ミスジョル R18


  君の記憶から僕が消えたら


「う……」
 激しい頭痛に目蓋が上がらない。ましてや内的要因ではなく、明らかに何かをぶつけた痛み。
 目を瞑ったまま指先で痛む額に触れてみると怪我は無い。傷痕や乾いた血等も無いようだ。
「――、大丈夫ですか? 目は開けられますか?」
 恐らく自分に掛けているらしい必死な声が聞こえる。
 それ以外に聞こえる音は妙に離れた雑踏ばかりで、自分が今何かに背を預け足を伸ばして座っているのが郊外にして屋外だとわかった。
「……大丈夫だ」
 何がだ。
 簡単に答えるなと痛む頭の中で己を叱責しながら重たい目蓋を抉じ開ける。
 1人の少年が地面に膝を付けてこちらの顔を覗き込んでいた。
 長く癖の強い金髪、端正だが気の強そうな顔立ち、細く均整の取れた体躯。男にしてはやや高い声も含めて典型的な美少年と言える。
 しかし何故こんな所でこんな姿勢で向かい合っているのやら。
「……ミスタ? やはり痛みますか?」
「ああ、頭が凄ぇ……いやそれより」
「他にも怪我が?」
「そうじゃあなくてだな……」相手を不快にさせるかもしれないので言い淀んだが意を決して「……オメー誰だ?」
「……は?」
 機嫌を損ねたというより純粋に何を言ったのか、という様子で聞き返された。
「質問の仕方が悪かった」
「そうですね」
「お名前は?」
「……ジョルノ・ジョバァーナです」
 一瞬の躊躇を見せつつも答えた。余り聞かない名前とその容貌からイタリア語に精通した外国人なのかもしれない。
「じゃあジョルノ」
「はい」
 一体何から聞けば良いのやら。知りたい事が山程有る。
「ここどこだ?」
 剥き出しのアスファルトに自分は尻を、ジョルノは膝を付けている。顔を上げれば青空が広がっており、振り返れば背を預けている頭痛の原因と思しき鉄材の類いが散らばっており、ジョルノの背後にはその鉄材を保有しているであろう、しかし暫く人の入っていなさげな建物が見えていた。
「廃工場か?」
「そうです。ネアポリスの北の外れ、本来なら僕達の管轄外です」
「管轄ねぇ……ネアポリスはイタリアだよな」
 それはわかる、知識で理解出来る。
「今は『いつ』だ?」
「午後5時を迎えるまで後十数分、といった所でしょうか」
「そうじゃあなくて、何月何日だ? 西暦は?」
「先刻から何なんですか、貴方は僕に何を言わせたいんですか。質問は後1つにして下さい」
 苛立ちが戸惑いを上回ったらしいジョルノは遂に険しい表情を見せた。
 このやり取りから察するに初対面ではない。というより相当親しい仲の筈だ。上手く導いてくれる可能性は非常に高い。
 何を言わせたいかと問われれば答えるのに窮するが、見た目と口調とが賢そうなので恐らく悟ってくれるだろう。この一言で。
「『俺』は『誰』だ?」
 ジョルノは先のように名前で答えようとしたのかすぐに口を開き、しかし声帯を震わせる前に閉じた。次いでごくりと喉を鳴らす。
「ミスタ、貴方……自分の事が、わからない……?」
 どうやら名前は、ジョルノからの呼び名はミスタらしい。
 ふむ、とミスタは左手親指と人差し指とで顎を掴んだ。
「わからないっつーか、知らないっつーか」
「覚えていない」
「それだな」
 自分の事も目の前の相手の事も、ここがどこで何をしに来たのかも。
 ジョルノは言葉を探し開ききらない口元を手で隠す。
 何を思案しているのか暫し瞬きを繰り返して難しい顔をしていたが、やがて肩を落とすように溜め息を1つ吐いた。
「頭部への衝撃で『記憶喪失』になった、なんて事がこんなに簡単に起こるとは」
「ちょっとした映画みたいだな」
「そんな呑気な事を言わないで下さい。いや……貴方らしいか」
 ジョルノが顔から離した手を伸ばしてきた。指先がそっと額に触れる。そこから痛みが吸い取られていくような、安らぎとも言える感覚が有る。
「ミスタ。グイード・ミスタ。貴方の名前。年は18歳。そして今、僕のスタンドで傷を塞いだ所」
「スタンド?」
「ミスタ! ジョルノっ!」
 名前を呼ぶ声のしたジョルノの背後――廃工場――を見ると子供が1人走ってきた。
「ナランチャ」
「2人共大丈夫か!?」
 ジョルノにナランチャと呼ばれた子供はどれだけ走ってきたのかこめかみから汗を流しながら、両膝に両手を付いてぜぇはぁと息を乱している。
 頬や目が丸く、手足は関節が目立つ位に細く、まさに成長期といった容姿。伸ばしたというより単に切っていないだけであろう長めの黒髪を整えれば、甲高いとも言える声と合わせて性別がわからなくなりそうだ。
「大丈夫か、と言われると難しいですね。取り敢えず傷は塞ぎましたが」
 その言葉にナランチャは眉を寄せてジョルノ越しにミスタを見た。
「怪我、酷いの? 立てる?」
「いや怪我は……多分立てる」
「ミスタ、急に立たないで下さい。少量だが血が出たので貧血になるおそれが有る」
「俺貧血とか起こすタイプだったのか?」
 すっかり頭痛も治まっているし見た目だけでいけばジョルノこそ貧血に倒れたりしそうだが。
 鏡が無いので顔はわからないが、見下ろす手足は充分に健康そうな18歳男子のそれらしい。
「ミスタが貧血になったなんて聞いた事ねーぞ」
「どちらかというと血の気の多いタイプですね」
 散々な言われようだ。
 ならば大丈夫だろうと――それでも勢いは付けずゆっくりと――立ち上がる。
 次いでこちらに背を向ける形で立ち上がったジョルノは兎も角、姿勢を正して呼吸も正すべく大きく息を吸うナランチャとはかなり身長差が有った。
「えーっと、ナランチャだっけ?」
「何?」
「お前俺の弟か何かか?」
 ミスタとジョルノの間には確かな年齢差が有り丁寧な言葉を使ってきているが、ナランチャはジョルノと同じかもう少し下なのに口調も態度も砕けている。
 ナランチャは弟でジョルノはナランチャが学校で作った友達、紹介されてから気が合い今に至るのでは。
「はァ? ミスタ、何言ってんの?」
 どうやら違うらしい。そもそも兄をファミリーネームでは呼ばない。
「2人が隠れてる所の鉄材崩されたのに、放ったらかしで追い掛けてったの怒ってんの?」
「違いますよナランチャ、君の判断は正しい。君がこちらに来たところで何も出来ない。それよりも追うべきだ。君のスタンドの二酸化炭素を探知出来る能力はこういう場合非常に役に立つ」
「でも車に乗られちまって、捕まえられなかった」
 何度も深呼吸した後なのにナランチャは盛大に溜め息を吐いた。
「あいつは工場の中に入って行ったのに?」
「窓から飛び出たと思ったらそこに車を停めてやがったんだ。車にエアロ・スミスぶち込んだら大変な事になるから……走ったって追い付けねぇしさ」
「確かに」
「今日の任務は失敗」
 両手を頭の後ろで組んだナランチャが唇を尖らせる。
「ただの失敗じゃあなく大失敗です」
「そこまで言う事ねーだろ! ジョルノ冷たい」
「ミスタが記憶障害を起こしました」
 その言い方こそが冷たい響きを含んでいた。
「きおく、しょーがい?」
 瞬きを2度してナランチャがこちらを見てくる。
 この子供に今の状況を説明するのは難しそうに見える。ジョルノは頭の回転が速いようだが、ナランチャは回し始めるのが中々に遅そうだ。
「全部忘れてしまったんです。僕の事も君の事も、何もかも任務の事も」
「えーっと……?」
「だから先刻変な事を言ったんです。君が弟じゃあないかとか」
 言い終えてジョルノがこちらを振り向いた。
 色素の薄い目がじっと見詰めてくる。
「……あーっと……言う通り何も覚えてねーからオメーらの言う任務ってのもわからねぇっつーか、俺達一体何やってたんだ? その任務ってやつが失敗だとして、これからどうすりゃあ良いんだよ」
「大丈夫、僕がずっと側に居ます。何も心配は要らない」
 ぴしゃりと言い切られて、しかし妙に安堵した。
「どうあれ奴はナランチャの顔を覚えて逃げた、という事実は変わらない」再びナランチャの方を向き「失敗にして完全な手詰まりだ。一旦事務所に戻りましょう」

 目的地がどこかわからなかった。目を開ける前の記憶が無いからというよりは、2人が「事務所」とも「アジト」とも表現するからという理由の方が大きい。
 事務所なら会社員か何かだろうと思うが、前を歩く2人は見てくれが完全に子供で、揃って中学生位だろう。
 逆にアジトなら何らかの組織の仲間という事になる。犯罪組織を連想させる響きだが、こちらの方が中学生達と18歳の自分とが共に所属している雰囲気が有る。
 そんな事を考えながら2人より数歩後ろを歩いているミスタは猫の鳴き声を聞いた。
「……ん?」
 真横の民家の塀の上に黒猫が1匹、行儀良く座っている。
「猫ねぇ。オメーは良いよなァ、昼寝が仕事なんてよ」
 立ち止まり声を掛ける。かなり高い塀なので丁度良く猫と目を合わせられた。
「そこがオメーの家なのか?」
 にゃ、と短く鳴いて猫は立ち上がる。
「違うのか。どこに住んでんだ?」
 互いに言葉がわかる筈も無い。ミスタは怯えさせないように伸ばした人差し指をゆっくりと猫の顔に近付けた。
 すんすんと匂いを嗅いで1度舐めて。旧知の仲のような懐っこさなのでその人差し指で額をくすぐるように撫でる。
「ミスタ、置いてくぞッ! ったく、うちの猫に何やってんだよ」
「こいつお前が飼ってんのか?」
「そうじゃあないけど」ナランチャが小走りに駆け寄り「よくうちのビルに居るじゃん」
「ふーん?」
 そうなのか、と猫自身に問いながら人差し指で顎の下を撫でるとゴロゴロと喉を鳴らした。
「変わりませんね、猫と会話する所」
 少し先でジョルノは振り返り、やや呆れたような表情でこちらを見ている。
「ミスタよく猫と喋ってるもんな、返事も貰えねーのに。ほらお前も一緒に帰るぞー」
 やや舌足らずに間延びした声で話し掛けながらナランチャは両手で猫を持ち上げた。
 大事そうに抱き上げられて猫もナランチャの胸に顔を擦り付けていたが、何か音でもしたかその顔を上げ、ぴょんと腕から飛び降りた。そのまま3人が来た道へ逃げるような速さで駆け去ってゆく。
「あー行っちゃった」
「いきなり持ち上げられたら猫は逃げるっつの」
 嫌がる素振りは見せなかったが、根がのんびりした猫でワンテンポ遅れて驚いたのかもしれない。
「あいつは嫌がんねーもん! っつーかミスタさ、記憶喪失ってやつなのに、他の猫が触ると怒るのは知ってるんだな」
「そりゃあ猫は――」
 ナランチャの言う通りあの廃工場で目を覚ますより過去の記憶は無いくせに、無駄にそんな知識は残っているようだ。
 思えばイタリア語を理解しているし、右足と左足を交互に出す歩き方も出来ている。『記憶』という物は随分曖昧に出来ているんだな、と思うと同時に額の中央辺りに鈍い痛みが走った。

「記憶喪失?」
 デスクに向かう椅子に座ったまま、書類とそこに押す判を手にしたまま、リーダーなのか上司なのかわからない男は顔を上げた。
 二十歳かそこらの若い男はボブカットのような特徴的な髪型も似合う精悍な顔立ちをしている。
「そうなのか? ミスタ」
「はぁ……多分……」
 殊更目付きが鋭いわけでもないのに真摯に見詰められると射抜かれてしまいそうでミスタは1歩後退った。
「僕の責任です」
 代わりと言わんばかりに左に並び立っていたジョルノが1歩前へ踏み出す。
「鉄筋の当たり所が悪かったのはお前の所為じゃあない」
 右隣のナランチャは任務の失敗を叱られないかとびくびくしつつ黙り込んでいた。
 何もしてやれないのでチラチラとこちらを見るのは止めてほしい。
「ミスタは僕を庇ってくれました」
「俺が?」
「そう言えば礼を言ってなかった」顔をこちらに向け「何よりも僕を優先して守ってくれて有難う。お陰で怪我1つ有りません」
 積み重ねておいた鉄材が崩れる場から庇い助けるとは、己は随分と勇敢な人間だったらしい。
「ブチャラティ、ミスタの身体能力の高さや危機察知の鋭さは貴方も知っている筈だ。僕を『抱き庇う』なんて真似をしなければ降ってくる鉄筋なんて掠りもしないで避けられる」
「状況を見ていないから正確な所はわからないが」
 ブチャラティと呼ばれた男は嘘か否かを見抜けそうな視線をジョルノに向ける。
「お前が言うならそうなんだろう。だがもしその理由で怪我をして何も思い出せなくなったとしても、お前に責任が有るわけじゃあない」
 ブチャラティのいやに人を惹き付ける声にナランチャがびくりと肩を強張らせた。
「オレが……失敗したから……ちゃんと取り引きするフリしてた時に捕まえられてたら……」
「それこそナランチャではなく僕の責任です。僕とミスタの2人が背後に付けば、と提案したのは僕だ。まさか尾の要領で動くスタンド能力が有るとは思わなかった」
「やはりスタンド使いだったのか」
「でもオレが走って追い掛けてる時は使わなかったぜ」
 不慣れなのか暴走しているのか無意識なのかと呟き考え込むブチャラティの思考を遮るように、ジョルノががばと腰を折らん勢いで頭を下げる。
「ミスタの記憶が戻るまで僕が全力で、全身全霊をかけてミスタをサポートします」
「ジョルノ、顔を上げろ」
「記憶が無くてもミスタはミスタです。もしも記憶が戻らなかったとしても、僕が支えきってみせます。どうかこれを組織への裏切り行為だと認識しないで下さい」
 ブチャラティがわざとらしい溜め息を吐き、もう1度「顔を上げろ」と言ってもジョルノは微動だにしないし、部屋の空気はすこぶる重たいまま。
 連れてこられた事務所(アジト)は郊外に有った。路面店舗は小じんまりとした喫茶店のテナントビルで、その2階フロアのほぼ全面だった。
 階段を上ってすぐの、看板等は特に掲げていない扉の中。一体何の事業所なのかブチャラティが1人デスクワークをしていた。他の人間は留守にしているのか他には在籍が無いのか。
「俺も組織の人間も、上層部なら皆ミスタを組織から追い出そうとは思わない。何故なら対抗組織に所属されては困るからだ。敵にはさせられない」
 随分買われているんだな、と思った所で漸くジョルノが頭を上げた。
「本人が抜けたいと、組織と関わりを一切持ちたくないと言うのなら別だが。顔と名前を変える手配はこっちでしてやるが、記憶の無い状況じゃあ「何を言っているんだ」と思っているだろうな」
 ブチャラティの口の端に笑みが乗る。
 皮肉のつもりかもしれないが、言われた言葉は遠回しにでもこちらを気遣って聞こえたので悪い気はしない。
「1つ確認したい」顔を動かさず、目だけを右に向け「今のお前には『これ』が見えるか?」
「これ?」
 ブチャラティが目を向けた先には特に何も無い。ブチャラティ自身にもこれといって変化は無い。
「……どれ?」
「見えていないんだな」
「記憶喪失ってやつになるとスタンドも見えなくなっちまうのかぁ」
 ナランチャの口から例の単語、スタンドが出た。
 今ブチャラティの隣にスタンドとやらが有る、もしくは居るのだろう。そしてスタンドはミスタ以外には見えている。
「スタンドは一種の超能力みたいなものです。スタンド能力を持つ者にはそのヴィジョンが見える」
 ジョルノがやや早口で囁いてきた。
「何もかも忘れる前の俺は見えていたし、超能力も使えていたっつーわけか」
「6人の個性的なスタンドでした」
 超能力と呼ぶのに数え方は6種類ではなく6人という辺りに違和感が有った。
「ミスタ」名を呼ばれたので改めてブチャラティの方を見ると「お前は明日オフだ。ゆっくり休んでくれ」
「はぁ……」
「今日の仕事は失敗に終わった。だがナランチャ、奴はお前に売り付けようとした。間違い無いな?」
 ナランチャはうんと大きく頷いた。
「興味本意の学生に販売ルートを繋ぐような腐った組織をこのまま見逃してやるわけにはいかない」
「ブチャラティ、多分だけど車に沢山積んでる。あの車はアイツだけの車じゃあない、会社とか学校とかの皆で使ってるやつだ」
「そうか……計画は練り直す。絶対に突き止めるぞ!」
「はいっ!」
「おうっ!」
 ジョルノもナランチャも声を重ねて気を引き締める。
 結局どんな仕事をしていたのかもわからないし思い出せないままのミスタだけが返事を出来ず、取り残され置いていかれた気分だった。
「お前達の今日の仕事は終わりだ。もう帰って良いぜ」
「ブチャラティ、オレ手伝うよ」
 数歩だけ駆けてブチャラティの隣に立ったナランチャはデスクの上の書類を覗き込む。
「フーゴが重要な物だけをまとめておいてくれたから、後は判を押すだけだ」
「そうだ、フーゴ未だなの?」
「連絡は無いな。今年度の分をまとめて持ってくるだろうから、去年度の赤いペンでチェックの入っている物を全部シュレッダーに掛けてもらえるか?」
「わかった!」
 言ってナランチャは元気良く事務所内の奥に有るキャビネットへと走った。
 ブチャラティが勤務日を決めている、少なくとももう1人は働いている、自分達は恐らく下っ端に過ぎない――大した情報量ではない筈なのに頭痛がしてミスタは軽く額を押さえる。
「ミスタ」
 違和感の有る程すぐ近くに立っているジョルノがやや上目がちに見てきていた。
「一緒に帰りましょう」
「……一緒に?」
 方向が同じなのか、家が近いのか。
 それとも先の言葉通りどこまでも面倒を見てくれるつもりなのか。
「自分の住んでいる家の場所も覚えていないでしょう?」
「家の中もどうなってるかわかんねぇな」
「僕が泊まりますから、何がどこに有るか覚える所から始めましょう。寝て起きて記憶が戻っているとは限らない」
 そんなご都合主義な展開は有り得ない。期待してはならないとわかっている。
 しかし頭の片隅では願っていた。ジョルノとはその辺りを見抜かれる位の関係らしい。

