ミスジョル R15 流血・殺人表描写有り


  Jack The Vampire


 右の頬に柔らな感触を感じてジョルノ・ジョバァーナはゆっくりと目を覚ました。半開きのカーテンから差し込む朝日が眩しいのでもう1度目を閉じ掛けた。
「寝直すのか?」
「……ん」
 問い掛けてくる声はすぐ耳元で聞こえた。肯定とも否定とも取れない生返事をする。
「じゃあ、おやすみ」
 イエスと受け取ったグイード・ミスタが再び唇を落とす。今度は頬ではなく額に。
 彼のおはようとおやすみのキスは額がデフォルト。行ってきますと行ってらっしゃい、ただいまとお帰りのキスは頬。先程のキスは起こす物ではなく行ってきますの宣言だったのか。
「どこ……行くんですか……」
「アジトだよアジト。報告に行かなくちゃあな」
「……報告って」寝惚け眼のままだが顔を上げて「誰に? ボスは僕ですよ」
 半年前ならいざ知らず、ミスタが所属しているギャング組織の現在のトップはジョルノ。何かしら報告が有るなら今言えば良い。半ば寝惚けてはいるが、ボス直属の親衛隊からの報告を聞き漏らしたりはしない。
「フーゴに」
「ああ」
 納得。ジョルノは上げた頭を再度枕へ付けた。
 2人組の親衛隊の片割れのパンナコッタ・フーゴは昨日直帰したミスタの報告を未だ受けていない。ミスタが暗殺任務を失敗する事は先ず無いので心配はしていないだろうが、生真面目な彼の事だから朝からと言わず昨日の晩からやきもきしているだろう。
「ジョルノ、お前学校どーすんだ? 遅刻して行くのか?」
「今日は休みます。起きたら僕もアジトに行きます」
 将来の夢であるギャングスターとなったのだから学校などいつ辞めても構わない。そう思っている筈なのに未だに在籍したまま。
 寮目当てに入った学校は特別面白い物ではないが、退学すればその寮を追われてしまう。他人との共同生活にも一応慣れたのだから、今更アパート探しから始める事は出来れば避けたい。
 勿論それ以外にも理由は有る。ミスタにすら言えない密やかな理由。初めてギャング組織に入った際のチームのリーダーが学歴がほぼ無い。自分の身代わりと言っても過言ではない亡くなり方をしたチームメイトも学校に通いたいという旨を遺して逝った。彼らの代わりに、と言うつもりは無いが彼らに胸を張れる自分でありたい。
 あとは『自宅』という物が無い方がこうして他人の家に泊まりやすい。寮もジョルノの無断外泊を最早注意しても無駄だと割り切ってくれたようだ。
 16歳になったばかりの学生がボスだと知られたくないので、幹部達ですら顔を知らないボスにも、親衛隊の2人にも気に入られている一介の学生ギャングのフリをしている。
 学生なのだから極力授業を受けなくては。しかし今日は体が動かないので無理だ。もし今すぐに起きる事が出来ても遅刻は避けられないし、授業を聞いた所で頭に何も入ってこないだろう。
「お疲れさんだな」
「誰の所為ですか……」
「激しかった?」
 ニヤニヤしている顔は想像に容易く、閉じている目蓋の裏に浮かんだ。
 最近はずっと激しい。偶には恋人同士のように甘く穏やかな夜を――しかし自分達は恋人同士なのだろうか。
 ある日突然に肉体関係を結んでしまった。それもミスタが暗殺任務を済ませた後だった。任務の達成祝いではなく『人を殺す』というストレスから来る性衝動だったのだろう。大して抵抗もせずに受け入れてしまい、翌朝の打って変わって砂糖の塊のような雰囲気は「次も拒めない」とまで思ってしまった。正式な交際の申し込みをする事もされる事も無いままずるずると関係を続けている。
 交際してほしいと言えばしてくれるかもしれない。だがもし断られたら、とこの髪色になってからは無縁だった弱気が首をもたげる。そもそも恋人になりたいのか。当然嫌いではないし誰より信頼もしているが、恋愛対象として見ているかと問われると答えられない。自分の感情がよくわからない。
「次は優しくするから」
 言い終えたミスタは許可していないのに唇にキスをしてきた。
 おやすみでも行ってきますでもなく愛情表現のキス。離れた瞬間に「ん」と言って顎を上げるともう1度唇を重ねて啄ばんでくれる。
