心に降る雨


 京介の意識はまどろみを経て目覚めへと向かっていた。目蓋越しに感じる光は強くはない。が、まだ夜が明けていないということはなさそうだ。眼を閉じたまま、今日の予定を思い出そうとして、思い出すべき予定が何もないことを思い出した。世間一般から見れば慌しい年末間近の時期ではあるが、帰省の予定もない一大学生の彼には、年内の課題を一通り終えてしまった後は何の約束も拘束もありはしなかった。年末の掃除くらいはと思っているが、それもまだ急ぐような時期ではない。不必要に急かせたがるお節介な同居人の顔が思い浮かんだが、その片方は朝からバイトだと言っていたし、もう片方は立派に“慌しい年末”を過ごしている頃だ。少なくとも、今はもうしばらく静かな時間を邪魔されずに済むはずだ。
 改めて意識を手放そうとした時、腕の中に自分のものではない体温があることに気付いた。幼少の頃の、猫と寄り添って眠った記憶が蘇る。が、今そこにいる生き物は人間の少年の形をしていた。
「蒼?」
 猫と同じ名を呼びながら眼を開けると、茶色い癖っ毛が真っ先に視界に入ってきた。故あってひとつ屋根の下で寝食を共にすることとなった少年、通称“蒼”は、京介の腕の中に顔を埋めるようにして眠っている……ように見えた。京介の襟元を握っている手が、小刻みに震えている。
「蒼、どうした?」
 顔を上げさせようとして気付いた。雨が降っている。蒼は耳に入ってくる雨音を京介の心臓の音でかき消そうとするかのように顔を押し付けている。
「雨が嫌い?」
 頭にそっと手を置きながら尋ねると、蒼は小さく頷いた。強くはないが、やむこともない雨音が、閉ざされた温室の光景を彼に思い出させたのだろう。それがすでに過ぎてしまったことだと、彼は充分理解している。理解していても、その恐ろしさに駆られて、京介の布団に避難せずにはいられなかったようだ。それでも眠っている自分を起こしてしまわないいじらしさに、京介は胸を打たれた。
 彼の心の傷を癒すために、自分に出来ることならなんだってするのに……。だが京介に雨をやませることは出来ない。
「早くやむといいのに」
 蒼に向けての言葉というよりは、ほとんど独り言のようなその呟きでさえ、雨がかき消してしまいそうだ。早く、やんでしまえばいいのに……。
 しかし蒼は首を横へ振った。
「蒼?」
「ゆきに、なればいい」
「雪?」
「うん」
 故郷の冬は、真っ白な雪で覆われていた。今年もおそらくとっくに地面は埋め尽くされているのだろう。全ての色と、全ての音さえ奪い去ってしまう雪は、北国に住む者にとっては時に命まで摘み取る凶器となる。だが、東京で生まれ育った蒼には、それはただ白くて綺麗な存在なのだろう。雪が彼の記憶を一時だけでも覆い隠してしまえるのなら、それも悪くないのかも知れない。
「そうだね」
 京介は小さな身体を包み込むように抱き締めた。雨が雪になるということは、当然、気温は一定よりも低くなければならない。もしそうなったとしても、こうしていれば温かい。
「雨がやむまで、ここにいていいよ」
「……やまなかったら?」
「やむよ。必ず」
 京介がきっぱり言い切ると、蒼はようやく顔を上げた。大きな瞳を見ながら、京介は微笑んでみせた。
「やまない雨なんてない」
「……うん」
 蒼の表情が安堵したようにわずかに緩んだ。
「もう少し寝てなさい」
「うん」
「あ、でも」
「?」
「雨が上がる前に神代さんが帰ってきたら、“雷”が落ちるかも知れない」
 「てめーらいつまで寝てやがる」と怒鳴る家主の姿を想像したのだろう。蒼はやっと、子供らしい笑顔を見せた。


2015,12,27


関連作品:心にかける虹


最近京蒼書いてないね! と思って書きました。
開設記念日はカゲカズにしちゃったからな。
秋くらいには書けていたのにうっかり年末設定してしまったので仕方なく寝かせていました。
起こし忘れないで良かった!
ちょっと京介が甘やかしすぎてる感じになった気がしますが、きっとたまにはそんなこともあるよね!
なんだかんだで優しいとこもあるもんな特に蒼には!
<利鳴>

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