 繁華街を抜けて歓楽街を抜けて、住宅街の一角に住まいとしているアパートは有った。
 古くはないが新築と呼べる程でもない、これといった特徴の無いアパート。ジョルノに促されポケットに入っていた鍵でドアを開けて中に入る。
「た、だいま……」
「言い忘れていましたが一人暮らしですよ」
「何だよ、誰も居ないのか」
 いつの間にやらしていた緊張が一気に解けた。
 18ともなれば恋人と同棲しているかもしれないとか、よくわからない仕事に就いているので金が無く親元の可能性も考えてはいたのだが。
「男の一人暮らしにしちゃあ綺麗だな」
 床には脱ぎっ放しの服も食べ終えたデリバリーの箱も無い。
「でも暫く『掃除』はしていないみたいですね」
 確かに少しだが空気が埃っぽくはある。
「掃除機の場所わかんねーからよォ、ジョルノ代わりにやってくれ」
 軽口を叩いて笑いを返されて、ミスタも笑いながら被りっ放しだった帽子を外した。
――ゴト、ゴトン
 幾つかの鈍い金属音。妙に寒気のするその音を発した足元に目を向ける。
「何、だ、これ……銃弾……?」
 拳銃に込めて使う、映画やテレビドラマなんかで見る――尤も見た記憶は無いのだが――小さな金属が6つ転がっていた。
 頭痛は治まっても何と無く頭が重たい気がしていたが、まさか帽子の中に弾丸が入っていたとは。
「床に落とさないで下さいよ」
 大して咎める気も無さそうにジョルノは片膝を付いて拾う。
 事務所のトイレを使った後、手を洗いながら鏡を見た。映った顔は見覚えは無いがどこにでも居そうな18歳のイタリア人男性。
 強いて言うなら人より少し背が高く、人より少し細身で、なのに体は重たい気がしていた。
 弾丸を6つも頭に乗せていれば多少は重たい筈だ。しかし何故、何の為に? そして重たいのは頭だけではない――
 ミスタは慌てて左腕の袖を捲り上げる。ごとんと音を立てて弾丸が3つ。
「くそッ!」
 今度は無駄に慎重に、腕捲りをしたままの左手で右の袖をゆっくりと捲る。
 同じく3つの弾丸が床へと落ちた。
 一体どういう事だ?
 心臓がバクバクと煩く音を立てて思考の邪魔をする。
 未使用の弾丸計12個を服に隠し持ち歩く一人暮らしの人間。自分はどれだけの不審者なのだろう。
「ミスタ」全ての弾丸を拾い、立ち上がったジョルノは「右のブーツの内側」
「ブーツの……内側?」
 屈んで言われた箇所に目一杯指を伸ばした右手をそっと近付けた。
 指先に冷たい金属が触れる。
「……まさ、か」
 自分の手に合わせて作られたと錯覚しそうな握り心地が抜群に良いグリップに手を掛けて『それ』を引き抜いた。
 黒い回転式自動拳銃。既に全て込められている弾数は6。口径は目測――
「――何でそんな事までわかるんだよ!」
 常人が手にする事のほぼ無いリボルバーに関する記憶は無い。しかしより深い所に知識として刻まれている。
 人を殺す為の道具を手にしている、持ち歩いていた事実に呼吸が早く浅くなる。このまま死んでしまうのではないかと思う程に。
「俺は、一体、俺は何者なんだよ! 人殺しか!? なぁおいッ!」
「落ち着いて下さい」
「お前はこれで撃たれたらって思わねーのか!?」
「思いません」
 至極冷静に言い切ったジョルノは拾い上げた12の弾丸を、バラバラと音を立てて近くのダイニングテーブルに置いた。
 空けた両手で左手を優しく包んでくる。
「貴方が僕を撃つ筈が無い」
 静かな物言いをされては手を汗ばませているのが恥ずかしい。
「貴方が人を撃ち殺した事が無いとは言いませんが――」
「だったら!」
「殆どは足止めに使う。僕のスタンドは傷を塞ぐ事が出来る。貴方が体のどこかを撃ち、然るべき物や情報を得てから僕が治す、というのが僕達の主な仕事」
「仕事? 人間撃つのが俺の仕事なのか?」
「僕達はギャングです」
 なんだ、そうだったのか。
 一瞬納得してしまった。見るからに子供のジョルノやナランチャ、誠実で親切そうなブチャラティにはギャング等という社会の底辺は不釣り合いなのに。
 しかし自分にはきっと似合っている、と思った。
「顔こそ余り知られてはいませんが『拳銃使いのミスタ』として名前は広まっている。交渉事の際に貴方が居るだけでも色々と牽制出来る」
 だが実際に撃つ事も有るし、怪我をさせる事も殺してしまう事も有る。
「……組織を抜けますか?」手を引き胸元に寄せ「ブチャラティの言った通り貴方が抜けたいのなら誰も止めない。止められない」
「ギャングを辞めて……俺に何か出来る事は有んのか?」
 自分の姿やこの部屋を見る限り会社員として働けそうにはないし、特別な資格を持っているようにも思えない。
「探せば良い」
「記憶もねーのに見付かると思うか!?」
「出来る事を僕も一緒に探します。同じギャングチームであってもなくても、記憶が有っても無くても、僕は貴方と共に居ますから」
 手を握り締められたまま真摯な眼差しを向けられてミスタは黙り込む。ジョルノは決して優しそうとは言い難い顔付きをしているのに、手を胸に抱いて(いだいて)見詰めてくる様子に何故か心が安らいだ。
 右手に持っていた銃を真似るようにダイニングテーブルに置く。
「明日は休み、っていうのは……明日中にどうするか決めろ、って意味だったのか」
 人を殺し続けるのか、別の道を探すのか。
「何も覚えちゃあいない俺に選べって、そりゃあ無茶な話だ」
「ミスタ、食事にしましょう。貴方の気に入っている店に行きましょう。好きな物を食べれば何か思い出すかもしれない」
「そんなんで思い出せたら楽なんだがな」
「殴ってみる方が効果は有りそうですね」
「止めろよ、お前絶対本気で来るだろ!」
 冗談交じりに言ったが半ば焦りは有った。
 目の前のにやと笑う少年がそんな性格をしている、という事も忘れている筈なのに。
「その銃が『怖い』なら置いていけば良い。繰り返しになりますが、貴方がどんな道を選んでも、例え選ぶ事が出来なくても、僕が貴方を守りますから」

 寝室は遮光カーテンで隙間から辛うじて射し込む朝日が寝起きには丁度良い。
 ミスタは上半身をむくりと起こして伸びをした。
 体の疲れは抜けている。が、昨日廃工場前で目を覚ますより前の記憶もまた抜けている。
 寝て起きたら思い出すなんてそう都合良くいく筈がないと言われた事は覚えている。全く以てその通りだ。
「……ジョルノ」
 新たに蓄積し始めた記憶の中で最も多く使った『単語』が彼の名前。
 そういやジョルノはどうしたんだった?
 ベッドを見下ろせば左隣に居た。視界に入れるより先に気配に気付いてはいた。
 こちらに背を向けて、貸したサイズの大きな寝間着――どこに有るか共に探した――で、すやすやと寝息を立てている。
 男2人で同衾するのは有りなのか、と一晩しっかり寝た今でも思う。信仰する宗教が認めないのでは。果たしてどんな神を仰いでいたかはわからないが。
 昨晩はこちらが早々に眠ってしまったので正確にはわからないがなかなか寝付けないようだった。呼吸の音が重なる中でジョルノは何度も体を動かしていた。
 それが今やすっかり深く寝入っている。手を伸ばして頭を撫でても起きやしない。
 金の髪は柔らかい。
「よい、しょ」
 掛け声を付け跨いでベッドを降りてもジョルノは起きない。
 ナイトテーブルの上で充電器と繋がっている携帯電話を手に取る。
 時刻は朝よりも昼に近い。日頃何時にあの事務所へ行くのかわからないが、恐らく今から向かっても遅刻になるだろう。
「そんなに夜更かししたつもりねーんだけどなァ」
 ボリボリと後頭部を掻きながら、あたかも一般人の素振りをしながら。
 しかしミスタは気付いている。充電器の隣に何の気無しにリボルバーが置かれている事を。
 昨晩持ち歩かなければ良いと言われたが手放すと逆に落ち着かず、結局拳銃はブーツの内側に隠し直して身に付けたままだった。
 予備の弾丸は置いていったとはいえ、既に6発分の弾が込められている。
 右手を伸ばして持ち上げた。生き物を殺す為の道具なのに異様に手に馴染む。ナイトテーブルに置き直すとごとりと重たい音がした。
「今日は……休みらしいからな」
 自分でも意味のわからない言い訳をしてからベッドを振り返ると、ジョルノの寝顔がこちらを向いている。
 あどけない、といった表現が真っ先に浮かぶような幼い寝顔。
 大人ぶろうと未だ子供――果たしてジョルノは何歳なのだろう。見た所中学生位だが、となると学校に通っているのではないか。
 腰を屈めて顔に顔を近付ける。白い肌の産毛が見えそうな程の距離まで近付いても、一体何の夢を見ているのか目を覚ます様子は無い。ミスタはその鼻を摘まんだ。
「おいジョルノ起きろ。お前学生じゃあないのか」
「ん、んん……」
「ギャングチーム入って学校辞めたのか?」指を放し「もし未だ在籍してんなら遅刻だぜ」
「……学校は休み……」
 明らかな嘘を吐き目を開けもしないまま、寝返りを打ち背を向ける。
「取り敢えず起きろよ、朝飯食おうぜ。俺腹減った」
「あと1時間……」
「1時間は図々しいだろ。5分とか言えねーのかよ」
「ん……1時間後には……起きますから……多分」
「保険掛けんな」
「ミスタ、臭い……」
「はァッ!? お前朝から滅茶苦茶失礼だなッ!」
 直球過ぎて傷付いた。
「シャワー入ってきて下さい……」
「そんなに……いやわかった、顔も体も頭も洗ってくる。俺が戻ってくるまでに起きろよ」
「……多分」
 起きる気の一切無さそうな返事をして布団を頭から被る。
 ミスタは溜め息を聞かせてから使い勝手のよくわからない浴室へ向かった。まさか上がる頃にはジョルノが寝坊したとは思わせない程すっかり身形を整えていると、この時は夢にも思わなかった。

 ジョルノ曰く『ブランチ』を取りに徒歩圏内の店に2人で来た。
 本日1食目なので朝食と呼びたいだけの昼食にチーズフォンデュ、更にワインまで合わせるのは如何(いかが)なものか。
「ラクレットでしたっけ? このチーズかなり美味いですね」
「チーズだけでも食えるな」
 男同士だからか店内の奥の方の席へ通された。向かい合って小さな鍋をつつく図はさぞ滑稽だろう。
「チーズ追加しましょうか?」
 表情には出していないが声がやや弾んでいる。かなり機嫌は良いらしい。
 具材はパンの他に芋、鶏肉、何が練り込まれているかわからないニョッキが数種類で、どれもチーズ味にされてしまうからか赤ワインによく合う。
「……お前ベジタリアン?」
「え?」
「肉食ってねーじゃん」
 違和感はそこだ。ジョルノは芋を中心に選んでいた。
「アレルギーか何か有るのか? 悪いけど俺そういうの何も覚えてねぇんだからな」
 もしも自分にもアレルギーが有ったらと考えると恐ろしい。記憶とは別の所で理解していて避けられれば良いのだが。
「ただの好き嫌いです。鶏肉が苦手なんです。繊維を食べている感じがして」
「そんなんじゃあデカくなれねーぞ」
 どうやら気にしているらしく、わかりやすくムッとして見せる。
「たんぱく質は牛肉で取っていますから」
「ふーん、牛肉は食えんのか……俺お前の事何も知らねぇな」
「自分の事も、でしょう。貴方牛肉の内臓系も食べる人ですよ」
「そうなのか……お前は? 食い物じゃあ何が好きなんだ? チーズ?」
 だからこの店に来たのか、はたまたミスタが忘れているだけでいつか来ようと約束でもしていたのか。
「チーズも好きですが」焦げ付かないよう小さなへらで鍋の中をかき混ぜ「タコが好きですね」
「なかなかに贅沢だな」
 国によってはタコよりもマグロ辺りが高値で売られるが、イタリアではそれなりの価格が付けられている。という事は無駄に覚えていた。
 昼間からワインを煽る姿も様になっているし、裕福な家の出なのかもしれない――嗚呼本当に、ジョルノの事を何も知らない、覚えていない。
「お前朝学校は休みって言っていたが本当に学生なのか?」
「そうですよ」
「ギャングと学生の掛け持ちかよ。あのちっこいナランチャも学生か?」
「彼は進学していません」
 ミスタは残り少ない緑掛かった色のニョッキと沢山残っている鶏肉とをまとめて2つピックに刺した。チーズの鍋へ入れて掻き混ぜて絡め、大きく口を開けて頬張る。
「ブチャラティは俺より年上っぽいし学生じゃあなさそうだな」
「20歳です」
「俺は18だっけ」チーズを大量に絡めて口に運び「あれ、お前は幾つだ?」
「幾つだと良いですか? その年です、と嘘を吐きますよ」
 口の中の物を飲み込んでから話せと言いそうなジョルノだが楽しそうに目を細めた。
「どう見ても年下だし15かそこら……ん? チームで年上なのはブチャラティだけか? 他にもう1人居るよな。名前何だっけ」
「口に物を入れたまま喋らないで下さい」
 今言うのか。
「記憶を失くしてからアバッキオとフーゴには会っていないんでしたね」
「そうそう、それそれ。確かフーゴっつってたな。もう1人は――」
「アバッキオ」
「どんな奴なんだ?」
 嚥下した後なのに何故か溜め息を吐かれる。
 見た目に反して感情の触れ幅が大きいらしいジョルノは「全員スタンド使いです」とつまらなさげに答えた。
「チームリーダーはブローノ・ブチャラティ。13、いや12歳だったかな。その位の年の頃にギャングに堕ちています。彼のスタンドは近距離パワー型。ジッパーで色々と出来る。初めて会った時は僕も色々されました」
 どういう事かよくわからないが続きを促す。
「最初にチームに入ったのがパンナコッタ・フーゴ。年や背は僕と殆ど変わらないんですが、飛び級した大学で問題を起こしてギャングまで落ちぶれたそうです。彼のスタンドは毒を振り撒くから危険で滅多に出さない」
「毒? スタンドって超能力は食ったらヤバいのか」
「スタンドを食う、という発想は斬新だ」
 そう言ってジョルノは芋にチーズを少し乗せて口へ運んだ。
「お前のスタンドは?」
 機嫌が戻ったのか芋をごくりと飲み込んだ後にその口元を微笑ませる。
「僕のスタンドは食べられませんよ。僕と同じ位の大きさをした、人の形をしたスタンドですから」
「へぇ……」
「髪がこの色になった頃とほぼ同時期に姿を認識出来るようになった」
 癖の強い前髪の1房を撫でた。
「髪染めてんのか? その頃って何年前……いや、その前に他の奴の事を教えてくれ」
「……フーゴがナランチャを拾ってきました。ナランチャ・ギルガ。彼のスタンドは機銃なので貴方よりも余程人を殺す事に特化している」
 人の形をしているとは限らないらしい。
「それからレオーネ・アバッキオ。彼が最年長で背も1番高い。まあ元警官なのでかなり顔が割れていますが」
「ポリ公がギャングねぇ……」
「その次に入ったのが貴方、最後に入ったのが僕です。直近の先輩と後輩の関係なんですよ」
 遂に皿には鶏肉しか残っていない事に気付いたジョルノは何も刺していないピックを鍋に入れる。
「近い時期に入りスタンドの相性もすこぶる良い。貴方が忘れてしまったのが残念な位に」
 そんなコンビの片割れが今や使い物にならないとくれば、付きっきりで記憶を取り戻そうと躍起にもなるだろう。
 戻らなくても味方だ等色々言ってくれてはいるが。ジョルノはピックにぐるぐると巻き付けたチーズを口に含んだ。
「そうだ、今の内に寮から服を持ってこないと」
「寮?」
「僕は学生寮に入っています」
 昨日泊まったのは無断外泊にならないのだろうか。
「食器やシャンプーなんかは昨日同様貸してもらえればそれで良いんですが、下着は流石に……服もサイズが違うから寝間着以外は持参しないと」
「今日も泊まるのか? 寮は大丈夫なのかよ。学校だって」
「貴方が日常生活を問題無く送れるようになる事が第一、寮も学校も全部後回しで良い。ああ服で思い出した、洗濯物が溜まっていましたね。洗濯機の使い方は『覚えて』いますか?」
「一応『わかって』いるぜ」
 ミスタは鶏肉をまとめて2つピックに刺し、そのままチーズを付けずに食べる。
 確かに部位によってはもそもそともパサパサとも言える食感をしているし、逆に部位によってはジューシー過ぎて胃凭れを起こしかねない。しかし充分に美味しい。肉は好きだし恐らく昨日以前も好きだっただろう。
「荷物を運ぶの、手伝ってもらえますか? そんなに沢山貴方の部屋に持ち込むわけではありませんが」
「良いぜ」
「助かります。食べ終わったら学校へ行きましょう。僕の通う学校を今の貴方が見たらどう思うだろう。それと洗濯は1人で出来そうですか? 僕はその間事務所へ行きたいんですが」
「事務所ってギャングの?」
 至極当然だと頷く。そして再びピックをチーズの鍋に入れて掻き回し始めた。
「貴方は休みでも僕は休みじゃあない。でも学校から直接来ました、という顔をしておけば何とかなる」
 美味そうにチーズだけで食べる顔は綺麗だし可愛らしい。策士と思わず「ジョルノの指示に従えば未来を違えない」という解釈も出来る。
 恐らくそうしてコンビを組んで生活してきたのだろう。ミスタはジョルノがチーズ料理にはこれが合うと注文した香りの強い赤ワインを飲み干した。