 曖昧でよくわからない関係。初めての経験ではあったが、それでもベッドの上での愛の言葉を信じる程子供ではない。
 ネアポリスで1番大きなギャング組織ともなれば敵は非常に多い。それ以外にも真っ当な理由での暗殺依頼――そんな物有るのかと思われそうだが、恐ろしい事に多くはないが有る――ならば引き受ける。暗殺を専門とした部隊は失敗が目に見えているので作れないが、このままでは良くないだろう。ミスタの精神とジョルノの体力はどこまで保つのか。
「……ミスタ」
「おう」
 目を開けられないままだが至近距離で返事が有った。
 ミスタは暗殺に向いていないと思います。
 などと言ったら何と返ってくるだろう。この能力を暗殺に活かさずどうすると言うだろうか。お調子者を気取り「銃撃戦の方が向いてるかもなー!」と笑い出すだろうか。
 身体能力もスタンド能力も確かに暗殺向きだが、その性格は暗殺には向いていない。何の感情も抱かずに人を殺せるわけでもなく、殺してしまったどうしようと泣き喚く事はとうに出来ない。
「あ。行ってくる」
 右の頬に再びちゅ、とだけ軽いキス。まさか行ってきますのキスを強請ったと思われるとは。
 ミスタは寝室を出て行った。ドアが閉まる音はジョルノをつまらない気分にさせた。壁の薄いアパートなのでそのまま玄関を出て鍵を閉めた音まで聞こえる。
 寮に帰れずアジトに泊まり込むのを見兼ねたミスタが自宅に泊めてくれる事が何度も有った。その4回目で合鍵まで貰った。
 今では寮に帰れる日であっても、滅多に無いが翌日が揃ってオフの日、そして昨日のようにミスタが暗殺任務を終えた日に泊まっている。どちらの場合も夜同じベッドで眠るその前に性交渉に及ぶ。
 そんな毎日を惰性のように繰り返していて良いのだろうか。もっと、もっとギャングスターらしく在りたいのに。

 ロンドンは霧の都と呼ばれているので寒いのかと思っていた。ネアポリスに比べれば気温も湿度も低いが、いつも通りの服装でも肌寒さまでは感じない。ミスタもフーゴもいつも通りの薄着の部類だが寒いとは言っていない。
 そもそも季節問わず霧が立ち込めて幻想的という意味ではなく、冬に濃い霧が発生する事が有名なだけであり、また産業革命の時代に石炭を燃やした煙が霧状に立ち込めた所為で人々が病を患ったという過去が有るだけだ。
 夕暮れ時を迎えて朱色に染まった空と、それを背景に堂々と佇む時計台を見上げながら、ジョルノは決して澄んでいるとは言えないロンドンの空気を吸った。
「ライトアップって何時からなんだろうな?」
 すぐ隣に居るミスタが疑問系で呟く。
「どうせなら見たいよな。っつーか、どうせなら鐘の音聞きたかったよな」
「正午にしか鳴らないそうです。ウェストミンスターの鐘、と呼ばれる日本ならよく耳にするメロディ」
 日本では学校のチャイムとして誰もが聞いている。尤もジョルノは入学する前にイタリアへ移住しているので実物を聞いた事は無いも同然だが。
「まあ俺としてはビッグベン見られたから文句も何も無ぇけど」
「僕もですよ。フーゴには感謝しか有りません。いきなり海外旅行をしようと言い出した時は驚きましたが」
 何事も綿密な計画を練るフーゴが突然、飛行機を取ったと航空チケットを3枚見せてきた。日付は翌日で、明日や明後日の任務を確認しようとした所「先1週間ボスが不在でも機能するように手は打ってある」と言った。どうにも元気の不足しているジョルノを見兼ねて連休を取らせたいと思い付いたらしい。
 休みで家に居るだけでは何か有ったからと呼び出されかねない。そうすれば休みではなくなってしまう。ましてジョルノは学生寮住まいで休める『家』が無い。高級なホテルに連泊させてやろう。ならば一層海外へ、とまで考えてくれていた。
「“この辺りで予約無く泊まれるホテルは有りますか?”」
 しかし肝心のホテルは取っていなかった。用意したのは行きと帰りの飛行機と大金のみ。観光するにも自由の利く方が良いと判断したフーゴは現地で宿を探す算段で、ビッグベンを見上げる2人から少し離れた大きな通りでイギリス人と思しき高齢の女性に流暢な英語で尋ねる。
「“この辺り? ウェストミンスター地区で、という事かしら?”」
