フーナラ 全年齢


  Santuario


「資料と、記録用具と、あと……」
 忘れ物はないかと、フーゴは辺りを見廻した。
「あ、携帯……っ」
 どこへ置いたかと視線を走らせる。確か今日は必要になるからと充電器に――。既に充電中であることを告げるランプが消えていたそれをもぎ取るように掴み、今度こそ大丈夫だと玄関へ向かう。とそこへ、来客を告げるチャイムが鳴った。
「っ……この忙しい時にッ」
 フーゴは舌打ちをしながら腕時計を見た。もう出掛けなければならない時間だ。ブチャラティとの約束時間は数分後に迫っている。
 再びチャイムが鳴る。
「どうする……」
 予告もなしに訪ねて来るくらいだ、大した用事ではないだろう。今から出掛けなければならないのだということを説明して出直してもらうか、それともさっさと諦めてくれることを祈りながら居留守を使うか……。再び時計を見る。急いでいる時に限って秒針の動きはどんどん加速してゆく。「無駄なことを考えていてないで早く出ろ」と言わんばかりにチャイムの音が再度……いや、2度、3度、4度と立て続けに鳴り響いた。
「ああもうっ! どこのガキだッ」
 フーゴは持っていた荷物を机に放り上げると、大股で玄関へ向かい、訪問者の顔面に直撃してもかまわない――むしろそうなってしまえ――というほど勢いよくドアを開け放った。
「はいはいはいはい、どなたッ!?」
 急に開いたドアに驚いたのだろう、そこには眼を見開いた顔があった――ドアはぶつからなかったようだ――。
「……っくりしたぁ。なんだ、いるんじゃん」
 こちらの都合などおかまいなしに、まだチャイムのボタンに指を伸ばした格好のままそこにいたのは、ナランチャだった。「躾がなっていない、どこの子供だ」と思っていたら、その正体が自分の身内だったような気持ちで、フーゴは溜め息を吐いた。
「なんの用です」
「いやぁ、ヒマでさぁー」
「こっちは忙しいんです。さっさと帰……」
 言い掛けたところで、部屋の中から携帯電話の呼び出し音が聞こえてきた。
「まずいッ……」
 おそらくブチャラティだ。指示された時間になってもフーゴが現れないので――咎めるためというよりも、普段ならあまり遅刻などしないフーゴが遅れるなんて、何かあったのかと心配して――、電話してきたに違いない。
 フーゴは部屋の中へ掛け戻った。その後を、不思議そうな顔をしながらナランチャがついてくる。電話に出ながら、「早く帰れ」と手で合図するが、ナランチャにそれは伝わらなかったようで、ぽかんと口を開けている。
「ったく……。……はいっ、すぐ行きますっ」
 案の定ブチャラティからのものだった通話を終え、携帯電話を荷物の中に放り込みながらナランチャを睨む。
「ほらっ、出掛けなきゃあなんないんだから、お前も帰れッ」
「何? 仕事? オレはなんにも聞いてないぜ?」
 ナランチャは帰るどころかのんびりとベッドに腰掛けている。
「頭使う仕事だからお前の出番はない! さっさと出ろよ!」
「えー、ちょっとはゆっくりさせろよぉー」
「ナランチャ、ぼくは忙しいんだ」
 フーゴは叱り付けるような口調で言った。が、ナランチャは子供のように拗ねた表情をしただけだ。
「じゃあ、フーゴが帰ってくるの待ってる」
「たぶん夜中近くまでかかる。さっさと帰れ」
「むー……」
 諦めさせる手段は、おそらくいくらでもあっただろう。しかし、今はとにかく時間がなかった。
「ったく……」
 フーゴは溜め息を吐くと、机の引き出しから合鍵を取り出し、それをナランチャに向かって投げ付けた。
「いて。ん、何?」
「帰る時に戸締りだけして行け。その鍵は預け……ておいたら失くしそうだな。……使い終わったらポストに入れておけ」
 自分はもう出掛けるからお前は勝手に帰れという意図は、おそらく流石のナランチャにでも伝わっただろう。
「鍵だけはして行けよッ? いいなッ」
 フーゴは、ナランチャから返事があるのを待たずに足早に家を出た。

