陣凍小説を時系列順に読む


関連作品:眼には見えない蒼い宝石


  あの頃見えなかった何か


 「今日は満月だったのか」と、陣はあと数時間もすればその居場所を太陽と交代しようとしている月を見ながら思った。空にはいくつか灰色の雲が浮かんではいるが、それでも周囲の様子を窺い見るには充分過ぎるらいに明るい。そう思うのは、自分が光の差さない魔界からやってきた妖怪――慣れていないために、少しの光でも眩しく感じる――だからなのかと首を傾げる。その動きに合わせて、朱い髪が揺れ、首筋を掠めた。かと思うと、その先端を何者かが掴み、そのまま後ろに引いた。
「にゃひゃあっ!?」
 それほど強い力ではなかった。痛みは皆無に等しい。それでも完全に不意をつかれ、口からはおかしな音が飛び出した。後頭部を手で庇うように押さえながら振り向くと、至近距離で斜め下から向けられる蒼い眼と視線が噛み合った。
「いきなし何すっだぁ?」
「あ、すまん」
 彼の相棒・凍矢は、陣の髪を掴んだ――というよりも、摘んだ――形の手を上げたまま、抑揚の乏しい――つまりいつも通りの――口調で言った。
 幻海師範の許で2人――と他の仲間達――が修行を始めて、数日が経っていた。彼等が宛がわれた部屋に眠りに行くのは、いつも日付が変わり、日の入りからの時間よりも日の出までのそれの方が近くなってからだ。この日も陣は、与えられた課題を終わらせ、疲労とそれ以上の充実感を味わいながら部屋へと向かって縁側を歩いていた。凍矢も、陣に続いて修行場を後にした。慣れ親しんだ妖気がすぐ後ろをついてくるのを感じながら、そのことに言い知れぬ安心感を覚える。馴染みのない場所で、先の分からぬ生活を送っていても、“それ”がすぐ傍に存在して――くれて――いる限り、自分――達――は大丈夫。陣はそう確信していた。根拠はない。むしろいらない。それは間違いのない真実なのだから。
 そんな状況の中だからこそ、ふと空に浮かぶ光の球体に意識を向けるだけの余裕もあった。周囲へ一切の注意も向ける必要もなく、ただぼんやりと空を見上げることが出来る。そんな些細なことでさえ、彼等は手にしてまだ間もない。
 完全に気を抜いた状態で髪に触れてきた手は、完全に不意打ちだった。ぼんやりし過ぎて凍矢が距離を縮めてきたことにすら気付いていなかった。自覚している以上に、疲れてもいるのかも知れない。
 謝罪の言葉を口にした凍矢に、別にいいけどと返しながら、陣は自分の髪を梳くように何度も頭に触れてみた。
「なんか付いてただか?」
 特に異変は感じない。
「いや」
 凍矢はゆるゆると首を振った。
「少し、伸びたなと思っただけだ」
 本人は『思った“だけ”』だったつもりらしい。実際には手も動いていたわけだが。
「そうだべか」
 首を傾げはしたものの、人間界にやってきてから経った時間はまだ半年に届かない程度だ。が、逆に言えば、数日から数週間程度では済まない日数が過ぎている。魔界からの追手に意識を向けている間は髪がどうこうなんてことを気にしている余裕はなかったから、その期間の分だけ、長くなっていても不思議はあるまい。元々量が多い上に膨張色をしているから、余計に重たそうに見えるのだと凍矢は言った。陣はなるほどと頷いた。自分では全貌を眺める機会が少ないために気にならないが、他人の眼から見れば、きっとそうなのだろう。それに、改めて考えてみれば、風に煽られた髪が視界の隅で少々煩いということも、あったような――なかったような――気がしないでもない。
「切った方がいいべか」
「お前がいいなら無理にどうしろと言うつもりはない。だが、不意をつかれて引っ張られることはあるかもな」
 凍矢は少し笑ったようだ――表情の変化が少ないので、それは陣以外の者には判別が難しい――。不意をついて引っ張りに来るのが凍矢だけなら、このまま伸ばしてしまっても良いかも知れない。そんな考えが浮かんだが、落ち着いて想像すれば、やはり長いと少々邪魔そうだ――死々若丸や蔵馬は平気なのだろうか――。が、切るとなると、正直それも面倒臭い。
「うーん、ちょっとめんどっちいだ。後ろは自分で見えねーし」
「まあ、それもそうだな」
 凍矢はやれやれと息を吐くと、いつの間にかとめていた歩みを再開した。陣が追いつこうとすると、
「仕方ない。オレが切ってやる」
「え、いいだか?」
「鋏を探してくる」
 凍矢だって修行の後で疲れているだろうに。だが彼は、何でもないことのような顔をしている。それは表情が読み取り難いが故にそう見えているのではない。本当に、面倒なことだとは――セリフとは裏腹に――感じていないようだ。
 廊下を曲がると、鈴木と遭遇した。彼も今まさに自分に与えられた部屋へ戻ろうとしていたようだ。他の連中の姿は見えないが、おそらくもう寝ている――か、その準備をしている――のだろう――鈴木は手洗いにでも行っていたのかも知れない――。「なんだ、お前達か」というような顔をしている鈴木に、凍矢が尋ねた。
「鈴木、すまないが鋏を持っていないか?」
「鋏?」
 なんとなく、この男なら持っていそうだ。陣はそう思った。おそらく凍矢もそうだったのだろう。
「持ってるが」
「ビンゴだべ」
「何をする気だ?」
「陣の髪を少し切ろうと思ってな」
 そう言われ、鈴木は陣の頭に眼をやった。彼は「なるほど」と言うように頷いた。彼の眼から見ても、やはり伸びているということなのだろう。
「なら、髪用の鋏の方がいいな」
「そこまでの期待はしていなかったんだが……」
「なんでそんなもん持ってっだ」
「何を言う。髪の乱れは精神の乱れ!」
「初耳だべ」
 鈴木は静かに部屋の戸を開け、中に滑り込むと、1分もしないでまた出てきた。手には鋏と、ご丁寧に櫛まで持っている。
「いっそオレが切ってやろうか、う、つ、く、し、く」
「遠慮するだ」
 鈴木の眼が新しいモルモットを見付けたマッドサイエンティストのように光ったのを見て、陣は慌てて凍矢の後ろに隠れ――られるほど凍矢の身体は大きくないし、陣も小さくないが――、「早くやっちまうべ!」と急かした。
「凍矢、早く!」
「あ、ああ。じゃあ鈴木、すまないが借りていく」
「ああ。明日にでも返してくれればいい」
 欠伸を噛み殺す鈴木に背を向け、陣は凍矢の手を半ば強引に引きながらその場を後にした。