 洗濯洗剤を入れる事はわかる。しかし洗剤がどこに有るかわからず苦戦した。
 壁の薄い――と思う。隣の住人のドアの開閉の音が微かだが聞こえた――アパートで中途半端な時間からの洗濯は近隣に迷惑かもしれないと思ったが取り敢えず苦情は無かった。
 普段からこの時間にしているのか、いつもは朝からしているのか。休みの日にまとめて大量に回しているのかもしれない。
「休みって何してたんだろうな。そもそもいつが休みなんだよ」
 ソファにだらしなく座り、夕方という時間帯特有の大して面白くもなさそうな古い映画を放送するテレビを見ながら独り言を漏らす。
 24時間近く過ごしても記憶は戻らないので自分がどんな人間か未だわからない。
 早くジョルノ帰ってこねーかな。
「……飯でも作って待っているか」
 ソファの肘掛を掴んで立ち上がる。食材は何が有るか、何より調理器具はどこに有るか探す所から始めなくては。
 ジョルノに美味しいと言わせ笑顔を引き出す事を最終目標に据えて。
 生活していく上での全てを教えてくれているも同然なのだから感謝を形にして伝えたい。テレビを付けたままでミスタはキッチンへと向かった。
 男の独り暮らしにしては冷蔵庫の中身は潤沢している。ギャングは金にならず自炊を欠かせないのかもしれないと思ったが、それにしては財布の中身も充実していた。尤もあれが全財産かもしれない。
 冷蔵庫にラップに巻かれた牛肉がごろんと入っていたのでそれをラグーソースにし、キッチンの上の棚に大量に入っていたスパゲティの乾麺を茹でてそこに掛ければきっと食べ応えが有る。
 それに冷凍室には切り落とし状のタコが入っていた。どうやって食べるつもりだったか知らないが、冷蔵庫横の段ボールに適当に入れられていたサニーレタスと混ぜてサラダ風にでもすれば良いだろう。
 サニーレタスのみでは文字通り味気無いだろうが、アンチョビを乗せてオリーブオイルを掛けてしまえば美味しく食べられる筈だ。
 料理をしてきた記憶は無いが、料理をするにあたって必要な知識は欠如していない。
「忘れるって怖ぇな……」
 この言葉すらも忘れてしまったらどうなっていたのだろう。失ったのが記憶だけというのは恵まれている方なのか。
 そんな事を思いながら火に掛けた鍋を掻き混ぜていると電子音が鳴った。
「何だ何だ? 着信音? 電話か?」
 応える者は居ないので火を消してダイニングテーブルに放り置いた携帯電話を見に行く。
 鳴り止まない携帯電話のディスプレイには『アバッキオ』の文字。
「……あ、チームの奴か」
 確か最年長で背の高い元警察官。
 ボタンを押し通話モードにして耳に当てた。
[今大丈夫か?]
 挨拶も誰が出たかの確認も無い。
「大丈夫」
[明日の任務の事なんだが]
 休みは今日だけらしい。
 電話を通してもきちんと聞き取れるが声はかなり低い。一体どんな顔をした男なのだろう。
[出んのか、明日も休むか、それとも……チームを抜けんのか。どうする?]
「どうするったって……」
 何も知らないままでは何も決められない。
 働くとも休むとも辞めるとも言えずに黙り込むミスタの耳が「あ」と低い声を聞く。
[記憶喪失ってやつは昨日やった仕事の内容も忘れているのか]
「失敗した事しか知らねーな」
 だから決められない。明日を選べない。
[今回の任務は学生に麻薬を売り捌いてる組織の殲滅。っつっても余りデカい所じゃあない。売人がほぼ無差別に声を掛けているから先ず買うフリをして接触する、という予定だったんだが囮(おとり)のナランチャが逃がしちまった。ここまでが昨日の流れだ]
「囮捜査?」
[捜査じゃあねぇだろ。で、今日早速フーゴが明日午後に約束取り付けてきた。買いそうな学生には本気で片っ端から流すらしい]
「ふーん。で、俺何すんのが仕事なんだ?」
[昨日と同じだ、ジョルノと組んでとっ捕まえろ]電話の奥で1つ溜め息を吐き[ブチャラティはもう殺しちまっても良いと言っている]
「殺す……」
 急にブーツに隠しているリボルバーの存在を思い出した。
 今日は昨晩と違い有った所に入れておこうと言い訳をして予備の弾丸も持ち歩いた。何なら今も帽子に袖に隠している。
 使いもしないのに――否、使うのだ。この『任務』を引き受ければ、明日人を殺しに行く事になるのだ。
「……やるわ」
 気付いた時にはそう答えていた。
 それから取り引きの場所を聞いた気がする。最後に「ジョルノにはこっちで、戻ってきたら直接言う」と言っていた。その所為でジョルノに聞けば良いだろうと脳味噌が判断してしまったらしく詳しくは覚えていない。
 自分に人を殺せるのかと考えると答えは出ないが、人体を撃ち抜けるのかと問われれば答えはYesだ。無駄にその自信は有る。
 昨日失敗したのは殺してはならないと言われていたからではないか、とすら思えてきた。
 電話を置いてキッチンに戻り火を付けて。ラグーソースが完成する頃にはタコも自然解凍されているだろう。
 もっと小さい方が食いやすいか? となると、凍ったままの方が切りやすかったよな。
 そんな事位しか頭に浮かばない。これが昨日殺しそびれたから明日改めて殺しに行くと仕事を引き受けた人間の考える事であって良いのか。
「牛肉は食えるってだけで好きじゃあないかもしれねーな。今のアバッキオはどんなもん食うんだ? ブチャラティもナランチャも、もう1人のフーゴだっけ? 中にはギャングのくせしてベジタリアンの奴が居たりして」
 遂にはくつくつと笑いも浮かぶ。
「……いや本当に、何が好きなんだろうな?」
 ジョルノは余り人となりについては言っていなかった。
 スタンドを中心に話したのは他人の性格なんかは説明が難しいからだろう。アバッキオに関してはどんなスタンドかも聞いていない。それこそ複雑で説明するのが大変なのかもしれない。
 また食べながら話してくれるだろうか。仕事帰りで機嫌が悪く余り話さないだろうか。機嫌を損ねると口数が少なくなるタイプだと思う。
「早くジョルノ帰ってこねーかな」
 今度は声にも出した。それだけ1人はつまらなくジョルノの帰宅が待ち遠しい。

 インターホンが鳴ったので誰かも確認せずに急いで開けると予感の通りジョルノだった。
「ミスタ、ただいま」
「ああお帰り、お疲れ。アバッキオから電話有った。その時戻ってきたらっつってたけど、どこか遠くまで行かされてたのか?」
 大した事ではないと言いながら部屋に入ったジョルノがミスタの顔の前に長方形の箱を突き出す。
「お土産買ってきました」
「土産?」
「ボンボローニです。貴方が腹を空かせていないか心配で」
 小麦粉や牛乳、バターを大量に使う揚げ菓子。穴を開ければドーナツと呼ばれるであろう、円形で中にクリームを入れて砂糖を塗した高カロリーの物。
「飯なら作っといたぜ。後はスパゲッティを茹でるだけの所まで」
「僕の分も?」
「当たり前だろ」
 今日も泊まるのだから。今日も家ならぬ寮に帰らなくても大丈夫なのだろうか。
「有難うございます、じゃあこれはそのお礼です。夕食の後に食べましょう。いや、これから茹でるならその間に摘んでも良い」
 わかりやすく弾んだ声音にこちらまで嬉しくなった。
 どれどれ、と言いながらジョルノが持ったままの箱の蓋を開ける。
「これ……」
 中には2種類が2つずつの、合計4つのボンボローニ。
「……何で4つなんだ?」
「何でとは? 貴方と2つずつ食べる為以外に何か有りますか?」
「いや……縁起悪いだろ、4なんて」
「何故縁起が悪いんですか? 中身、カスタードとチョコクリームですよ」
「だからって……4から1つ選ぶなんて……何でかわかんねーけど、多分良くない……」
 上手く説明出来ないが、悪い事が起こりそうな予感がしてならない。昨日以前の自分は4回目だとか4番目だとかで酷い目に遭ったに違い無い。
 それをジョルノにもわかってほしいのだが、依然として無表情のまま。
「じゃあ4は僕が、ミスタにとって縁起の良い数字に変えてみせます」
 箱の中からボンボローニを1つ取りミスタの口元へと近付けた。
「はい、どうぞ」
 何故か嫌な予感がひしひしとして、甘ったるい美味しそうな匂いに反して吐き気が込み上げてくる。
 意を決し目を閉じて、大きく口を開いてかぶり付いた。
「……美味い」
「でしょう? 何も怖い事なんて有りません」
 喉に詰まらせる心配をほんの少しだけしながらごくりと飲み込む。
 最初は味がわからなかったが咀嚼を続けて外側も砂糖だらけでしっかりと甘い事、中身が美味しいチョコレートのクリームである事、それから自分の1口が中々に大きい事もわかった。
「あ、チョコクリームの方だ」
 齧り付いた先を己の方へ向けて中を見たジョルノが赤い舌を伸ばしてぺろと舐め取る。
「おい!」
「このクリーム、美味いですね」
「お前なぁ……半分食うんなら1つずつ買うだけで良かったじゃあねーか」
 返事の代わりに再びボンボローニを向けられる。今度は黙れと言わんばかりに唇に押し付けられた。

 夕食の際には明日2人でする任務の事を、その後は今日ジョルノがしてきた任務の事を話した。恐らく明日はフーゴという仲間も共に行動する筈だが、彼の事を聞くタイミングを掴めないまま昨日よりも早い時間に就寝する事になった。
 昨晩同様ナイトテーブルの充電器に携帯電話を挿した後、その隣にリボルバーを置く。
 外に出る時に文字通り『身に付けた』弾丸を片手に集めていつもの場所へ片付けよう――と思ったが、いつもの場所等わからない。だが今朝取り出した場所、という意味ではわかる。ナイトテーブルの2つ有る内の上の引き出しを開けた。
 緑色の表紙の聖書が1冊、右に寄せて置かれている。
 左側には蓋を切り取られた箱が2つ並んでいる。仕切りにしているそれの手前の方には日々持ち歩く予備の弾丸が乱雑に、奥の方には買い付けたまま未だ触れてもいない弾丸が綺麗に納められていた。
「ミスタ」
 左にあるベッドから声が掛かる。
「明日は今日と違ってちゃんと起きなくてはならない。眠たくなくても布団に入って下さい」
「ああ……そうだな」
 ミスタは右手からばらばらと手前の箱に弾丸を落として入れた。
 まるで眠る前にはいつもしている事のような違和感の無さ。人を殺した日も手から落ちる弾丸の数が多少違うだけなのだろう。
 先にベッドに誰かが居るか否の違いは有るかもしれない。ちらと左に視線を向けると、ジョルノは横になり肩までしっかり布団を掛けこちらを見ている。
 視線を戻して上の引き出しを閉め、無意味に下の引き出しを開けた。
「お」
 更に予備の弾丸でも入っているのか思ったが、そこには開封済みのコンドームの箱が有った。蓋も開けっ放しでだらしがない。
 幾つか使った後なのは特定の相手が居るのか不特定の人間を連れ込んでいるのか。ギャングならば後者か? またはこうして友人を泊めた際に見栄を張る為か?
 更に奥にも何か有るのではと引き出しを文字通り引き出してみる。
「っ……」
「ミスタ? どうしました?」
 異性を連想させる物が入っている、などという事は無く。
 小洒落れたトランクのようなケース。中に入っているのは上に置いた物と同じ6発装填タイプのリボルバーだと記憶は無いのにわかっていた。
 弾丸だけではなく拳銃も予備を置いている。それだけ真摯に『仕事』をしている。
 どうやらグイード・ミスタという人間は手前にコンドームを置いて引き出しを開けた者を、他人であれ自分であれ欺こうとするお調子者の皮を被った人殺しらしい。
 記憶を取り戻す為には、もしくは記憶を失う前の自分に戻る為には。
「寝坊は出来ねーな」

