フーナラ 全年齢


  猫よ、人の望みの喜びよ


 事務所のドアを開けたフーゴは、2つの期待を同時に裏切られた。
 1つは、屋内の温度が思ったほど高くなかったこと。天候や時間によってはまだ肌寒いこの季節に外を歩き廻ってきたことによって下がってしまった体温は、「流石に屋外よりはいくらか温かい」程度の温度ではすぐには元に戻らない。フーゴに続いて事務所に入ってきたミスタも「なんかここ寒くないか?」と眉をひそめ、そのさらに後ろにいたジョルノも、「なにか温かい物でも淹れましょうか」と提案した。
 もう1つの“裏切り”は、出迎えてくれると思っていた人物の姿が見当たらないことだった。失望の度合いとしては、こちらの方が大きい。“彼”の笑顔さえあれば、むしろ気温なんて氷点下でも平気だと思えたかも知れないくらいなのに。人に話せば「勝手に期待しておいて『裏切られた』とはずいぶん勝手だ」と非難される可能性は高い――故に誰にも話すつもりはない――が、命じられていた『待機』――平たく言うと『留守番』――を投げ出してどこかへ行ってしまったことを咎めることは、先輩の立場にある者として不当ではないだろう。
「どこ行ったんだあいつ……」
 吐き捨てるように言うと、ミスタ達が「オレ達だって知るわけがない」とでも言いたげに肩をすくめた。話していないのに、「勝手だ」と言わんばかりの顔をしている。
 案外、ただトイレに行っているだけだったりして……。そう思って――そうであったらいいなとまたしても勝手な期待をして――振り向いたフーゴの視界に、予想外のものが現れた。「ミャーオ」と鳴いたそれは、黒い毛並みの四つ足動物だった。
「猫……?」
 フーゴの声に、猫は返事をするように再び鳴いた。
「うお、びっくりした! なんだこいつ、どっから入ったんだ?」
「いつもこの辺りにいるのとは、別の猫みたいですね。少なくとも、ぼくは初めて見る」
 見下ろすミスタとジョルノの視線を無視するように、猫はフーゴの足元へと近付いてきた。仔猫……というほど小さくはないが、顔付きはまだ成猫のそれではないようだ。中途半端に長い毛が、寝癖がついた髪のようにところどころ跳ねている。大きな瞳が真っ直ぐにフーゴを見上げた。かと思うと、なにかを訴えるかのように、フーゴの脚に前足を掛けてミャオミャオと鳴き始めた。
「え、ちょ、なんですかっ……」
「知ってる猫か?」
「知りませんよ。猫に知り合いなんていない」
「でも、フーゴに懐いているように見えますね。食べ物の匂いでもするんでしょうか」
「誰が入れたんだ?」
「ナランチャ……でしょうか」
 本来であれば『待機』を命じられていたはずの人物の名を、ジョルノがあげた。確かに、彼等の仲間では、ナランチャが一番そういうこと――「ちょっと寄ってけよ」と友人を誘うように通りすがりの猫を招き入れる――をやりそうだ。フーゴは、彼が塀の上で日向ぼっこをしている猫にちょっかいを出して、危うく引っ掻かれそうになっているのを何度か目にしたことがある。
「猫入れたままどっか行っちまったのかぁ?」
 「しょうがないやつだな」と言いながら、ミスタは奥の部屋――休憩室として使われることが多い――を見に行った。フーゴもそれに続こうとしたが、相変わらず脚に猫がくっついていて、迂闊に動けば踏み付けてしまいそうだ。
「やっぱりいねーな。……って、おい、窓が開けっぱなしだぜ。どーりで寒いと思ったわ」
 おそらく暖房を付けていて、暑くなり過ぎたのだろう。換気のつもりで窓を開けたが、閉め忘れたといったところか。ここまで室温が下がってしまっているということは、無人になってから経った時間は短くはなさそうだ。
「開けっ放しで出掛けて、その隙に猫が入ってきたのかもな」
