フーナラ 全年齢


  君の世界から僕が消えても


 目を覚ましたナランチャは、室内を見廻し、無意識の内に何かを探している自分に気付いた。いや、“何かを”ではない。“誰かを”だ。だが独り暮らしの部屋の中に、自分以外の者がいるはずもない。視界に入ってくるのは、いつも通りの景色でしかない。何も不足していないその光景の中に、一体何を求めていたのだろう。
 少し考えて、寝惚けているのだろうと結論付ける。複雑なことを考えるのは得意ではない。一番簡単な答えを“答え”にしておくのが、最も簡単だと――至極当たり前のことを――自分に言い聞かせながら、ベッドから出て、顔を洗い、服を着替えて朝食も済ませた。
 今日は全員に任務が与えられると聞いている。自分の実力を示す機会があることは嬉しい。いつものナランチャなら、そう思っていただろう。だが不思議と部屋を出る足取りは軽やかとは言い難い。目を覚ました時の奇妙な感覚が、消えずに残っている。一度“結論付けた”はずなのに、なんだかすっきりしない。それでもいつまでも部屋でぐずぐずしているわけにはいかないと、彼は首を傾げながらもチームの事務所へと向かった。

「『スタンド使いである可能性が高い人物のリスト』……。だいぶ集まりましたね」
「色んな能力があるんだなぁ」
「同じものはないようだが、似たやつは何人かいたりするよな」
「身内とかかなぁ」
「親子で全く違う能力のやつとかもいたぜ」
 仲間達が次々にコメントを述べているのは、机の上に置かれた書類の束についてだった。それ等は全てスタンド使い――だと思われる者――に関する情報をまとめた資料である。不可思議な現象や人物――時には動物――の目撃談を中心に、国内外に関係なく、噂話のレベルに至るものまで片っ端から集めた。真偽のほどははっきりしていないものも多いが、本当に全てにスタンド使いが関係しているのなら、大した量だ。それ等の使い手全てが自然にその能力を身に付けたのだというなら良い――むしろそれ自体はどうにも出来ない――が、誰かが意図的に生み出しているのであれば――そして力に目覚めることなく命を落としている者もいるとすれば――黙っているわけにはいかない。今回の任務は、集めた情報の裏を取ることだとブチャラティが説明をした。
「少し遠出することになる。2人1組で動いてくれ」
「オレ達5人だぜ」
 ミスタのその声に、ナランチャは改めて仲間達の顔を見た。5人。確かに5人。少し前にジョルノが入ってきて――ブチャラティが直々に連れてきた――、それで今の人数になったんだったなと思い返す。自分がチームに入ったばかりの頃と比べると随分と賑やかになってきたと思っていたが、実際のところはまだ片手で数えられてしまえる程度の人数だった。少ない……とも感じないが、充分かと言えばどうなのだろう。今回のように2人ずつのコンビを作ろうとしてもたった2組しか作れない上に、1人余ってしまうことになる――そのくらいの計算はナランチャでも出来る――。もうひとりくらいいた方がバランスが良いのではないだろうか。
「分かっている」
 ブチャラティは頷きを返した。
「オレは単独でこの近くを廻る。明日の昼間にこっちで打ち合わせの予定も入ってるしな」
 そして彼は、「少し、気になっていることもある」と付け足すように呟いた。
「気になること?」
 誰かが鸚鵡返しに問う。だがそれには答えず、ブチャラティは早々と話題を本題へと戻した。
「ミスタとジョルノはフィレンツェへ向かってくれ」
「うお、マジでそこそこの遠出」
「車ですか?」
 流石のジョルノも少々険しい表情をする。ブチャラティは少し考え込むような顔をすると、軽く首を振った。
「電車の方がいいだろうな。ただ、現地に着いてからの調査は移動が多くなる可能性が高い。あちらでレンタカーを借りてくれ」
「了解」
「分かりました」
 2人が頷いたのを確認すると、ブチャラティの視線がアバッキオとナランチャの方へ移動する。そうか、ミスタとジョルノが組んで、ブチャラティが単独で動くというなら、自分はアバッキオと組むことになるのかと、ナランチャは今更気付いた。当たり前なことなのに、ほんの一瞬だけ、意外なことのように感じた。
「アバッキオとナランチャはローマ周辺を。こっちは車で大丈夫か?」
 運転時間は2時間半ほどといったところか――電車でフィレンツェまで行くのとあまり変わらない――。車ではなく電車で行った場合はどのくらい掛かるんだろうとナランチャが考えていると、先にアバッキオが「それでいい」と答えていた。ナランチャに意見を求めるつもりはないようだ。
(別にいーですけどぉー)
 調査の手順についての簡単な説明を聞いた後、ミスタとジョルノは早速駅へ向かって行った。アバッキオとナランチャも、レンタカーを手配してローマを目指す。自分の名義で借りた車の運転席に、アバッキオは当然のような顔をして乗り込んだ。ナランチャが自分も運転したいと申し出ると、軽く睨まれて、それで終わりだった。仕方がないので、大人しく助手席に座る。ドアを閉めるのとほぼ同時に、車は走り出した。

 間もなく高速道路に入るという頃、早々と沈黙に飽きたナランチャは、アバッキオの顔を見ながら口を開いた。
「アバッキオってさぁ、なんで組織に入ったの?」
「あ?」
 視線は向けられぬまま、不機嫌そうな声が返ってくる。それがアバッキオのデフォルトだ。ナランチャは気に留めることもなく続ける。
「理由っていうか、切欠? ミスタみたいにスカウト?」
「あれを『スカウト』って呼ぶのか……?」
 アバッキオはやれやれと溜め息を吐いた。それでも、彼も退屈だったのか――あるいは眠気覚ましのつもりなのか――、乗り気ではないような顔をしつつも小さく口を開いた。
「“前の仕事”を……続けられなくなって、帰る場所もなくして、ふらふらしてた。……生きる意味も分からなくなって、いっそ誰か殺してくれとすら思ってたかも知れない。だが、死神の代わりに現れたブチャラティは、言ったんだ。『お前の――』」
「じゃあオレもそんな感じかなぁ」
 感慨深そうに語る声をばっさり遮って、ナランチャは呟いた。
「てめー、自分から聞いておいてそれかよッ」
「オレ、あんまり覚えてないんだよなー。組織に入った時のこと」
 何年も昔のことではないはずなのに、ナランチャはその当時のことを思い出すことが出来なかった。その記憶は、曇り硝子の向こう側の風景のように不鮮明だ。
(あの頃は……)
 確か、少年院から出たばかりで、行き場もなく――家には帰りたくなかった――、町を彷徨い歩いていた。きっとこのまま――母親と同じ目の病気で――死ぬんだろうなと、そればかり思っていた。
 そんな時に現れた“誰か”が、手を差し伸べてくれたような……。誰が? アバッキオやミスタと――あるいはジョルノと――同じで、ブチャラティか? 本当に? そうだったかも知れない。だが、それが全てではないかも知れない。
(うー、なんかもやもやする)
 昼を過ぎた辺りでローマに着いたが、それまでの間、ナランチャの気分はついに晴れなかった。
 ついでに、一方的に会話を打ち切られたアバッキオも、終始不機嫌そうな顔をしていた。

