陣凍小説を時系列順に読む


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※ 他の作品と同系列とすると少々矛盾が生じる部分がありますので、別設定であると解釈してください。
  さらに、別設定ではあるけどその前後の出来事や設定は同じか限りなく似ている的な都合の良い解釈をしていただけると幸いです。
  また、当作品にはモブ×凍矢(未遂)の描写がございますのでご注意ください。


  少しずつのズレが重なって


 頭上には無数の光の粒が散らばっていた。「これが星か」と、誰かが呟く。彼等が生まれ育った地には存在しなかった“光”。ついに“外”の世界へ足を踏み入れたのだという実感が、徐々に体の内側を満たしてゆく。まだ完全に自由になったわけではない。それでもこれは、大いなる一歩であると言えよう。
「しかし、いつまでも感慨に浸っているのは得策ではないな」
 思わず零れた溜め息をかき消す吏将の声に、陣は一気に水を差された気分になった。おそらく吏将の言っていることは正しい。それは理解している。だがもう少し言葉を――あるいは口調を――選ぶことは出来ないものなのか。恨みがましい視線を向けると、吏将はわざとらしい仕草でそれを振り払った。そして淡々と言葉を続ける。
「大会まで、まだ時間はある。だがあまり悠長に構えていられるほどではない。やるべきことを、さっさと済ませてしまおう」
 「やるべきことって?」と尋ねようとした。が、そのセリフはほんの数秒の差で先に爆拳の口から出ていた。質問をした爆拳を、吏将は「その程度のことも考えていないとは」と言いたげな目で睨んだ。
「まずは、当面の拠点となる場所が必要だな」
 吏将を宥め、画魔が答えた。視界の隅で、凍矢が頷いているのも見える。自分と爆拳以外は、魔界を出た後のこともとっくに考えていたのだなと感心するが、陣も周囲に倣い、当然だというような顔を作った。
「追手から身を隠せて、なおかつ今後の準備に不便でないところがいい」
「準備?」
 再び首を傾げる爆拳に、ついに吏将は溜め息しか返さなかった。
「大会に出るからには、コンディションは充分に整えておかなければならない。そこにいるだけで体力も妖力も削られるような場所では、仮の宿とは言っても適さないだろう?」
「それが条件のひとつ」
 画魔に続いて、凍矢も口を開く。
「もうひとつは、スポンサーだな」
「スポンサー?」
 ついに黙っていることに耐えられなくなり、陣も鸚鵡返しに尋ねた。凍矢の蒼い目がこちらを向き、頷いた。
「開催地への移動手段、滞在に掛かる費用、負傷等の手当てに必要な物。それ等全てをオレ達だけで用意することは出来ないだろう?」
「そうかぁ」
 すでに自由を手にすることは約束されたような気分になっていた陣は、少々落胆した。『大いなる一歩』の後も、歩みはまだまだ続ける必要がありそうだ。現状さえ変えてしまえばあとはどうとでもなると思っていたが、思いの他面倒は多いらしい。もちろん、予めそうと分かっていたとしても、このチャンスを逃すつもりにはならなかっただろうが。
「で、それ、どうしたらいいだ?」
 すでに爆拳は面倒臭そうな顔で、真面目に聞いているのかさえも定かではない。その大きな図体を押し退けるように、陣は身を乗り出した。
「金を持っている人間に、オレ達に利用価値があると思わせるのが手っ取り早い」
「利用価値?」
「資金援助をしていた者達が何か大きなことを成し遂げれば、援助した者の名が売れるだろう?」
「なるほど」
「そんな人間を見付けようと思ったら、誰もいない山の中にずっと潜んでいるわけにはいかない。ある程度、人間の街への行き来が出来る距離にいる必要がある」
 ようやく陣にも理解出来た――爆拳の反応はないから、もしかしたら立ったまま眠っているのかも知れない――。スポンサー探しに出るのに不便ではなく、それでいて人の目に付き過ぎない、体力や妖力を温存しておける場所。今の彼等には、それが必要だ。
「陣、上から良さそうな場所を探せるか?」
 尋ねた画魔は少し微笑んでいるように見えた。陣ならそれが可能だと判断し、信じている表情だ。自分の力が必要とされるのは嬉しい。陣は笑顔で胸を叩いた。
「任しとくだ!」
 言うや否や、風を操って一気に上空を目指した。人間界の風は、魔界のそれと少し――どこがと言われて口で説明するのは難しいが――違うようだ。今でも飛行に支障はないが、完全にコントロール出来るようになるまで、1日か、長ければ数日掛かるかも知れない。落ち着いてその訓練が出来る場所を見付ければ良いのだなと、視線を地上へと向ける。作られた明かりがなくても、星に照らされて周囲は充分明るく感じる。少し前までいた場所――魔界――と比較すると。
 少し冷たい空気と、降り注ぐような光の粒を、このまましばらく楽しんでいたい。陣はそう思った。だが、それをするなら、ひとりでよりも、凍矢と一緒がいい。陣が外の世界を目指した理由のひとつに、凍矢のためにというのがある。凍矢は魔忍である自分を苦痛に感じていた――少なくとも陣にはそう見えた――。そんな彼を、どこか別の場所へ、多少強引にでもいいから連れ出したかった。
 一度地上に降りて、凍矢を連れてこようかと考える。小柄な凍矢ひとりを抱えて飛ぶことは、なんの苦労も必要ない。人間界の風に不慣れだとはいっても、まさかいきなり地面にまで落ちる――あるいは落とす――ことはないだろう。
 少し悩んだが、今は自分に与えられた役目を全うすることにした。余計な時間を食っては、そろそろ吏将辺りがキレそうだ。それに、安全が確保出来る場所が見付かれば、凍矢だって安心するはずだ。
 風に乗って地上からの声が聞こえる。「何か見えるか」と尋ねる声は、凍矢のものだ。陣は改めて周囲を見廻した。どうやらこの辺りは、然程標高の高くない山がいくつも連なり合うように存在しているらしい。人の手が入っている様子はほとんど見られない。これでは先程聞かされたスポンサー探しは無理だろうかと思っていると、山の向こうに、光が密集している箇所を見付けた。星が地面に落ちてなお輝いているのでなければ、そこにあるのは人間の街だろう。更に、そこから地上を歩いて移動しても――彼等妖怪なら――数時間は掛からないであろう山中に、多くはないが人工的なシルエットがあることに気付いた。明かりは灯されていない。どうやらすでに住む者をなくした廃村らしい。そこなら、雨風も凌げるかも知れない。
 地上に戻り、見てきたものを報告すると、すぐに移動すると吏将が宣言した。本当は凍矢を抱えて2人で先に行ってしまいたかったのだが、そういうわけにもいかない。時々方角を確認するために木々の上に顔を出しに行く以外は、陣も大人しく地上を進んだ。
 朝陽が昇るのよりは早く、数軒の家屋が彼等の前に姿を現した。思ったよりも原型を留めているそれ等は、充分彼等の仮の住まいとして機能しそうだ。
「明るくなってから、改めて周囲の様子を確認しよう。それまでは休んでいた方がいい。見張りには私が立とう」
 そう申し出た画魔を残し、他の4人は思い思いの場所へ腰を降ろした。見張りを立てているとはいえ、横になって完全に意識を手放してしまうことには抵抗がある――爆拳はすでに大の字になってそうしているが――。壁に背を預けて座った体勢のまま、浅い眠りで夜を過ごすことにする。
 目を瞑ろうとした時、2つの蒼い目が自分へ向けられていることに陣は気付いた。顔を上げると、凍矢と視線がぶつかる。「なに?」と首を傾げると、凍矢は声は出さないまま、唇の動きだけで言った。
「でかした」
 この場所を見付けたことを言っているのだろう。陣がそう理解した時にはもう、凍矢はわずかに口元を緩ませ、そして目を閉じていた。その光景を目蓋の内側に閉じ込めるように、陣も目を瞑った。
 こうして、人間界で初めての夜はゆっくりと過ぎていった。