「今回取引場所に指定された公園はそんなに離れていないから車を使え。つまり確実に捕まえろ、という事だがわかるな?」
 奥の窓に背を向け座るリーダーのブチャラティのデスクは何らかの書類が乗っているので事務所と呼ぶのがしっくり来る。
 しかし話を聞くべくミスタとジョルノが立っている位置からすると背後の入り口側に4つ――一昨日見た時は縁起が悪いと思ったが、今ならメンバーの数には1つ足りないと思う――並ぶデスクの上はアジトと呼ぶ方が似合う散らかり具合だった。
「売人が前回同様車で来ていたら、その車ごと持ってこい」
 ナランチャの見立てだが麻薬を積み込んで取引に赴いているらしい。しかし場所が違うので再び持ってくるとも同じ車で来るとも限らない。
「推測だが奴のスタンドは強いて名付けるなら自動発動型。他のスタンドが発動するのに合わせて発現し自動で攻撃する、といったタイプだろう。射程距離は最低でも10mで本体の後ろから生える。ジョルノ、間違い無いな?」
「間違いが無いとは言い切れない。だがまるで恐竜の尾のようなヴィジョンでした。本体の前を攻撃する時は恐らく、猫が尾を舐め繕う時体に巻き付けるように、ぐるっと後ろから持ってくる形になる筈だ」
「それだけ射程距離は短くなる」
「元からそれ程でもなさそうな威力も弱まると僕は思う。振るった事により強風が起きて、それが偶然積み重ねてあった鉄筋を崩しただけに見えましたから」
 記憶を失う直前まで見ていた男の持つ超能力の話をぼんやりと聞いていた。ミスタに必要な情報はそれではない。
「万が一その場でフーゴが麻薬を打たれたら、あるいは誰かしらが負傷したらジョルノが応急処置の為にスタンドを出す事になる。少しでも奴の攻撃に当たらないよう、奴の正面に隠れろ」
 正面に隠れるとはまた矛盾の激しい言葉に聞こえるが。
「つまり俺はそいつを真っ正面から撃つのか」
「一昨日は両手をと言ったが、もうそんな面倒臭い事は考えなくて良い。眉間を狙ってくれて構わないぜ」
 随分簡単に言ってくれるものだ。
 敵正面から拳銃の射程距離内に入るのは苦労しそうだし、自分達と標的の間には囮となったフーゴも居る。
「ミスタ、お前がチームに、組織に残ると決意してくれて良かった。とうに果たし終えた俺への恩義か何かでここに居るわけじゃあないんだな」
「今日の任務が終わってやっぱ辞めます、っつーのは無しか?」
「俺は構わないが、きっとお前にそれは選べない。1度引き金を引けばお前は銃(それ)から離れられなくなるだろう」
 拳銃を生業とするのはギャング位のもの。
 そしてそれを聞かされても「やはり止めよう」とは全く思わない辺り、使う前から既に虜にされている。まるでこれこそ麻薬のようだ。
「……麻薬と言えばよォ」
「何だ?」
「その麻薬の取引だかをやってる組織を何で『潰そう』としているんだ?」
 例えば自分達の組織よりも麻薬のパイプが大きくなりそうだから、ならわかる。しかしこの組織はジョルノから聞いた話では麻薬の流通はしていない。
 小さな組織らしいのでうちのシマで流すなら、と声を掛けて上納金を得て傘下の扱いにした後に切り捨てるなりをする方がずっとギャングらしい。
「麻薬は……流通させるわけにはいかない。自らの意思で使いたいのなら好きにすれば良いが、麻薬はやがてその意思を破壊する。いや、お前は俺が話した事を忘れているんだったな……俺が単純に麻薬を憎んでいるだけだ」
「何で」
「父親を麻薬に殺された」
 幻覚を見て自殺したのか、欲する余り危ない橋を渡りそのまま落ちたのか、抗争に巻き込まれた一般人なのかはわからないが。
「逆恨みか」
 短い言葉にブチャラティは目を丸くした。
「……そうだな。ああ、その通りだ。お前の言う通りだ、ミスタ。俺は個人的に麻薬を憎んでいるから撲滅したい。単純な私怨だ」
 まるで正義感に溢れる若者のような言葉。
「まぁある意味ギャングらしいんじゃあねーか? 腹立つから殴る、っつーのは」
 丸くした目を満足気に伏せてブチャラティは口の端を上げた。精悍な顔に似合わない程に穏やかだった。
 その表情や他者に対する気遣いは全く以てギャングらしくない。
「面白いな、考えている事がストレートにわかるのは。きっと一昨日までのお前もそう思っていて、だが俺に義理立てて言わなかったんだろう」
「頭打って性格も変わっちまってるかもしれねぇぞ」
「お前は俺の知る限りのお前のままだ。さあ、そろそろ行け。フーゴは潜んだ学校から直接取引場所に行く。時計の左に立つように言ってあるから、お前達は更に左の離れた位置で隠れて奴を待つんだ」

 ビルを出て他のテナントと共用の駐車場に並ぶ中の1台がチームの車らしい。その運転席のドアをジョルノは開ける。
「お前が運転するのか?」
「運転の仕方は覚えているんですか?」
「多分出来ると思うぜ」
「万が一事故を起こしたら困ります。今日は後部座席へどうぞ」
 素直に従い後ろのドアを開けて乗り込んだ。
 何も積んでいないので広く感じる後部座席にごろりと横になり足を、ついでに頭の後ろで手も組む。
 ジョルノの年――正確な年齢は未だ聞いていない気がする――なら恐らく免許取りたてだろう。乱暴運転はしまい。
「……お前免許有んの?」
 快適な速度で車は走り出したが。
「有りませんよ」
 もしや地獄へ続く道を進んでいるのではなかろうか。
「ミスタこそいつ免許を取ったんですか?」
「知らねー」
「僕の知る限りではチームで免許証を持っているのはアバッキオだけですよ。でも彼の運転は余り好きじゃあない。ミスタの運転の方が僕の好みだ。今度オフを合わせてドライブにでも行きましょう。交代で運転をするんです。思い出の場所に行けば記憶が戻る、なんて事が有るかもしれない」
 見よう見まねで運転出来る、というだけの男の車に乗るのは恐ろしくないのだろうか。
 今現在その状況に在るミスタとしては気が気ではない。
「……僕は『交通事故』で車を駄目にした事は有りません。ましてや貴方を乗せているんだ、普段よりも安全運転をします。安心して下さい」
「お前はって事は他の奴は?」
「春先にナランチャが1台。あれも交通事故とは違うか……自走不可というか大破というか、町中(まちじゅう)の騒ぎになる程の大爆発を起こしました」
「こわ! あいつヤバいな! ん? 交通事故じゃあない理由だとお前も車を駄目にしてんのか?」
 交差点で信号を待ちながら、ジョルノの目がバックミラー越し一瞬こちらを見た。
「水没させた事なら」
「おいふざけんな、事故よりヤバいじゃあねーか」
「不可抗力です。同乗していた貴方の許可を得て乗り捨てた」
「俺乗ってる時かよ!」
 笑い合えばカーステレオも要らない。先のジョルノの誘いに乗ってドライブに出るのも良いかもしれない。
 しかし2人きりでドライブとなると誤解を招きそうな――そもそもここまで世話を焼くのは誤解でも何でもなくそういう関係だったりするのだろうか。
 いやまさか、男同士でそれはあるまい。同衾はしたが言い換えればそれだけだ。男などジョルノ位性別が曖昧でなければベッドから追い出している。
 それってジョルノなら大丈夫って事かァ?
「あー……お前さ、彼女居んの?」
 この考えという名の妄想は、居るならばジョルノだけでなく彼の恋人にも失礼だろう。
「僕ですか?」
「お前以外誰の――いや、俺はどうなんだ? 俺って彼女居んのか? お前から見て俺に特定の相手が居るけど隠しているっぽかったりするか?」
「居ませんよ。特定も不特定も」
「即答か……俺モテねぇのか……ギャングとしてどうなんだ……」
「良いじゃあないですか、誠実な伊達男で」そのわりにはふんと鼻で笑い「でもこのチームで1番ギャングらしいのは貴方ですよ、ミスタ」
「どこが? 見た目?」
「人を射殺して新聞に名前が載った所とか」
「射殺で名前、か……」
 復唱する声は至って平然としていた。
 可笑しいのはわかっている。殺人犯として新聞に名前が載ったのだ。成る程、拳銃使いとして――顔はそうでもないが――名前は知られているのはこれが理由か。
「今から1年位前でしょうか? 新聞には『拳銃を奪い』『装填し直し』『3人を連続射殺』したと載りました。相手が3人組で女を暴行している所だったとか、相手も発砲してきた事等は伏せられていたので世間としては凶悪犯罪」
「まあ殺しちまったんなら過剰防衛だな」
「10年以上の禁固刑を組織の力で釈放にしたのが新聞を読んだブチャラティ。だから貴方は彼に絶大な恩義を感じて付き従っている」
 バックミラーに映る顔は「だからお前はブチャラティに逆らえない」とでも言いたげな雰囲気が有った。
「実際に会ってみるより先に拳銃使いを欲して釈放までさせるブチャラティもギャングらしいと言えばらしい」
「そうかァ? 先刻はああ言ったけど、俺はあんまりギャングらしいと思わねぇんだよなぁ」
 アジトでのんびりと座っている所しか見ていないからかもしれないが。
「ブチャラティの運転も大概な時が有りますよ。今後もミスタはこの通り安全運転の僕の車に乗ると良い。ほら、目的地の公園が見えてきました」
 体を起こして窓の外を見る。
 緑豊かな公園だが窓越しには利用者が全く見当たらない。はしゃぐ子供達の声も散歩を満喫する犬の声も車内まで聞こえてこない。
「一般人に怪しまれたくないので入り口近くに車を置いて散策を装い南の時計の近くまで行き木々に隠れる、という手筈ですが異論や質問は?」
「隠れられる木が無かったら?」
「僕のスタンドは命を生み出す能力を持っています。精密な細胞よりも大雑把な植物の方が慣れている」
「駐禁取られたら?」
「勤務に真面目なお巡りさんにチップを渡して帰るのがギャングの流儀です。まして帰りは標的(ターゲット)の全てを積み込む予定だ」
 財布も麻薬も本人の死体も。
「チップを弾んで手伝わせるしかねーな。しっかし公園を2人で散歩か。まるで……」鎌をかけるつもりが妙に気恥ずかしいので一呼吸置いて「……恋人同士のデートだな」
「貧乏カップルという設定で歩きましょうか」
 公園横に違法駐車をしながらジョルノは、この数日の内で初めてと呼べる程に心底嬉しそうな笑顔を見せた。

 やや離れた所から見るパンナコッタ・フーゴは事前の情報が無ければ完全に学生に見えた。
 プラチナブロンドと呼べそうな明るい髪色だが下品さが無く、実際に学生のジョルノよりやや背が高い位で未だ伸び代を感じさせる体躯。真面目に生きてきた学生なので疲れから麻薬に手を出してしまいそうな雰囲気を漂わせてはいる。
 そして背を向けているフーゴの奥に見えるのが、そんな学生にも麻薬を売り付けようと目論む男。中肉中背で髪も黒くこれといった特徴は無い。
「……緊張するな」
 己の心音がバクバクと耳に煩い程に。
 ジョルノのスタンド能力とやらは兎に角不可思議で、並ぶ木々の合間に更に背の高い樹木を生やした。
 そこへ2人で寄り添うように隠れ、ミスタは拳銃を右手に握る。
 未だ構えはしない。今がタイミングではないから、だけではなく。
「本当だ、ドキドキ鳴っている」
 いつの間にやらジョルノの右手がミスタの胸に触れていた。
「うわっ、びっくりした」
「そんなに驚きました? 鼓動は変わらないようですが」
 どれどれ、と胸に耳まで当ててくる。
 こちらの緊張を解そうとしているのかもしれないが、目を閉じて心音を確かめる様子は自分が落ち着く為にこそ見えた。
 目の前で、すぐ隣で殺人が起きようとしているのだから、未だ学生のジョルノの方がより浮き足立っていても可笑しくはない。ミスタはその肩を左手で軽く抱き寄せる。
 体温が肌に馴染む気がする。このまま体を預けるように寄り掛かりたい。抱き枕に安眠効果が有るのは事実だと思える程に安心した。
「有難う、ミスタ……だが今は左手は銃に添えた方が良い」
「そうだな」
 右手で弾が6発込められたリボルバーを離れた標的へ向け構え、その銃底に左手を添える。
 再び早くなった脈を整えるべく深呼吸を1つ。
 不安なのは失敗する事ではない。外した挙げ句銃声に驚いて逃げられようとも続けて5発は撃ち込めるし、追い掛けながら装填出来るだけの器用さが有れば予備の弾丸は最大12発も有る。人間を撃つ事に関しては今更だ。
「フーゴに当たらないか」ジョルノは体を寄せたまま「貴方が不安なのはそれだ」
「お前は俺以上に俺の事わかっているんだな」
 言う通りだった。未だ一言も交わしていないがフーゴは仲間だと認識している。怪我を負わせるわけにはいかない。
「幾ら傷はすぐさま僕が塞げるとはいえ、流れ弾であろうと仲間に撃たれればトラウマになる。銃を見るだけで、貴方が持っている事実だけで……でも大丈夫。貴方はフーゴに弾を当てたりしない。掠める事すら無い」
 遠くでフーゴは鞄から財布を取り出し、わざとらしく紙幣を握った手をゆらゆらと揺らしていた。
 実物を見ないと金を渡せないと言っているのか、それとももう少し安く――あるいは多く――してくれと強請っているのか。いずれにしろ演技の達者な男だ。
 何か言い返す標的との直線上からフーゴが外れた。今だ、と思うより先に。
 轟く銃声、仰け反る男、額から漏れ出す血液。そして反動に痺れる自分の両手。
「……当たった……」
 綺麗に眉間を撃ち抜いた。この距離からよくぞと思っている筈なのに、その考えが吹き飛ぶ程に高揚している。
 心臓は益々高鳴り息は荒く、何なら汗は滲みを通り越して垂れてきたし勃起もしていた。
 自分では動かせない程強張った左手をジョルノの両手が包み込む。
「お疲れ様です、ミスタ」
 艶の有る――ように錯覚する程舞い上がっているのか――声で囁いたジョルノは包んだ手を己の右頬へと寄せた。
 手の平で受ける滑らかな感触は心地良い。握り慣れていたリボルバーのグリップ同様、何度も何度も触れてきたのかもしれない。
「一撃で仕留めきるなんて流石ミスタ。多少の記憶が、過去が無くても貴方は貴方だ。僕は貴方を尊敬しているし、何もかもを捧げられる程大切に思う」
「俺も――」
 ずっと近くに居てくれるお前を尊く(とうとく)思っている。
 何故そんな言葉が頭に浮かぶのだろう。
 上手く言えず途切れた同意の言葉を聞いてジョルノは自然に目を閉じる。そこへ吸い寄せられるように顔を近付け、そのまま口付けた。
 何故こんな事をしたのだろう。
 唇を軽く食んですぐに顔を離した。それでも未だ近くに有るジョルノの顔はやや赤らみ、開いた目も微かに潤ませている。
「……お前さ」
「何ですか?」
「可愛い」
 え、の声を封じるようにもう1度キスをした。
 頬に触れていた手を滑らせて顎をしっかりと掴み逃げられないようにしてから舌で唇を無理矢理抉じ開ける。
 残り5発の拳銃をベルトに差して、右手でジョルノの腰を掴み引き寄せる。鼻に当たる息は驚き戸惑っているようだが拒む様子は無い。咥内に押し入るとすぐに舌に行き当たったので、無様なまでに必死に絡めた。キスが下手だと罵られようと構わなかった。
 久々だな、と思った。覚えていなくても経験が有るのはわかる。キスも、その先も。恋人はなく適当に遊んでもいない、というジョルノの見立ては間違っているのではないか。目を覚ましてからの数日処理していないだけでこんなに昂っている。
 そろりとジョルノの両腕が背へ回り抱き着いてきた。
 嗚呼抱き締めたい、欲のまま抱きたい――
「――ちょっと」
 初めて耳にする苛立ちの含まれた声の主をちらと横目に見る。
 うんざりとした顔でこちらを見ているのは、ぐったりと動かない男を肩幅に背負っている白金髪の生真面目そうな少年。
「……フーゴかッ!?」
 慌てて唇を離した。
「こんな所で何をやっているんですか、あんた達は」
 初めて話すというのにこの状況は気まずい。取り敢えずミスタは「お疲れ」と呑気を装う。
「そういう事は色々片付けてからにして下さい。ミスタ、そっちを」
 だらりと垂れ下がっている死体の右腕を肩に回して乗せた。
 これといって太っているわけではないが、意識の無い死体は重たい。
「ジョルノ、これはコイツのポケットに入っていたキーです」飾り1つ付けていない鍵を手渡し「車を探し出して、事務所まで持ってきて下さい。中に何が積まれていようと、何も無くても」
「片付けてからなら良いんですか?」
「え?」
「『そういう事』は、片付けてからならしても良いんですか?」
「あ、えっと……それは本人達の問題……事務所じゃあなくて家で頼みます」
「でもキスまでは事務所でしても良いんですよね?」
「っ、それ、は……ッ」
 死体1つ挟んでフーゴが狼狽える様子は面白い。これはからかい甲斐が有る。
 しかしジョルノはからかって遊ぶ事を良しとしないのか、話を切り上げてこちらをじっと見てきた。
「一旦別行動です」
「ああ」
「家に帰ってからも貴方の気が変わらない事を祈っています」
 それじゃあ、とフーゴが来た方へと歩み去る。
 ここまで来る時とは違って歩くのがかなり速い。ずんずんと進み、すぐにジョルノの姿は見えなくなった。
「ミスタ、車はどこに停めたんですか?」
「あっちのデカい入り口の横」
「結構距離が有りますね……まあ仕方無い、行きますよ」
 ミスタとフーゴも男の死体を抱えて歩き出す。
「……お前さァ」
「何ですか?」
「あの事務所でキスでもしてたのか?」
 ジョルノの口振りから察して尋ねると、途端に何を飲んでいたわけでもないフーゴはげほげほと噎せた。
「はぁー人は見た目によらねぇなぁー」
「ちがっ、違う、あれは偶然! ジョルノが居るのを、知らなかったからッ!」
「誰も居ない時を見計らって何人も女を連れ込んでるのかァ? イヤラシイ奴だなぁ、まったくよー」
 するとフーゴの足が止まる。
 ミスタも足を止めて死体越しにフーゴの顔を見た。
「何人も、女を……?」
「なんだなんだ、チーム公認の彼女が居るだけなのか? 面白くねぇな」
「ああ、そうか……貴方は今一昨日より前の記憶が無いんだった。いつもと何ら変わりが無いから失念していました。僕の事は何も聞いていないんですか?」
 気を取り直して歩き出したので付いていく。
「スタンドが毒物って事は聞いた」
 歩くテンポをこちらに合わせているらしく、重たい物を運んでいるわりには苦にならない。
「あと最初にチームに入った事とか。大学? 学校で問題を起こしたって話も聞いたぜ」
「それしか聞いていないんですね」
 良かったとも悪かったとも続けず、フーゴはじっとりした視線を投げてきた。
「それより、いつからそんな関係になったんですか?」
「おーおー自分の話は逸らす方向だな?」
「僕の事はどうでもいいッ! 取り敢えず……その、少し意外に思って。ジョルノの方は確かに気が有るようだったけれど、貴方は興味が無さそうな、寧ろその対象になりたくないと言わんばかりの態度の時すら有ったので」
 ミスタは眉を寄せる。
 他の人間の事はすぐ近くでジョルノが教えてくれてきたが、ジョルノの事は近過ぎてよくわかっていないかもしれない。
「お前から見たジョルノって、その……俺の事が好きそうな感じなのか?」
 ジョルノからあからさまな好意を向けられているのは充分承知しているので可笑しな質問だと思った。
 単なる仕事仲間ならここまではしない。助かってこそいるが、悪い言い方をすればジョルノは遣り過ぎの気(け)が有る。
「そういった意味での好きかどうかは知りませんが、特別に想っているのは明らかですよ。彼はあの性格――無駄な人付き合いなんかを拒む部分が有りますから、貴方と居る時はあんなに距離を詰める事も有るのかとよく思う」
「へぇ……」
 あれだけ他人の助けになろうとする人間が、過度の人付き合いを良しとしていないとは。
 べたりと甘えるような微笑みを見せるのは自分だけなのか。
 やっぱ可愛い奴だな。
「まあ貴方から見れば年下で、未成年で学生。正式にギャング組織に加入したのだって比較的最近だ。うっかりそういった関係にならないように逆に気を付けていたんですか?」
「覚えてねーっつの」
「そうでしたね。記憶は戻りそうですか?」
「いや全然」
「まぁ記憶が無くても貴方は貴方らしく生きていけそうですが」
 確かに今現在生活に不便は無い。
 日を跨ぐ度に忘れるとか、新しく覚える事が出来ないわけではない。証拠に停めた車に近付いてきたのもわかる。フーゴに顎でその位置を示した。
「しっかし忘れる前の『俺』に謝んなきゃあなんねぇな」
「どうしてですか? ああ、昼間の公園で人目も憚らずキスした事を」
「それも有る」
 それ以外も有る。
 この先車や事務所で何が有ろうとも、ジョルノの祈りとやらが通じて気が変わりそうにない事を謝りたい。
 折角堪えてきたらしい一線を今晩越えさせてもらうつもりだ。