 奥の部屋の窓は、背の高い木のすぐ傍にある。通行人の目さえなければ、人間でもそこからの出入りは不可能ではないだろうと思われる。身軽な猫であれば、階段を上がってドアから入るのと大差ないことなのかも知れない。
「まったく……、出掛ける時は戸締りしろって言ってあるのに……」
「小学生か」
 それ以前に、待機の命令が出ている時に事務所を無人にすること自体がいただけない。帰ってきたら説教だなと、フーゴは決めた。
 窓を閉める音がして、ミスタが戻る。その直後に、いつの間にかビルの共用部分へと出ていたらしいジョルノも戻ってきた。
「トイレにもいませんでした。やはり出掛けているようですね」
 周囲を見廻してみたが、書き置きのような物はなさそうだ。メールが入っていないかと携帯電話もチェックしてみたが、こちらもなにもなかった。
「電話してみましょうか。なにか緊急の事態が起こったのかも知れない」
 ジョルノが電話機を操作して、耳に当てた。応答を待っている間にも、猫はフーゴの脚から離れようとしない。それどころか、繰り返し伸ばされる前足の爪が、時折素肌に刺さりそうになった。
「いたっ……。もうっ、なんなんだこいつはっ」
「外出すか? 糞でもされたらめんどーだぜ」
 フーゴが「そうですね」と言うと、猫は「待ってくれ」と懇願するように余計に鳴き出した。強引に抱き上げようと手を伸ばすと、前足で払い除けようとしてくる。
「あーもうっ、面倒臭いなっ」
「懐かれてるんだか攻撃されてるんだかよく分かんねーな。ジョルノ、そっちはどうよ。繋がったか?」
「駄目です。電源は入っているようなんですが、出ません」
「忘れてったかぁ?」
「でも、呼び出し音聞こえませんよね」
 そう言われて、フーゴは耳をすませてみた。が、猫の鳴き声が煩くて、小さな音であればかき消されてしまいそうだ。
「いい加減にッ……」
 フーゴは猫に掴み掛かろうとした。いっそのこと脅えて逃げ出してでもくれれば手っ取り早い――流石に引っ叩くのは気が引ける――。しかし期待に反して、猫は微動だにしなかった。逃げるどころか、鳴くのをぴたりとやめ、フーゴの目をじっと見据えた。ガラス玉のような瞳に、フーゴの姿が映っている。それを見た時、彼は胸の奥でなにかがざわりと音を立てたように感じた。
(……あれ?)
 フーゴは首を傾げた。それを真似るように、猫も頭を傾ける。
(なんだ……、今の感覚は……)
 次の言葉は頭で考えたわけでもなく、まるで当たり前であるかのように自然と声になって出た。
「……ナランチャ?」
「は?」
「え?」
 ミスタとジョルノがそろって怪訝な顔をした。
 フーゴ自身も、「まさか」と思った。だが、“そう思って”見てみると、ますます“そう”見えてくる。『自由奔放』の体現のように跳ねた黒い毛並み、幼さを残す大きな目……。
「この猫……、なんだか似てませんか」
 ナランチャに。
 一瞬、室内が完全なる静寂に支配された。ミスタからもジョルノからも、否定の言葉はなかった。
 フーゴは膝を折って視線を低くした。その動作を追うように、猫の視線も動く。
「……ナランチャ、君なんですか?」
 猫はなにも言わずに、ただフーゴの脚に顔を摺り寄せた。
「ちょっと、いいですか?」
 ジョルノの声に顔を上げると、彼はスタンドを出現させていた。
「ぼくのゴールド・エクスペリエンスは、生命エネルギーを感知することが出来ます。もし、その猫の“中”に、人間の魂が入っているんだとしたら……」
「分かるのか?」
「保証は出来ませんが。でも、猫と人の魂の形は、もしかしたら違っているかも知れない……」
 ジョルノは猫に向かってゆっくりと手を伸ばした。彼のスタンドも、同じ動きをする。猫はその場にじっと座っている。普通の猫が、こんな風に大人しくしているなんてことがあるだろうか。フーゴには、すでに“それ”が“答え”であるように思えた。