 翌朝からスポンサー探しが始まった。交渉等に不向きな陣や爆拳は待機するようにとの指示は、すぐさま出された。人間の街では目立つ風貌をした画魔も出歩かない方が良い――それに陣と爆拳を2人にしておいたら、つまらないことで衝突しかねない――。それならばいっそのことひとりの方が動き易いと、吏将は自分だけでその任を果たすと宣言した。
「単独行動は危険ではないか?」
 そう言って同行を申し出たのは凍矢だ。すでに魔忍の里では彼等5人が姿を消したことが発覚し、追手が差し向けられている可能性は充分に考えられる。ひとりでいるところを奇襲されれば、無事であったとしても周囲の人間達の目にとまってしまうおそれが高まる。不用意に目立てば、目的を果たす妨げになりかねない。もっとも、2人で行動していたからと言って、安全だとも言えないが――少なくとも危険に気付くのだけは早くなるかも知れないという程度の気休めだ――。
「追手がオレ達の妖気を探り当てるとしたら、ひとりでいるオレよりも、4人でかたまっているお前達の方を先に見付けるだろう。4人でなら、相手次第では対処出来るかも知れん。それに、目星が付くまでは、人間達の目にもとまりたくない。人手が必要になった時は、お前に言うことにしよう」
 落ち着き切ったその口調は、もしかしたら吏将にはすでに何等かの宛があるのではないかとすら思わせた。彼も魔界を出るのはこれが初めてであるはずだが、“外”の話を耳にする機会くらいはあったのかも知れない。そして何か考え付いているのだとしたら、下手に手を出すよりも、彼のやりたいようにさせた方が良いのかも知れない。
「いーなー。オレもどっか行きたいだ」
 街に向かって行った吏将の背中が見えなくなると、陣が退屈そうに息を吐いた。元々陣は、じっとしているのが得意ではない。暇さえあればあちこち飛び廻っていたのは子供の頃から変わらない。
「物見遊山なら、優勝してからゆっくりすればいいさ。それより今は、より快適に過ごせる場所を探してみてはどうだ?」
 戦闘用の化粧をしていない時の画魔の表情は穏やかだ。静かな声で諭されると、強い口調を返せる者は多くはいない。
「離れ過ぎなければ、多少の散策は大丈夫だろう。むしろもう少しこの周辺の様子を見てきてくれると助かる」
「分かっただ!」
 ぱっと笑顔を作りながら頷くと、陣はすぐさま地を蹴った。
「いつも以上に活き活きしているな、陣は」
「本当に」
 くつくつと笑いながら言う画魔に、凍矢も頷いた。そして思った。やはりこの選択は、正しかったのだ、と。陣が持つ“光”は、外の世界の光に紛れてしまってはいない。むしろ、光の中でこそ、より強い輝きを放っている。仄暗い魔界にいるよりも、彼はずっと彼らしくあれる。
 まだ本当の自由を手にしたわけではない。それでも、危険を冒してでもこの道を選んで良かった。凍矢は心からそう思った。