「“テムズ川の近くが良いです。景色の良い部屋に泊まりたい”」
 通訳という仕事を立派にこなしているフーゴだが、この旅においては親衛隊として見るつもりは、あれこれ命令をして働かせるつもりは無い。
 ミスタに関してもそうだ。フーゴ曰く用心棒も一緒にと飛行機を取り、ミスタ自身もまた任せろと言ってきた。しかしジョルノはレジャー目的の旅なのだから仲の良い友人3人が示し合わせた旅行、だと思っている。ボスを務めるギャング組織もイギリスでは無名のチンピラ集団でしかない。
「“隣り合った3つの部屋が空いているホテルが理想です”」
「“シングルルームが3つ空いているような、ビジネスホテルが良いの?”」
「“3つベッドが有るスウィートルームでも構いません。金銭的な余裕は有ります”」
 異国の言葉なので何を話しているかジョルノにはよくわからない。隣のミスタも同様に考えているだろう。
 尤もミスタはそんな事すら気にしていないかもしれない。過去には宮殿として王が居住していた建築物に夢中なので、徒歩圏内に有るらしいバッキンガム宮殿も見せてやりたかった。
 ふと日本人観光客が見えた。アジアンは目立つし、ジョルノ自身が半分日本人だからか日本人は何と無くわかる。
 そんな日本人男性3人組の中の1人に目を奪われた。
 かなりの高身長で恐らくイタリア人のミスタよりも高い。180cm以上、大きく盛り上がった髪を含めれば185cmは超えるだろう。肩幅が広く、学生服の上からもわかる筋肉質。
 ポンパドールを膨らませてサイドを撫で付けた時代錯誤なリーゼントヘアは真っ黒いが、瞳はこの距離でもわかる程色素が薄い。顔の掘りも深く、日本と欧米とのハーフかもしれない。
 兎に角美丈夫と言える。嫉妬以外の理由で第一印象を悪くする事が先ず無い容姿。ジョルノは自分が女で隣にミスタ――のような、恋仲に間違われそうな相手――も居なければお近付きになるべく声を掛けていたかもしれない。
 じっと見詰められているのに悪い気がしない。そんな美形が1人でこちらに歩み寄ってくる。
「“すみません”」
 しまった、英語だ!
「“ピカデリーの劇場はどこに有りますか?”」
 何かの場所を尋ねてきたという事しか聞き取れない。何か聞き取れたとしても恐らく場所はわからない。
「“私は英語がわかりません”」
 カタコトで返すと高身長の美男子は目を丸くした。
 金髪だから現地の人間だと思い込んでいたのだろう。驚いた顔は自分とそんなに年齢が変わらなく見える。日本人は若く見えるというが、服装からして実際に学生のようだ。
 こちらには後ろ姿しか見せていない連れも1人は学生服だ。もう1人の熱心にビッグベンをスケッチしている男は露出の高い私服だが。
「おいテメーうちのボスに何の用だ」
「ミスタ、いきなり喧嘩越しにならないで下さい」
 言われた方はイタリア語が通じていないらしく呆然としている。
「ナンパしようとか思ったんじゃあねーだろうな?」
「何で男が男をナンパするんですか」
「顔が良いから男相手でもいけるって調子乗ってるかもしれねーだろ」
「それでも明らかに連れの居る僕に声は掛けない」言って美男の方を向き「“私の友達と話して下さい”」
 事前にフーゴから教わっておいた最低限の英語が早速役立った。
 並ぶとやはりミスタよりも大きい。そして誰かに似ている気がする。そんな男が名を呼ばれたのか振り返る。
 共に行動している2人が彼を追い掛けてきた。言葉はわからないがバンダナを巻いた方の青年に「勝手に行動するな」という旨を言われているようだ。その間に入り、まぁまぁと宥める少年の顔にも見覚えが有る。と言うより、ジョルノは彼を知っていた。
「……コウイチ・ヒロセ」
 その名を呟くと広瀬康一はこちらを向く。
「あっ! 汐華初流乃! どうしてこんな所に!? ……じゃあなくて“どうしてこんな所に?”」
 日本語と英語の混ぜった言葉は『何故』という単語しかわからずジョルノは眉を寄せる。
「“私は英語がわかりません”」
 康一は「あ」と言って困り顔を見せた。春先に初めて会った時にはイタリア語をしっかりと喋っていたのに半年日本に戻っているだけで忘れてしまったのだろうか。