 リストの半分にチェックマークを付け終えた頃には、もうすっかり夜になっていた。残りの半分は明日になってから処理することになる。今からでもネアポリスへ帰ることは不可能ではないが、同じ時間を掛けて再びここまでやって来ることを考えると、一泊した方が効率的で、現実的だ。おそらくミスタとジョルノもそろそろ明日に備えて休もうかと――あるいはたまには羽目を外そうぜとでも言って、飲みに出る――相談をしている頃だろう。
 ナランチャとアバッキオは、駅から然程離れていない場所にある小さなホテルを取った――食事は任務の最中にすでに済ませていた――。他人といると落ち着かないからと言って、普段の遠征ならツインの部屋を利用するところを、アバッキオが勝手にシングル2部屋に変更した。差額分は自分で出すと言われれば、ナランチャに異論を唱える余地はない。それに、アバッキオと2人でいても、あまり会話は弾まないだろう――きっと何を振っても大して構ってはもらえないに違いない――という予感――確信――もある――食事中も会話は多くはなかった。アバッキオはそういう性格だ――。それなら、誰に遠慮することもなく寛げる方が良いか。そう思いながら部屋に入り、早速ベッドに後ろ向きで倒れ込んだ。部屋は狭いし、照明のつまみを全開にしても微妙に光量が足りていない感が否めない。それでもシーツは清潔で、たった一泊の――それも本当に寝るだけの――宿にそれ以上を求めるのは贅沢だろう。いや、ひとり部屋であるという時点で、充分に、だ。
 車での移動が長かった――高速道路を降りた後もあちこち走り廻る必要があった――からか、なんだか疲れた。だが不思議と睡魔は襲ってこない。しばらく天井を見上げたままぼんやりしていたが、このまま眠ってしまえそうな気はしない――どのみち着替えとシャワーは済ませてから寝るつもりだが――。
 しばらくそのままごろごろし、テレビをつけたが見たいものがなくてすぐに消した。シャワーだけで終えるつもりだったが気が変わり、バスタブに少し温めのお湯を溜めてゆっくりと浸かった。疲労はいくらか和らいだが、なんとなく落ち着かないような気分は完全にはなくならなかった。

 乱暴なノックの音と、怒鳴るような声で、ナランチャは目を覚ました。
 結局、昨夜はベッドに入ってからもなかなか寝付けなかった。枕が変わったからだろうか。今まではそんなこと、全然平気だったのに。元より生家を捨てて――あるいは“捨てられて”だろうか――、その場凌ぎのような生き方をしていたのだから、寝るための場所を選んだりしたことはないに等しかった。その気になれば、どこでだって寝ることが出来たのに。
 寝不足の理由は、そんなものではないだろう。なんだかずっと落ち着かない気分だ。頭の中に煙が充満しているかのようですらある。昨日アバッキオがナランチャにハンドルを握らせなかったのは正解だったかも知れない。不慣れな道で集中力を欠けば、どんな事故を起こしていたか分からない。
(なんだろう……?)
 昨日から、何かが変だ。自分らしくない。何か、大切なものを忘れてきてしまったような……。
「おい、ナランチャ!!」
 ナランチャの思考を遮った怒声は、アバッキオのものだった。先程からドアを叩いているのも彼だろう。電話でもちゃんと起きるのにと思いながら、返事をする。
「はぁーい」
 寝不足の目を擦りながらベッドを降り、ドアを開けに行く。その途中で目をやった部屋に備え付けのデジタル時計――文字が緑色に光っているので、遮光性の高いカーテンの所為で外からの光が入らず薄暗い室内でもちゃんと見えた――は、今の時刻が午前6時をわずかに過ぎたばかりであることを知らせていた。
「なんだよこんな朝っぱらからぁー。近所メーワクだぜ」
 もっと優しく起こしてくれてもいいのにと、心の中で呟く。
(***みたいにさぁー)
 出掛けていた欠伸がぴたりと止まった。
「……え?」
 思わず首を傾げる。
(今なんて?)
「おいッ、ナランチャ!」
 彼はその場でびくりと跳ねた。
「えっ、なに?」
 ドアを開けると、露骨に不機嫌な顔をしているアバッキオが立っていた。彼は「おはよう」の挨拶の代わりに、小さく舌打ちをした。
「さっさと支度しろ。ミスタ達の方で、何かあった」
「えっ」
 ナランチャの頭は少々混乱していた。寝起きだから……。それだけではない。
 アバッキオは左手に携帯電話を握っていた――少し前からひとり1台持つようにと渡された組織の名義になっている物だ――。おそらくそれに、ミスタかジョルノから――直接ではないのならブチャラティ経由で――緊急の連絡が入ったのだろう。ミスタとジョルノはお互いの力を補い合えるような能力を持っている。ジョルノがチームにやってきてからの日数はまだ長くはないが、彼等が相性の良いコンビであることは傍目にも明らかだった。その2人が、窮地に陥るなんて、一体何があったというのか……。
「今から応援に行く」
「今からって、フィレンツェまで!?」
「早くしろ」
 そう言うと、アバッキオはさっさと踵を返す。今まで気付いていなかったが、彼はすでに荷物もしっかり持っていた。
 ナランチャは大急ぎで顔を洗い、服を着て部屋を出た。乱雑に荷物を詰め込んだバッグを持ってフロントへ降りた時には、アバッキオはすでにカウンターでチェックアウトの手続きを進めているところだった。
 ローマからフィレンツェまでは、電車を使えば1時間半ほどで到着出来る――らしい――。車の場合だとよほど飛ばさない限りは倍の時間を見るべきだろう。だが、むこうに着いてから改めて車を用意しなければならない可能性を想定すると、昨日のレンタカーをそのまま使った方が融通が利く場合もある。それに、ミスタとジョルノがどこでどういう状況でいるのかも分からない。すでにフィレンツェを出てこちらへ向かっているのだとしたら、途中で合流出来るかも知れない。2人を大急ぎでどこか――例えば病院等――へ運ばなければならないような事態も考えておかねばならないだろう。こればかりは、行ってみなければ分からない。迷っている時間の方が惜しい。
 途中でパンとコーヒーを買いに小さな商店へ立ち寄った以外はどこにも止まらず、車は北を目指した。前方を睨むアバッキオの目は真剣で、昨日のように話し掛けることは躊躇われた。一方助手席のナランチャは、適当な朝食を取った後はやることが――やれることが――ない。緊急の事態であるとは分かっていても、――昨夜の寝不足も手伝って――堪え切れなかった欠伸が出た。
「寝てねーのか」
 アバッキオの視線がちらりとこちらを向いた。
「ん、ちょっと寝不足。なんか、寝付けなくて」
 珍しいなと言われるかと思ったが、そもそもナランチャの寝付きなんて、アバッキオは知っていない。彼は車内の時計に目をやった。つられて、ナランチャも同じ場所を見る。フィレンツェまでは、まだ掛かる。
「仕方ねーな」
 アバッキオは小さく舌を鳴らした。
「今の内に寝ておけ」
「いいの?」
「ついたら叩き起こすからな」
 やっぱり優しくない。そう思いながら、ナランチャはシートを倒して、目蓋を閉じた。