 数日が過ぎた。吏将は毎日朝早くから出掛けて、夜中まで戻って来なかった。下手すると丸一日誰も彼の姿を見ていない日すらあった。スポンサー探しが順調なのか、それとも難航しているのかさえ4人はろくに聞かされていない。
 そろそろ何か他の行動を取るべきだろうか。そう思ったらしい画魔は、新しい化粧水の調合を始めたようだ。彼の妖術――主に能力を上昇させる効果がある――は、やりようによっては戦闘以外への応用が可能だ。人間達が望むような効力を持つ化粧を編み出せれば、それを売り込むことが出来ると考えているようだ。
 爆拳はこの状況にとっくに飽きているようで、警戒心もなく惰眠を貪っている姿がよく見かけられた。咎めようにも、じゃあ何をすればいいんだと返されれば何も言えない――修行に当てるにしてもあまり派手なことは出来ない。妖力を大量に放出すれば、それだけで魔界からの追手に居場所を知らせてしまうことになる――。
 そんな爆拳とは対照的に、陣は周囲の散策に余念がない。凍矢も時々同行することがあったが、すでに陣はこの辺りの地形をほぼ把握しているようだ。彼等が拠点と定めた廃村へ通じる道は、吏将が足を運んでいる街とは反対の方向にしかのびていないらしく――それも途中で途切れているそうだ――、生身の人間がここへやってくることはまずないだろうと彼は言う。
「あと、あっちの山の方に、でっけー家が建ってんの見付けただ。そっちはちゃんと手入れされてるみたいで、時々誰かが使ってるのかも知れないだ」
「辺鄙なところに住みたがる人間もいるんだな」
「オレ達みたいに追手から逃げる用かも知んないだ」
 陣が笑うと、凍矢もつられて少し微笑んだ。
「どちらにせよ、不用意に近付くことは避けた方がいいな」
「んだな」
 そんなことを話しながら、凍矢は周囲を吹く風が冷たさをわずかに潜め始めたことに気付いていた。間もなく季節が変わろうとしている。暗黒武術会の開催は、確実に近付いてきている。

 それから更に、数日が経った。その時凍矢は、たまたまひとりでいた。画魔は化粧水の調合が佳境に入ったと言って人払いをしていたし、陣と爆拳はいつものように好き勝手に過ごしているようだ。
 珍しく陽の高い時刻に戻ってきた吏将は、凍矢の顔を見るなり「出番だ」と告げた。「人手が必要になった時には声を掛ける」と言われていたことを思い出し、凍矢は頷いた。
「他の連中はどこへ行った? お前ひとりか?」
「遠くへは行っていないとは思うが……」
「仕方のないやつ等だ。……まあ、お前がいるならそれでいい」
 そう言いながら、吏将は小さなメモを差し出した。受け取って開くと、周囲の簡単な地図が描かれている。その中心に、赤い丸印がある。
「そこへ行ってこい」
「ここは?」
 尋ねてから気付いた。それは、以前陣が言っていた建物ではないだろうか。やはり、誰かがそこを使っているということか。
「“先方”からの指定だ。話はすでに粗方付いている。あとは最終的な打ち合わせを残すのみだ」
「それを、ここで?」
「ああ」
 探していたスポンサーがようやく決まりそうだというわりに、吏将の表情は妙に冷めている。疲労の所為だろうか。やはりひとりでは無理があったのではと口を開こうとしたが、それを本人も分かっているからこそ、こうして自分に声が掛かったのだろうと思い直す。
「凍矢」
「ん?」
「お前が行け」
「……オレひとりで?」
 自分が決して愛想の良いタイプではないことは自覚している。しかも交渉をしろと言われても、これまでに交わされた会話の断片ですら彼は知らない。いくらなんでも無理があるのではないか。せめて、これまでの流れを把握している吏将が同行すべきだ。そう返すと、吏将はきっぱりと言った。
「先方からの指示だ。『ひとりでその場所まで来るように』と。あとは来れば分かるようにしておくとのことだ」
 何故それが自分なのかと首を傾げると、
「お前が適任だ」
 やはり断言された。
 そこまで言い切るのであれば、そして何よりも先方の指示なのであれば、大人しく従う他ないだろう。「気は乗らないが」とは心の中だけで呟いて、凍矢は地図を受け取った。
「時間の指定はない。早ければ早い方がいいとは言っていたな。数日間滞在するつもりで、すでに現地にいるらしい」
 それでは急いだ方が良いだろう。“交渉”とやらがどの程度確かなものとして進められているのかは分からないが、いつまでも相手を待たせておくことでこちらが有利になる事態はそうそうないに違いない。「他の連中にはオレから話しておこう」と言う吏将に「頼んだ」と返し、凍矢は早速出発した。