 当たり前だが2人掛かりでも男の死体1つを2階に有る事務所まで階段で運ぶのは骨が折れた。
 1階で至極平然と営業しているカフェの客の目にはどう映ったのか。そもそもカフェの店員達は上の階にギャング達が集っている事を知っているのか。
 思い切りドアを蹴り開ける。
 誰も居ない――と見せ掛けて、衝立(ついたて)の奥の四角く広いテーブルで3人が和やかにお茶をしていた。
「あ! お帰りフーゴ! ミスタも!」
 大きくガタンと音を立ててナランチャが立ち上がる。
 ナランチャから『ついで』の扱いを受けるのはまぁ良いとして、死体を1つ背負っている事を誰も気に留める様子が無いのはどうなのだろう。
「2人共よくやった。『それ』は適当に寝かせておけ」
 ブチャラティの指示に従い死体を床に放り投げる。ミスタとは正反対に近そうなフーゴだが放る際には息がピッタリと合った。
 血肉の詰まった死体は弾まない。
「ジョルノは別行動か?」
 低い声の持ち主の顔は初めて見る。特徴的な長い髪――腰近くまで有りそうだ――に元の顔をわからなくする程化粧を施した顔。一目見たら忘れられないのに、髪を隠し化粧を落とせばきっと誰にもわからなくなる。
 ブチャラティとナランチャと親しげにコーヒーか紅茶を飲んでいるという事は彼こそがチームメイト残る1人のアバッキオか。
「車のキーが有ったので車を探してもらっています。ジョルノの事だから見付かり次第エンジン全開に飛ばして帰ってくるだろうし、そんなに待たないと思いますよ」
 どうやらフーゴは口が軽い方ではないようだ。告げ口をしないどころか同性愛に関しての嫌悪感も見せない。自分ならばチームメイト同士がデキてるとなるとからかった後にひっそり距離を置きかねないのに、とミスタは思った。
「まあ別にあのガキに用は無ぇが」言ってアバッキオは立ち上がり「ミスタ、行くぞ」
「は? どこへ?」
「……ブチャラティ、お前言っていないのか?」
「何度掛けても留守電に繋がるから吹き込んだんだが……聞く暇が無かったのか? お前が任務中留守電にしている事を責めるつもりはない。ただ珍しいというか、録音が有る事に気付かないんじゃあ意味が無いぜ」
 言われてポケットから携帯電話を取り出した。画面には留守番電話の録音メッセージが有る事を知らせるマークが出ている。
 何故か不在着信にはなっていない。
 そして録音メッセージの再生方法がわからない。携帯電話の使い方も取扱説明書の保管場所も覚えていないのは厄介だ。
「遅れたくないから車の中で話す。来い」
 短く言ってアバッキオはミスタと死体との横を通り抜け事務所を出た。
「この前のカジノだっけ? ミスタ、頑張れよ!」
 ナランチャは大きく手を振るが何の事かわからない。
 お前ら全員俺が記憶喪失で困ってるって記憶を喪失してんじゃあねーか?
 それを指摘して何かしら聞き出すよりもアバッキオに車内で説明をしてもらう方が早そうなので、ミスタは「行ってくる」と背を向け後ろ手を振り同じように事務所を出る。
 1人で階段を降りながら今し方死体を乗せてきた車にまた乗るのかと気付き、それの何が悪いのかすぐに思い付けず複雑な気分になった。

 免許証を取得しているだけあってかアバッキオの運転は予想を良い意味で裏切り全く荒くなかった。
 後部座席に乗り込み、寝そべらずにシートベルトまでした意味が無いのではと思う程に。
 思い返せば少し前にこれを運転していたフーゴも、ウィンカーを上げない車にブチギレて少しの間煽った事を除けばそこまで酷いと言われる運転ではなかった気がする。
 大概と言われるブチャラティと大事故を引き起こしたナランチャ以外の車なら安心して乗れるのか、と考えた所で2日振りの頭痛が起きた。
「ってぇ……」
 額の奥で何かが脳味噌を直接押しているような不快感に声を上げる。
「どうした?」
「いや……ちょっと、一昨日頭打った所が」
 額を直撃したかどうかは知らないが。
 しかしジョルノは怪我を治す――曰く傷を塞ぐだけ――事が出来るらしいのでどこを打ちつけていようと何とかしてくれたのだろう、と考えた所で安心したからか否か頭痛が引いた。
「大変なんだな、記憶喪失ってやつは」
「カジノだか何だかも忘れてるからな」
「その話は今からしてやる。これから行くのは俺達2人で前に同じ『仕事』で行った事の有るカジノだ。場所は――」
「住所言われても多分わかんねー」
「……入ってる高級飲食店(リストランテ)が有名なホテルの地下。会員制と称して入場料を取っているんで泊まらない客も利用出来る。後は食い物・飲み物に金が掛かるだけでチャージ制とかじゃあねぇし、賭け金に手数料なんかは一切掛からない」
「なかなか良さそうだな。レートは?」
「ぶっ飛んでやがるぜ。貧乏人はお呼びじゃあない店だ。更に金を積めばある程度はイカサマ出来る」
「は? 一気にキナ臭くなったな」
「それとスタッフの女達は日給」
 一体何の意味が、と問う前にアバッキオは溜息を1つ吐いて続ける。
「客と早々に帰っちまっても給料は減らない。だから女はあの手この手で客を誘い、上のリストランテで飯を食わせてもらい、客室に宿泊して小遣いを貰う。客も客でその為の資金を得ようとどんどん賭けにのめり込む」
 大金の動く非合法売春の温床。その店で働くという事は花を売る事に直結している。麻薬やら殺人やらと並んでギャングらしくなってきた。
「そんなカジノに俺達は何の仕事をしに行くんだ?」
 まさかイカサマの片棒を担がされはしまい。そういうのはもう少し見た目が向いている、例えばブチャラティ辺りの仕事だ。
「前回と全く同じだ。前回は議員が来た時にボディガードで入った」
「ボディガード? 議員の? 議員って市や州の議員だよな?」
 日頃連れ歩いているシークレットポリスを裏社会では立てられないのはわかるが、だからといって街を這うチンピラ風情に金を渡して身を守ってくれと頼むのは可笑しい。
「議員のボディガードをする奴が居るかバカ。店のだよ」
「店のボディガード? 何だそりゃあ」
「権力の有る、ついでに連れてる用心棒で腕力も有る奴だ。そいつがカジノ場で誰を殴ろうと犯そうと殺しちまおうと、証人が居なけりゃあ被害者1人の妄想として片付けられる」
 誰も彼もが議員様を悪人にしたくない。
「今日の任務は客でも店員でも議員の野郎と2人きりになりそうな奴が居たら、その後ろについている事だ」
 言ってしまえばそれだけの事。至極簡単そうではあるが。
「これが牽制になる、ってやつか?」
「牽制? ああ、お前の場合はそうだな。拳銃は見えるように出しておいても問題無い店だ。今回俺達になったのは前回と同じ奴で、という指定が有ったからだとブチャラティが言っていた。前回俺達になったのは見た目だけが理由」
 確かにナランチャのように見るからに小さい子供では牽制にならないし、ジョルノもポーカーフェイスは崩さないだろうが背の高さや体の細さが心許ない。フーゴではギャンブルの場と雰囲気が合わない。
 その点アバッキオはミスタより10cm近く高そうな背や恵まれた体格、それから顔立ち辺りも実に相応しく見える。
「議員が帰るまでの任務、終わり次第報酬の金が貰える」
「ほーい質問! 議員は前何時に帰った? 俺今日早く帰りたいんだよなァー、ちょーっとばかし良い事有る予定なんで」
 ジョルノが言うにはミスタが、ミスタが思うにはジョルノの気が変わっていなければ。
「ラスト過ぎ」
「なんだって?」
「報酬と車を事務所に置いてから帰るが日の出には間に合う」
「ふざけんなよ……」
 これは前以てジョルノに連絡をしておくべきか。そんな事をしては卑しく思われるだろうか。
 ミスタの殺した男の車を見付け出して運転して事務所に戻っている筈の彼は今何を考えているのだろうか。

 富裕層の為に建てられたと言わんばかりの外観のホテルにミスタとアバッキオという礼装でもない若い男2人が足を踏み入れる事に対してどうしても生まれる違和感は、従業員駐車場に停めて裏口から入るという方法で事無きを得た。
 真新しいのに定員が4人――やはり無駄に胸騒ぎのする数字だ――までの狭いエレベーターで『開』ボタンを押しながら階数ボタンで暗証番号を入力し、2人は地下のカジノ場のバックヤードに入る。
 出迎えた「今日の代表」を名乗る男からクリーニングより戻ったばかりらしいスーツを手渡され着替えを頼まれた。
 商品である女性を大切にする店は、しかし黒服(男)の更衣室までは用意しておらずトイレの個室で着替えさせられた。下着まで脱ぐわけでもあるまいしその場で着替えても良かったのだが、とネクタイを締めながら思う。
 ネクタイの締め方を知っている。ベルトのどこに拳銃を挿すのが1番良いかもわかっている。トイレの鏡に見慣れない服装の、この数日ずっと見てきた顔が映っている。こんな格好をする事が今までも有ったのだろうか。
「終わったのか」
 数秒遅れて着替え終えたアバッキオも個室から出てきた。髪型と不機嫌そうな表情の所為でひたすらに怖い。見た目で選ばれたのがよくわかる。自分もなのかともう1度鏡を見た。
「記憶喪失だって事隠すなよ」
 何事かとアバッキオの顔を見るとわかりやすく目を逸らされる。
「厄介事はゴメンだからな」
 言って歩き出しトイレを出たので、ミスタは慌ててついて行き『現場』となるカジノ場のホールへ出た。
 営業を開始したばかりの店内は未だ客が少ない。しかし既に0ではない。
 だだっ広い店内の照明は床に埋め込まれた色とりどりの電飾と幾つも並ぶが小さいシャンデリアのみなので薄暗い。
 その空間を闊歩するのが幾らでも金を落とせそうな男性客達、そして彼らから金を引き出すべく自らの容姿を磨き上げたバニーガール達。
「こりゃあ凄ぇな」
 そんな言葉が自然と漏れる位に目の前やり場に困る光景。皆が皆黒の際どいハイレグカットのボディスーツで腹を引き締め胸を寄せている。
 前から見ても食い込みそうなボディスーツは、後ろから見ればTの字型で尻を綺麗に見せている。それとハイヒールを履いた爪先までとを覆う網タイツや、立てた兎耳のカチューシャ、首で結んだリボンタイは皆黒い。
 揃いの襟と袖、それから丸くふわふわとした尾だけが白く華やかだった。見渡す限り美女しか居ない。皆が皆健康的な肌の色で、長く伸ばしたブロンドを華やかに巻いていた。
「……同じに見えてきた」
「だろうな」
 派手な付け睫毛と目頭にも目尻にもはみ出したアイライン、強調し過ぎているピンク色のチーク、辛うじて口紅の色はそれぞれ違うようだが全員同じ顔を作っている。
 世の美女を集めた印象はいつの間にか単に手の空いている女を美しく見せる工夫をしているだけに思えてきた。
 決して悪くはないのだが。
 寧ろ縁が有れば『つまみ食い』位してしまいたいのだが。
「ねぇ」
 ほぼ真後ろから甘ったるい声が聞こえてミスタは肩を強張らせて振り向く。
 バニーガールの1人が上目遣いに見上げている。といっても極端にヒールもソールも高い靴を履いているので女性にしては目線が近い位だった。
 ジョルノよりデカくねぇか?
 靴を脱げばナランチャ位小さくなるだろうか。足――正確には脚だが――が長い女性というのはそれだけで魅力的ではあるが、男としてはもう少し身長差が無いと並んだ時に格好が付かない。
「……何だ?」
 その言い方に不満だったのか、根元が茶色いので染めたか抜色したであろう金髪のバニーガールはムッと唇を尖らせる。
「もおー、私の事忘れちゃったのぉ?」
 目の前の女性以外についても綺麗に忘れてしまっているので肯定と否定のどちらをすれば良いのやら。ましてや目の前の女性とホールの奥に居る女性達と今まさに入り口から客と同伴してきた女性との区別が付きにくい。
 皆同じ服とよく似た髪型と同じような化粧。このイタリアにあってこんなにも個性を打ち消して彼女達は辛くないのか。
「あー……俺さぁ、一昨日頭に鉄筋喰らっちまって、何か色々覚えてねぇんだよ」
「何それぇ!」憤りを含めた声音のバニーは剥き出しの両腕を、スーツに包まれたミスタの左腕に絡め「なぁんちゃって」
 胸の谷間に挟めるように、それでいて二の腕には頬を擦り寄せてきた。
「私もお兄さんの名前教えてもらえなかったから知らないんだけど!」
 どうすれば良いのかとアバッキオの顔を見て目で助けを求める。
 相当『厄介事』がお嫌いらしく、ふんと鼻を鳴らしバサリと髪の毛を翻して横を向かれた。
「最初に見た時ぃ、あの議員さんが来た日ね。若いお兄さんだなぁって思ったんだけど」
 記憶の有無も互いに勤務中だという事も気にしないらしい。
「この前、その次に来てくれた時、1ゲームだけしたじゃあないですかぁ」
 そうなのか。
「圧勝だったけどイカサマァ?」
「いや本当に覚えてねぇんだって」
「あの時も教えてくれなかったけど、今日も教えてくれない感じぃ? 偶然じゃあないんだったら、もっと店に来たら良いのになぁって」
 綺麗な顔、髪、声。そして抜群のスタイルに頭の悪そうな喋り方。どこを取っても、どこに出しても恥ずかしくない生粋の娼婦。生真面目な人間ならそろそろ振り払っても良い頃合いなのだろう。
 しかしミスタは会話を止めなかった。議員とやらが未だ来店していないから駆け引き染みた話をしても良いだろう。あわよくば任務終了後に、とまで考えると罪悪感に繋がるのか軽く頭が痛む。
「そっちの怖い顔のお兄さんに任せて、ちょっとご飯でも食べに行かない?」
「無理。俺全然金持ってきてねーもん」
 地上階には有名なリストランテが幾つも入っている。勿論どこも温くも美味しいコーラを出してくれるカフェテリアとは違う。
「じゃあご飯も泊まるのもなぁんにも要らないから」バニーガールの片方の手がするりとミスタの尻に回り「ちょっとだけ抜け出して、この前みたいに『イイコト』してきちゃおう?」
「お――」
 返事をしようとして口を開いたが、続く言葉が出ない。
「……い、てぇ……」
 突如刺さるような頭痛に見舞われて呻き声しか出てこない。
 頭の中で何かが暴れているような、その何かが振りかざした刃物が突き刺さったような鋭い痛みに、ミスタは遂に膝を付いた。
 確かに微かな頭痛は、頭蓋を揺らされているような感覚は有った。しかし此処まで明確に生命の危機だと思える程の痛みではなかった。体を伸ばしていられないので大股開きにしゃがむ。右手で最も痛む額を押さえたが全く和らがない。
「ちょ、ちょっとぉ、大丈夫? 一昨日ぶつけたとこ?」
 目を開けていられないので見えてはいないが、声が近付いたのでしゃがみ込んだのだろう。
 比例して頭痛は更に激しくなる。
 頭の中で煩く鳴り響くというより、脳が感じる音すらも遮断して痛みだけを与えてくるような。
「はっ……はな、れ……」
 それだけで足がすくんで体中の毛が逆立つような、全身が凍り付くような痛み。金縛りにでも遭っているようで――遭った事が有るのか否かは思い出せない――胃が痙攣して胃液が逆流しそうな苦しみ。吐瀉物を吐き散らかしたくなった。
「おいミスタ」
 頭上から掛かるアバッキオの声に目は開けられないが上を向く。
 抵抗するなとでも言いたいのか頭痛の素は更に激しく暴れる。両手で両方のこめかみを押さえた。
「そんなにヤバいのか?」
 アバッキオの声が近付く。
「あ……いや、わかん……ジョルノ……ジョルノを、呼んでくれ……」
 怪我を治せるらしい彼ならこの痛みも取り除けるかもしれない。
「ジョルノ? アイツを呼んでどうする。ぶつけた痛みなのか?」
 そうだ、ジョルノは傷を塞げるだけで病を治せるわけではない。脳味噌に針が刺さったわけでもないのだから呼んでも意味が無いし、来るまでに一体どれだけの時間が掛かるのやら。
 だがそれでも今、ジョルノの事を思い浮かべた瞬間、僅かながらに痛みが引いた。
 ジョルノは間違い無く助けてくれる。
「……う、いや……平気だ」
 雲間が時間経過で晴れるように思考回路がゆっくりとクリアになってきた。ゆっくり目を開くとすぐ近くに足を開きしゃがんだアバッキオが柄悪く見下ろしていた。
「平気だと?」
「落ち着いてきた……何とか……俺ウサギにアレルギー有ったか?」
「ああ?」
 バニーガールに触られ発症し、近付かれると悪化したから、と続ければ更に睨まれそうなので黙っておく。
「取り敢えず水貰って奥で一旦横になれ」
「大丈夫だって……」
「議員が来てガチで何かやらかして俺1人で対処出来なくなったら呼ぶからな」
「いや本当に大丈夫だぜ?」
 既に痛みはほぼ無い。辛うじて頭が重たくはあるが、先程の痛みと比べれば人体が感じる誤差か何かだ。
 アバッキオの顔を見れば落ち着く、は流石に違うのだが。
 だがジョルノの名前を呼べば落ち着いた。まるで信仰する宗教の神の如く。何もかもを忘れてしまったこの世界における唯一神だとでも言うように。
 ジョルノ、サンキュ。
 取り敢えず胸の内で感謝を述べておいた。
 昨日のボンボローニの礼も兼ねて何かしら土産でも買って帰ろうか。恐らく驚かれ疑問に思われるだけだろうが。
「なぁアバッキオ」見た目や事前情報と違いしっかり心配してくれた者の名を呼び「この辺で朝まで菓子売ってる店とか知らね?」
「知るか」
 吐き捨てるように言ってアバッキオは立ち上がり、背を向けて入り口の方へ向かう。相手にしないという意思表示。同時に後程入ってくる議員に先ずは自分が付くという合図。アバッキオもなかなかジョルノのように頭が回るし気も利く。
 しかし土産を買ったところでジョルノが昨日の自分達と正反対に部屋で待っているとは限らない。ジョルノがミスタの部屋の鍵を持っているとは限らない。
 鉄材にぶつかるより前に友情を感じて合鍵を渡しておいた、なんて事は無いだろう。
「友情……」
 言葉にした己の唇に触れてみる。手入れをしていないのでかさついていた。
 男友達とはしない事をしてしまった。次に対面した時、もう今までの目では見られない。
 今まで、なんて覚えちゃあいねーけど。
 ミスタも立ち上がる。もう頭痛は全く無い。原因ではないが切っ掛けではあったバニーガールの方を振り向く。
 心配そうな面持ち。彼女の話が事実ならばある意味では深い関係。しかし名前すら知らない関係でもある。そう思えば頭痛は起きない。
「あの……奥で休む?」
「緊張してたんだわ、マジに何も覚えてねぇ中での仕事だし。なあ、アバッキオがどこか電話しそうだったらすぐ呼んでくれねーか? 俺の帰りを待ってる奴に知られたくないんで」
 牽制の仕事なので牽制の一言を添える。頭の悪そうな喋り方を意図して行って(おこなって)いたのだから伝わるだろう。