 ジョルノの手が、撫でるように猫の頭部に触れた。
「どうだ?」
 ミスタの問い掛けに、ジョルノは眉をひそめた。
「……残念ながら」
 ジョルノの言葉を引き継ぐように、猫が「ミャオ」と鳴いた。その声は、フーゴの頭の中で、自分の名を呼ぶ少年の声へと変換された。
(そんな……。まさか本当に……)
 どうしてこんなことになったのだろう。
 心当たりは、実はないわけではない。
「まさか、レクイレムの暴走……?」
 人と猫の魂が入れ替わる……なんてことは、普通であればありえない。だが、彼等はそれ――それに近いこと――を一度体験している――その時は猫ではなかったが――。“矢”の力によって暴走したジャン・ピエール・ポルナレフのスタンド、シルバー・チャリオッツ・レクイレムであれば、それは不可能ではない。あの時と同じようなことが、今正に起きているのだとすれば……。
「ポルナレフは?」
 そういえば、見掛けない。先の戦いで肉体を失ったポルナレフは、今は魂だけの状態でスタンドによって作り出された亀の中の空間に留まっている。エネルギーの消耗を抑えるためか、普段は眠っているか、そうでなくてもじっとしていることが多いようだ。改めて事務所内を見廻してみたが、彼が住処としている亀の姿はどこにもなかった。
「まさか、誰かに連れ去られた……?」
 彼ひとりでどこかへ行く――それが出来る――とも思えない。となれば、彼――亀――を連れ去った――持ち去った――者がいると考えるべきだろう。
「じゃあ、ナランチャの肉体の方も……?」
 もう窓は閉まっているはずである。にも拘わらず、フーゴは体から熱が失われていくような錯覚に襲われた。
 何者かの襲撃に遭い、ポルナレフが魂を入れ替える能力を――本人の意図によってなのか、敵に脅されてなのか、あるいはどちらでもない事故によるものなのか、そこまでは分からないが――発動させる。それによってナランチャはたまたま近くにいた猫と入れ替わってしまい、その状態のままポルナレフ――がいる亀――と共に敵に拉致された。そんな流れなのであれば、この状況は全て説明が付く。
「出入口の鍵は、確かに掛かってましたよね?」
「鍵……?」
 ドアを解錠したのはフーゴだった。
「え、ええ……、それは、確かに」
 今になって思えば、フーゴは誰よりも早くナランチャに会いたい――彼に出迎えてほしい――がために、率先して鍵を取り出したのだったかも知れない。それが、まさかこんな事態が待ち構えているなんて……。
 ドアの施錠が確かだった以上、敵の侵入はやはり窓からだろうか。ミスタが再び奥の部屋へと、今度は駆け込んで行く。数秒の間の後、「駄目だ」と声が聞こえた。
「痕跡はなにも残ってねーぜ!」
「アバッキオに連絡して、すぐに来てもらいましょう」
「ああ!」
 携帯電話を取り出すミスタを見ながら、そうかアバッキオのスタンドなら正体が分からない敵でも追跡出来るなと、フーゴはどこかぼんやりした頭で考えていた。しっかりしなければと思うのに、どう動くべきなのかが分からない。突然のことに、理解が追いついていないというのか。いや、誰よりも大切に思う者――の肉体――が敵の手に落ちたということに、思った以上のショックを受けている。もしもこのまま元に戻れなかったら、彼は一生猫の姿のままでいることになるのか……。もう、自分の名を呼ぶあの声は聞けないのか……。
「ミャオ」
 猫が鳴いた。
「……ナランチャ」
 彼は再び擦り寄ってきた。
 突然の事態に、一番戸惑っているのは彼自身だろう。それだというのに、小さな猫の体で、まるでフーゴを支えるかのようにぴったりと傍にいようとしてくれている。
(そうだ、ナランチャはちゃんとここにいるんだ。ぼくが狼狽えてどうする……!)