 急に視界が開けたと思ったら、大きな屋敷が姿を現した。木で出来た壁と赤く塗られた三角形の屋根は、その要素だけ見れば小洒落た山小屋のようだが、規模はこんな山中には相応しくないほどに大きい。敷地面積がいくつだとか、使われている素材の質だとか、そんなことは凍矢には分からない。それでもこれだけの物を作り、維持するのにはかなりの費用が掛かるであろうと容易に想像出来た――しかもこんな山の中だ――。
 正面の大きな扉が小さく開いた。かと思うと、小柄な少年が姿を現す。妖気は感じない。人間の子供――と称して差し支えない年齢だろう――だ。彼はゆっくりと頭を下げると、「主人の許へご案内させていただきます」とか細い声で告げた。凍矢は頷きを返し、彼の後に続いた。
 屋敷の中は過剰に明るかった。中央にのびる廊下は周囲を部屋で囲まれているらしく、明かりを取るための窓がない。それをカバーし、更に有り余る威力で人工的な光が床も壁も天井も、全て照らしている。目を射抜くような眩しさに、凍矢は一瞬眉をひそめる。自分達は光を求めて外の世界にやってきた。それは今でも変わらないが、押し付けがましいほどに強過ぎる光も考えものだ。
 そんなことを思っている内に、案内人である少年は1つのドアの前で歩みをとめた。「こちらです」と小さく声が言い、音もなくドアが開かれた。その先には革張りのソファとローテーブルのセットがあり、そこにひとりの男が座っていた。
「おお、よくきてくれたね!」
 嬉しそうな顔で立ち上がった男は、かなりの肥満体型をしていた。貧しい者は太るほど食べることは出来ないと考えると、その体型は彼が充分な資産を持っていることの証なのだろうか。だがどうしたって健康には良くないだろうなと凍矢は思った。ソファから立ち上がる、それだけの動作で、心臓には大きな負担が掛かっているらしく、男の呼吸は少々荒い。そして、金で好きなだけ食べることは出来ても、品性までは手に入らなかったらしい。じろじろと品定めをするような視線が、無遠慮に凍矢の頭から爪先までを何度も往復する。凍矢はそれに、不快感しか覚えなかった。何が楽しいのか、男はしきりと頷きながら、お世辞でも上品だとは言い難いしまりのない笑みを浮かべている。きっと、食事の席に好物を見付けた時も、似たような表情をするのだろうと思った。おそらく彼は、凍矢達妖怪のことを、対等な仕事相手としてではなく、少々珍しい商売道具くらいにしか見ていないのだろう。
(それならそれで、こちらも上手く利用してやるまでだ)
 下手に信頼を求められるよりも、即物的な方が扱い易い。旨い話をチラ付かせてやれば、それで良い。
「早速かけてくれたまえ、さあ!」
 促され、テーブルを挟んで向かい合う位置に腰を降ろした。男は背凭れに体重を預け、だらしのない腹を突き出すようにふんぞり返っている。左手には葉巻、右手には赤い液体を注いだグラスを持っている――果たして同時に味が分かるのだろうか――。そしてその指には、冗談のように大きな宝石が、なんとも悪趣味に光っていた。近くに存在しているだけで不快感を与えてくる生き物はいくつかいるが、男もそのタイプの生物であるようだ。もちろん、凍矢はそんな不快感を欠片ほども表情には出さない。感情を押し殺すことは、昔から得意だった。吏将が凍矢が適任だと言ったのも、このためなのかも知れない。
(では吏将が妙に疲労しているような顔をしていたのも……?)
 この男との遣り取りにうんざりしていたのかも知れない。
(ということは、体よく押し付けられたか)
 やれやれと思わないでもないが、目的のためならば止むを得ない。
 凍矢は、早速本題に入ろうとした。が、その目の前に、すっと透明なグラスが差し出された。いつの間にかテーブルの横には、先程の少年がワインのボトルを持って立っていた。
「まずは一杯どうかね?」
 男は自分のグラスを掲げるような仕草をした。その中で揺れている液体は、おそらくボトルの中身と同じ物なのだろう。機嫌を損ねるだろうかと少し逡巡したが、それでも「仕事の最中なので」と辞退した。男は愉快そうに笑いながら、肉の塊のような顎を撫でた。
「では、何か酒以外の物を」
 男に命じられて、使用人の少年は頭を下げた。慣れた手付きでグラスを回収すると、音もなく部屋を出て行く。
 交渉相手である男と使用人らしき少年以外、この屋敷に人の気配はない。それどころか、屋敷の周囲にも、森と湖があるばかりで、他の建物は見当たらなかった。街からのびていると思われる道も、砂利が敷かれているばかりで完全に舗装されているとは呼び難い状態だ。そんな不便そうな場所にわざわざ家――といっても日頃からそこに住んでいるわけではないようだが――を建てるのも金持ちとしてのステイタスのひとつだというのだろうか。
(まあ、少なくとも得体の知れない妖怪との交渉なんて他人の目を避けた方が無難なことをするのには、役立っているようだが)
 身の周りの世話をさせる人間をひとりしか連れていないのも、やはり一般の者には知られたくないからなのだろう。それだけ、闇の者と関わるのは異常なことだと考えられているに違いない。と同時に、それだけのリスクを冒しながらでも、あの大会に関われるのは意味のあることなのだ。
(暗黒武術会……)
 実際に目にしたことはない。話に聞いただけだ。その催し物は、彼等にどんな変化をもたらすのだろうか。

 音はしなかった。それでも空気の動きで、背後のドアが開けられたことに気付いた。先程の少年が、銀色の盆にティーポットとカップを乗せて運んできた。それがテーブルに置かれる際に、凍矢は少年の表情を伺い見てみた。
 彼は凍矢が初めて目にした人間だ――2人目がスポンサー候補の男である――。表の世界に生まれ育った者。だがそれは、凍矢のイメージからは随分と遠い姿をしていた。表情のない白い顔。どこを見ているのかも定かではない光の宿っていない瞳。最初は自分――妖怪――に怯えているのかとも思ったが、そうではない。そんな感情すらそこには存在していないようだ。やや中性的な顔立ちは整っている方だが、無表情の所為で妙に影を帯びて見える。少なくとも、この仕事に生きがいを感じているわけではなさそうだ。それでもここにいるのは、きっと何か事情があるのだろう。光の世界に生まれれば、それだけで光になれるというわけでもないようだ。
(いや、それは闇でも同じか)
 凍矢は闇の世界に生まれながら闇に染まらぬ者を知っている。
 ふと、奇妙な感覚に襲われた。色白で小柄な少年。髪の色素も薄く、銀色に近い。何よりも、その表情。どこかで、そんな人物を見たことがあるような……?
(知っている……? オレは、この人間と会ったことがある?)
 いや、人間界に知り合いがいるはずがない。似た誰かを見たことがあるだけだろう。だが、それが誰だったのかが分からない。
(そういえば……)
 凍矢はいつからか、自分の幼少期の記憶が欠落していることに気付いていた。子供の頃のことを忘れていくのはなにもおかしいことではない。だが彼の場合は、ある短い期間の記憶だけが切り取ったように存在しないのだ。最初にそのことに気付いた時、その抜け落ちた記憶はたった1年前のものであることも明確に分かっていた。時の経過と共に徐々に忘れていったのではなく、本当に突然消えたとしか表現出来なかった。無理に思い出そうとすると、頭の中で誰かがそれを阻止した。記憶の鍵を抉じ開けようとする凍矢を、後ろから冷たい手が伸びてきて制する。目蓋を覆い、見てはいけないと諭す。
(あれは誰だったんだ? あの声は……。何を見るなと言うんだ?)
 いつしか記憶の欠落にも慣れ、記憶していないということは、覚えている必要のないものなのだろうと自分を強引に納得させた。そしてそのこと自体を、忘れてしまった。
 何故今になってそんなことを思い出したのだろうか。人間の少年と、幼少期の記憶に関連があるとは思えないというのに……。
「どうかしたかね?」
 はっと顔を上げた。男が怪訝そうな目を向けてきている。随分長いこと考え込んでしまっていたような気がしたが、実際には丁度少年がカップにお茶を注ぎ終えたところだった。これから大切な話をしなければならないのにと、短い間でも思考を彷徨わせた己に心の中で舌打ちをした。
「いえ、何も。すみません」
「いやいや構わんよ。まあ飲んでくれたまえ」
 ここで断ると印象が悪くなるだろう。お茶であれば、アルコールよりはマシだ。凍矢はカップに手を伸ばした。その時、視界の隅で、立ち去ろうとしていた少年の唇がかすかに動いたように見えた。しかし、わずかな音も聞こえはしなかった。それでも凍矢は、彼が何か言ったと思った。主にではない。自分に向けられた言葉だ。一体何を……。
 聞き返す間もなく、少年は出て行った。ドアの金具がカチャリと鳴る。凍矢はそれが、少年の拒絶の声に聞こえた気がした。冷たく切り捨てられるような声……。
(なんだ、この感覚は……)
 体の中で、何かがざわめいている。