 夢を見た気がする。
(どんな夢だっけ……)
 なんだか長い夢だった気がする。何時間、いや何日、あるいは数年もの時を過ごしたような、長い夢だった。だが、その内容を思い出すことが出来ない。意識が眠りの中から浮上すると共に、わずかな余韻すら、どこかへ消えていってしまったようだ。
 顔を上げたナランチャは、窓の外の風景に目をやった。まだ一般道を走っているところを見ると、精々5分前後微睡んだだけであるようだ。疲れてはいるのに、深く眠れない。昨夜と同じか。
 車は緩いカーブを走っていた。前方に、高速道路の入り口まで間もないことを示す標識が立っているのが見えてくる。まだ先は長い。早く着けばいいのにと心の中で呟きながら、溜め息を吐く。やることがある内は良く分からないことに頭を悩ませずとも済むのに……。
 ナランチャは横目でアバッキオの顔を見た。なんだか見慣れない光景だ。誰かが運転する車に乗るのは珍しくはないはずだが、そういえばアバッキオとタッグを組むことは、あまりなかったかも知れない。会話が長く続かないのもその所為か。彼が運転に集中しているからというのもあるだろうが。
 運転したいと言ったら、昨日以上に「駄目だ」と言われるだろう。
(ちぇー)
 そもそもアバッキオは、ナランチャのことを完全に子供だとしか思っていないようなのだ。確かにまだ成人前だし、車の免許も取れないが。
(それでも運転くらい出来るのに。ジョルノ達より、2つも年上なんだぞ)
 しかしアバッキオとの年齢差はもっと――4つも――ある。それだけあれば、充分子供だと言えるのかも知れない。
(にしても、ちょーっと厳し過ぎないかぁ?)
 ***は基本的には丁寧で、優しかった。ナランチャに対して、問答無用で「駄目だ」と言うことは――余程の無茶を言わない限りは――しなかった――***の方が年下だからというのもあるかも知れないが――。
(……え?)
 ナランチャが組織に入りたいと言った時もそうだった。ブチャラティは反対したが、***が後からこっそりと、どうすれば良いのか助言をくれた。そのお陰で、ナランチャは組織の一員となることが出来たのだ。
(ちょっと待って。……なに? なんだって?)
 勉強を教えてほしいと頼んだ時もそうだ。ナランチャの集中力があっと言う間に切れてしまっても、***は根気強く付き合ってくれた。時には励まされ、時には罵倒され、結果的には掛け算の九九だってちゃんと言えるようにまでなった。車の運転よりも覚えるのに時間が掛かったが。
(オレ、何を……。なんのこと……)
 そういえば、運転の仕方を教えてくれたのも***ではなかったか――***も免許を取得出来る年齢ではないが――。
(なんか、変だ……。さっきから……)
――君は……。
 誰かの声が聞こえた。
――君は、やれば出来るんですよ。
(……誰?)
 ナランチャに、そんな言葉を掛けたのは……?
 ブチャラティではない。丁寧な口調は似ているが、ジョルノでもない。もちろん、アバッキオやミスタも違う。
 冷たい水が体内を満たしてゆくような感覚があった。それが収まると同時に、ナランチャはシートからがばっと起き上がっていた――隣から訝しげな視線が向けられた――。眠気は完全に覚めていた。
「……フーゴ?」
 その名前は、唇の隙間からぽろりと零れた。
「ナランチャ? どうした。今のは……名前か? 誰だ?」
 掛けられたアバッキオの声は、その半分も聞こえていなかった。自分の心臓の音が、他をかき消さんばかりに鳴っている。車のエンジン音さえも、ナランチャの耳には届いていない。
「……とめて」
 自分が何をしようとしているのかを把握するよりも先に、口が勝手に動いていた。
「は? なんだって?」
 アバッキオの怪訝そうな声が返ってくる。
「とめて!」
 次のリアクションを待つことも、新たな言葉を発することももどかしく感じ、ナランチャは断ることもせずに、サイドブレーキを力一杯引いた。
「なっ……!?」
 すぐさま後輪にロックが掛かる。車体は反対車線へと滑りながら、180度向きを変え、交差点の少し手前――頭の向きが変わったから後ろだろうか――で停止した。後続車と対向車がなかったのは運が良かったとしか言えない。遠心力で強く振られはしたが、ナランチャもアバッキオも無事なようだ――地面が濡れていたら、あるいはすでに高速道路に入っていたら、そうはなっていなかったかも知れない――。
「てめぇッ! なにしやがっ……」
 怒鳴る声を無視して、ナランチャはドアを開けて外へ飛び出した。
「おいッ!」
 反対車線側の歩道へ駆け寄ると、交差点で信号待ちをしているタクシーが見えた。乗客はいないようだ。仮に乗っていたとしても、無理矢理引き摺り下ろしていただろうなと頭の隅で思いながら、ナランチャは手を上げた。運転手がそれに気付いて、その場でドアを開ける。
「おい、ナランチャ!」
 開け放ったままのレンタカーのドアから、アバッキオの――たぶんナランチャと同い年の普通の少年なら恐怖で動けなくなるに違いないような――声が飛んできたが、やはり無視だ。
「ネアポリスまで」
「はい?」
 まだ朝の早い時間帯。大した荷物も持っていない――レンタカーの後部座席に置いてきてしまった――少年が、2時間以上も掛かる距離にある町の名前を言うとは思っていなかったようで、運転手は面食らったような顔を見せた。それを、ナランチャは睨み付ける。
「早く!」
 叫ぶように言うと、運転手はようやくブレーキペダルから足を離した――その方が面倒がなさそうだと判断したのだろう――。あと1秒でもそうするのが遅かったら、ナランチャは移動の手段をタクシーからカージャックに変更していたかも知れない。
 先にチップを出して、出来るだけ早くしろと急かす。調査の任務中に掛かる費用として渡された金銭は、纏めてアバッキオが管理していた。が、朝食を購入した店に駐車出来るスペースがなかったので、アバッキオは車に残り、ナランチャだけが外に出た。その時に預かった財布――アバッキオの私物ではなく、組織から預かった金を入れる用に別に用意した物だろう。たぶん――は、まだ彼が持ったままだった。具体的にいくら入っているのかは把握していないが、ネアポリスまではなんとかなるだろう。
 次々に後方へと飛び去ってゆく景色を、それでも遅いと苛立ちながら睨んでいると、ポケットの中で携帯電話が鳴り出した。アバッキオからだろう。ナランチャは画面を見もせずに、電源を落とした。