 数分前と、雲の量はあまり変わっていないようだ。そういえば草木が揺れる音もほとんどしない。今夜は風があまり吹いていないようだ。月の姿は先程見上げたのと同じ場所にあった。雲の切れ間に留まって、自分のことを待ってくれていたのだろうか。
「ここなら大丈夫だか?」
 暗いところでは作業はし辛いだろうということで、陣は空が見える縁側を選んで立ち止まった。そもそも日が出ている内ならもっと場所を選ぶこともないのだろうが、こんなことで修行の時間を削るわけにはいかない。陣が縁側に腰を降ろすと、早速その背中に凍矢が立つ。周辺の空気がわずかに冷たさを帯びた。そう思うや否や、凍矢の手が首の後ろに差し入れられる感触があった。
「凍矢、てきとーでいいかんな」
 肩越しに振り向こうとすると、頭を両サイドから押さえ付けられた。
「動くな。じっとしていろ」
「はーい」
 少々の間の後に、鋏の音が鳴り始めた。陣は眼を閉じ、――時折触れる凍矢の指先と髪の毛の感触をくすぐったがる以外は――大人しくそれを聞いていた。やがて鋏は陣の顔の前へと移動してくる。やや躊躇うように音が長くとまっていたのは、もしかしたら角が邪魔だったのだろうか。
 切られた髪が、頬を掠めて落ちてゆく。その感触がくすぐったい。だが動くなと言われた――上に、それを了承した――以上、されるがままでいる他ない。視界を閉ざし、他人に全てを委ねてしまう等、追手の影に気を張り詰めていた頃では考えられないようなことだ。いや、今と同じく、それが凍矢だったら、場所も状況も無関係だろうか。
 再び音がやんだ。終わったのかと思って眼を開けてみると、真剣な眼差しがそこにあった――適当で良いと言ったのに――。どうやら長さの具合を見ているようだ。ややあって、鋏が動きを再開する。
 銀色の鋏に、月が写り込んでいる。刃が動く度にそれはきらきらと光を反射させた。その少し先に、蒼氷色の瞳がある。陣はそこに自分の朱い髪が写っているのを見た。他の色は、何もない。周囲の物は見えていない。それを見て、陣は思った。ああ、自分だけではないのだ、と。凍矢もまた、ここを危険のない場所として受け入れている。妖気が洩れないようにと結界が張り巡らされているこの場所、あるいは、陣の傍を。
 不意に、凍矢の瞳に写り込んでいる朱色が消えた。代わりにそこに現れたのは、陣の顔だった。自分と眼が合って、陣は一瞬たじろいだ。幸いにもその瞬間はタイミング良く鋏が動いていなかったために、彼の前髪は切られ過ぎることはなかった。
「眼に入るぞ。どうした? 何を見ている?」
「や、なんでもないだ!」
「?」
 訝しげな顔をしながらも、凍矢は作業を再開した。その真剣な姿に見惚れていたのだなんて言えば、きっと彼は「何を馬鹿なことを」と――照れ隠しをするために――声を荒らげるか、あるいは鼻で笑うだろう。
「こんなものかな」
 しばらくすると、凍矢はそう言いながら離れ――てしまっ――た。軽く頭を振ると、今まで肩や顔に触れていた感触がなくなっている。これなら、激しく動いても邪魔になることはなさそうだ。陣は立ち上がると、その場でくるりと廻ってみせた。
「おー、ちょっと頭軽くなっただ! 凍矢、ありがとー!」
「うん。見た目も少しすっきりしたかな」
「髪短いオレと長いオレ、どっちが好きぃ?」
「長い方がいいと言ったらどうするつもりなんだ? 一瞬で伸ばす気か? 馬鹿なこと言ってないで寝るぞ。明日も早い」