 男はなかなか本題に入ろうとしなかった。自分の事業がどれほど素晴らしく、どれほどの利益を上げているのかを、その体型からは想像も付かないほどの軽快な口調で語り続けている。もう1時間近くになるだろうか。テーブルの上のグラスとカップはすでに空になっている。
 最初は自分が提示出来る予算を遠回しに示すつもりなのかと真面目に聞いていたが、やがてこれはただの自慢話でしかないと気付いた。それでも凍矢は、スポンサーとなるかも知れない男の機嫌を損ねまいと、辛抱強く聞いて――いるフリをして――いた。
「この屋敷は別荘なんだ。普段は使っていないのだがね、水も電気も好きな時に使えるようにしてある。費用が勿体無い等と言う者もいるがね、なあに、はした金だよ」
 アルコールの所為もあってか、男は実に愉快そうに話す。機嫌が良さそうな内に契約についての話をしてしまうべきか、話したところでそれを忘れられやしないか、悩むところだ――何しろ彼はもう3回もこの辺りの山のほとんどが自分の所有であることを語っているくらいだ――。
(これだから酔っ払いは……)
 男が酔っているのは酒にか、それとも己にか。意義の見出せない話がまだ続くのだろうかと思うと、頭が痛い。
「ところで、契約の件だが」
 ちらりと壁掛けの時計を見たかと思うと、男は突然そう告げた。無駄な時間を過ごしたことに、ようやく気付いたのだろうか。凍矢はいよいよかと姿勢を正そうとした。が、
「……?」
 不意に、視界が歪んだ。
「どうかしたかい?」
 尋ねる男の声はどこか遠くから反響しているかのように聞こえる。
「な、んだ……?」
 目の前に翳した自分の手すら揺れて見える。
(……気持ちが悪い……)
「少し疲れたかな? 横になるといい」
「だい、じょう……」
 首を振ろうとすると、胃液が逆流しそうになった。
「無理はしない方がいいと思うがね。まあ、君達妖怪は、私達人間よりも随分頑丈に出来ているようだがね」
 男の声が頭の中で不快に響く。
「薬の効きも遅い」
 何を聞かされたのか、一瞬分からなかった。顔を上げると、男はゆっくりと立ち上がった。頭の中で警告音が鳴り響く。テーブルの上には空のカップ。飲み物に、何か……。
「なにを、飲ませたっ……」
 巨体を揺らしながら近付いてくる男と距離を取ろうと、凍矢も立ち上がる。が、足に力が入らない。手の先が痺れている。上手く呼吸が出来ない。声も掠れていた。
 男は笑った。本人としては柔和な笑みを浮かべているつもりなのだろうが、はっきり言ってそれは、醜悪でしかなかった。
「少しの間、自由が利かなくなるだけだ。倍の量を与えても、人間すら殺せはしない程度の物だよ。命に関わることはないから、安心するといい」
 男が近付いてくる。凍矢は足を引きずるように後ずさった。
「妖怪にも効き目があるか、半信半疑ではあったが、その様子だと大丈夫みたいだね」
 背中にドアが触れた。後ろ手で取っ手を掴む。が、動かない。びくともしない。施錠されている。破壊するか……。しかし男の方が素早く動ける。力が入らない。眩暈がする。
「声も出せないだろう? まあ、出せたところで、誰も来やしないけどねぇ」
 男が不快に笑う。
 不意に理解した。使用人の少年が声には出さず、口の動きだけで凍矢に伝えようとした言葉を。「ごめんなさい」。彼はそう言ったのだ。そしてあの少年が誰かに似ていると思ったその答え。彼は、凍矢自身に似ていた。
 男が目の前へやってきた。太い指が、肩を掴む。そのままドアに体を押し付けられた。触れられた箇所が熱い。皮膚が焼けるようだ。そんな感覚を、過去にも味わった気が……? いや、そんな“記憶”は彼にはない。
「は、なせ……」
 手を振り解こうとしたが、それはぴくりとも動かない。男がその表情から余裕の色を消すことはなかった。
 酒臭い唇が近付く。凍矢は顔を背けた。その耳元で男が囁く。
「スポンサーが付かないと困るんだろう?」
 凍矢は息を呑んだ。
「きっと友達も困るんじゃあないかな?」
「……と、も……?」
(なかま?)
 スポンサーを得られなければ、大会には出られない。そうなれば、彼等は魔界に連れ戻されるだけだ。いや、追手に見付かればすぐその場で始末されるかも知れない。彼等はまだ自由を手に入れてはいない。暗黒武術会で勝利すれば、どんな望みでも叶えられる。その権利を得るまでは、彼等の両の手は空っぽだ。
 凍矢の判断ひとつで、彼等の目的は果たせなくなる。そればかりか、今ここで強力な妖気を使えば魔界からの追手に自分達の居場所を知らせることになってしまう恐れがある。下手をすれば、霊界も動くだろう。
 意識したつもりはなく、それでも凍矢の抵抗しようとする力は弱まっていた。
「いい子だ」
 声と呼吸はほぼ同時に耳に触れた。
「可愛がってあげるよ」
 何故だろう。これから何をされるのかが分かる――気がする――。“そんなこと”は知らないはずなのに。他人に触れられたこと自体、数えられるほどしかないはずなのに。
 汗ばんだ手が衣服の中の素肌に触れた。同時に、ざらりとした舌が首筋を這う。その不快感を、どこかで……。
 頭の中で警告音が響く。記憶を遡ってはいけないと誰かが言う。
「綺麗な肌だ」
 凍矢は目を瞑った。せめて、不快な感覚をひとつでも排除しようと。