 戸惑いを振り払うように、フーゴはぶんぶんと頭を振った。ようやく感覚がまともに戻ってきたようで、ミスタが携帯電話に向かって怒鳴っている声が耳に入ってきた。
「緊急事態なんだ! あ? 任務? そこをなんとかしろっつってんだよ!」
 通話相手はアバッキオであるようだ。今日の彼は、確か少々の遠出を必要とする予定――任務――が入っていた。今頃は目的地へ向けて移動の最中か。おそらくこの後、リーダーであるブチャラティにも連絡をして、アバッキオを戻ってこさせる許可をもらう必要があるだろう。敵の追跡を開始出来るのは、早くても1時間は先のことになると見るべきか。それだけの時間があれば、どれだけのことが出来るか。自分達も、敵も。
(ただ待っているだけじゃあ駄目だ)
 自分も、大切な者のために、なにかしなければ。
「ナランチャ」
 呼ぶ声に反応して、尖った耳がぴくりと動いた。
「きっとなんとかしてあげますから、もう少しの間、耐えてください。君も、君の体も、ぼくが守りますから」
 その言葉に根拠を求められれば、提示出来るものはなにもない。だがもし大切な人が信じてくれるのであれば、そのこと自体がフーゴにとっての根拠となりえる。彼との『約束』だから。そう思えば、なんだってしてみせる。
 黒猫の顔が、不思議と少年の笑顔に見えた。かと思うと、彼は両方の前足を伸ばして脚にしがみ付いてきた。フーゴは両手を伸ばし返し、そのままそっと抱き上げてみた。抵抗する力は皆無だ。それどころか、彼はフーゴの肩に頭を預けて、ごろごろと喉を鳴らした。服に毛が付くなと思ったが、全く不快ではなかった。
「フーゴ、ポルナレフさんのことも、時々でいいから思い出してあげてくださいね」
 そう言ったジョルノは少し笑っていた。フーゴの耳元で、相槌を打つように「ミャオ」と声が上がった。きっと、「そーだそーだ。ポルナレフを忘れるなんて、薄情者だぜ」なんて言って、笑っているのだろう。
 ミスタはまだアバッキオと怒鳴り合っているようだ。それを見たジョルノは、「先にブチャラティにも連絡しておきますね」と言ってくれた。フーゴは念のため、もう一度奥の部屋になにか残されていないか探してみることにした。
 つい先程まで窓が開いたままになっていた部屋は、他よりもさらに温度が下がってしまっている。が、腕に抱いた猫の体温のお陰で、寒さを感じずにいることが出来た。「この姿でも意外と役に立つだろ」と誇る少年の顔を思い浮かべながら、フーゴは窓に近付いた。
 周囲に、敵の物と思われる足跡等はないようだ――しいて言うなら窓の桟に猫の足跡がある――。窓が破壊されている様子もないため、やはりここを開けたのはナランチャなのだろう――ポルナレフには無理だ――。
「事務所の出入り口の鍵は確かに掛かっていた……。ということは、敵はここから入って、またここから出て行ったのか……?」
 ナランチャの体を抱えたまま……? だが、外の通りは意外と人の行き来がある。いくらナランチャが小柄だからと言っても、目立たずには済まないだろう。
「ナランチャ、君はそれを……いえ、そもそも敵の姿を見ましたか? 確か、シルバー・チャリオッツ・レクイレムの能力が発動する時は、近くにいる者はみんな強制的に眠らされてしまうということでしたが」
「ミャア?」
「……見てないのか」
 敵は余程手際良く侵入と攻撃と退避をやってのけたのだろう。
「となると、相手もスタンド使いであると見てまず間違いないか……」
 人の目に付かずに人間1人――と亀1匹――を連れ去ることが出来るような能力……。
「……駄目だ、見当も付かない。ナランチャ、意識を失う前に、なにか気付いたことはありませんか?」
「ニャ?」