「疲れた……」
 夜道を姿勢悪く歩くミスタの口からはもうそれしか出てこない。結局閉店まで護衛と称し店に立たされ続けて疲れきった足で自宅アパートまで歩く事しか出来ない。
 ホテルから事務所にはアバッキオの運転で戻った。報酬は明日――日付としてはとうに今日だが――リーダーのブチャラティが確認をしてから配分になるらしく金庫に入れた。そこで解散。働いてきたというのにタクシーを拾えば赤字になる。
 その前に部屋の『住所』も覚えてねぇんだった。
 車中で腹が減ったと言うと煩いと返ってきた。溜め息を吐いて眠たいと言うとやはり煩いと返ってきた。
 だというのにアバッキオに『嫌』な印象は持たなかった。低い声の鋭利な物言いだったが、それも慣れ親しんだ仲だからこそだと思える。
 アバッキオだけではない。フーゴも、ブチャラティも、ナランチャも、今までの付き合いを一切合切忘れているとは思えない居心地の良さ。
「疲れたし、頭痛ぇし」
 折角忘れていた頭痛が再び活動を再開したようだ。
「部屋にジョルノ居たら治してもらうか」
 外傷でなければ治せない、厳密には治すとも違うと聞いたし理解してはいるのだが、つい頼りにしてしまう。
 もしかしたら治してくれるかもしれない、と思ったからか痛みが引いた。元よりそれ程激しい痛みではなかった。頭を抱えて膝を付いた先程の痛みと比べれば10分の1以下だ。
「まあ、やっていけそうだな」
 誰も返事をしない事はわかっているのについ漏れる。否、もしかしたら誰かが返事をしてくれるかもしれない。
 一体誰が、と口元をにやつかせながらミスタは迷わず帰宅した我が家の鍵を開け中に入った。
 リビングの電気が付いている。テレビも付いていて音がしている。
 出掛ける前に戸締り等はしっかり確認した筈なのに――と思った所で、テレビに向かうソファでジョルノが寝ているのが目に入った。
 文字通り寝ている。テレビに向かって肘掛に乗せた己の両手を枕にして両足も上げて。目を閉じ寝息を立てている。すっかり眠り込んでいる。
 ソファとテレビとの間に有るテーブルには夕食であろうピザが乗っていた。十字に切られていたらしいピザは2切れ、丁度横に半分無い。
 瓶入りのジュースも2本並んでいる。どちらもジンジャエール。栓の開いている方は甘口――と書いてあるが実際の味は当然知らない――で、未だ手の付けられていない方は辛口。
 昨晩土産に甘い菓子を買ってきたのは記憶を失くす前のミスタが甘党だったからではなく、単にジョルノ自身が甘い物が好きだからなのか。
 そう思うと起きている時とは違いあどけない寝顔が益々幼く見えてきた。
「つーか本当に居んのかよ」
 しゃがんで間近に声を掛けても起きない。昨日の朝のような至近距離だが蛍光灯の明かりでは顔の産毛までは見えたりしない。
 それでも動かない眉や伏せた睫毛、通った鼻梁や微かに開いて見える唇はずっと眺めていられる。
「俺お前の事好きだったんだろうな」
 何を当たり前な事を。だからキスをしたし、今もしたいと思っているのに。その先だってしたいと思っているのに。
 したいのか? 本当に?
 仕事の後に仕事でこんなに疲れているから『その先』まで及べる気がしない。眠っている人間を前に「疲れているからこそ」という説は横に置いておいた。
 チームメイトであり寝入った様子は見るからに子供、何より男同士という障壁に阻まれて自分は想いを告げられずにいたのかもしれない。
 2日以上共に居てジョルノの賢さには何度も触れてきた。こんな無防備な姿を見せれば、男だから襲われないなんて言い訳が世の男――正しく言えば『グイード・ミスタという男』だが――に通じない事位わかる筈だ。
「なんて言い訳」
 するもんじゃあない。
 もっと単純に明快に簡潔に。寝顔が可愛いから恋に落ちたミスタはその額に軽くキスをした。
「ん……」
 唇の触れた眉間に一瞬皺が寄り、次いでその下の目蓋が上がる。
「……ミスタ」
「おう」
「お帰りなさい」
 体を起こしたジョルノは手の甲で目を擦った。
「待ってるつもりが、寝てしまいました……ふあぁ……よく寝た」
「未だ朝じゃあねーけどな」
 辛うじて。もう1時間もすれば早朝と呼ばれても可笑しくない時間になる。
「腹が膨れたら眠たくなってしまって。中々帰ってこないので先に食べていました。すみません」
「謝んなくていいって。1人で飯食って寂しかったか?」
 からかうつもりでニヤニヤと尋ねた。子供扱いするなと喚いてくるだろうと踏んで。しかしそんな子供っぽい様子をジョルノは見せなかった。
 やや俯き視線を逸らして「少し」とだけ答える。
「あ、悪い」
「ミスタは何も悪くありません」静かに左右に首を振り「何時に帰ってくるかわからないのに待とうとしたのは僕です」
「待っていてくれて有難うな」
 笑い掛ければ戸惑いを含んではいるが一応の笑顔が返ってきた。
「どう致しまして」
 最初からこう言えば良かったのか。ジョルノは決して表情豊かなタイプではないが、感情を全く表に出さないわけでもない。
 『寂しい』より『楽しい』を見たい。やはり世の中は単純に考えるべきだ。
「今度は連絡入れる」
 その一言でジョルノは目を丸くし、次いで一目で喜んでいるとわかる笑顔に変わる。
 珍しい――と思うのは、記憶を失う前にもここまでの表情は見せなかったからだろうか。
 一体何がそんなに楽しいのか。食べて寝ていて良い事か、連絡をするという約束か、また泊まって帰りを待つ『今度』が有る事か。
「お前そんなに俺の事好きなのかよ」
「え?」
「ちゃんとベッドで寝ろっつったんだよ。第一何だその格好。そんな格好してたら風邪引くぜ」
「あぁ……」
 自覚は有るのかジョルノは自らの格好を見下ろした。
 上は借り物でサイズの合わない大きな寝間着。そして下は履いていない。
「ミスタ、足長いですよね。緩いのも有りますが、引き摺るし踏んで転びそうなので脱ぎました」
「脱ぎました、ってお前なぁ」
「この時期のネアポリスはこんなに暑い。全裸で寝ても風邪なんて引きませんよ」
 知っていると返したいがその記憶自体は無い。
「裸で寝るつもりかよ」
 乾いた笑いで流したがそれは勘弁してほしい。ただでさえ剥き出しの足に目が奪われているのに。
 女性のそれとは違い柔らかさの感じられない足は、しかし同じ男である自分とも違い無駄毛が無ければ色も白い。それをソファに上げて寝こけていたのだから、そのまま開いて悪戯をしなかった自分は誉められるべきだと思う。
「寝るといえば今何時だろう……ミスタ、夕食にしますか? もう夜食の時間かもしれませんが。それとも寝ますか?」
 体の為には今から数時間寝て、起きてからこのピザを朝食にするべきだろう。
「……寝るって、お前と?」
 はい、と頷いた。
 随分とぐっすり寝ていたが未だ眠れるのだろうか、という疑問は置いておいて。
 昨日も一昨日も『一緒に』寝ているのに何を確認する必要が有るのかとジョルノはこちらをじっと見ている。
「そういう意味じゃあないんだが」
「僕もそういう意味じゃあありませんよ」
「昼の続きをしようって意味なんだが」
 照れるか嫌がるか、それともまさか笑顔になるのか。
 しかしミスタの焦燥を意に介さずにジョルノは無表情のまま口を開いた。
「ずっと待っていました」
「待ちくたびれて寝ちまう位?」
「ずっと、ずっと……漸くだ」
 事も無げな声音だが切実そうに強くしがみついてくる。
 しゃがむミスタの首に腕を回して離れない。元より引き離す気も無い。貸した寝間着に包まれている背を抱いた。
「待たせて、悪かった」
 仕事をしてきたから、なんて言い訳をせずに。そう、もっと単純に。
「明日って何時までにあの事務所に行けば良いんだ?」
「貴方とアバッキオは深夜まで仕事が有ったので休んでも誰も何も言いません」
「お前は? 昨日みたいに学校の後って言えば何とかなるか?」
「何とかします」
 そんなに何日も学校に行かなくて大丈夫なのか、と聞いて気が変わってしまっては困る。
「僕はもう覚悟が出来ています」
 待っていたのは、待たせていたのはいつからなのか。
 仕事で体は程好く疲れていたし、緊張からか口の中も渇くので、辛口のジンジャエールを飲んでからにすれば良かった、と後々思った。