 いつの間にか西の空が朱く染まっていた。化粧水の調合に熱が入ると、つい時間の流れを忘れてしまう。画魔は広げた道具を片付け、仲間達の姿を探した。
 爆拳は無人の民家でイビキをかいていた。この男には、もう少しくらい忍ぶつもりがあっても良いのにと思いながら通り過ぎる。
 次に彼が会ったのは吏将だった。「戻っていたのか」と声を掛けると、「とっくにな」と返された。
「他の連中は?」
「爆拳は知らん」
「ああ、それならさっき見た」
「凍矢には仕事を与えた」
「仕事?」
「スポンサーとの最終的な交渉に向かわせた」
「見付かったのか」
「あいつ次第だ」
 吏将はふんと鼻を鳴らした。彼が更に何か言うのを、画魔は待った。しかしその唇は動こうとしない。仕方なく自分から尋ねる。
「何故凍矢ひとりに?」
 途中で交渉役が代わると、思わぬ行き違いが発生してしまわないか。画魔がそう言うと、吏将は小さなメモらしき物を取り出して眺めた。
「あいつが一番先方の“ご希望”に副えそうだった」
 紙面の文字を追っているらしき目が不敵に笑う。
「『色白』で『小柄』、『人形のような風貌』……。大層なご趣味だ」
「お前っ、まさか……!」
 体毛を持つ生き物なら、全身の毛が逆立った。ということろなのだろう。代わりに画魔は両の目を限界まで見開いた。
「初物をお望みとのことだったが、そこまでは知らん。まあ、お気に召さなければそれまでだ。次を探すさ」
 画魔は何でもなさそうどころか愉快そうですらある吏将の胸倉を掴んだ。
「貴様ッ……!」
 画魔が睨むと、返ってきたのは妙に冷めた目だった。それは、魔界にいた頃はごく有り触れたものだった。同じ魔忍の一員であった自分も、同じ顔をしていたのだろうか。
「何をムキになっている? お前が凍矢に肩入れするのは勝手だ。だがな、オレ達の目的はなんだ? 大会の開催までの時間は限られている。手段を選んでいる場合か?」
「っ……」
「魔忍の掟は関係ない。オレはオレの目的のために動く。甘ったれたロマンチシズムは捨てろ」
 そう言うと吏将は、画魔の手を振り解いた。
 強く噛んだ奥歯がぎりぎりと音を立てた。魔忍としての己に疑問を抱いた凍矢に、暗黒武術会への出場を提案したのは画魔だった。自分の力に自信を持ち、それを試す機会を求めていた吏将と、物で釣り易そうな爆拳、そして凍矢の近くにいることを望んだ陣を巻き込んで、大型の任務が決行され、他の魔忍達がそれ以外のことへ意識を向ける余裕がなくなるタイミングを狙って魔界を出た。その読みが功を奏したのか、追手の姿はまだ見えてこない。最も大きな障害は、ひとまず抑えることに成功した。後は自分達の力があれば、どうとでもなる。そう思っていた。吏将がそんな行動に出る等、考えも付かなかった。画魔が思っていたほど、吏将は彼等に“近くはなかった”。己の目的のためには、なんでも出来る。魔忍の生き方が、彼の中に染み付いている。
 なんの苦労もなく、望む物を得られるとは画魔とて考えてはいない。しかし、凍矢ひとりにそれを強いるのは、正しいことなのか? 吏将の言うように、きっとこれが一番の近道なのだろう。大会への出場を望む気持ちは、凍矢だって同じだ。なら……。
 思考を遮るように、強い風が吹いた。弾かれたように、画魔は動き出していた。吏将の手からメモを引ったくり、そこに地図が書かれていることを確認すると、それを頭の中に叩き込んで、握り潰した。
「ならば、オレもオレのやり方をさせてもらう」
 駆け出した画魔の耳に、冷ややかな吏将の声が辛うじて届いた。
「馬鹿なことを……」