「敵が侵入してきた時、君はどこに? 気配を感じたりはしませんでしたか? 敵の声とか……男だったか女だったかだけでも……」
「ミャウミャオ」
「……駄目だ」
 分かってはいたが、言葉が通じないのは不便だ。いや、理解出来ていないのはフーゴの方だけか……。
「そうだ、筆談なら」
 フーゴは机へと移動した。その近くではまだミスタが携帯電話に向かって大きな声を上げているし、ジョルノはジョルノで、ブチャラティがなかなか電話に出てくれないらしく、渋い顔をしていた。「なにか見付かったか」と視線で尋ねてくるジョルノに、フーゴは無言で首を振って答えた。揃いも揃って難航している。
 フーゴは腕の中の猫を机の上に降ろし、その目の前に引き出しから取り出した雑紙とペンを置いた。こちらの意図はすでに理解されているのか、すぐにペンに手――前足――が伸びる。が、それはペンの位置をいくらか移動させただけで、しっかりと持つことはもちろん、文字を書くなんてことも、どうやっても無理であるようだ。白い紙に1本の線を引くことすら出来ない。「猫の手を借りたい」なんて諺があるが、借りられたところで出来ることはあまり多くはないことが実証された。パソコンのキーボードならと思いそちらも試してみたが、これもやはり駄目だった。猫の手では小さなキーを1つだけ押すという動作は難しいようだ。画面にアルファベットの羅列が表示されただけで、この実験も終わった。
「ポルナレフは亀でも喋れたのにな」
 顔を上げると、やっと通話を終えたらしいミスタがこちらを見ていた。
「あの亀はスタンド使いだから、特殊だったのかも知れませんね」
「なるほど」
「アバッキオはなんて?」
「ブチャラティからも指示が出たって言ったら、今から戻るってよ。渋々って感じだったけどな」
「ブチャラティ、連絡付いたんですか?」
 ジョルノの方を見ると、彼もすでに耳から電話機を離していた。
「いえ、全然。留守電にメッセージを残してはおきましたが」
 つまり、リーダーの指示だというのは真っ赤な嘘か。
「さっさと敵とっ捕まえて、こいつの体取り戻したいだろ?」
「ブチャラティなら、駄目だとは言わないと思います。順番が違っているだけで、結果は同じことかと」
 2人はそろってにやりと笑った。緊急の事態だというのに、フーゴも自身の口元がふっと緩むのを感じた。自分ひとりじゃあなくて良かった。心からそう思えた。
「しかしただ待ってるってのもなー。性に合わないぜ」
「なにか、つい最近までナランチャが身に付けていた物はありませんか? それを生き物に変えれば、追跡出来るかも知れません」
「ああ、靴をハエにしたやつか。なんかないか、探してみるか」
「ニャー!」
「おっ、お前も探すか」
 不思議といつもの彼等のやり取りに見えて、フーゴは再び笑みを零した。
 かくして、3人と1匹による捜索が始まりはしたが、こちらもなかなかどうして成果が出ない。30分以上掛けても、目ぼしい物は見付からなかった。先程ミスタが前例としてあげた時のように、靴が脱げて落ちたりはしていないようだ。
「その辺に落ちてる髪の毛……とかじゃあ駄目だよな。黒髪なの、ナランチャひとりじゃあねーし」
「長さや髪質で意外と絞れそうな気がしないでもないですが……。ナランチャの髪はミスタほど短くないし、ブチャラティほど直毛じゃあない。でも、自然と抜けた髪が主の許へ帰ろうとしてくれるかどうかは、ちょっと期待薄だと思いますね。歯はいけたけど」
「待てよ。靴がありなら服もありか。おいフーゴ。おめーんちにナランチャのパンツとかねーの?」
「はぁ!? なんでぼくのうちに……ッ」
「そーゆー関係だから」
「ちっ、ちがッ……」