 そんな康一が服装の派手な青年――こちらも美青年と呼んで差し支え無いが、明らかに日本人顔だ――に何かを頼み込む。
「ヘブンズ・ドアー」
 美青年が呟くと同時に彼の背後に帽子を被った少年のヴィジョンが現れた。
 人間じゃあない、スタンドだ……
 そうわかるもののどうしようも出来ない。美青年のスタンドはこちらではなく康一に向かい指を差す。そして美青年自身が康一の腕を取り、スケッチに使っていたペンで何かを書く。
 敵意が無い所かこちらに興味すら無さそうなスタンドはそのまま姿を消した。
「ジョルノ・ジョバァーナって呼べば良いんだっけ」
 くるりと振り向いた康一は聞き取りやすい、最初に会った時と同じようなイタリア語を喋り始める。
「こんな所で何やってるの? またスリをしてるんじゃあないよね?」
「まさか……僕は今ただの観光客だ。スリの被害に遭わないよう気を付ける側」
「それなら良いけど。イギリスに観光旅行に来たりするんだね」
「生まれて初めて来たよ。君は? 君達も観光? っていうかどういう関係? 今、スタンドも使っていたみたいだけど」
 ちらとそのスタンド使いを見たが学生服の美形といがみ合っていた。
「君もスタンド使いだから話しちゃうけど、露伴先生のヘブンズ・ドアーは対象を本にして、そこに書き込んで事実に出来る能力を持っているんだ。僕が今や前に会った時にイタリア語を話せるのは露伴先生にお願いしたから」
「そんなあっさりスタンド能力バラしちまって良いのかよ……」
 隣でミスタが怪訝そうな表情を浮かべている。
「日本は平和ボケしているんじゃあないですか?」
「自分の母国にそれで良いのか?」
 イタリアへ移住したのはかなり幼い頃。良い思い出が特に無いので母国という程馴染みも無い。
「ああ、彼は日本人の広瀬康一君。春先に、チームに入る直前に、まあ色々と有って。康一君、彼はグイード・ミスタ。僕の……相棒?」
「部下だろ」
「そう言ってしまうと、僕がギャング組織に片足を突っ込んでいるだけのただの学生だと言いにくい」
 早速康一から「違うのか?」という目を向けられている。そうさ、違うとも。相棒と呼べる程組んでいたのは昔の事。今は同じ任務に就く事すら少ない。
 恋人ではないのか。
 ふとそんな言葉が頭に浮かんだ。これこそ違う。色恋交えた呼び方をするのなら良い所セックスフレンドだ。嗚呼これは言いえて妙だ。但しセックスをするだけの友達ではなく、セックスもする程特別な友達の意。
「今の俺の相棒は、どっちかっつーとフーゴだしなぁ」
 それこそ得意分野が正反対と呼べる程違うミスタとフーゴだが、だからこそ親衛隊として2人が組めば怖いもの無しだ。
 彼も紹介しておこうと後ろを振り返り、離れた所で女性に礼を言っているフーゴを呼んだ。フーゴが駆け付ける頃には康一の連れ2人も言い争いを終えていた。
 先生と呼ばれた最年長――この場において。未だ21〜2歳だろう――が自分達がイタリア語を話せるようにではなく、こちら3人が英語を話せるようにとスタンド能力を使う。
 本にされる、との事なので抵抗は有った。しかし康一が絶対に大丈夫だと言った。彼とまともに話すのは3回目だが、それでも康一は『信用出来る良い人』だと思っているので拒まなかった。
「話が終わったら消させてもらう。ろくに学びもせずに異国の言語を習得出来るスタンド、なんて風には思われたくないからな」
 集う6人が全員英語に堪能になった所で自己紹介より先に言い放つ。少し個性的なタイプのようだ。
「えっと、岸辺露伴先生。漫画家の」
「どういう関係?」
 とても親戚には見えない。
「同じ町に住んでいるんだ。色々会って、取材旅行についてくる事になって……僕達は観光じゃあなくて取材旅行なんだ」
「ロハン・キシベ……何か聞いた事が有るような……僕はパンナコッタ・フーゴです。貴方は?」
 関係等を訊かれるより先に尋ねると、背の高さ故に美丈夫は見下ろして口を開く。
「東方仗助。康一の同級生っス。ボディガードで来たっつーか」
「あーそれだ、それ! 俺達もジョルノのボディガードで来てんだ」
「ジョルノ、か……」
 先程から仗助はジョルノばかり見ている。尤もジョルノも仗助の事をまじまじと見ていたので文句は言えないが。