 ようやく町が遅めの活動を始めるかという頃になって、見慣れた風景が姿を現し始める。ナランチャは事務所の2つ手前の交差点でタクシーを降りた。運転手が釣り銭を出すのを待っているのでさえもどかしく、「要らない」と短く言い捨てると、そのまま走り出した――財布の中身はほぼ空になった――。
 事務所のドアの鍵は、いつもより固く――重く――感じた。スタンドの散弾銃でぶち破りたい気持ちをなんとか抑えながら、解錠し、中へと飛び込む。そこには誰もいなかった。フィレンツェで何等かのトラブルに巻き込まれているらしいミスタとジョルノ、そしてそれに合流しようとしているアバッキオはもちろん、リーダーの姿もない――そう言えば予定が入っていると言っていたか――。そしてもうひとり、パンナコッタ・フーゴも、そこにはいなかった。室内は静まり返っている。
(どこ?)
 フーゴは、どこへ行った? 2つ年下の、キレ易いのが玉に傷ではあるが同時にチーム随一の頭脳の持ち主でもある、あの少年……。ただゆっくりと死へ向かって行こうとしていたナランチャを救い、居場所を与えてくれたその人物は……?
 奥の部屋やキッチン、建物の共用部にあるトイレまで確認したが、彼の姿はどこにもない。出掛けているのだろうか。だとしたらどこへ……。
 彼の行き先を示すような物は……。それが一体どのような物なのかも分からないまま、とりあえず一番近い机の引き出しを開けてみた。ノートやファイルが入っているだけで、変わった物は見当たらない。全て引っ張り出して机の上に広げてみるが、そもそもナランチャには何が“変わった物”なのかが分からない。机の中の物なんて、デスクワークから一番遠いポジションにいる彼が把握しているわけがない――ナランチャは頭の良いフーゴと違って完全に戦闘要員だ――。
 とにかく、フーゴが残したメモでも見付けられないだろうか。昨日の朝の時点で、彼はもういなかった。それより先にどこかへ出掛けたのであれば、『どこどこへ行ってきます』というようなメモが残っていても、おかしな話ではないのでは……?
 しかし、そんな物は見付からなかった。それどころか、何もなかった。フーゴの存在を証明する物は、何も。部屋に置き切れなくなったからと言って持ち込んでいたはずの私物の本も、彼が愛用していたペンも、小学生向けの問題集――実際に使っていたのはナランチャであるということになるのだろうが、管理はフーゴに押し付けていた――すらもなくなっている。
「なんで……」
 誰かに持ち去られた? あるいは、パンナコッタ・フーゴなんて男は、最初から存在していなかった……?
「違う! そんなはずない!!」
 ナランチャは全て思い出していた。行き場もなく彷徨い歩いていた時に、偶然出会ったフーゴが助けてくれたことも。くだらないことで言い争い――時には殴り合い――をしたことも。新しく出来たカフェに一緒に行って、気が付けばそのまま3時間も経っていてリーダーに「どこまで行っていたんだ」と怒られたことも。全て思い出せる。彼はいた。間違いなく。
 それなのに、その姿はここにはない。それもまた、曲げようのない事実である。
 事務所を飛び出し、フーゴのアパートへ向かった。見慣れたドアは施錠されていたが、それを開けるための合鍵を、ナランチャはポケットの中に――自室の鍵と一緒に――持っている――フーゴがそれをくれた時のことも、ちゃんと覚えている――。
 部屋の中は空っぽだった。本も、食器も、衣類も、時計も、備え付けの家具以外には何もない。ただ留守にしているのとは、明らかに様子が違っている。
 言葉に出来ない不安が、胸の中に広がり、溢れる。フーゴがいないということを認識させられる度に、それに反比例するように些細な記憶が意識の奥底から蘇ってくる。
 大人びた柔らかな微笑み。怒った時の表情。任務中に見せる真剣な目。「フーゴの恋人にしてほしい」と頼んだナランチャに、「ぼくから言おうと思っていたのに」と呟くように返した時の、耳まで赤く染まった顔。その全ては鮮明に思い出せるのに……。
(フーゴは、どこ……?)
 震える足で床を蹴り、外へ出た。
 フーゴが行きそうな場所を手当たり次第に廻ってみよう。そう決める。何もせずにはいられなかった。じっとしているのは性に合わない。
 今の時間にフーゴがいそうな場所は……。時計を見ようとして携帯電話を取り出す。が、電源はさっき――2時間ちょっと前に――切ってしまって、そのままだった。その小さな機械は、改めて起動させた途端に振動し出した。画面にブチャラティの名前と彼が持っている携帯電話の番号が表示される。ナランチャはすぐさまそれに出た。
「ブチャラティ!」
『ナランチャ! お前今どこにっ……』
 アバッキオから連絡がいっているのだろう――ナランチャが勝手にどこかへ行ってしまった、と――。耳に当てたスピーカーからは、咎めるような声が聞こえてきた――そういえばあの後アバッキオはどうしたのだろう。財布はナランチャが持ち去ってしまったが……――。しかしナランチャはそれには答えず、
「どうしようブチャラティ! フーゴがいない!」
『フーゴ?』
 ブチャラティの声が戸惑ったように変わる。彼もフーゴのことを忘れてしまっているのだろうか――少なくともアバッキオはその名を記憶していないようだった――。
『ナランチャ、お前……』
「オレ……、どうしよう。フーゴのこと……」
 何故忘れてしまったのだろう。彼がいないことに、気付きもしなかったなんて。ナランチャは、自分が信じられなかった。彼ほど大切なものなんて、早々思い付きそうもないくらいなのに。
『ナランチャ、とにかく落ち付くんだ。今どこだ』
 携帯電話から聞こえてくるブチャラティの声は、水の中で聞いているかのように不明確だった。
「オレ、フーゴを探さなきゃ」
 ナランチャは携帯電話の電源を再び切ると、どこへとも決めることなく走り出した。