「それならナランチャに許可をもらって、本人の部屋に入らせてもらうのもありかも知れません」
「なるほど。おいフーゴ。おめー鍵持ってるだろ。出せ」
「はあぁッ!?」
「たぶん本人のは猫の方じゃあなくて“体”の方が持ってるだろ。だからスペアが必要だ」
「だからっ、なんでぼくがっ」
「そーゆー関係だから」
「違うって言ってんだろうがッ!!」
 フーゴが怒鳴ると、ミスタはやれやれと肩をすくめた。ふざけているわけではない――あくまでも本気――らしいところが逆に質が悪い。さらには、ジョルノが「くだらない冗談を言っている場合ではないでしょう」と諭すような目を、何故か自分の方に向けているのも、フーゴは気に入らなかった。が、これ以上文句を言ったところで、話は少しも前へ進んではくれない。彼はやり場のない怒りを呑み込むより他なかった。
「そういえば少し前に、なにかあった時のために全員1つずつスペアのキーをブチャラティに預けてあると言ってませんでしたか? ぼくは学生寮住まいだから例外ですが」
「お、それがあったか」
 フーゴが冷静であればもっと早くその存在を思い出していたかも知れない。そもそも、最初にそれ――合鍵をブチャラティに預ける――をしたのはフーゴだった。未成年であるフーゴが部屋を借りるには、ブチャラティに名前を借りる必要があった。つまり、彼の部屋は名義上はブチャラティの物である。ならば、鍵の管理は彼に任せるのが最適であるように思えた。ただそれだけの理由であったが、いつの間にかそれはチーム内の暗黙のルールとなっていたようだ。今では、何故か成人済みのメンバーまでそれに倣っているらしい。
「どこにあるんだ?」
「たぶん、机の引き出しの中です」
 一番奥にある机の引き出しを開けると、焼き菓子が入っていたらしい缶があった。それは、複数の金属がぶつかり合うような音を立てた。
「これか」
 ミスタが手を伸ばして蓋を開けた。
「お、あったぜ!」
「では早速」
「ええ」
「ナランチャ、君の部屋へ行っても……」
 緊急事態故に、本人が不在であればそれは許可なく使用されていただろう。が、猫の姿はしていても、彼はここにちゃんといる。ならば、断りくらいは入れる必要がある。そう思って振り向いた先に、その姿はなかった。
「あれ? ……ナランチャ?」
 そういえば、さっきからずっと猫の鳴き声を聞いていない。ナランチャの持ち物が落ちていないか探し始めた時は、家具の隙間に顔を突っ込んだりして、彼も協力してくれていたはずなのに……。
「ナランチャっ? どこに行ったんですかっ?」
 返事はない。それでも彼等は、書類を納めているキャビネットの上に彼を見付けた。
「いつの間に……」
 彼は寛いだ様子で、自分の前足をしりきに舐めていた。長い尻尾はぷらぷらと振り子のような動きをしている。
「……なにしてんだあいつ」
「……毛づくろい?」
 猫が毛づくろいをするのは極普通のことだ。が、それは極普通の猫のケースだ。そうではない彼がそんなことをする必要は、全くないはずである。
「おいナランチャ、お前なに猫みたいなことしてんだよ」
 半分揶揄するような口調でミスタが声を掛けるも、なんの反応も返ってこなかった。「今忙しいんだから」とでもいうように、彼は同じ動きを繰り返している。
「もしかして、意識も猫になりつつあるんじゃあ……」
 これはポルナレフのスタンドによる現象ではないのかも知れない。全く別の、人間を動物に変化させる能力の使い手が現れたのだとしたら――それなら、ナランチャの肉体を抱えて窓から外へ出るなんてリスキーなことを、敵はしなくて済んだはずだ――。時間が経つに連れ、その効果は強くなっていると見て良いだろう。
「まさかこのまま戻らないなんてことが……」
「そんなっ……」