 2人で並んで寝るには若干狭いシングルベッドの中央にジョルノを張り付けるように押し倒す。
 緊張しているのかいつも通りなのか無表情の整いきった顔や体に、こんな質素なベッドや自分の寝間着は似合わないと思った。
 天蓋付きのクイーンサイズのベッドにでも寝かせるべきだし、同等かそれ以上に思わせる程満足させなくては。
 ミスタが顔を近付けると自然に目を閉じたので唇に唇を這わせる。
「……ん……んっ」
 唇を割るだけで荒い息を漏らし、その息の中に声も混じらせた。
 ねちねちと水音を立ててから口を放す。見下ろした顔は先程と変わらない無表情のようで、しかし目を蕩けさせている。
「……お前可愛いな」
「それはどうも」
 この状況で抑揚の無い言い方をされては盛り下がる――のが普通なのかもしれないが、芝居1つしていない素なのだと思えて嬉しく逆に昂った。
 ここはベッドの上なのだから、もっともっと愛を伝えなくては。しかし何から言えば良いのか。まるで童貞にでも戻ったかのようだ。記憶が無い分実質そうなのかもしれない。
「ミスタも、格好良いです」
 嗚呼これは確かに「それはどうも」位しか返せる言葉が無い。こんなにも嬉しいのに。
 掛ける言葉の浮かばないままミスタはその口をジョルノの右耳へ寄せる。
「……ふ、ははっ、くすぐったい」
 けたけた笑う声が耳に届く。とうやら耳穴に息を吹き掛けられるのも耳朶を甘噛みされるのもお気に召さないらしい。
 仕掛ける側としても小さいピアスが微妙に邪魔臭い。ポルノビデオではないのだからアクセサリは全て外させておくべきだった。
 次いで唇を頬、顎のライン、首筋へと押し当てなぞる。
 首の横に口付けると鼻を長い髪に突っ込む形になる。ふわふわとした金髪は良い香りがした。
「んっ……息が、くすぐったい……ん、あ……」
 声に媚が混ざった。どうやら首を愛撫されるのは好きらしい。息も荒い。
 その反応が面白くて懐いた犬のように舐めたり痕が残る程強く吸ってみた。零距離なので見えてはいないが、体を捩っているのがわかる。
 顔を、体を離して改めて見下ろした。
「はぁ……はぁ……ミス、タ……」
 息の合間に切なげに名前を呼ぶ様子は先程までとは違う。
 顔を赤くして胸を上下して、強い目も羞恥で横に逸らして伏せた。その様子にドキドキと胸が高鳴ったし、股間に血液が一気に集中した。激しく酷く興奮した。
 人を殺した時と同じ位の――比べる物が未だそれしか無い狭い世界に生きるミスタはジョルノが着ている己の寝間着に手を掛ける。
「止めて下さい」
 ピリと短い言葉に手が止まった。
 ジョルノが両手で自身を抱き締めるように寝間着を掴み、脱がされまいと睨み付けてくる。潤んだ目では説得力は無い。
「な、何だよ……恥ずかしいのか? 着たままの方が良いのか?」
 勿体無い。誰に見せても恥ずかしくない体躯をしていると服の上からでもわかる。
 ただ対峙しているミスタをはじめ、チームの仲間は――未だ子供で小柄過ぎる1人を除いて――皆体格が良いので本人としてはやや華奢に思っているかもしれない。
 しかし、だから脱がないと言い張っているのではなかった。
「僕は……男だから」
「は? 何を今更。そんなん見りゃあわかる」
 女物の服を着せて化粧を施して傘を持たせて夜中に遠くから見ればわからなくなるかもしれないが。
「脱いでも胸の膨らみが有るわけじゃあない。それどころか……ミスタ、目を閉じていて。僕はこういう事は初めてですが、何とかしてみますから」
「初めて? いやまあ俺だって多分男相手は多分初めてだと思うぜ。男同士なん、て……」
 早々無いと続けるつもりの言葉が出ない。男同士で性交渉など早々でも遅々でもなく、先ず有ってはならない。これは神の教えに背く、謂わば大罪だ。
「……僕は男女どちらの経験も有りませんが」
「童貞?」
「はい」
「その顔で?」
「顔が関係有るんですか?」
 大いに有る。声を大にして言う事ではないが、どうしても受け付けない容姿というものは存在する。
 逆にジョルノのような典型的な美少年であれば大抵の女は押し倒されればされるがままになりそうなものだが、そもそも性欲を覚えないタイプなのだろうか。10代の男がそんな事有り得るのだろうか。
「女を組み敷くなんて、今の僕は組み敷かれていますが……兎に角、気遣って贈り物をして時間と場所を見繕って漸く射精1つするだけなんて、人生において大いなる無駄だ」
「言い切ったな」
「僕は無駄な事が嫌いなんです。こういった事をするのは無駄ではなく有意義だと思える、そうしたいとかそうするべきだと思える相手でなくちゃあならない」
 両手で寝間着を必死に握り締めるジョルノにとって、ミスタは結ばれたいと思える初めての相手。
「初めてを貰えるなんて光栄だ」
「最初も最後も全部あげます」
 ここまで言われて萎えているようでは男が廃る。ミスタはジョルノの手首を掴んで寝間着から剥がした。
「ミスタ、僕は……幻滅されたくない」
「俺はお前が好きだから幻滅なんてしない」
「僕だって貴方が好きです! だから……男だから出来ないとかそういった事を、ここまで来て言われたくありません……」
 愛の告白をしたというのに、同じ気持ちだと返してきたのに、今にも泣き出しそうな顔をしているのは何故か。
 ここはベッドの上なのだから、もしもそうは思っていなくても愛の言葉を吐き続けて――思っていないのか? ベッドの上特有の戯言なのか?
 守る砦の無くなった寝間着に改めて手を掛けた。脳内ではガンガンと警鐘が5、6人の男児の声を装って鳴り響いている。
「ソレハ言ッチャア駄目ダ!」「絶対ニ後悔スルゾ」「気持チ悪イッテ思ワネーノカ?」
 煩いぞ! 今良い所なんだから、お前達は少し黙っていろ!
「神様ヘノ叛逆ニナッチマウ」「後戻リ出来ナイゼ?」「ソレダケハ止メテオケ!」
 自分の中の誰か達の声を、頭を左右にぶんぶんと揺さぶって物理的に振り払った。
「……お前が男でも、男同士でも、関係無ぇよ! お前が……好きだ」
 一体誰に言い聞かせているのだろう。ジョルノか、ミスタ自身か、自身の中に居る何人かの声の主か。
 寝間着を捲り上げると予想通りに平らな胸をしていた。取り分け筋肉質で硬いという事もないが、女の柔らかさは見当たらないし乳首の作りは全く違う。
 触れようと伸ばした手は一瞬の躊躇いで止めてしまったが、全て捧げるとまで言ったジョルノが恐れているのはこれの事だと気付いた。
 躊躇を振り切って手の平全体で触れた胸は激しくバクバクと鼓動している。
 乳房が小さくても乳輪が大きくても左右のバランスが可笑しくても、女相手ならベッド上に相応しい誉め言葉が出てくる筈なのに。
「何も覚えてねーから……俺もある意味童貞?」
 軽口で誤魔化すとジョルノは「そうですね」とだけ返し、ミスタの右手の甲に左手を重ねてきた。
 そんな事をしなくても逃げないのに。否、この期に及んで未だ逃げ出しかねないと思われているのか。
 右手の人差し指と中指で乳首を摘まみ軽く捏ねる。
「ん……」
 小さく声を漏らしてジョルノは目を閉じた。
 指に挟まれているそれが硬くなってきた。右の乳首が外気に晒されるばかりで寂しげに見えたので顔を近付けて口に含む。
「あっ……う……ん」
 初めてらしいので決して噛まずに舐め上げるなり唇で挟むなりの刺激を与える。少し強めに舌で潰すとびくと体を跳ねさせた。
 なんだ、出来るじゃあねーか。何とかなってるなってる。
 こうして調子に乗るのが自分の長所であり短所だろうと思いながら右手を下腹へ滑らせる。
 女性のそれとは違う下着。まして中央は濡れそぼるのではなく、柔らかくも硬い肉で盛り上がっている。男というワードが頭に流れ込みミスタの方は一瞬萎えた。
「……恥ずかしい」
 消え入りそうな声に顔を上げると、ジョルノが両手で自身の顔を隠していた。
 らしくなく照れる姿はやはり『可愛い』ので萎えた筈の感情も箇所も再び高揚してきた。胸への愛撫の為にべたりと付けていた体を離し、両手でジョルノの下着を掴む。
「俺以外の誰にも見せないから」
「当たり前です」
「だから1回ケツ上げて」
 今度は早口の返答は無く、代わりに素直に尻を浮かせた。
 するりと下着を抜き取ると見慣れた――個人差が有るので自分とはかなり違うが――光景が広がっている。
 興奮してそそり立っているそれに触れるのは平らな胸に触れる以上の抵抗が有る。局部まで作り物のように整っているので自分が女ならば抵抗は一切無いのだろうと思った。
「ミスタも、脱いで下さい」
 くぐもった声にジョルノの顔を見ると、口元を両手で隠しながら恨みがましい視線を向けてきている。
「僕だけ脱いでいるなんて恥ずかしいです」
「ああ、わかった」
 テンポ良く事を進められない情けない男に見えているのかもしれない。記憶を失う前もこんな風に不馴れだったのだろうか。
 1度ベッドを降りてナイトテーブルの前に立ち、帽子を脱いで仕込んでおいた弾丸6つを左手に出す。右手で乱暴に上の引き出しを開けて弾丸を落として入れた。
 両方の袖からも3つずつ弾丸を取り出して乱暴にしまってから上着を脱いで床へ放り投げる。
 全て脱げという視線を感じるので下も一気に脱いだ。半端に勃ち上がっているので恥ずかしかった。
「そうだ」
 ミスタはぽつりと呟いて屈んだ。ナイトテーブルの下の引き出しを開けてコンドームの箱から個別包装されているそれを1つ取り出す。
 立ち上がりベッドへ上がりながらコンドームを開けてゴミを放り投げ、中身を右手の中指に嵌めた。物が物なので指にペタリと張り付いたが、当然のように長さも太さもゆとりが有り過ぎて不格好だった。
「足開いてくれ」
「開く?」
 仰向けのジョルノは数瞬考えを巡らせ、疑問を抱えた表情のまま取り敢えずと膝を立てる。
 まあ、いっか。
 コンドームを付けた指を尻の穴に入れる。その為に臀部を晒してもらいたい。しかしそれを直接言っては羞恥が臨界点を突破して、折角立てた長い足で蹴られかねない。
 上手い具合いに姿勢を変えさせていけば何とかなるだろう。腕の見せ所だと自分に言い聞かせて覆い被さり体を寄り添わせた。
 不安がらせないように頬に口付けたり、剥き出しの素肌同士を摺り寄せたり。ジョルノも警戒心を解いた猫の子のようにそろと伸ばした手でミスタの肩を掴む。
「……あ」
 中指の先――更にその先の、コンドームの精液溜まり――が肛門に触れると小さく声を漏らした。
「力は抜け」
「はい」
 人間言われると意識してより力が入りやすいが、やはり頭の回転が早いのかジョルノは大きく息を吸って吐いた。目を閉じてもう1度息を吸い、ゆっくりと吐き出すタイミングに合わせて中指を肛門へと滑り込ませる。
「はぁ……う、ん……はぁ……」
 異物感に顔を顰め(しかめ)ながらも呻き混じりの深呼吸を続ける様子が健気に見えて、ミスタは広げるべく入れた筈の指をゆっくりとだが何度も抜き差しした。
 本当は指の飲み込まれていく箇所が見たい。しかし体を離した挙句性器の裏を顔を近付けてまで見ては中断を言い渡されそうだ。
「痛くは?」
「ないです……はぁ……けれど……トイレに、行きたい感じがする」
 排泄器官なので仕方の無い現象だ。男と違って生物的に「入れられるのに慣れている」女であってもそう感じるだろう。しかし色気が無い。
 挿入される側の女であっても本来物を出す事にしか使わない箇所を弄られ(まさぐられ)れば不快に思っても仕方無い中で、覚悟を決めていたにせよ男のジョルノがこれだけ受け入れているのは凄い事なのかもしれない、と思うしか無い。
「大丈夫そうになったら『俺』が入るから」
 指の抜き差しを止めてほぐすべく腸内で折り曲げる。
「大丈夫……ん、はぁ……大丈夫」
「痛くないなら良かった」
「もう、大丈夫ですから……」
 流石にそれは無理が有る。人の性器の大きさを何だと思っているんだと言いかけた口を噤んだ。
 肛門性交の経験が有る女であってもまともな潤滑油が無ければ――と考えた。正確には思い出そうとした。無い筈の記憶を手繰り寄せる真似が脳に負担を掛けるのか、じりじりと焦がされるような痛みが頭の中を走る。
「……ミスタ?」
「ちっと頭痛。仕事の最中も有ったから一昨日打ち所相当悪かったんだろうな。まあ元凶は殺しちまったけど」
 肩を掴んでいた手が離れてミスタの頬に触れた。キスでも強請られているのかと顔を近付けると、唇ではなく額に額を当ててきた。
「僕以外の人間の事なんて考えないで下さい」
「……そうだな、今は死んだ野郎の事なんて考えている暇無いな」
 ベッドの上で裸で2人きり。野暮にも程が有る。
 そう思ったからか、熱を測るような姿勢のままが意外に心地良いからか、すぐに頭痛は治まった。
 肛門から中指を抜き取った。水気を含んだズルという音がしたし、ジョルノも「うっ」と短く呻いた。額を離して体を離し、中指からコンドームを外す。
「それは捨てて下さい」
「あ?」それ、と指されたであろう使用済みでありながら中に何も入っていないコンドームに目を向けて「これ?」
「そうです。捨てて下さい」
 1度広げてしまったので装着するのは手間取るし、箱の中には幾つも残っているようだったから1つ捨てる位何の問題も無いだろう。わかった、と返事をして右手で握り締めた。粘液に塗れた軟体動物のようで気持ち悪かった。
 ナイトテーブルの横に有る小さい、最後に中身を捨てたのがいつか見当の付かないゴミ箱へ投げ入れてから、新たなコンドームを開封する為にもう1度ベッドを降りなければならない事を思い出してミスタはひっそりと肩を落とす。
「僕は妊娠しません」
「ん? 急にどうした?」
「病気にもさせません。僕のスタンドは『生命』を生み出せる。病気の細胞を取り除いた所に正しい細胞を作る事が出来るから、万が一病気になってもすぐに治せます」
 させないとの治せるのとでは大きく意味が違うが、それよりもジョルノが今言いたい事を読み取ってミスタは眉間に皺を作った。
「俺は責任取れないとか病気が怖いとかじゃあなくて、相手の――お前の体が心配だから付ける」
 精液の成分を考えると、それを抜きにしても腸内に液体を出されれば腹を下す可能性が高い。
「心配要りません、どうとでも出来ます。だから、だからこのままして下さい」
「何で」
「1ミリの壁も無く繋がりたいからです」
 返す言葉が無かった。思い返せば先程何の意識もせずに好きだと言ったし言われていた。ミスタは左手でジョルノの腰を、右手で完全ではないにしろしっかり膨張している自身の根元を掴む。
 指の何倍もの太さをしているし、未だ柔らかさが残っている。ましてコンドームに付着していた微量の潤滑油しか無い状況で上手く挿入出来る気がしない。
 神様どうか何とかしてくれ。
 いつだって縁起を担いで乗り越えてきたのだから今回も――しかしこれは神の教えに背く行為。神が味方をしてくれるわけがない。
 亀頭を尻の肉と肉との間に差し込む。皮膚に擦れるしジョルノも「ん」と小さく声を漏らしたので性器は益々硬くなってきた。
「もっと足上げられねーか? 膝持つとかして」
「……わかりました」
 恥ずかしい、と言い掛けた口から了承の言葉が出た。両方の膝の裏に手を入れて体を折り曲げ、先程指で弄ばれた(もてあそばれた)臀部を晒す。
 腰をやや浮かさせて真上から突き刺すようにゆっくりと挿入する。窄まりの皺が伸びて意外に抵抗無く、ぬるりとカリまで飲み込まれた。
「はっ……はぁ……く、う……はぁ……ぐ」
 苦痛に歪めた顔で必死に、合間に呻きを挟みながら深呼吸をしている。
「はぁ……全部……はぁ……入る……とめなくていい……」
 1番太い所が入ったのだから根元まで入る筈だ。女陰と違い突き当たりが――すぐ近くに――有るわけでもない。
 体を折り曲げられて排泄器官を広げられて苦しさしか無いであろう相手の顔と、こちらの性器に合わせて形を変える肛門の様子に酷く興奮した。その間に有る平らな胸も裏側を見せる男根や嚢も気にならない。
 硬さが足りず挿入に失敗したらどうしようと思っていた事を忘れる程に、結合部が陰毛で隠れる頃にはガチガチに血液が集まっていた。
 記憶を失う前から宜しくない性癖を持っていたのかもしれないし、頭を打った事によって可笑しな性癖に目覚めたのかもしれないし、ここまで受け入れられるのが嬉しいだけかもしれない。
「……ミスタが、全部……入った……」堪え切れず細めた目に涙を浮かべ「……嬉しい」
 愛しい気持ちと、何をしても悦ばれるのではという卑しい気持ちが込み上げる。
 ミスタと手を伸ばし親指で目尻を拭いてやると腸壁がきゅっと狭まった。
「……保ちそうにない」
 最後に自己処理したのはいつなのだろう。廃工場で目覚めてからは一切していないのでどんなに短くとも3日分は溜まっている。
 聞く所によるとグイード・ミスタは健康な18歳の青年。性器をべたついた肉に搾られて達するなと言われても無理が有る。それをわかっているから腰1つ動かせないでいた。
「それは……気持ち良いから?」
「当たり前だ」
「出してしまって良いですよ。僕も、苦しいのに……何だかぞわぞわする……んっ……」
 では遠慮無く、と腰を引くとジョルノはぶるりと体を震わせる。抜き取らずに再び入れると眉を寄せて辛そうな表情を見せた。
 刺激的な光景を見せられながら、微量の腸液でぬるつく粘膜が性器をより刺激してくる。
 ヤバい、ヤバい! これはマジですぐ出る!
「っ……なぁ、手前と奥、どっちが好きなんだ?」
 男女で勝手は違うが、良い箇所を集中して擦って満足させてしまえば、と思い尋ねた。探る作業が出来る程の余裕が今は無い。
 しかしジョルノは困惑した目で見上げて首を傾げた。
「わかんねぇよな」
「はい」
 取り敢えず抱かれる女が喜びそうな――今一瞬、ピリと静電気のような頭痛が起きた――体位に持ち込んだ方が良いだろう。膝の裏から手を離させて足を伸ばさせ、上半身を押し潰さんばかりにぐっと寄せる。
「んッ……」
 ジョルノは圧迫された苦しさで声を漏らしたようだが、すぐに背に両手を回し抱き着いてきた。
 火照り汗ばんだ素肌同士が触れ合えば精神的な満足感を与えられる。自分も得られる。
 すこぶる動きにくくはなったが、懸命に抱き着かれるというのは悪くない。
「……ん、ん、う、んっ」
 顔も見えない位に密着して抱えたまま前後に揺する単調な動きしか出来ないが、それでも吐息が色を帯びてきた。
「痛くねぇか?」
「ん、う……少し、痛い……んっ、ん、少し……」
 そう言われてもここまできた以上腰を止められない。
「は、あっ……切れそうだし……奥に、来ると、ん……吐きそうに、なる……う」
「悪ぃ」
「大丈夫、ミスタが、ん、う……気持ち、良いなら……」
 こちらも付け根の辺りは食いちぎらんばかりに締めてくるし、奥の方の腸壁はとりわけ硬いしで素直に気持ちが良いとは表現し難いのだが。
「俺は最高に、気持ち良い」声に荒い息を混ぜて「上手く、言えねーけど」
「う、良かった……ミスタ、ん、好きです」
「俺も、お前が、1番好き」
「え……?」
「悪いかよ、お前の事、世界で1番、好きになっちゃあ」
 甘ったるい口説き文句を吐きたいのに、何故こうも上手くいかないのか。これが初めての『本気』だからか、それとも。
「……ん、はあ、あっ、好き、んっ、あッ」
 声色が変わった。背を掴む手の力も強くなった。突く度に体をびくつかせ、明らかに苦痛よりも悦楽を覚えている。
「んンッ!」
 喘ぎを上げて両足を腰に絡みつけてくる。四肢でしがみつかれては上手く動けないが引き離すつもりは無い。腰を引けないのならばひたすらに奥へ奥へと突けば良いだけだ。
「ん、んーッ! んんっ! ぐ、ンッ!」
 直腸に子宮口が有るわけでもないのに先端が行き止まりに当たる。その度にジョルノは痛いのか苦しいのか感じているのか達しているのか隣室にも聞かれてしまいそうな程の大声を上げた。
 これが結腸かと、心に1番近い体の最奥に触れているのかと思うとがむしゃらに前後させている腰が勝手にガクガクと震える。
「ッ……あ」
 出る、と思った次の瞬間には伝える間も無く射精していた。
 もう何度も経験してきた、しかし記憶には無い射精の快感。溜め込んでいたからか2回に分けて吹き出た精液はどくどくと腸内に流れ込んでゆく。
「ンッ! あぁ……はぁ……はぁ……」
 腕の中の体はビクンと跳ねた後、大きな呼吸しか出来ていない。しかし大して力も入っていないのに両手両足を離そうとはしない。
 可愛い。
「暑い」
 頭で考えていた事とは少し違う事が口から出た。
「重い」
 しかも言われたいそれとは全く違う言葉が返ってくる。
 仕方が無いとは思うが色気が無さ過ぎる。放出後の疲れきった全身で押し潰しているのだから下に居る人間は重たいに決まっている。しかし出来るならば恋人同士のような会話を――こちらからしなくてはならないのに、吐精を別にしても朝からこの時間まで働いた疲れで頭が回らない。
 取り敢えず、とジョルノの上から降りた。
 気を利かせ横に詰めてくれたので隣に仰向けになる。
 お世辞にも綺麗とは言えない天井が広がっている。『初めて』がこんな所では申し訳が無い。これを言い訳に次以降を誘う文句にすれば良いのか。
「ジョルノ」
「はい」
「……疲れた。いや、仕事が」
「お疲れ様です。もう寝たらどうですか」
「冷静過ぎて寂しい」
 優しい言葉をわざわざ掛けてやらなくても傷付くタイプではないだろう、という甘えが有った。
 女なら終わってすぐにこれだと幻滅してくるだろうがこちらも出す物を出したのだから3割増しに好みに見えて欲情する事も無くなっている。男同士は、と避けてきた筈の部分に甘えきっている。
 言い直さなくては、何か言わなくてはと動きを鈍らせている頭で必死に考えているミスタの二の腕に息が掛かった。
「冷静になんかなれていません」
 横を向いて顔を近付け、額をぴたりと付けている。
「今の僕は愛する人とこうなれたから嬉し過ぎて上手く話せない……愛された、と考えても良いんですよね?」
「可愛い」
 今度は思った事がそのまま言えた。
 額が触れている腕を上げた。そのままぐるりと回すように二の腕の柔らかい箇所でジョルノの頭部を押す。
 良いのか? 良いとも。
 無言のやり取りの後にジョルノは頭を上げて、負担の少ない肘にその頭を乗せた。
 近過ぎてよく見えないが、それでも疲労困憊ながらもじっとこちらを見てくる顔や様子を可愛いと思う。精液を、性欲をごそっと吐き出した後の今でも思う。
「愛しているとかそういう恥ずかしい事を俺に言わせる気か?」
 そんな言葉ベッドの上でしか吐けない。否、ここはベッドの上か。
「態度で示してくれれば良いです。例えばこのまま、一緒に眠るとか」
 頭を僅かに動かしたのかジョルノの睫毛が二の腕に触れる。目蓋を伏せているのがわかる。つられてミスタも目を閉じた。
「そんな事で、良いのかよ……」
 どっと押し寄せてきた睡魔に言葉尻が間延びする。
「はい」
 短く答えてジョルノの呼吸音が消えた。自分のそれと完全に重なった。
 倦怠感と満足感と腕の重みが心地良くて続く言葉が出ない。吸う息も吐く息も寝息に変わりゆく。