 戦うのが好きかと問われれば、彼は「特別そうということはない」と返すだろう。「では嫌いか」と聞かれれば、「そういうわけでもない」と答えるだろう。戦いのための化粧を施している間は、彼は魔忍のひとり、化粧使いの画魔以外の何者でもなかった。己の皮膚に色の付いた液体を乗せるのは、彼にとって“スイッチ”を押すような行為だった。押せば戦闘のモードになるスイッチ。そこに彼の意思は関係していない。好きでも嫌いでも、どちらでも良かった。戦わなくてはいけないという事実は変わりはしないのだから。
 それよりも、新しい技を編み出したり、それを弟子達に教えることが楽しいと思っていた。陣と凍矢の世話を焼く真似事をしてみたのも、きっと同じような感覚が起源しているのだろう。魔忍とは本来、“奪う者”だ。魔忍として生まれた自分に、“作り出す”ことが出来る、それが面白くて仕方なかった時期があった。だが同時に、それは仮初でしかないということにも気付いていた。きっと自分は、魔忍としての行き方以外は出来ないだろう、と。嘆く気持ちはなかった。なにも魔忍に限った話ではなく、望む通りに生きられない者等、ごまんといる。閉ざされた世界でしか生きられないのだとしても、その中で生きたいように生きられればそれで良かった。限界はすでに定められているのだ。その世界を捨てられる者がいるのだとしても、少なくともそれは、自分ではない。画魔はそう悟っていた。
 では何故魔界を出たのかと尋ねられれば、その答えもはっきりしている。本当にその世界を捨てられる者がいるなら、それを可能なところまで見届けてみたいと思ったのだ。その背中を、押してみたいとも。それが陣と凍矢だった。「魔忍の者にこんなやつがいたなんて」。画魔は彼等に新たな可能性を感じていた。いつの間にかそれは愛着にも似たものになっていたようで、2人の行く先が輝かしいものであったらと想像すると、自然と口元が緩んだ。
 最終的に達成すべきものを天秤に乗せる。それに吊り合うだけのものを、もう片方の皿に捧げる。それの何が間違っている? 躊躇なんてする必要はない。それが本当に“吊りあっている”のならば。
「あれ、画魔? どこ行くだ?」
 不意に掛けられた声に足をとめた。散歩にでも行っていたらしい陣が、首を傾げるような仕草でそこにいた。
 伝えるべきか否か、一瞬迷った。が、陣の飛翔術に頼るのが、今は一番早い。
「陣、一緒に来いッ!」
 普段は声を荒らげることの少ない画魔の強い口調に、陣は一瞬びくりと跳ねた。が、次の言葉を聞いて、彼の顔から怯えやそれに類する感情は一気に消え失せた。
「凍矢が危ない……!」
「凍矢が!?」

 いつの間にか床に仰向けで倒れていた。両手が押さえ付けられている。脚の上には何か重たいものが乗っているようで、こちらも動かすには力が必要だ。が、呑まされた薬の所為で、肢体へ伝わる意思は通常の10分の1にも満たなかった。
 衣服を剥ぎ取られ、露になった肌を、醜く太った指が執拗に撫でている。目は閉ざしてるために、その男の姿は見えない。その分、荒い息遣いが余計にはっきりと聞こえてくる。その音に混ざって、誰かの声が聞こえる。いや、それは頭の中で響いている。
――凍矢。
 彼はその声を知っている。
――ここには、誰もいなかった。
(だれも……、いなかった……?)
 手足は相変わらず動かない。が、妖力のコントロールはまだ可能なようだ。
――始めから何も。
 全力を出すことは出来ないだろう。それでも、人間ひとり、わずかな力で充分だ。
――命ある者は何も。
「……なにも、いない」
 もちろん、“その男”も。
 周囲の音が不意に消えたような錯覚。同時に、全ての熱がなくなるという、現実に反する現象。時がとまったかのようですらあった。
 頭の中の声が告げる。
――殺せ。
 体内に黒いものが広がり、満ちる。それはひどく冷たかった。
 自分の意思が、自分以外の意思によって動かされている感覚。
――存在するのは闇の氷の結晶だけ。
――それ以外のものには、
「死を……」

 ガラスが割れる音が響いた。何かを叫ぶ誰かの声。名を呼ばれた気がしたが、それもはっきりしない。眠気に似た何かに、意識は呑まれかけている。何も見えない。触れていた感触が消える。鉄のにおいを感じた。凍矢は目を閉じていた。そのことに気付いて、気力で目蓋を抉じ開ける。
 彼は上体を起こされ、誰かに抱き止められていた。顔は見えない。視界の隅に朱い髪だけが見える。
「……じん?」
 掠れた声がようやく出る。抱き締める腕に更に力が込められた。動こうとしたが、陣はそうはさせまいとしているかのようだ。仕方なく、視線だけを廻らせる。床の上には血溜まりが広がっていた。しかし凍矢は何もしていなかった。“まだ”。
 部屋の中に、もうひとりいることに気付いた。重たい頭は怒っているような、泣き出したいような顔をしている男が誰なのか認識するのに一瞬の時を要した。
「がま……」
 どうして彼等がここにいるのだろう。ここには、
(何もいないはずなのに……)
 熱を持たない氷の化身である自分と、腹部に空いた手の平ほどの大きさの穴からおびただしいまでの量の血を流している肉塊以外は、何も。
 画魔は何も言わなかった。が、安堵したように小さな息を吐いた。それから彼は、床へに転がる物へ視線をやった。
「陣、ここは私が片付けよう。お前は凍矢を連れて戻れ」
 陣は返事をしなかった。だが、朱い髪が揺れて凍矢の頬を掠めた。彼は立ち上がると、すぐさま再び凍矢を抱き上げた。その腕が赤く濡れているのを凍矢は見た。が、負傷している様子はない。血液を満たした容器に手を突っ込みでもしたかのような……。
「陣、頼んだぞ」
「分かっただ」
 陣は頷くと、踵を返した。その先には窓があった。ガラスが割れて、外気が吹き込んできている。床にはガラス片が散らばっていた。
「この屋敷、もうひとりいるな。さっき子供の姿が見えた。それに、気配がする。近くにいるな」
「が、ま」
 凍矢は手を伸ばした。
「ころ、すな……」
「しかし……」
「ここには、だれも、いなかった」
「……分かった」
 陣は凍矢を抱えたまま体を浮かせ、外へ出た。割れた窓越しに画魔が声を掛ける。
「スポンサーの件も、私がなんとかしよう。もっと扱い易い人間は、掃いて捨てるほどいる」
 本当に聞いているのか定かではないと思えるほどにあっさり頷き、陣はその場を離れる。そのまま拠点にしていた廃村へと戻るのかと思いきや、彼はある程度飛んだところで地面に降りた。
 いつの間にか陽は沈んでいる。木々に遮られて空からの光はごく弱いものしか届かず、周囲は薄暗かった。そうでなかったとしても、凍矢に陣の表情を伺うことは出来なかった。陣はずっと凍矢の肩に顔を埋めるようにして彼を抱き締めていた。
「……すまない」
 まだ声は少し掠れていた。それでも言わねばと、凍矢は思った。
「オレが、もっと上手く立ち回っていたら……」
 今頃彼等は大会への出場を確かな未来としていたかも知れなかったのに……。与えられた役割を果たすことが出来なかった。男を殺したのは、実際には陣だった。が、間違いなく凍矢――あるいは彼の中の誰か――もそうしようとしていた。わずかにタイミングが違っていれば、男を手にかけていたのは自分だった。しかも陣は、妖力を使わずに肉体の力だけであの男を屠った。妖力が使えずとも、人間の体を片腕一本で貫くことくらいは容易い。汚らわしい血で腕が汚れるのを承知でそんな方法を選択したのは、――画魔にそう指示されてでもいたのか――強い妖気で自分の存在をすでに近くまで来ているかも知れない追手に悟られないようにだろう――日頃から飛翔術は多用しているが、あれはそれほど強く妖気を放出する技ではないらしい――。一方凍矢は、妖術でそれをしようとしていた。“交渉”に失敗したばかりか、更なる危機を呼び込もうとさえしていたのだ。陣が外の世界を望んだ。だから自分が力になれたらと願った。それなのに。
「すまない」
 陣は首を横へ振った。「許さない」と、謝罪を拒む時のように。しかし彼の口から出てきた言葉は、そうではなかった。
「もうやめるべ」
 陣はようやく離れると、真正面から凍矢の目を見た。
「オレ達、もう魔忍じゃないべ? だから、誰かが犠牲になってとか、そういうの、やめよう」
 魔忍の世界ではそれが当たり前だった。何よりも優先すべきは先の勝利だった。
「凍矢だけが嫌な思いする必要なんてないだ。だから」
 全てを捨てるつもりだった。なのに、まだ彼は囚われていた。魔忍の掟にも、自身の記憶にも。真っ直ぐ見詰めてくる陣の目には、それはない。人ひとり殺めた直後であっても、彼の光は消えていない。それは、彼の中にわずかな迷いすらもないことの証だ。力強い視線が言う。未来を掴むために必要なのは、過去ではない、“今”だ。
 凍矢は腕をのばし、陣の肩にしがみ付いた。陣もそれを抱き返す。“今”に触れながら、凍矢はゆっくりと頷いた。
「分かった」
「うん」
「もうしない」
「うん」
 他人の体温が触れているという事実は同じはずなのに、今は不思議と不快な熱を感じることはなかった。