「……何かお前の顔見た事有るな」
「奇遇ですね、僕も貴方に、貴方の顔に見覚えが有ります」
「僕の目からは貴方達2人の顔が似て見えますが」
「そうか?」
 フーゴの突飛な言葉にミスタと露伴が英語で声を合わせた。
 確かにジョルノにも日本人の血が流れてはいるが、この髪色からは信じがたい事に母親は純粋な日本人だが、それでも仗助と似てはいないだろう。
 学生との事だが仗助の方がやはり2〜3歳は年上に見える。もう何年かすれば自分もこれだけ背が伸びて逞しくなるだろうか。なりたくはあるが、ならなさそうだ。
「所でビッグベンの取材にボディガードなんて必要なんですか?」
 ジョルノの素朴な疑問に仗助はまた目を丸くした。ちらと露伴の方へ視線を向けて溜め息を吐く。
「君達は知らないの?」
「知らないから観光に来ているんじゃあないか? イタリア人と言っても田舎から出てきたのかもしれないし、そもそもイタリアでは話題になっていないのかもしれない」
 何の話かわからずミスタとフーゴと3人で顔を見合わせた。
「吸血鬼ジャック(ジャック・ザ・ヴァンパイア)」
 仗助の低過ぎず良い意味で耳に残る声が1つの単語を呟く。
「吸血鬼(ヴァンパイア)? 吸血鬼を名乗る犯罪者でも出るんですか? この現代に」
 少し馬鹿にした言い回しになったのは田舎者と思われた苛立たしさも有るが、時代錯誤な物を持ち出し濁して誤魔化す気なのではと疑ったから。
 吸血鬼、死体が蘇り人間を襲う都市伝説など100年も前に解明されている。コレラやペストは既に過去の病気だ。
「同じ雑誌でイギリスを舞台にした探偵物の漫画を連載している奴が居るんだが、そいつが今ロンドンで自分の漫画よりも余程漫画みたいな事が起きていると言ってきた」
 露伴は妙に尊大な口調だがちゃんと話をする同業者が居るようだ。
「現実には有り得ない事を漫画と呼ぶようで腹立たしい。だが確かにゾンビが人を襲ってくるなんて現実的とは言えない」
「ゾンビ? 吸血鬼じゃあなく?」
「襲ってくるのはゾンビになった元人間。そのゾンビは全身の血を抜かれているから、人間をゾンビにする大元たる吸血鬼が潜んでいる、という話だ」
 海外にまで噂が飛び火してはいないがイギリスではテレビ報道もかなり盛んにされているらしい。
 この辺りの観光客が予想よりも少ないのはそれが理由か。人混みが得意ではない――耐えられるというだけで好きな人間は居ないと思っている――ジョルノとしては空き具合が丁度良いと思っていたが、まさかゾンビが飛び出してきては堪らない。
 それ以上に恐ろしいのは吸血鬼本体か。ゾンビに襲われる以上にゾンビにされる事の方が恐ろしい。被害者でありながら加害者にもなってしまう。
「ジャックと呼ばれているのは切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)になぞらえて。それに恐らく男だと思われているから。ゾンビにされた奴らが今の所全員金髪美女だからな」
 呆れさせてくれる理由にミスタが口笛をひゅうと鳴らした。
 金髪だが美女ではないので一安心か。同じく金髪――どちらかと言うと彼は銀に近い――のフーゴの視線を感じる。
「月に1度だったのが週に1度、最近では3日に1度の頻度で新たなゾンビが出てくるらしい。爪や歯の力は強いが足は遅いので現行犯逮捕――逮捕じゃあないな、その場で射殺。1度ゾンビになった人間は元には戻れない」
 血を流さない死体はどうあっても生きる人間にはなれない。小さな生命を生み出せるジョルノのスタンドでも、もし何事も元に戻せるスタンドが有ったとしても。
「調べた所月に1度の頻度で出る前から血の抜かれた死体が暴れる事件は有ったらしい。ドラッグ漬けの金髪女の成れの果てだろうと表沙汰にしていなかったが、こうも頻繁に事件を起こすとなると隠蔽も出来なくなった」
「その吸血鬼、もといゾンビはウェストミンスター地区に出るんですか?」
 先程この辺りの地域での宿を尋ねて眉を顰め(ひそめ)られたフーゴの問いに露伴は頷いた。血を流さないから流れる川を渡れずテムズ川より東には出られないのだとしたら、よくある物語の吸血鬼らしさを守っている。