 フーゴとの思い出を確かめるように、町中を走った。事務所の傍のレストラン。自宅近くのカフェテリア。駅前の本屋。そのどこにも、フーゴはいなかった。
 人に尋ねることは躊躇われた。頻繁に顔を合わせるような相手――例えば集金先のバーのマスター等――に尋ねて、「誰だそれは」なんて言われたら、いよいよフーゴはどこにもいないと認めなくてはいけなくなるのでは……。そう考えるだけで血の気が引いていくような思いだった。
 太陽が頭の真上に移動してきた頃、ナランチャは意識しないままに事務所の近くに戻ってきていた。日光を遮る雲がなくて、少し暑い。
 ふと、何者かの気配――視線――を感じて、ナランチャは振り向いた。そこにいたのは、1匹の猫だった。黒い毛並みの、まだ小さな仔猫だ。先月の終わり頃から事務所の裏に住み付いているらしく、その姿は仲間達の間で何度も目撃されていた。飼うことは出来ないが、時々餌をやることくらいは良いだろうとリーダーが許可してくれた。野良猫のわりには――まだ幼いからだろうか――人間に対して警戒心を抱く様子もなく、少しでも馴れた者が顔を見せると、餌、もしくは「なでなで」をねだって擦り寄ってくる。ナランチャも、そしてフーゴも、撫でたり抱き上げたりしたことが――何度も――ある。
 だが今は構ってやっている暇はない。金色の瞳から発せられる視線を振り払おうとした、まさにその時。猫の仔は、「にゃあ」と鳴いた。かと思うと、長い尻尾を翻すように、彼――それとも彼女だろうか――は歩き出した。
 猫の言葉が分かるはずもない。それでもナランチャは、予感めいた何かを感じてその後を追っていた。
 路地裏へと入り込んだ猫は、ナランチャがついてきていることなんて気にも留めていないようで、振り返ることなく進んでゆく。一体どこへと思っていると、奇妙な追跡は5分もせずに終わりを迎えた。今の時間以外に日が差すことはないであろう細い路地の向こうに、……いた。
「フーゴ……」
 ナランチャよりも少し背の高い、プラチナブロンドの少年。特徴的なデザインのスーツと、苺柄のネクタイ、そしてやはり苺を模したピアスは、他の誰と見間違えるはずもない。その足元には、件の猫がいて、いつものように体を摺り寄せていた。
 自分の名を呼ぶ声に振り向いたフーゴは、突然現れたナランチャに驚いた様子はない。彼は顔を上げると、微笑んだ。だが、その笑顔はどこか寂しげでもあった。
(謝らないと……!)
 少しの間でも、フーゴのことを忘れてしまっていたことを。
「フーゴ、オレっ……」
 しかしフーゴは、ゆるゆると首を振った。そして、
「ぼくがやったんだ」
 意味が分からなかった。その答えを探すように、ナランチャはフーゴの瞳を凝視した。瞬きを――あるいは呼吸を――することさえ忘れていた。
「ぼくが君の記憶を消した」
 フーゴは静かな声で、しかしはっきりと告げた。
「なんで……。どうやって、そんな……」
「もちろん、ぼくにはそんな力はない。でも、それが出来るスタンド使いを見付けたんだ」
 ナランチャは今正に確認の作業を行っている最中であるスタンド使いのリストを思い浮かべた。目を通していないページの方が遥かに多かったが、あれだけの数があれば、そんな能力を持つ者がいたとしても不思議ではないだろう。
「君だけじゃあない。アバッキオも、ミスタも、ジョルノも、みんなぼくのことは覚えていない。いや、“知らない”」
 本に書かれた文章を読み上げるように淡々とそう言うと、フーゴは足元の猫を抱き上げた。
「この能力の難点は、人間以外の動物には効かないこと」
 猫が返事をするように「にゃあ」と鳴いた。 
「意味分かんないよ! なんでそんなことっ」
「君から、離れたくて」
 抑揚の乏しいその声は、妙に冷たく聞こえた。季節が逆行したかのように、寒さを感じる。
「でも、ただそうしただけでは、君はぼくを探しに来るでしょう?」
 フーゴは「今正にそうしたように」と、肩を竦めた。
「でも、そうならない可能性もあった。どちらであっても、怖かった」
 息継ぎをするようにわずかな間を置くと、再び温もりを持たぬ声が言う。
「だから消した」
 数秒遅れてその意味が頭の中に入ってくる。ナランチャは音が鳴りそうなほどに強く奥歯を噛んだ。
「なんで……」
 一気に駆け寄り、フーゴの胸倉を掴んだ。危機を感じたのか、仔猫はその直前でするりとフーゴの腕から抜け出ていた。そのまま走り去り、黒い体は影の中へと消えて行った。
「なんでだよッ!」
 ナランチャはフーゴを目一杯睨み付けた。
「言え! なんでこんなこと……ッ。ちゃんと分かるように説明しろよ! いつも人のこと馬鹿馬鹿言っておいて、頭いいなら馬鹿にも分かるように説明しろよ!!」
 だがフーゴはそれには答えなかった。聞くつもりがないなら、それでも構わないと言うように淡々と言葉を続ける。
「もうすぐここに、記憶を奪う能力を持つスタンド使いが来ます」
 ナランチャはぎくりと顔を上げた。
「ぼくが呼び付けたんです。君の記憶を、今度こそ消す」
 建物の間を吹き抜ける風が、急激に冷たくなったように感じた。独りで町を彷徨い歩いていた時と同じ、冬の風に似た冷たさに、体温が奪われていくようだ。
「本当は自然に解除なんてされないはずだったんだけど……」
 フーゴは「おかしいな」と首を傾げる。
「でも、次は完璧にやらせる」
 その唇に、うっすらと笑みが浮かぶのを見て、ナランチャは小さく身震いした。
「そして、ぼくの中から君の記憶を消す」
 フーゴの目はどこか遠くを見ているようだった。その瞳に、ナランチャの姿は映ってはいない。
「やっと気付きました。最初からそうしていれば良かったんだ」
 ナランチャは拳を強く握った。そしてその手で、フーゴの頬を力一杯殴った。フーゴは避けることもせず、ただ目を伏せた。
「今から来るって?」
 殴った拳が痺れるように痛い。だが、そんなことに構っている暇はない。
「ああ連れてこいよ! そしたらそいつもぶん殴ってやるからよぉ!」
 顔の前で再び拳を握ってみせる。
「ぶん殴って、それからみんなの記憶も元に戻させる」
 フーゴは殴り返してこなかった。ただ少し困ったように、寂しそうに微笑むだけだ。それが、ひどく寂しかった。
「なんでなんだよっ」
 ナランチャは握った拳に、更に力を込めた。もう一度殴るためではない。そうしていないと、何かに耐えられなくなりそうだった。
 ふっと息を吐くように、フーゴが口を開いた。
「怖かった」
「……怖い?」
「そう。君が“また”……」
 言い掛けて、フーゴはかぶりを振る。
「いえ……、なんでもありません」
「そんなのずるい」
「忘れてください」
「嫌だ」
 ナランチャはきっぱりと言い放った。
「もう忘れない。フーゴのこと、もう忘れたくない」
 フーゴの目を真っ直ぐ睨んだ。
「絶対に嫌だ」
「ナランチャ……」
 フーゴは駄々を捏ねる子供に辟易するように息を吐いた。自分の方が、年下のくせに。
「なんでオレがここにいると思ってんだよ」
 フーゴは応えない。その姿が、わずかに滲んで見えた。
「フーゴがいるからだろ」
 黙ったまま、しかしその視線が外されることはない。
「フーゴが拾ってくれたから、オレは“ここ”に“いる”んだよ!」
 あの時彼に出会わなければ、きっと自分は――当時そう信じていたように――死んでいただろう。そのことを「仕方のないことだ」と思いながら。それは、予感というよりは、確信に近い。
(オレは、フーゴがいたから生きてこれた)
 ナランチャは、フーゴの胸に、小さな子供のように縋り付いた。その頬を、泪が伝い落ちる。
「フーゴがいなかったら、オレはどこにもいない」
 フーゴを知らない自分なんて、存在しないも同然なのだ。忘れるなんて、出来るはずがない。そんなことをすれば、自分は自分でなくなってしまう。その瞬間、ナランチャ・ギルガは死んだも同然だ。
「その顔を見たくなかったんだ」
 フーゴの声はわずかに震えていた。彼もまた、何かを恐れていたように。
「じゃあ、ここにいて」
 両腕をフーゴの胴に廻した。
「約束するから」
 彼にどんな考えがあったのかは、分からない。きっとナランチャの理解が及ぶものではないのだろう。だがその言葉は、自然に唇から零れ出ていた。
「フーゴの傍に、ずっといるって」