 帰宅したのは、予想した通り、ほとんど真夜中だった。仕事自体は一応問題なく済ませたが、とにかく時間が掛かった。本来ならばもう少し人数を要するような作業を、フーゴとブチャラティ、それからアバッキオの3人だけでやろうというのが間違いだったのだろう。
「かと言ってナランチャはこういった作業には使えないし……」
 そろそろメンバーを増やしてもらいたい。そんなことを思いながら溜め息を吐き、自分の部屋へと重い足を引き摺る。1秒でも早くベッドで横になりたい気分だった。が、マンションの前まで来て、彼の疲労が一気に増加する光景が視界に飛び込んできた。彼の部屋の電気が煌々と照っていたのだ。
 「ナランチャのやつ、消し忘れて行ったな……」と、フーゴは再び深い溜め息を吐いた。次に会ったら――実際にそれだけで済むかどうかは別として――文句の1つでも浴びせてやらねば。そんなことを思いながら、取り出した鍵を鍵穴に挿し込む。が、
「…………ん?」
 フーゴは眉を顰めた。鍵が廻らないのだ。まさかと思いながらドアノブに手を掛ける。ドアは、あっさり過ぎるほどあっさりと開いた。
「あの馬鹿……ッ」
 あれほど言ったのに、ナランチャは鍵を掛けるのも忘れてしまったのか。フーゴは頭に血が上っていくのを自覚しながら、乱暴にドアを閉め、鍵を掛けた。もうこれ以上自分の休息を妨げる物があれば、容赦しないという気持ちで寝室のドアを開ける。しかし次の瞬間視界に入って来た光景に、フーゴの思考回路は考える事を一瞬放棄した。
「……なんで?」
 そこに広がっていたのは思わずそう呟かずにはいられないような光景だった。真っ先に倒れ込んでやろうと思っていたベッドに、先客がいたのだ。
「おいッ、ナランチャ!」
 そう、勝手に人のベッドで寝息を立てているのはナランチャだった。彼は電気を付けっ放しで鍵を掛け忘れて帰ったのではなかった。帰ってすらいなかったのだ。
 フーゴは荒々しい足音を立てながらナランチャに近付いた。が、その程度の物音では彼を眠りから引き摺り戻すことは出来ないようだ。相も変わらず気持ち良さそうに眠っている。
「何してるこのクソガキ。起きろッ」
「んー……」
 ナランチャは唸るような声を出しただけで、眼を覚まそうとはしない。フーゴは靴を履いたままの爪先で、ナランチャの脇腹を蹴った。
「おい、いい加減にしろよ。起きろッ! 犯すぞこらッ」
「ふあぁ?」
 やっと眼を覚ましたナランチャは、しかしまだぼーっとした顔で、自分がどこにいるのかを把握するのにも僅かな時間を必要としたようだった。
「…………ああ、フーゴ。お帰りー」
「『お帰り』じゃあないだろッ。何してんだお前は。帰れって言っただろ。人の部屋で勝手に寝るな」
 そう言いながらも、段々怒ることさえ億劫になってきた。怒鳴る気力すら沸かなくなっている。早くこいつを追い返して眠りたい。フーゴの頭の中は、徐々に他の思考を持てなくなってきている。
「寝てないよぉ」
「嘘吐けッ」
「ちょっとうとうとしただけじゃん」
「あー、もう分かった。それでッ? 何してる」
「フーゴが帰ってくんの待ってるって言っただろ」
「頼んでない」
「だって帰っても誰もいないし。ヒマじゃん」
「ここだって誰もいないしやることなんてないだろ」
 フーゴの部屋には、ナランチャの興味を引きそうな物はほとんどない。ナランチャの眼から見たフーゴの部屋はこうだ。「なんか難しそうな本がいっぱい」。そうでなくても、ナランチャは普段からほとんど本を読まない。テレビのリモコンをいじった形跡もあったが、とくに見たいものはなかったらしく――そう言えば映画も見ないと言っていた――、今は何も映っていなかった。それで結局退屈になって寝ていたと言うところだろうか。しかし、
「やることはあるじゃん」
 ナランチャは当然と言うような顔をした。
「何を?」