 フーゴは思わず駆け寄っていた。
「ナランチャ!」
 猫はぴたりと動きを止めた。そしてフーゴの方をじっと見ると、不意にキャビネットから飛び降りた。彼はわずかな足音だけを立てて、床へと着地した。その身のこなしは、完全に猫のそれだ。
「ナランチャ……」
 フーゴが伸ばし掛けた手を無視するように、彼は窓へと近付いていった。ひらりと桟に飛び乗ると、ガラスに前足を掛けてミャーミャーと鳴く。窓を開けろと言いたいのだろうか。ここを出て行きたい、と。自由奔放な猫のように。
(そんな……、そんなのっ……)
 ある日突然彼がいなくなってしまうなんてことは、この世で最も考えたくないことのひとつだ。
「駄目だ、ナランチャっ!」
「え、なにが?」
 駆け寄ろうとしたフーゴの脚を止めさせたその声は、間違いなく人間の声だった。
「……え?」
 振り向くと、事務所の入り口のドアが開いて、そこにナランチャが立っていた。猫ではない、人間の姿のナランチャだ。その手にはスタンド使いである――ポルナレフの住処となっている――亀を持っている。
「え?」
 再び窓の方を向くと、猫は相変わらず窓の前にいる。
「え……?」
「あれぇ!?」
「え? なに?」
「なっ、ナランチャ!?」
「ナランチャっ、お前どうしてっ……」
「だから、なにが? え?」
 この時この場所に、冷静な者はひとりもいなかった。全員が頭の中を疑問符で埋め尽くされてしまった。
「お前、猫になったんじゃあなかったのかよ!?」
「は? 猫?」
「あれです」
 3人は一斉に猫――まだ窓のところにいる――を指差した。
「なにその猫。オレ知らないぜ」
「もしかして、開いてる窓から勝手に入ってきた、その辺の普通の猫……?」
 猫は外にいる鳥に向かって威嚇の声を上げていた。届くはずもないのに。完全にただの猫だ。では結局、最初の予想が一番正しかったのか。意思の疎通が出来ているように思ったのは……、
「ただの、勘違い……?」
「偶然……ってことかよ」
「人騒がせな!!」
「なんだったんだこの時間は……」
「だから、なんの話だよ?」
 状況が理解出来ていないナランチャは、次第次第に不機嫌になってきているようだ。が、そんな目で睨まれても、腹を立てたいのはフーゴ達も同じ……いや、それ以上だ。
「どこ行ってたんですかッ! 留守番さぼって!!」
「ええー。ミスタとかも時々やってんじゃん。オレ知ってんだからな。ちょっと出掛けてただけじゃん」
「だから、どこ行ってたんだって聞いてんだッ」
「散歩がてから、買い物に」
「散歩って、亀のかよ。犬じゃねーんだぞ」
 ミスタが指を差すと、亀の背中にはめ込まれた鍵からポルナレフが姿を見せた。彼等の会話は、亀の中にも聞こえていたようだ。
「私が頼んだのさ」
「そう。ポルナレフが、フランス語の本が欲しいって言うから」
「イタリア語も読めるが、やはり母国語の方が頭に入ってき易いからな」
「それで、バッグに入れて、一緒に本屋まで行ってきたんだよ。でも、外国語の本って、どこにでもは売ってないだろ? だから結構探し廻ったよな」
「助かったよ。私ひとりでは1軒だって辿り着けなかっただろうからな」
「やっぱり、故郷が恋しい?」
「まあ、時々な」
「じゃあ、今度連れってやるよ!」
「ふふ。頼もしいな」
 いつの間にか随分と仲良くなったようだ。フーゴは既存の苛立ちに新たなものが加わるのを自覚した。が、それをストレートにぶつければ、理不尽だとクレームを付けられるだろう。仕方なく、他にぶつけられる相手を探しすことにし、そして見付けた。
「ジョルノ、さっきあの猫の中に人間の魂が入ってるって、言わなかったか?」