 

 

 そしてフーゴは戻った。何事もなかったかのように。
 何があったのかを――何“か”あったのかを――知る者は、フーゴとナランチャの他には、極一部を除いて誰もいない。だがナランチャは、全ては知らない。話すつもりもない。あの、夢に似た、不思議な感覚は……。
(でもあれは、夢なんかじゃあない……)
 あれは、現実だ。“別の現実”……。『パラレル・ワールド』と、一般的に呼ばれるもの……と解釈するのが正しいのだろうか。存在していたかも知れない、可能性の世界。いや、確かにあった“別の世界”。そこで、ナランチャ・ギルガは命を落とした。フーゴはそのことを知っている。いや、“覚えている”。
 彼は“その時”、愛しい存在の傍にいることすら出来なかった。“そうなる”予感を抱きつつも、己の弱さの所為で、何も出来なかった。
 奇跡的な確率で生き延びた仲間達から、彼がもうどこにもいないと聞かされた時、後悔は止め処なく押し寄せ、フーゴの心を蝕んだ。自分がついていれば……。いや、自分がいなければ……。
(ぼくが彼を拾っていなければ……)
 “その記憶”をもっと早く思い出していたら、彼を組織に入れさせはしなかっただろう。無理矢理にでも真っ当な世界へと突き放していたはずだ。だが気付いた時には、すでに彼は傍にいて、彼がその短い一生を終えるはずのその日も過ぎていた。
 何等かの力によって、“未来”――その時はすでに過去になっていたが――が変わったのだろうか。だがフーゴの心が安穏を得ることはなかった。本当に死の運命からは、逃れられたのか? 死神は彼を逃すまいと、ただ形を変えて現れるだけなのでは……。本来の死よりも、より残酷なやり方で……。
 子供のような眩しい笑顔。怒った時の表情。任務中に見せる真剣な目。フーゴが想いを伝えようと思っていた矢先に、「フーゴの恋人にしてほしい」と、セリフを奪うかのように告げてきた時の、どこまでも真っ直ぐな眼差し。その全てが、無残に消え去る。そんな時が、いつかくる。そう思ったら、怖くて、それでどうなるわけでもないと理解しつつも、“また”逃げてしまった――記憶を奪うスタンド使いを見付けたことを切欠に、衝動的に――。
 今でもその不安が完全に消えたわけではない。いつ何が彼を本来の運命へと引きずり戻そうとするか分からないという恐怖は、依然としてフーゴの中に留まり続けている。それでも、結局何をしても彼から離れることは出来ないような気が――今なら――する。現にナランチャは、フーゴを探しに来てしまったし、フーゴは彼の言葉を受けて戻ってしまった。もう拒むことは出来ない。“別の世界”を垣間見てしまったから、そして、あんな――自分のための――泪を見てしまったからこそ。それが、……それもまた、運命なのかも知れない。
 同じように、死の運命からも、逃れられないのだとしたら……。
(その時は……、“今度”は、ぼくも一緒に……)
 彼と、一緒ならば……。
 最初から、「離れない」との誓いを立てるべきだった。自分がもっと強ければ、それをすることが出来たのだろうか。結局全ては、フーゴの弱さが招いたことなのか。
(そんなぼくに、ナランチャは手を差し伸べてくれた。助けられたのは、ぼくの方だった……)
 ナランチャがいるから、今のフーゴが“ここ”に“いる”。それを否定することは、どんな言語を用いても不可能だろう。星の数ほどの言葉よりも、たったひとつの笑顔――そして泪――が真実を物語る。そのことを、フーゴは心から思い知った。
(君に会えて、良かった)
 今ならそう思うことに躊躇いはない。
 それにしても、とフーゴは思う。
「ブチャラティ」
 ナランチャが何かを探して――何を探していたのだろう――荒らしたらしい事務所の机を片付けながら、フーゴはのんびりと椅子に腰掛けているブチャラティに向かって声を掛けた。
 ミスタとジョルノ、それにアバッキオは、まだフィレンツェから戻れないでいる。トラブルが発生したとの連絡が入ってからすでに丸1日経っているが、どうやら随分と面倒なことに巻き込まれてしまったようだ。経過を知らせてきたミスタ――フーゴに関する記憶を失っていたという認識すら持っていなかった――の様子からは、危険な事態には陥っていないらしいことは分かったが――ゆえにリーダーものんびりしている――。
 ナランチャはあの後、ずっとフーゴから離れようとしなかった。フーゴの部屋――近くのトランクルームに一時的に預けていた荷物は2人掛かりで全て元の位置に戻し、やはり置き切れなかった私物の本は再び事務所へ運ばれることになった――までついてきて、風呂とトイレの時以外は手を伸ばして触れることが出来なくなるほどの距離を取ることすら許さなかった――風呂とトイレの時もドアの前に張り込まれたし、ナランチャが入っている時はドアの前を動くなとしつこいくらいに言い付けられ、30秒置きに「いるか!?」と尋ねられた――。寝る時もずっとそんな調子で、しがみ付かれたまま――それ以上は何もなし――で、寝た気がしないまま朝を迎えた――ナランチャはぐっすり眠っていた――。
 今朝になってからようやく思い出して電源を入れたナランチャの携帯電話には、アバッキオの怒声が飛び込んできた。「今すぐ戻って来い、このクソガキ」。彼が放った言葉は、それだけだった。ナランチャはだいぶ渋ったが、最終的にはブチャラティの命令で応援に向かうことになった。「自分が帰ってきた時に、必ずここにいるように」とフーゴに“約束”させた上で。フーゴも連れて行きたいとの主張は、にこやかな口調のままのリーダーに却下された。