「る・す・ば・ん」
 もうフーゴの口からは溜め息しか出てこなかった。本当に怒る気を喪失させられてしまった。ナランチャの方はというと、大きな欠伸をしている。
「結構遅かったなー」
「そう言ってあったでしょうが」
「難しい仕事だったの?」
「そう言う訳では。ただ人数が足りなくて……。って、そんなことはいいから……」
「ふーん」
 ナランチャは何か考え込むような顔をしている。
「……どうかしましたか?」
「勉強出来るようになったら、オレにもそれ手伝える?」
 そう訪ねたナランチャの表情は、あくまでも真剣なのに妙に子供っぽく見えた。
「君に勉強なんて出来るんですか?」
「フーゴが教えてくれればいい」
 それでは結局自分の仕事は減らないではないか。そんなことを思いながらも、気が付けばフーゴは笑っていた。
「何がおかしいんだよ」
「いえ、何も」
 不満そうに頬を膨らませる様子がますます子供染みて見え、それが余計におかしいのだということは気付かれないように、フーゴは咳をして誤魔化した。
「さ、もういいでしょう。遅いんだから帰りなさい」
 フーゴがそう言うと、ナランチャの口からは言葉の代わりに欠伸が出てきた。
「……ひょっとして……?」
「んー?」
 ナランチャは眼を擦りながら首を傾げた。
「寝てないんですか?」
「だからそう言ったじゃん」
 いや、あの時は寝ていただろうとの突っ込みをフーゴはなんとか呑み込んだ。
「そうじゃあなくて、……ずっと? 寝ないで待ってたんですか? なんのために……」
「寝てたらフーゴに『お帰り』って言えないじゃん」
 ナランチャは歯を見せて笑った。
「っ……」
 自分の休息を阻止するものがあれば、許さないつもりでいた。ほんの数分前までは。そして今、その条件は満たされた。そのはずなのに――、
「もう、疲れた……。怒る気も失せた」
 フーゴの感情の沸点は、常人よりも低いと――早い話がキレ易いと――言われている。それなのに、帰宅直前から少しずつ蓄積されていたはずの怒りは、今やほとんど完全に消滅していた。彼を知る者から言わせれば、『あの』フーゴが、である。いや、眼の前で100パーセント邪気のない顔で笑われて、それでもなおキレることが出来る者など、滅多にいないだろう。――かなり控えめに言って――少々短気なフーゴも、その例には漏れなかったということらしい。
「ホントにギャングかよ……」
「ふあぁ……。ん? なんか言った?」
「……いえ、何も」
 フーゴはもう諦めたと言うように溜め息を吐いて微笑んだ。
「さ、もう帰って下さい。おくっていってあげるから」
 本当はそんな気力が残っているかどうか危ういのだが、それでもわざわざ自分の帰宅を待っていてくれた相手に「じゃあおやすみ」とだけ言ってその鼻先でばたんとドアを閉めてしまえるほどには、フーゴは薄情にはなれなかった。
 しかしナランチャはベッドの上にごろりと転がった。
「眠い。……ここで寝る……」
「はぁっ?」
「泊まってく……」
 勝手なことを言いながら、ナランチャの語尾はもうすでに消え掛かっている。
「ぼく、かなり疲れてるんですけど」
 フーゴの部屋には人を泊められるような余分な部屋とベッドはない。ナランチャが――半ば強引に――泊まっていくことはこれまでにもあったが、その時はソファをベッド代わりに使っている。普段ならベッドを貸してやって自分はソファで寝ても――あるいはその逆でも――良いのだが、今はとにかく疲れている。狭いソファでは、絶対に疲れが取れない自信がある。
「寝るならソファにいけ」
「んー……、じゃあ半分……」
 ナランチャの眠気ももう限界に近いらしい。起き上がる気力もないと言うように、ナランチャはベッドの奥につめてスペースを半分空けた。
「つまり何?」
 一緒に寝ると言っているようだ。
「ちょ……、ナランチャっ!?」
