は持ち合わせている――。
 だが康一の方から招こうというのであれば、遠慮するのは却って無礼だろう。飲食をするなら寝室よりもリビングの方が良いのではとは思ったが、なにか、家族に聞かれたくない話を?――例えば、両親がそろそろ出て行ってほしいと思っているのにそれを言えずにいて苦しんでいる……とか――と、露伴は大人しく康一の後に続いた。
 そして、彼の部屋に入った途端に視界に飛び込んできたのは、少し小振りではあるがそれでもその空間の中心部で特別存在感を主張しているコタツだった。
「まだちょっと早いかなとも思ったんですけど、でも寒かったんで、出しちゃいました」
 康一はどこか照れくさそうに――寒さを我慢出来ない子供みたいだとでも思っているのか――笑った。
 なるほど、これを見せたかった――自慢したかった――のかと、露伴は納得する。
「ぼく、コタツ好きなんですよねー。つい動きたくなくなっちゃう」
「ふうん」
 賛同の言葉を期待されていたのかも知れないが、露伴は気の抜けた返事をした。彼は康一のようにその暖房器具へ対する良いイメージをそれほど持っていない。漫画を描くのに、コタツという物はいささか不便なのだ。
 露伴にとって、手が不自由なく動くことは必要最低条件であると言える――ゆえに、咄嗟の時でも利き腕だけは庇ってきた――。そのため、冬場は部屋全体をしっかりと温める必要がある。コタツ布団の中に入っている半身だけが温かくても意味はないのだ。床に座り込む体勢も――単純に不慣れなだけかも知れないが――書き物をするのにはあまり向いていないように思う。
 そんな理由から、彼は広瀬家の世話になる以前より、コタツという物を所有していなかった。
 しかしここで「好きじゃあないから」と言って踵を返すのは、あまりにも礼に欠ける行為だ。そのまま家を出て行けと言われる覚悟がまだない以上、やるべきではない。しかも今は仕事をしに来たのではない。休憩に誘われたのだ。それに、嬉しそうな顔をしている康一を、もうしばらく眺めているのは悪くないかと思った。極めつけは、康一が「どうぞ」と言いながら、わざわざコタツの奥側に座布団を置いてくれたことだ。もう断る術はない――断りたいわけでもない――。大人しく指示された場所に座って、布団の中に足を突っ込んだ――康一が小柄であるとはいっても、コタツの中で足を伸ばせばぶつかってしまうだろうと、その点は流石に遠慮しながら――。すでに電源が入れてあったようで、内部はしっかりと温まっていた。
 康一は露伴の正面ではなく、横の――L字の――位置に腰を下ろした。コタツが少し小さくて、自然と顔が近くなり、少々の気恥ずかしさを感じる。そうでなくても、他人の顔をまじまじと見詰めているわけにもいかずに、露伴は視線を逸らした。
 ふと、その視界の隅、コタツ布団の端に、数学の問題集が置いて――投げ出されて、だろうか――あることに気付いた。「少し散らかっている」と言っていたのは、これのことだろうか。
「宿題かい?」
「え? あ、そうか。忘れてた。実はそうなんです。これ週明けに提出しないと、ちょっとまずくて……。今からやるつもりだったんです」
 康一はバツが悪そうに笑いながら言う。それなら、のんびりコタツに入っている場合ではないのでは……。本当にさっさと宿題を片付けてしまうつもりなら、学習机に移った方が効率的だろう。コタツの温もりを楽しみながら宿題もやるというのならともかく、彼の両手は膝の上の布団の中へ突っ込まれており、筆記用具を握ってすらいない。やはり、書き物をするには不向きであるようだ。本人もそれを見越して、コタツの誘惑に負けてしまわぬための監視員のつもりで露伴を呼んだのか。
(まあ、別に構わないけど……)
 彼には恩があるし、友人の好きな物をこうして共有出来るというその心地良さは、否定しようがない事実だ。露伴が新しい自分の住まいを見付けてここを出て行くことを決めたら、そんな機会もなかなか訪れないかも知れない。
「先生、年末年始は、ご実家に帰ったりするんですか?」
 相変わらず宿題に着手する様子を見せないまま、康一はのんびりとした口調で尋ねた。
(そうか、それも考えないといけなかったか……)
 露伴は頭を抱えたくなった。
 普段なら、道路も電車も異様なまでに混み合う時期に無理に帰る必要はないと言うところなのだが、流石に今年はそうもいかないか。実家にいなければならないという意味ではなく、ここにいるわけにはいかないという意味で。となると、むしろ年内に住む場所を見付けるべきなのか……? それとも少し費用は掛かるが、家族の団欒の時を邪魔しないで済むように、しばらくホテル暮らしでもするか……。
「そうだね……。考えておくよ」
 すっかり暗くなってしまった露伴の口調に、康一は気付いていないようだ。
「もし帰らなくても大丈夫なら、うちで一緒に年越しが出来ますね」
 彼は溶けたアイスのような気の緩み切った顔で笑った。
(今、なんて……?)