 

 

「『いつまでも存続する物は信仰と希望と愛の3つである。この内で最も大いなる物は愛である』」
 服も着ずにジョルノはベッドに腰掛けて緑色の表紙をした聖書の中の一節を読み上げる。
 声量は特別潜めていないし、同じく脱いだまま寝入るミスタが起きる様子も無い。
「面白い……いや、素晴らしい教義だ。信仰も希望も捨てる価値が愛には有る――その通りとしか言いようがない。今は手一杯なんて言わずに宗教学にももう少し触れてみよう」
 将来の為に、噛み砕けば金の為に最も良いと思われる法学を、もしくは何の役にも立たないが何故か興味のそそられる考古学辺りを専攻するつもりだった。
 しかし世の中には様々な学問が有る。その全てを拾い上げる事は出来なくても、興味が湧いた分野の本を試しに読む事に損失は1つも無い。実際触れてみた脳科学も心理学もとても役に立っている。
 聖書を閉じて膝に置き、そっと後ろを振り返った。
 ミスタはジョルノが腕から抜け出した時と同じ姿勢のまま、仰向けで枕に出来るように左腕を伸ばした状態で眠りこけている。
 少しだけ開いた口からすうすうと寝息が聞こえる。やがてその寝息はイビキに変わってしまうだろう。
「可愛いな……ふふっ」
 大の男を捕まえて可愛いとは可笑しな形容詞だ。だがこの無防備さはそうとしか言いようが無い。愛おしくて笑いが止められなかった。
「ふふふ、ははっ、あははははッ!」
 大笑いが高笑いになりそうだったので口を押さえた。手の中で笑いは熱い息となって漏れる。
「……全てが、全てが理想の展開だ」口から手を放して「愛で愛を手に入れられた」
 駄目だと諦め掛けた物も大いなる愛で手に入れられるのだ。ジョルノは己の手の平を見て万能感を覚えた。

 友情に肉欲を足した物が恋愛感情だと思っていた。様々な面で相性が良く――これは互いに自覚が有ったし、第三者から見てもそうだった――隣に居る事が常となりつつある同性へ『恋』をしてしまった。
 但しジョルノが一方的に。
 年頃特有の行き場の無い性欲が最も近くに居る人間に向かい始めた事に、本人よりもミスタの方が早く気付いていたらしい。
 想いを告げられないようミスタが先回りをして取った行動は1ヶ月――彼が言うなら4週間か――も保たない恋人=特別な『異性』を作る事だったり、街で『女性』に声を掛けて部屋まで連れ込む事だったり。
 非常に不愉快だった。同性を理由に頭から対象の外に追い出された事に腹を立て、しかしどうすれば良いか全くわからず涙を零した事も有る。
 仲間だったり友達だったり相棒だったりとしては完璧な関係だからこそ余計に辛かった。
 例えば尾のような形のスタンドが起こした風で鉄材が崩れ落ちてきた時、ミスタは驚きに大声を上げるよりも自分が逃げるよりも先にジョルノを助けてくれた。強く突き飛ばすという形で。
「うわっ」
 尻餅を付いて声を上げたジョルノが次の瞬間に見たのは、幾つかの鉄材にミスタが飲み込まれる姿。
 しかしテレビで特集を組まれる大事故のような数ではない。幾つかの鉄材を強く押してゴロゴロと転がせば下敷きになった体は簡単に引っ張り出せた。意識は失っていたが。
「ミスタ、ミスタ!」
 本当は声を出したくはなかった。尾のようなスタンドを持つ、麻薬売買組織の下っ端の男に存在を気付かれたくなかった。積み重ねてあった鉄材を崩したのは偶然に過ぎないと思っている。
 だがもう姿は無いし、取引のフリをしていたナランチャもまた追っていった為に見えない。
「……抱き締めて庇ってもらいたかった」
 だから本音を漏らした。
「どんな状況でも良いから、貴方に抱き締められてみたかった」
 背を鉄材に預けるようにミスタの体を座らせて、そっと抱き付いてみた。温かい。こんな事をしている場合ではない事はわかっている。
 最も出血の激しい傷口は左腕。頭や右手を庇ったのだろう。左の脇腹、両の脛、右足の甲と合わせて傷を塞いだ。
 その後に気付いた。額にも掠り傷が有る。
 出血は無い。単に擦り剥き赤くなっただけの、皮が剥がれたと言えば仰々しくなってしまう程の小さな怪我。
 それを見て理化学実験室に置いてある人体模型を思い出した。
 額の奥には脳味噌が入っている。脳味噌は多くの機能を有している。感情や記憶も司っている。
「ここで僕を好きになったり、僕に関する事を覚えたりする」
 人差し指で触れた。今からする企みを思えば指先が震えた。
 ジョルノのスタンド、ゴールド・エクスペリエンスは小動物や植物といった『生命』を生み出す事が出来る。
 最近ではそれを応用し人間の細胞を新たに作り出して傷を塞ぐのがチーム内での担当だった。
 もしも脳に存在する沢山の細胞の1つだけを作り変えられたとしたら、人間は一体どうなってしまうのだろう。
 1部の肉を植物の芽のような形に変えて――肉の芽とでも呼ぼうか――記憶を捻じ曲げ感情を摩り替える事も可能ではないか。
 試せるのは額の傷を治す手が滑るかもしれない今しか無い。

 ゴールド・エクスペリエンスに出来たのは「記憶を封じる」事のみだった。
 理想は『愛』で崇拝させ服従させ支配する事だったが、流石にそれが出来る程の精密動作性は持ち合わせていなかった。まして外的要因で操作するには記憶よりも感情の方が難易度が高い。
 頭蓋を取り外し肉眼で確認しても黄色肉芽腫(おうしょくにくがしゅ)と見紛うだけだろう小さな肉の芽だが、これを生やすという事は『精神』に直接触れる事を意味する。
 精神力が全てといえるスタンドが弱体化するのでは、ミスタのスタンドは6人で1つのセックス・ピストルズなので彼らの内何人かを欠いてしまうのではないか、という不安が肉の芽を生やしている最中に浮かんだ。
 しかしこの予想は悪い意味で外れた。ミスタは完全にスタンド能力を失ってしまった。矢に射られて能力を手に入れた、という事を忘れたからだろうか。
 ピストルズの事は好きだった。もう2度と会えないかもしれない今も好きだ。皆が皆自分を好いてくれている。
 その事も有り最初は複雑だった。記憶よりも好意を操作出来れば、同じ記憶を失うにしても自分の事だけ覚えているように出来ればと顔を顰めた(しかめた)。
 だが次第次第に破顔した。どんどん笑みに変わるのを手で隠さなくてはならない程に。
 1番初めにミスタと『出会った』のは僕だ!
 ミスタが目覚めてから数分でナランチャが来なければ、そう大声で宣言して高笑いをしていたかもしれない。思い返すだけで今でも顔に笑みが浮かぶ。
 羨ましかった。チームの全員が最後に加入した自分よりも先にミスタと出会って思い出を作っている。妬ましかった。
 だが流石に全員●してしまおうとは思わない。彼ら皆を尊敬してはいる。
 排除すべきはチームメンバーではない。

 肉の芽を植え付けて最初の日から早速泊まり込む事が、部屋に転がり込む事が出来た。
 寝間着を借り同じベッドに寝る事まで出来た。記憶が無いというだけで、動かずとも体が触れ合う狭さのシングルベッドで同衾出来るとは。
 他者が自分の呼吸に合わせて呼吸すると眠りに落ちやすくなる、という赤ん坊を寝かし付ける方法が有る。
 母親、もしくは父親が抱いた赤子に合わせて息を吸って吐いてと繰り返せば寝入るという話を早速実践してみた。
「……ミスタ、起きていますか? 起きているなら少し、話をしませんか?」
 呼吸が深くなったので声を掛けたが返事が無い。早速眠っている。
 大きな音を立てないように静かにベッドを抜けた後も起きる様子を見せない。顔を近付けて見た寝顔は少し間が抜けていて可愛いと思った。
 目に悪い事を承知で電気を付けずに、充電器に挿してあるミスタの携帯電話を手にした。無用心な事にロックは掛かっていない。
「001はブチャラティか……まぁ仕方無い。ミスタの事だから004は空いているのかな?」
 実際にアドレス帳の4番目には誰も登録されていなかったのでジョルノはくつくつと笑う。
 立ったまま行うには結構な数だろうと踏んでベッドの上に腰掛けた。軋んだので起こすかと思ったがミスタは眠ったままだった。
 アンナ、ビアンカ、クリスティーナ、ドーラ、エレナ、フランチェスカ、イザベラ、カレン、リリアーナ、ミカエラ、ニコラ、オルタヴィア、パトリシア、リタ、シルヴィア、タチアナ、ヴァネッサ、etc…
「一体幾つ有るんだ……」
 起こさないように独り言は避けるべきだとわかってはいたが、流石にうんざりとした声も漏れる。
 目よりも先に指が疲れてきた。それでもここで止めるわけにはいかない。
 明日になれば誰かから電話が掛かってくるかもしれない。記憶を取り戻すべくミスタ自身が誰かに連絡を取ろうとするかもしれない。
 その前に女性の名前で登録されている電話番号を全て着信拒否にしてアドレス帳から削除しておかねば。
 念には念を入れて知らない名前は男性名でも削除しておきたかったが、そこまでしていては夜が明けてしまいそうな数の登録が有った。

 読書は嫌いではないので任務と任務の合間に図書館へ入り本を読んで時間を潰す事が有る。
 そこで読み得た心理学の知識は意外と役に立った。
 例えば「深い仲でなければ同じ物を食べない」という心理学。1つの皿から取り分けずにフォークを伸ばす事であったり、もっと短絡的な例えなら他人が齧った物を齧るというのは仲が良くなければ出来ない。
 つまり同じ物を食べれば深い仲と錯覚するのではないか。
 顔を近付けて話しながら1つの鍋へピックを入れたり、口付けた揚げ菓子を舐めたりすれば、逆説的にはそれだけ深い仲の証拠になる。
 他にも「頬に触れるのはキスをしたい時」という項目も有った。これは読んだ時点で頬に触れさせればキスへ繋がるのではと思った。
 幾ら『拳銃使いのミスタ』とはいえ射殺する時にはそれなりに興奮するだろう。過去射殺してきた記憶が無ければ尚更だ。
 本を読むまでもなく知っていた吊橋効果――恐怖の心拍数上昇を恋愛的なそれと勘違いする事――を利用して昂ぶっている時に頬を付けたり何なりして意識させ、その後に手を取り無理矢理にでも己の頬に触れさせる。
 結果は大成功だった。昼間からキスをして、夜には遂に一線を越えた。
 初めての事でどうなるかと不安は有ったが何とかなった。ミスタの方に要らぬ経験が有ったのが良かったのだろう。そう思えば見知らぬ過去の女達の存在を許す事も出来る。
 最中に欲しかった言葉を貰えて体ではなく脳味噌でイキまくった。2日前のように呼吸を合わせ、2つの仕事を終え疲れきっているミスタが眠りに就くまでの僅かな時間、人生で最良の時を過ごしていると思った。
 嗚呼良かった。
「別に皆を貶したいわけじゃあないのだから」
 仲良くなるなと言うつもりも無い。ミスタがジョルノの次に好きなのが誰であろうと構わない。必要なのは「ジョルノ・ジョバァーナが最も好き」という一点のみ。
 自分よりも誰かを好くのは困るのでどんな人間か話す際には良い面を伝えないように、悪い面を誇張して吹き込んだりもしてみたが、先の通りチームメンバーに対して尊敬こそすれ嫌悪はしていない。
「僕は1番が好きだ」
 起きる気配の無い顔に告げる。
 最も近くに居る人間の『1番』が自分ではないなんて馬鹿な話が有って堪るものか。
 隣り合ってここまで不快にならない、共に居る事こそ至高と思わせる相手の1番が自分である事は至極当然。
「愛していますよ、ミスタ。僕の1番は貴方だ。そして貴方の1番はこの僕だ。僕達を繋ぐ愛は何より貴い(たっとい)」
 程好い筋肉を纏った胸は未だ規則的に上下していた。


2018,08,10


もしも全文を読み終えてこの後書き欄をご覧頂いているのでしたらお疲れ様でした。
スクロールバーの小ささの通りこれ5万文字超えてました。
利鳴ちゃんと記憶喪失って王道ネタだけどあれもこれも出来るね!?と盛り上がり、其の中で「記憶喪失の攻めを甲斐甲斐しく世話する受け、但し元凶」という美味しいネタを頂きましてですね。
サイト開設記念日に「本命カプの生存if記憶喪失合わせ」をどーんとぶち上げるに至ったのでした。書いてて大変に楽しかったです。
<雪架>

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