 返事がない。代わりに小さな寝息が聞こえはじめてきた。
「……っ、何考えてんだこいつはッ」
 おそらく何も考えていないのだろう。彼は本当に自分よりも2つだけとはいえ年上なのだろうかと疑いたくなってくる。年齢的には高校生なはずなのだ。
「見えない! 絶対に見えないッ! ……誰の家にでも簡単に上がり込んでるんじゃあないだろうな……」
 何度声を掛けてみても、肩を掴んで揺すってみても、ナランチャが起きる気配はなかった。本格的に眠ってしまったようだ。
 おそらく半分空けられたベッドの方が、ソファよりはまだ広いだろう。ナランチャを抱えてソファに移動させる体力も残っていない。フーゴは溜め息を吐きながら灯りを消し、半分占領された自分のベッドに入った。やはり狭い。が、あっと言う間に強烈な睡魔が襲ってきた。今更「やっぱりなんとかしよう」などということは出来なさそうだ。
「明日ブチャラティが来るんだけど……」
 次の仕事で必要な資料を渡す約束をしているのだ。そのくらい自分が持って行くと申し出たのだが、他の用事で出掛けるついでだからと言われて、ブチャラティに訪ねて来てもらうことにしていた。正直、約束の時間までに起きられる自信は全くなかった。眼覚まし時計はセットしていたっけ? いや、そんな物が鳴った程度ではきっと眼は覚めない。ブチャラティには何かあった時のために合鍵を渡してある。呼び鈴を鳴らして応答がなければ、昨夜は帰宅が遅くなってしまったこともあり、きっとまだ寝ているのだろうと思って自分で鍵を開けて入って来るに違いない。あるいは最初から気を遣って、呼び鈴を鳴らすことすらしないかも知れない――鳴らされたところでフーゴは気付けないだろうが――。資料を保管しておけそうな場所は寝室の机か本棚くらいしかないことを、彼は知っている。となれば、当然この部屋まで入って来るだろう。ドアを開ければベッドの上はすぐ視界に入る。
「あーあ、おかしな誤解、されそうだな……」
 しかも相手がナランチャだ。下手をすればこちらが一方的に悪者にされてしまいかねない。
「この馬鹿……。どうしてくれようか……」
 ブチャラティが来る前にナランチャが眼を覚まして帰ってくれる可能性は、きっとほとんどないだろう。もう結果は見えてしまっているも同然ということだ。後はブチャラティがどのような反応を見せるかだけだ。案外気を遣って何も言ってこないかも知れない。しかし気を遣われても困るのだ。何しろ100パーセント誤解なのだから。
 そんなことを思いながら、フーゴは眠気の中に意識を手放すことにした。
(もう、どうにでもなれ。ぼくは眠いんだ……)
 おそらくナランチャは本当に何も考えていない。だったら、自分だってそうしてやる。自分ばかりが慌てふためくのはフェアじゃあない。
(いっそナランチャももっと困ったらいいんだ)
 ブチャラティに何か言われたら、フーゴは知らぬ存ぜぬで通してやろうと、眠りの中に消えていく意識の中で誓った。


2011,05,03


関連作品:Buon Compleanno


以前別の場所で公開していた小説を手直ししたものです。
わたしはパッショーネ入りの順番が、ブチャラティ→フーゴ→ナランチャ→アバッキオ→ミスタ→ジョルノだと思っているので(ナランチャとアバッキオは逆でもいいかも。とりあえず限りなく同期で)、ミスタが来るちょっと前くらいのつもりで読んでいただけたら幸いです。
ブチャラティは任務以外のことに関してはちょっと天然さんだといいと思っているので、
「ああナランチャもいたのか。今日は特に仕事ないから2人共そのまま寝てていいぞー」
みたいな感じでなんの疑問も抱かずにスルーしてたらいいと思ってます。
<利鳴>

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