「でも漫画家の人って、お正月も忙しかったりするんですかね? 先生最近お仕事たくさん入れてるみたいだし、連載とは別に、描き下ろしの予告もありましたよね。うちの母さん、『広瀬家特性のおせち料理を振る舞うわよー』なんて張り切っちゃって……。先生の迷惑にならないといいんだけどなぁ……」
 途中から独り言のようになっていった言葉に、それは一体どういう意味だと尋ねようとした時、階下から「康ちゃーん」と呼ぶ声がした。それは「ココア出来たわよー」と続く。
「はぁーい。ちょっと行ってきますね」
 「動きたくなくなる」と言っていたにも関わらず、康一はさっさと立ち上がってドアを出て行った。
(……今のは、なんだ?)
 早く出て行ってほしいと言うのではなく、年末年始くらい遠慮してほしいと告げるのでもなく、まるで、ここで過ごすことを望んでいるかのような……。
「全く……。康一くん、君はどこまでいい人なんだい……」
 布団に入っていない上半身は温かさを感じられない。そう思っていたはずなのに、今は、冬が訪問日を改めることにしたのだろうかと少々頭の悪そうなことを思い浮かべた。そのくらいに、全身がぽかぽかしている。
 康一と喋っている時には気付かなかったが、かすかにコタツのファンが廻る音が聞こえる。静かで単調なそのリズムは、決して不快なものではない。
 露伴はふうと息を吐いた。
(なるほど……。案外悪くないかも知れない)
 このコタツという暖房器具は、漫画を描くのには向かないかも知れないが、何もしないでいるのなら、快適であると言って良い。
 等と思っている内に、少し眠くなってきた。そういえば昨夜は何時に寝たんだったか……。
(そもそも寝たか?)
 考えなければならないことは色々あるはずなのに、段々「どうでもいいか」という気持ちになってくる。これがコタツの魔力か。
 不意に、玄関の呼び鈴の音が響いた。続いて、階下からかすかに人の声が聞こえてくる。そのひとつは康一のものであるようだ。応じているのは彼の母親ではない。今呼び鈴を鳴らした客だろうか。しばらくすると、康一が「先に上がってて」と言うのが聞こえた。男の声がそれに返事をする。出掛けていた父親が帰って来たにしては妙な会話だと思う。どちらかというと、友人が遊びに来たかのような……。
 そんなことを考えて――「考える」というよりはぼんやりと思い浮かべて――いると、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。そして康一の部屋のドアを開ける音。
 露伴は顔を上げた。
「なんでお前がいるんだ。東方仗助」
 現れた男を、露伴は思い切り睨んだ。眠気は一瞬でどこかへ行った。
 同じ質問をぶつけてこなかったところを見ると、仗助の方は露伴がいることをすでに承知していたようだ――露伴が住む場所を失ったことは、彼の耳にも入っているはずだ――。仗助は不満そうな顔をしながら答えた。
「なんでって、センコーがこれ提出しないと単位やらねーって言うからよぉ」
 仗助が手に持っているのは、康一が片付けないとマズイと言っていたのと同じ問題集だった。どうやら、康一に「うちで一緒にやろう」と誘われて、断れなかったらしい。見た目はまるっきり不良のくせに、こういう部分でそれを貫けていないのはなんだか滑稽だ。そう思ったのが表情に出たのか、仗助は眉をひそめた。
「そういうあんたは、いつまで居候してんだよ」
(人が気にしていることを)