「出来れば吸血鬼を、無理ならせめてゾンビを取材したくて来たんだが駅で昨日出たという話を聞いた。だから『今日』は諦めて観光に当てる事にしたってわけさ」
 吸血鬼やゾンビに会う為に海を越えてくるとはなかなか大したものだ。漫画家というクリエイティブな仕事をするにはこういう性格が必要なのかもしれない。
 だが何も死に急いでいるわけではない証拠に重力を操るスタンド使いの康一と、見るからに体力の有りそうな仗助を連れてきたわけか。康一の方はボディガードとは言っていないが。
「で、露伴に英語わかるようにしてもらったんだし有名な舞台でも見ておこうと――」
「うわぁーッ!」
 わかりやすい悲鳴に6人全員が声の方向を向いた。
 悲鳴を上げた若い男は車道を挟んだ先の曲がり角で尻餅を付いていた。隣には驚いて同じように座り込む幼い少年、そして足元にはミイラのように干からび、肌も腐らせた女のような化け物。
「――くそっ! 言った矢先にゾンビとは、初日っからグレートだぜ!」
「エコーズAct.3!」
 康一の後ろから覆面を被ったとても小柄な少年のようなヴィジョンのスタンドが姿を現した。スタンドはびゅんと飛び立ち縺れ合う青年達の頭上で止まる。
「エコーズ! 3FREEZ!」
 ポージングを取り格好を付け、手を突き出す。ゾンビの口から「ああ」とも「おお」とも聞こえる短い悲鳴が漏れた。
 見た事が有るというより喰らった事も有る。康一のスタンドの能力は重力を何倍にも出来る。
「良いぞ康一君! そのまま押さえているんだ!」
 嗚呼、この漫画家は本当にゾンビの取材に来ているのか。先程のスケッチブックを取り出した露伴に呆れたのではなく妙に納得した。
 青年の足を掴むゾンビの細長い腕がめきと関節ではない箇所で曲がる。
 纏っている布はすっかり襤褸(ぼろ)となっているが元はワンピースだったのだろう。既に殆ど抜け落ちているが残った髪は少し赤味の有る金。
「幽霊なら見た事が有るがゾンビを見るのは初めてだ。凄い、凄いぞ、これは確かにゾンビだ! 親にあたる吸血鬼もこの辺に居たりしないのか?」
「露伴……そんな事言っている場合かよ……」
「煩いぞ仗助、これは滅多に無い機会だ。もう少し近付くか。お前は僕をボディガードしていろ、その為に旅費を出してやっているんだから」
「はいはい」
「それとあの男、足を怪我しているんじゃあないか? 傷口も描いておかなくちゃあな」
 確かにズボンは破れ、露出している脛は咬まれた痕や出血が見える。ゾンビだからと言って噛み付いた先が腐ったりはしないらしい。
 ジョルノは車通りが一切無い車道を突っ切った。そう言えば先程までは感じられた喧騒が全く無い。不気味に思いながらもジョルノは青年と少年の間にしゃがむ。
 仗助と露伴にスタンドを知られるのか……まあ良いか。
「ゴールド・エクスペリエンス」
 自身と同じような体型をしたスタンドが、同じように隣に屈んだ。
 兄弟と思しき2人はスタンド使いではないらしくゴールド・エクスペリエンスが見えていない。ゾンビにも見えていなさそうだ。
 ゾンビはスタンドではない。となるとゾンビを倒すにはスタンドをぶつけるのではなく『殺す』しか無い。吸血鬼によって殺されてこうなったのに、もう1度。
「あ……うぅ……」
 男の足の細胞を生み出し繋げてゆく。神経が結ばれる瞬間の鋭い痛みに声が上がる。
 噛み付いた部分が元に戻ったのでまた噛み付いてやろうと思ったのかゾンビは奇声を発しながら手足をばたつかせる。しかし何倍にもされた重力でまともに動けていない。
「もう立てますよね?」
 問い掛けると男は顔を上げ、苦い表情を見せながらだが頷いた。
「弟さんを連れて建物の中へ」
 物語によくある伝説の通りならば、吸血鬼やゾンビは招かれた部屋の中にしか入れない。
「弟?」
 違うのか、と少年の方を見る。
 10歳に満たないであろう少年は相当厚着をしているので、至って普通の服装をしている青年とは関係が無いのかもしれない。
 肌の一切見えない服に小洒落たシルクハットまで被っている。その下からこちらをじっと見てきている顔は取り立てて美しくも醜くもないがそばかすが有った。