 残るように指示されたフーゴに与えられた仕事は、急務であるとは思えない――しかしなかなかの荒らされようである――事務所内の掃除だった――それで先程から机を片付けている――。途中で換気のために開けた窓から件の黒猫が入ってきて、餌をやるまでにゃーにゃーと鳴き続けられ、作業が中断されるというハプニングも起こったが、間もなく――ようやく――終わりそうだ――ブチャラティは満腹になって満足した猫を外へ出すこと以外手を貸してはくれなかった――。
「こうなることが、分かっていたんですか?」
 フーゴはブチャラティの目を見ながら尋ねた。彼はフーゴにいれさせたお茶を啜りながら、笑うように答える。
「オレに未来を見る能力はないぜ」
「でも、ナランチャの記憶が戻ると踏んで、ぼくのチーム移籍を認めたのでは? アパートの解約だって、手続きを頼んでいたのに、されていなかった」
 “別の世界”の“記憶”を“思い出した”数日後、フーゴは「ナランチャから離れたい」とブチャラティに申し出ていた。奇妙な“記憶”のことも、全て打ち明けた上で。
 だが、一度裏社会へその身を投じた者が、簡単に表へ出て行けるはずもない。『裏切り者』であると判断されれば、生き延びられる可能性は“極めて例外的な場合”を除いてまずないと考えるべきだろう。
 そこでフーゴは、別のチームへの移籍を認めてほしいと頼み込んだ。組織から離れるわけではない。ただ彼等とはもう会わないだけ……。それを許してほしい、と。
 ブチャラティはそれを許可した。「それが最良の行動だとは、オレは思わない」と否定の言葉を口にしながらも。
 ブチャラティは優しいから。その時のフーゴは、そう思った。が、彼がもっと“先”まで読んでいたのだとしたら……? どうせ戻ってくることになる。そう分かっていたからこそ、信じ難いような説明を信じ、引き止めようとしなかったのでは……。
 しかし、
「移籍なんて認めた覚えはないが?」
 ブチャラティはしれっと返してきた。フーゴはぽかんと口を開けた。
「たまたま他所のチームから手を貸してほしいと言われていたんだ。どうやら元々人手不足だったらしいな。だから一時的にお前に行ってもらっていた。オレはそれだけのつもりだったが?」
 フーゴは2日前――他の仲間達がローマやフィレンツェに向かった日――、別のチームに加わり、空港の近くで他の任務に当たっていた。そのチームが自分の新しい配属先になるのかと思っていたが、そちらのメンバーと、どうも会話が微妙に噛み合っていないと感じていた。連絡に不備があったのか、それともここは正式な配属先が決まるまでの仮の居場所なのか……。どちらであったとしても、そのチームの者達と――誰とも――馴れ合うつもりはなかった。真に『仲間』と呼べるような相手は、もう作らない。そんな決意を胸に秘め、心を閉ざしていた。ゆえに妙な認識の違いは気にしないことにしていたのだが、“これ”がその理由だったのか……。
 唖然としているフーゴを見て、ブチャラティは笑っている。この男には敵わない。フーゴはそう思った。
「むしろ、お前こそ予測していたんじゃあないのか?」
「え?」
 予想外の言葉に、フーゴは首を斜めにした。
「ナランチャの記憶が戻って、お前も帰ってくる。そうなると分かってたんじゃあないか?」
「そんなこと……」
「ここへ戻ってくる時のことを考えて、オレの記憶は消さずにいたんじゃあないのか?」
 確かに、ブチャラティの記憶にだけは手を付けずにいた――だからこそ彼からの連絡で記憶の消去に失敗したことを知り、改めてスタンド使いの男を呼び寄せようとしたのだ――。だがそうした理由は、彼が言うようなことのためではない。それでは『分かっていた』というよりも、『望んでいた』ようではないか。
「違います」
 フーゴはぶんぶんと首を振った。
「ぼくが担当していた仕事や資料の件で、後から何か確認しなければならないことが出てきた時に、本当に誰もぼくの存在すら覚えていなかったら、連絡を取ることも出来なくて、困ることになると思ってそれで……」
「随分と真面目だな」
 ブチャラティはくすりと笑った。
「そんなに大事な仕事なんてあったか?」
 リーダーのくせに、その発言はまずくないだろうか。フーゴが返す言葉を探し出せないでいると、ブチャラティの方が先に再び口を開く。
「それにしても、強力なスタンド能力だと思っていたが、案外そうでもなかったようだな」
「え? あ、ええ……、そうかも知れませんね。こんなにあっさりと思い出してしまうくらいなら、悪用の心配は大してしなくてもいいのかも知れない」
 フーゴは、記憶を奪う能力を持つ男から、「記憶の消去は然程難しくない」と聞いていた――だからその力を使わせることにした――。だがそれ――記憶を失った状態――を安定させるには、2日前後の時間が掛かる、とも。元々任務で遠出をすることになっていたあの日は、都合が良かった。だからこそあのタイミングで決行したのだ。
 だが、結局計画は失敗に終わった。一度に4人もの記憶をいじろうとしたのが悪かったのか――男は一度に大人数を対象として能力を使ったことはないらしかった――。1人ずつであったなら、あるいは……。いや、それではフーゴの存在を知る者と知らない者とがいることになってしまい、色々と辻褄が合わなくなってしまう――他の者はブチャラティのように説得されてくれる気がしない――。会話が噛み合わなくて混乱が生じるだけならまだしも、奪ったばかりの記憶が早々に戻ってしまっては、全てが無駄になる。
 思ったよりも使えない、もとい、思いの外使い勝手が難しい能力だったということだろうか。