 フーゴが纏う怒りのオーラに気付いているのかいないのか、ジョルノは平然とした様子で答えた。
「そうは言ってませんよ。正直、違いとかは分からなかったです」
「はぁ!?」
「良く考えれば、ぼく、猫の魂なんて触ったことないですし。とりあえず人との違いはないように感じたので、人だったとしてもおかしくはないかなとは思ったんですが、外れでしたか」
「おいッ」
「不確かだったので、ナランチャだと断言してはいませんよ」
 あの「残念ながら」は、「分からない」の意だったらしい。
 フーゴが「ふざけるな」と怒鳴るのを阻止するように、階段を駆け上がる足音が聞こえてきた。かと思うと、それはもう事務所の入り口の前にいる。勢い良く開け放たれたドアの向こうには、アバッキオが立っていた。
「戻ってきてやったぞコラァ! なにが緊急事態だって!?」
 ブチャラティからOKをもらうという行程をすっ飛ばした所為もあるだろうが、それにしても早い到着だ。相当飛ばして来たのだろう。チンピラ然とした表情の彼は、ひどく機嫌が悪そうだった。
「あ、アバッキオ。おかえり」
「よー、アバッキオ。お疲れさん」
「お疲れのところ急いで戻ってきてもらっておいて申し訳ありませんが、もう終わりました」
「はあぁッ!? どういう意味だッ!?」
 おそらく本日一番の理不尽さを味わっているであろうアバッキオを見ていると、フーゴは不思議と冷静な気持ちになり、「まあ、そういうリアクションになるよな」と心の中で呟いた。
「だから、もう解決したんです。貴方の出番はない」
「ざけんな! 仕事中だったのに車すっ飛ばして帰ってきてやったんだぞッ!!」
「そうは言っても、終わったものは終わったんです。どうぞ心置きなく任務に戻ってください」
「ジョルノ、てめぇ……」
 ジョルノに文句を言ってやろうとしていたら、アバッキオが割り込んできて、気付けば自分は部外者になってしまっている。そんなことが、前にもあったなとフーゴは思った。その時も、そもそもの話はナランチャに関係することだった。一方当のナランチャは、ポルナレフと「出掛けちゃマズかったのかな」「そういえば窓も開けたままだったしな」「外出禁止って言われたらどうする?」「早めにブチャラティを味方につけておこうか」「お、それいいな」等と呑気な会話を繰り広げている。
(まったく、人の気も知らないで!!)
 だが少し時間が経てば、何事もなくて良かったと思えるようになるだろう。
 いや、「なにもない」どころか、むしろプラスの要素の方が多いかも知れない。
 ポルナレフは欲しかった本が買えたし、ブチャラティは意味のない留守電を残されただけ。アバッキオと言い合いをするジョルノは淡々としているのにどこか上機嫌そうに見えるし、アバッキオは無駄な移動をさせられただけだ。ミスタは、得たものはないが少し無駄な時間を過ごしただけで、失ったと言えるようなものもない。
 そして、ここからが一番重要なことだ。ナランチャは退屈な留守番を放り投げて気分転換に行けて、でもこうしてきちんと戻ってきていて、どこにも行っていない。フーゴは、不必要に振り廻されはしたが、大切な相手がどこにも行かずに、きちんと戻ってきてくれた。それで充分だと、思うことは難しくはないはずだ。今すぐには無理でも、騒ぎがおさまって、入り込んだ“極普通の猫”がいい加減に外に出せと喚き出して再び騒ぎになる頃までには。


2021,02,22


2月22日は猫の日!
というわけで、猫合わせです!
猫は変わらざるわが喜び……、猫様のお世話をさせていただけることは、人間にとってこの上ない喜びですよね☆
<利鳴>

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