「1人で居るという事はこの辺りに住んでいる? それとも親とはぐれた?」
 ゾンビの姿を見て両親は大慌てで逃げ出し取り残されたのかもしれない。親が我が身を呈してまで我が子を優先するなんて現実にはそう無い事をジョルノは知っている。
「海外旅行者で英語がわからない? 僕はイタリア語しかわからないけれど、君の顔はイタリア系には見えない」
「……」
「何?」
「……ゾンビがこわくないの?」
 当然変声期を迎えていない声は子供特有の『何でも知りたい』に満ちた響きをしていた。
「怖くない」
「ほんと?」
 足を治癒してやった青年が立ち上がり、何も言わずに走り出した。どこへ逃げるのか。助けを求めに、人を呼びに行ったのなら良いのだが。
「本当だ」自分より年上の男が逃げ出すような「ゾンビも、吸血鬼だって、僕は怖くない」
「かっこいい」
「それはどうも」
 怖くないと言った手前、早く逃げろと言いにくい。
 不死ならぬ既に死んでいるゾンビなので、重力に押し潰されるのにどれだけ時間が掛かるかわからない。
「ジョルノー!」
 道路の向こう側からミスタが呼び掛けてきた。大きくぶんぶんと手を振っている。
「子供の目ー! 塞いでくれ!」
 何の事やら。取り敢えずジョルノは「ちょっと」と片手で子供の両目を隠した。
 5人の居る道路へ向き直る。ミスタが拳銃をこちらに向け構えている。
「まさか」
 ミスタがトリガーを引いて発砲された銃弾は彼のスタンド、セックス・ピストルズの能力を使う事無くゾンビの脳天を直撃した。
 撃たれる直前に重力から解放されていた筈――そうでなければ当たらない――のゾンビの体はぐたりとうつ伏せにになり動きを止める。
 死体に使う言葉ではないが、ゾンビは完全に死んだ。
 脳味噌の腐っていない部分で死んだ体を無理矢理に動かしているのだろうか。
「なんのおと?」
「……ゾンビをやっつけた音です」
 言って手を離す。背丈や顔立ち以上に幼い瞳がじっとこちらを、ジョルノの顔を見詰めてくる。
 数秒置いてからその視線がゾンビに向いた。
「ゾンビもう動かないんだね。怖くない?」
 動かないのだから怖いも何も無いだろう。支離滅裂な子供は苦手だ。
「……怖くない。だから君は早く家に帰るんだ」
「家……」
「旅行で来ているなら泊まるホテルに。きっと親御さんもそこに居る。さあ、早く」
 ゾンビ事件が一瞬で解決し人が集まり始めれば、迷子を見付けたのだから最後まで責任を持てだのややこしい事を言う人間が現れかねない。自分達はギャングだから子供は誘拐して金銭を得る為の道具だと虚勢を張っても異国では笑われるだけだろう。早くこの子供から離れたい。
 だというのに少年は座り込んだまま、じっとジョルノを見ている。
 ゾンビが大人の足に食らい付く所を見たし、明らかな銃声も聞いた。恐怖や驚愕で動けないのか――そう考えると落ち着いている位だ。
「きれい」
「は?」
 不意の言葉を吐いた少年は「よいしょ」と立ち上がり、そのままてくてくと青年が走り去ったのと同じ方向へ歩き出した。
 小さい背が角を曲がり見えなくなると「ジョルノ」と声が掛かる。
 のんびり車道を横断してきたミスタが手を差し伸べている。ただしゃがんでいるだけなので1人で立てるが一応手を借りる。
 立ち上がり有難うと礼を言ってから他の4人もこちらに来ていると気付いた。
「仗助って奴のスタンドは怪我を痛み無く治せるらしいぜ」
「それは凄いですね」
 事実なら先程の青年は仗助に任せれば良かった。尤も、気が動転していたので痛いと思う余裕は無かっただろう。
「で、俺のピストルズの話もした。後はフーゴのパープル・ヘイズだが……この時間に使って大丈夫だと思うか?」
「死体、消すんですか?」
 突如行方不明となり遺体も見付からない。彼女(ゾンビ)の家族や友人、恋人はどう思うだろう。天涯孤独の身であれば別だが、吸血鬼がわざわざ身の上を調べてからゾンビにするとは考えにくい。
「俺のクレイジーダイヤモンドなら、元の姿に戻せるっちゃあ戻せるんだけどよォ……」
 仗助の視線はわざとゾンビの死体から逸らされている。
「生き返らせるのは無理。見た目しか戻せない。だからゾンビになった事も変えられねーし……行方不明のままの方が、良かったりするんじゃあって、な」
