関連作品:心に降る雨


  心にかける虹


「あ、降ってきたみたいだよ」
 窓の外に眼をやりながら、蒼が言った。京介はパソコンの画面に視線を向けたまま、しかし耳だけは蒼の声と外でかすかに鳴る雨音へと向いている。朝からどんよりと曇っていた空は、ついに泣き出したようだ。パラパラと鳴る音は、徐々にその強さを増している。
「深春、傘持ってるかなぁ?」
「どうだろうね」
 蒼は窓ガラス越しの空を見上げたまま、ぺたりと床に座り込んだ。フローリングの冷たさにも構わず天を仰ぐその姿は、水滴以外の何かが降りてくるのを待ちわびているかのようにも見えた。
「早くやまないかなぁ」
 たった今降り出したばかりの雨に向かって、彼はそんな呟きを洩らした。
「雨が嫌い?」
 尋ねると、蒼は少々驚いたような顔で振り返った。京介がキーボードを叩く手をとめて話題を振ってくることが予想外だったのだろう。普段の京介は、蒼に構いすぎることをしようとしない。蒼の方も、仕事をしている京介の傍にいるだけで満足であるらしく、無理に構われようとはしない。蒼は一瞬、邪魔になるのではと危惧するような眼をしたが、京介がメガネを外して休憩を取る素振りを見せると、安心したように身体の向きを変えた。
「好きではない、かなぁ」
 蒼はわずかに首を斜めにしながら答えた。
「洗濯物がなかなか乾かないし、梅雨の時期なんかは食べ物も悪くなりやすいし、気持ちもなんとなくすっきりしなかったり。冬は寒いし、夏はじめじめ。……あ、あと、髪の毛がくるくるになる」
「そう」
「いいよねー、京介の髪は素直で」
 その口調は、言外に「髪だけは」というニュアンスを含んでいるように聞こえた。以前の蒼はそれこそ素直な子供そのもので、こんなことを言う子ではなかったはずなのになあと京介は心の中で苦笑した。彼の成長におかしな影響を与えたのはどこの熊と似非紳士だと、そこにいない人間の顔を思い浮かべる。が、そんな思考がもしも蒼に見えていたとしたら、おそらく彼は「自分を忘れてるよ」と言っただろう。
「子供の頃の蒼は」
 蒼は再び首を傾げた。
「雨は嫌いだと言っていたよ」
 正確には、「嫌いか」と問うた京介に、間髪入れずに頷いてみせただけで、無言ではあったが。
「覚えてる?」
 今度は京介が首を動かした。蒼は、少し考えるような素振りを見せてから、その時のことをなぞるように頷いた。
「うん、そうだったかも知れない」
 幼い頃の彼は、ひどく脆い存在だった。雨の音と、忘れたくても忘れられない悪夢のような光景がリンクして、彼の心にもまた雨が降る。乾くことのない地面はいつか崩れてしまうのでは……。そんな心配は、結局のところただの杞憂に終わった。蒼はもう、真っ直ぐ前を向いて歩いて行くことが出来る強さを手に入れている。心の中に降る雨はやんだ。いつか京介が言ったように、やはり雨はいずれはやむものだった。
「今でも好きにはなれないけど、あの頃ほどではなくなれたと思う」
 蒼の唇は閉じているにも関わらず、「京介のおかげだよ」と聞こえた気がしたのは、おそらく気の所為だったと決め付けた。
「雨が全く降らないのも困るものね」
「ああ」
「あ、それからねぇ、この間は虹を見た! ちゃんと橋の形に繋がってて、すごく綺麗だったよ。京介は見てないでしょ。まだ寝てる時間だったもんねぇ」
 揶揄する口調に京介は肩を竦める。
「虹って、見られるとなんだか得した気分になるよね」
 京介は「うん」と頷いた。
「そうやって、いいことに記憶を摩り替えてしまうというのは、ひとつの手だね」
「どういうこと?」
「雨が降ったら、虹が見られる」
 そういう公式を作ってしまえば、もう雨は「嫌いなもの」ではなくなる。
「むしろ雨を待つようになるかも知れない」
「でも、雨が降ったからって、必ず虹が出るとは限らないじゃない」
「それなら、もっとハードルを下げればいい。自力でどうにでも出来てしまえるようなことに」
「例えば?」
 京介はノートパソコンのわきに置いたままになっていた空のマグカップに眼をやった。
「雨が降ったら、蒼がいれた美味しいコーヒーが飲める。なんていうのはどう?」
 蒼の大きな眼が早い間隔で2回瞬きをした。
「そんなのあり?」
「元々勝手に作ったルールだからね」
「勝手な自分のルールに他人を組み込むのはありなわけ? それに、雨なんて降らなくても、京介はコーヒー中毒じゃない。晴れの日には飲まないってこと?」
 蒼は京介の眼をじっと見た。京介も、それを真っ直ぐ見詰め返す。相手が深春なら、ものの数秒で眼を逸らされ、京介の勝利となるのだが、蒼の場合はなかなかそうもいかない。しばしの睨み合い(?)の後、溜め息を吐きながら立ち上がったのは京介の方だった。
「分かった。僕がいれるよ」
「わーい、やったぁ」
 胸の前で手を叩く蒼の笑顔は、雲の切れ間から差し込む陽光のように眩しかった。一足先に、ここだけ雨が上がり、青空が顔を覗かせたかのようだ。
 台所に向かった京介のあとをついてきて、蒼はカップの用意を始めている。言われなくても手伝う気満々の姿は、幼い頃から変わっていない。
「ねえ、その“ルール”はひとつだけじゃなくてもいいんだよね?」
 コンロの火力を調整している京介の前髪の下を覗き込みながら、彼は尋ねた。
「それも自分で決めていいんじゃないかな」
 そう返すと、蒼は満足そうに頷いた。
「どんなルールを?」
「雨が降ったら、傘を持って深春を迎えに行く」
 京介は「なるほど」と頷き返した。
「ただし、それにはもうひとつ条件が必要になるね」
「もうひとつ?」
「そう」
 蒼が差し出したコーヒーサーバーを受け取りながら答える。
「深春が帰ってくる時間になっても、雨がまだやんでいないこと」
 すると蒼は、少しムキになったような口調で言い返した。
「その時は、傘を持たないで迎えに行く」
 京介はふっと笑った。
「いいよ」
 蒼は一際表情を明るくさせると、躍るように軽やかな足取りでくるりと踵を返した。
「深春にメールしておく! 迎えに行くからねって」
 リビングに置いたままの携帯電話を取りに行く後姿を見送りながら、京介は、バイトが終わってメールを見た深春がどんな顔をするだろうかと考えた。
(万が一、深春が迷惑そうな顔をしたら……)
 その時は、一発殴ってやろうか。いつかの“貸し”も、まだ残っていた気がするし。そんな“ルール”を考えながら、彼はコーヒーをいれる準備を続けた。


2016,08,10


前回の更新では教授の名前は出たけど深春は出せなかったので、リベンジした!
出番はないままですが。
京介と深春が一緒に暮らしてる頃くらいのつもりで書きました。蒼は遊びに来てる。
<利鳴>

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