 交渉は失敗したと、凍矢に代わって報告したのは画魔だった。更に彼は、近くまで追手がきている気配を感じた、出来るだけ早くこの場を移動した方が良いとの提案もした。吏将が知る以上、周囲で彼等5人以外の妖気を感じたことは一度たりともない。おそらくは嘘だろう。が、彼はそれについては触れないことにした。彼が全てを承知した上で凍矢を“売ろうとした”ことを、画魔は知っている。にも関わらずそのことを口にしないのは、ここでもめれば面倒なことになるのが分かっているからだろう。それは吏将も望むところではない。暗黙の内に決められた交換条件。この瞬間、2人は共犯者となった。
 爆拳は元より、何も知らない――今もろくに話を聞いていないようだ――。陣と――意外なことに――凍矢も、吏将が「まさかあの男がそんなことを企んでいたなんて」と驚いてみせたのを信じたようだ。どこまで甘いんだと心の中で嘲笑しながら、「他の道はまだあるさ」と善意を持っているかのようなセリフを吐いた。
 画魔はそうとは言わなかったが、あの男は始末したのだろう――報告だけ聞けば話し合いが拗れてそのまま帰ってきただけのようであったが――。どこかで洗い流してきたようではあるが、まだかすかに血のにおいがする。ここを離れた方がいいと主張するのも、男の死体が発見され、騒ぎになることを予見しているからに他あるまい。こんなところでいらぬ時間を食わされるわけにはいかない。そう、つまり画魔も、先の“勝利”を優先させようとしている。
(所詮オレ達は忍だ)
 他の生き方なんて、出来るはずがない。そのことに、彼もいずれ気付くだろう。あるいは、もうすでに……。
「陽が昇る前にここを離れよう。別の町で今度こそスポンサーを得る。それでいいな?」
 異論を唱える者はいなかった――爆拳だけは“失敗”の報告に文句を言ったが――。
「もうあまり時間を掛けてはいられない。私も候補となりえる人間を探す側に廻ろう」
 画魔が宣言する。牽制のつもりか。彼は何かを決意したような目をしている。
「外見はマントを被れば隠せる」
「怪しまれないか?」
「それでも寄ってくるような人間の方が扱い易い」
「なるほど?」
 吏将は肩を竦め、歩き出した。「好きなようにやればいい」。心の中でそう呟きながら。
(オレも、お前達もな)
 その先に待っているのは“光”か、“闇”か。あるいは、何もないのか。
 知る必要はない。知らずとも、いずれ見えてくるだろう。
「行くぞ」
 彼等は歩き出した。足音は重なることなく、ばらばらに鳴った。


2017,10,08


魔性使いチームって全然同じところ目指せてなかったよなーって思います。
本当に抜け出したいor抜け出せると思ってたのは陣と凍矢だけなのではないかしら。
なんだかんだで画魔は魔忍として戦って、魔忍のまま死んでしまったし、吏将の勝てば良かろうなのだ的発想は完全にダークサイドだし……。
爆拳はただの馬鹿w
凍矢も敗北と死を直結させていたあたり、危なかったのかも知れません。
なんか色々とズレてたよなー、案外一致団結して5対5の方式とかにしてたら幽助達にも普通に勝てたんじゃあないだろうか。
とりあえず自分の中でどんだけ爆拳がいらんやつ扱いなのかがよく分かりました(笑)。
<利鳴>

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