 散らばった髪を外に払い落とし、凍矢は鋏と櫛を持ってさっさとその場を立ち去ろうとする。その行く手を遮るように、陣は慌てて彼の前に出た。
「待つだ! ストップ!」
「どうした?」
 凍矢が首を傾げ、碧い髪が揺れた。陣はそれを指差しながら言う。
「凍矢の髪も伸びてるだ」
「そうか?」
「んだ。その前髪」
 凍矢の表情が読み取り難いのは、おそらくその髪型にも原因がある。元々接近戦が得意ではない凍矢は、素早い動きで敵との距離を常に一定以上に保つ必要がある。いわばスピードが重要だ。そんな彼に、長く靡く髪は邪魔以外の何物でもない。故に、涼しげな色をしたその髪は、後ろへ撫で付けたような状態にされている。が、左眼の上の前髪だけが例外で、長く前に垂れたそれは、彼の表情を半分隠してしまっている。以前から長いなとは思っていたが、陣の髪が伸びたのと同じだけ、凍矢のそれも長くなっていて不思議はない。陣は「絶対に邪魔だろう」と思うのだが、当人は何故かそうとは感じていないらしく、訝しげな視線を毛先に落としている。
「ほら。前髪“見下ろす”って時点で、ふつーになげーべ」
 陣は自分の前髪を引っ張ってみせた。そこに視線を向けようとすれば、眼は自然と上を向く。「な?」と首を斜めにすると、凍矢は「なるほど」と頷いた。
「納得した」
「前見辛くないだか?」
「いや、別に」
「それともいっそ死々若みたいに伸ばすとか」
「あれは流石に邪魔そうだ」
「後ろは長い方がめんこいかも知んねーだ」
「ッ……、それは男に向かって使う褒め言葉じゃないっ」
 陣は「ん?」と首を傾げた。どこかで聞いた覚えのある会話だ。デジャヴだろうか。そんな陣に気付いているのかいないのか、凍矢はしきりに自分の前髪に触れている。
「まあ、そろそろ切ってもいい頃かもな」
「オレが切ってやろうか!」
「いや、いい。前髪だけなら自分で切れる」
 切られ過ぎてはかなわないとでも思っているのだろうか、凍矢はさっさと自分で鋏を手に取った。
 後ろ髪も少し伸びてはいるが、邪魔になるほどではない。それはつまり、伸びる前から前髪が長過ぎたということになるのではないかと思いながら、陣は鋏が凍矢の髪を切り落とすのを眺めていた。あるいは陣が知らないだけで、後ろ髪は一度切っているのかも知れない。自分でやったのであれば――頼めそうな者等いなかったのだから、きっとそうなのだろう――器用なものだ。何故そのタイミングで前髪も一緒に切らなかったのかは疑問だが。それとも、前と後ろで伸びる速度が違うのか。色が違っているくらいだから、そういうこともあるのかも知れない――何しろ彼は妖怪だ――。
 凍矢が言った通り、それはすぐに終わってしまった。鋏が数回動いただけ。切る範囲が狭いということもあるが、切られた長さも短すぎる。
「まだなげぇ」
「充分だ」
「まあ少しは短くなってるけど……」
「切ったんだから、そうだろうな」
 陣はしゃがみ込んで凍矢の眼を下から見た。先程よりは、多少表情も見え易くなってはいるか。そう思うことにして、納得することにした。
「顔見られんの嫌いだか?」
「得意ではないな」
 またどこかで――いつか――聞いたことがある遣り取りだ。なんだろうと考えていると、凍矢がくすくすと笑い出した。
「凍矢?」
 ぽかんとした顔をしていると、凍矢は笑顔のままふうと息を吐いた。
「覚えていないか? 子供の頃にも、同じようなことを言っていた」
「あ!」