 露伴は自分のこめかみが意思に反して引き攣るのを感じた。
「広瀬家の住人が温かく迎え入れてくれているんだ。君ごときにどうこう言われる筋合いはないね」
「康一いいやつだからなぁー。きっとメーワクしてても言えないんだろうなあ。あーあ、可哀想」
「ああそうだな。不良モドキが留年の危機に巻き込もうとしてるなんて、ほんと不憫でならないよ。全く、つるむなら不良同士、虹村億泰と足の引っ張り合いでもしていればいいのに」
「んだとぉ!?」
「というか、本当になんで億泰のところに行かないんだよ。近所だろうが」
「億泰はクラスが違って教科担当も別だから、出てる宿題も同じじゃあねーんだよ」
「あー、もう喧嘩してる」
 いつの間にかマグカップと焼き菓子らしき物が乗った盆を持った康一が戻ってきていた。彼は呆れた顔をしながらそれをコタツの上に置く。
「はい先生、どうぞ。仗助くんも、座って」
 康一に促されて、一先ず静かになった仗助もコタツの中に足を入れて――露伴の正面の位置に――座った。露伴は、3つのカップに並々と注がれたココアを見て、どうやら仗助は最初から来ることになっていたらしいなと思った――その来訪に合わせてお茶の準備をしていたのだろう――。
(ん? もしかして、分からないところがあったらぼくに聞くつもりじゃあないだろうな?)
 そうでもなければ高校生2人が宿題をしている場に同席させられる意味が分からないが……。
 思考を遮るように、コタツの中の足を蹴られた。
「おい」
「あ、すんません」
「それが謝る態度か」
 露伴はコタツの向こうの顔を睨んだ。
「お前は態度だけじゃあなくて図体もでかいんだから、少しは遠慮しろよな」
「えーえー、すみませんねぇ。まだ16歳なのに背が高くて脚も長いもんですからぁ」
 ムカつく言い方だ。が、いつもならもっと声を張り上げて罵倒し合っていてもおかしくないくらいなのに、今日は「鬱陶しいなぁ」と思う程度で覇気が湧いてこない。どれだけ言い合いをしても一定の距離がある所為で迫力不足もいいところだが、2人とも立ち上がって詰め寄ろうとはしない。これもコタツの所為か。コタツは人を堕落させる。言い争うエネルギーすら奪われてしまっているようだ。
(まるでスタンド攻撃だな。エネルギーを奪うスタンド……実際にいたなそういうやつも)
「もぉー。2人とも、喧嘩するなら電源切っちゃうよ?」
 康一が頬を膨らませながら言う。コタツがコタツとして機能しなくなれば、おそらく彼等の言い合いは激化するのだろうが、そのことに彼は気付いていないようだ。
「わーっ、それは勘弁っ! 外寒かったんだからよぉ。まだ体温戻ってねーんだよ。たぶんそろそろ雪降るぜ」
「じゃあ、喧嘩は禁止! ぼくのコタツの中での争い事は、断固として許可しないからね」
 無理矢理休戦協定を結ばせながら、康一は呆れた顔でカップのココアを啜った。


2018,11,10


六壁坂の世界では露伴先生が27歳=4部の7年後ですが、そうなると仗助や康一くん達は23歳??? と思っていたのですが、OVAで高校生のままだったので、そのように書きました。
年齢設定が違う世界なんですね。
27にもなって11歳も年下の少年のうちに居候させてもらってるとかすごいな!
でも露伴先生は広瀬家にしっかり受け入れられてたらいいなぁと思っています。
<利鳴>

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