「完全に忘れ切るまでは、何を切欠に思い出してしまうか分からないから、しばらくの間は近くにいない方がいいと言われて、そうしていたのに……。どうして記憶が戻ってしまったんだろう」
 机の上に散らばっていた書類の最後のひと束を引き出しにしまいながら、改めて首を傾げる。もしかしたら本人にも未知な部分が残っている能力だったのかも知れない。
 他にやることはあるかと尋ねようとして見たブチャラティの目は、相変わらず笑っていた。
「思いの外、近くにいたということなんだろうな」
 言っている意味がよく分からない。
「ぼくはローマへは近付いてもいませんよ」
 ネアポリスから出てすらいない。それともなんだ。直線距離191キロメートルではまだ近いとでも言うのか。極端に小さな国なら、隣国まで逃亡しなくてはならない距離ではないか――ここはイタリアだが――。
「あいつがこっちへ戻ってきたのは、記憶が戻ってしまった後でしょう? 同じ場所にいたアバッキオは、能力を解除するまでぼくのことを忘れたままだったし……。それとも、アバッキオから連絡があった時に、ぼくのことを何か言いましたか?」
「いや、そういうことを言っているんじゃあない」
 やはりよく分からない。
「ずっとナランチャのことを考えていただろう?」
「……は?」
「スタンドは精神の力だからな。気持ちや感情の影響を受けてもおかしくないということなんだろう」
「……能力を使う人間の精神状況が影響するのはありえるでしょうが、本人以外の人間からの影響なんて……」
「『ない』と、言い切れるか? お前に関する記憶を消そうとした以上、お前も立派に『当人』だったと思うが?」
「それは……」
 そうかも知れない。
 すると何か。ブチャラティは「離れていても、心は傍にいる」なんて、甘ったるい恋愛映画みたいなことを言うつもりなのか。
 だが、ナランチャの記憶が戻ってしまったことは事実だ。スタンド使いの男のミスだとは考え難い。フーゴの指示で能力を解除するまで、他の仲間達は彼のことを忘れたままだったのだから――あと少し解除するのが遅れていたら、フーゴはアバッキオとミスタとジョルノの3人からは完全に忘れられたままになっていたかも知れない――。
 いや、いやいや、それよりも。
「べっ、別にぼくはっ……」
 「ナランチャのことを考えてなんて」と言おうとして、今更だと気付く。ブチャラティには、はっきりと、ナランチャの死から逃げたいと話してしまっている。誤魔化しの効く相手ではない。
(あんなこと、言わなきゃ良かった。もっと適当な理由でも考えておけば……)
 あの男をもう一度呼び付けて、ブチャラティの記憶から今回のことだけ消せないだろうか。……いや、たぶん無理だ。あの男はナランチャに、「今度会ったらその時こそぶん殴ってやるから、二度とオレの前に現れるな」と脅されて、わけが分からないまますっかりびびってしまっていたのだから。きっとこのネアポリスに近付くことすら、もうしないだろう。今頃はシチリア半島辺りか、それともそれこそ国外へと逃げてしまっているかも知れない。やはり、使えない。
 机の周りを見廻して、やり残しがないことを確認したフーゴは、壁掛けの時計へ目をやった。時刻は間もなく正午。9時過ぎにネアポリスを出発した電車は、遅延がなければそろそろフィレンツェへ着く頃だろう。
「あの、ブチャラティ」
「ん?」
 ティーカップを口元に運ぼうとしていたブチャラティは、目線を上げた。
「あの……、ぼくも応援に行ってもいいですか? その、ミスタ達の……」
 全てを見透かすような目が、じっとフーゴを見ている。何か尋ねられたわけでもないのに、弁解めいた言葉が口から勝手に出てくる。
「フィレンツェ方面の資料を纏めたのはぼくですし、何か、役に……立てるかも……」
「なるほど?」
 ブチャラティはカップを机に置いた。そして「それで?」と尋ねるような、また視線。
 数秒後、フーゴは観念したように息を吐いた。
「……ナランチャの傍に行かせてください」
 耳まで赤く染めながら言う部下の姿を眺め、ブチャラティは満足そうに頷いた。
「よし、じゃあ行ってこい」
「ありがとうございます」
 フーゴは深々と頭を下げた。どちらかというと、赤くなった顔を隠すために。幸いにも、ブチャラティの視線は逸らされるように机の上へと向いた。そこで、小さな機械が喧しく振動している。
「さっきからお前の携帯、1分置きに鳴ってるもんな」
「はい」
「メールか」
「ええ、ナランチャから」
 フーゴはフーゴで仕事――片付け――を言い付けられているのだから、連絡をくれるのは構わないが、すぐに返せるとは限らないとちゃんと言ったのに。
「さしずめ、“安否確認”ってところか。電車で行かせて良かったな」
 きっと電車の中でやれることがなくて暇なのだろう。むしろ車で行っていたら、運転に集中して怒涛のメール攻撃は出来なかったのでは……。
(いや、危ない)
 ナランチャなら、あるいは運転中でも……。
「行ってきます」
 ほとんど操作していないのにすでに充電マークがひとつ消えている携帯電話を掴んで、フーゴは事務所を後にした。


2018,08,10


走行中の車のサイドブレーキは、勝手に引いちゃあ駄目!
アジトの近くに可愛いにゃんことか住みついてたらいいよね! という発想から、当サイトではそういう設定になっております。
ナランチャと猫ってディモールト可愛いと思うんだ。
でもフーゴと猫もなまら(北海道弁)可愛いと思うんだ。
<利鳴>

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