 それだったのかと、陣は手を叩いた。2人がまだ幼かった頃、凍矢は今よりも長く前髪を伸ばし、しかもそれを上げようとも分けようともしなかった。その時にも、陣は尋ねていた。「見辛くはないのか」「邪魔ではないのか」「ヒトに――自分に――見られるのが嫌か」と。凍矢の返答は、今も過去も変わらなかった。だがそこにある表情は全くの別物だ。あの頃の凍矢は、まだ笑顔を作ることが出来ずにいた。
「重く考える必要はない。習慣のようなものだ。もうこの長さに慣れてしまったんだよ。切り過ぎると落ち着かない。その程度に思っていればいい」
 無理をしている口調ではない。きっとそれは本当のことなのだろう。陣からしてみると少し長過ぎるその髪も、ただの個性――つまり彼のセンス――の一部なのだと、今なら――子供の頃には難しかったが――納得出来そうだ。
「ん、分かっただ」
 そう返すと、凍矢も頷いた。
「それにしても、髪の長さで2度もお前にいちゃもんを付けられるとはな」
「だってずっと長いまんま変わってねーべ?」
「変わっていないのはお前の思考回路じゃないのか? 発想が子供の頃のままだ」
 からかうような口調で言うと、凍矢は指を伸ばして陣の頭にある角に触れ――陣がしゃがんだ姿勢のままでいなかったら届いていなかっただろう――、軽く押した。緩やかなカーブを描いた唇が月光に照らされている。
「そんなことないだ」
 陣は凍矢の手をぱっと取ると、そのまま詰め寄った。子供の頃にも、表情を隠そうとした凍矢の手を捕まえたことがあったなと思いながら。だが、その後の行動は、昔のそれとは違う。陣は自分の唇を凍矢の口元に押し当てた――子供の頃にしたのは頬にだった――。凍矢は――子供の頃とは違って――驚いた様子も見せずに、笑ったまま眼を閉じていた。それは、陣の舌先が凍矢の唇に触れても変わらなかった。陣も眼を閉じた。
 息が苦しくなりかけ、唇を離し、眼を開けた時、月がいつの間にか雲に隠れていたことに気付いた。周囲は少し暗くなっていた。それでも、凍矢の表情ははっきりと見える。
「ガキん頃はここまでしなかったし、もっと先までしたくもなんなかったべ?」
 凍矢はくすくすと笑うと、するりと陣から離れた。身を翻すと、切ったばかりの前髪が靡いた。その姿を陣は、キレイだと思った。が、
「馬鹿なことを言っていないで、もう寝るぞ。いい加減明日に響く」
「えッ、“もっと先”は!?」
「駄目に決まってるだろ」
「ええー!?」
 さっさと部屋に引き上げていく凍矢を、駄々を捏ねる子供のような顔の陣が追いかけてゆく。ただし、その口から放たれているセリフは、ちっとも子供のそれらしくはない。
「じゃあ1回だけ! 1回だけでやめるから!」
「駄目だと言ったら駄目だ。男に二言はない。そもそもその発言は信憑性が全くない」
「とおやああっ、冷たくしないでぇッ」
「くっ付くな、暑苦しい」
「じゃあ先っぽだけ!!」
「さっさと寝ろ!」
 夜が明けるまで、あと3時間少々。


2016,07,05


このあと安眠妨害された仲間達にめちゃめちゃ怒られた。
昔別の場所で公開していた小説をまるっと書き直しました。
魔界編で再登場した時に陣の髪の毛ちょっとすっきりしてるように見えて考えたものでした。
5月に10ヶ月ぶりに髪を切ったので、そうだ散髪ネタがあったなあれを手直ししてアップしよう! と思い立ったのですが、
そのためには前日譚にあたる『宝石』の方も直さなきゃいけなくて、そっちに時間がかかってしまってました。
やっとアップ出来たぞー。
<利鳴>

【戻】


inserted by FC2 system