 肉も眼球も溶けたように崩れた顔だが骨の作りからしてやはり美女だったのだろう。それが殺された後に醜い姿にされ、まして見ず知らずの人間を襲った。
「君がそう思うのなら従うよ、仗助」
 スタンドを見せたくないから、ではないとわかる。顔を合わせて1時間も経っていないが、康一同様信頼出来る男だ。
「パープル・ヘイズを使うなら急いだ方が良い。日が沈みきる前に」
 あらゆる生物をドロドロに溶かして消失させる猛毒のスタンド、パープル・ヘイズのウィルスの天敵は日光。言い換えれば日に当たらない限りウィルスは生き続ける。
 夜に使えば朝日が昇るのを待たなくてはその場に近付く事すら出来ない。
 人払いをしたように誰も居ない今使わなければ。誰かが来てしまえば使えるスタンドではない。誰かにゾンビを消す所を見せるわけにもいかない。
「パープル・ヘイズは滅多に出さない……」
「露伴先生、描こうとかしちゃあ駄目ですよ。すっごく危険だから出さないって言ってるじゃあないですか」
「そうですよ、離れていて下さい」
 若干苛立ちを含めた口調のフーゴが、先程の少年のようにじっとジョルノの顔を見る。
「……ボス、構いませんか?」
 死体を処理して。ひいてはスタンドを使用して。
「ここはネアポリスじゃあないから今の僕は君のボスじゃあない」
「じゃあジョルノ、それからミスタも離れて」
 はいよ、とだらしない返事をしてミスタが今来た車道をのんびり歩き出す。
「ジョルノ」
「はい」
「折角の休暇だというのに、可笑しな事に巻き込んですみません。吸血鬼やゾンビの噂なんて調べもしなかった」
 フーゴのしょげた顔は余りにも年相応で、本当に学校の友人と旅行に来ただけのような雰囲気にジョルノは口元に笑みを浮かべて見せた。
「僕がフーゴの立場でもそんな事は先ず考えない。旅行を企画してくれて有難う。ああそうだ、宿はどうなりました? 良い所を聞けましたか?」
「その事なんですが……」
 後から話すと濁らせた所でバス――ロンドンらしく赤いバスは2階建て、乗客は疎ら(まばら)――が1台車道を低速で抜けていった。ゾンビの死体を見られたかもしれない。
「パープル・ヘイズ!」
 人の形をしているがおおよそ知性の感じられないスタンドを見ながらフーゴ自身も後ろ向きに歩き距離を取る。
 離れ過ぎては制御出来なくなる。この位ならば、と見極めてフーゴが指示を出す。凶悪だったゾンビに、獰猛なウィルスの詰まったカプセルが投げ付けられた。

 ネアポリスにもイングリッシュパブは有る。組織の傘下にも有るので、飲食以外の目的で訪れた事が有る。
 本場のイングリッシュパブ、イギリスのパブに入るのは初めてだ。似たような物だ、と思った。良く言えば上手く再現していたのだろう。
 ほぼ飛び込みで取れた今晩の宿はコンラッドロンドン。高名なホテルなので入っているレストランも良い店だろうと考え、近場で夕食の店を探すのを止めて1階のパブに入った。
 広い店内のほぼ中央にある長方形のテーブルに、3人並んで座っていた。1番右にジョルノ、その隣にミスタ、左にフーゴ。左右に学生同然の少年2人が居るのに、パブの名に託つけて(かこつけて)ミスタは1人酒を飲みまくっている。
 吸血鬼の噂の所為か満席でこそないが、しかし人の入りはかなり多い。宴会と呼べる程の人数で来ているグループも幾つか見えた。
 従業員は若く健康的な女性ばかりで賑やかさに拍車を掛けている。
 それが余計にミスタに酒を飲ませているのかもしれない。本当はこういった女達こそが好きで、自分を抱くのは女の代わりでしかないのかもしれない。女に現(うつつ)を抜かすなと言われるのを避ける為に、ボスに忠誠を誓う素振りで――悪い方に考えれば折角の夕食が不味くなってしまう。ジョルノは元から大して美味くないサラダを口に運んだ。
「お前飯不味そうに食うな」
 目の前の仗助に言われて「そうですか?」とだけ返した。自覚は無いが前にも別の人間に言われた事が有る。
 美味い物を食べる時はそれが顔に出るのだが、そうでない物と不味い物には無表情になるらしい。
「つーかそれが美味くねーんだろ。ただのサラダじゃあねぇか」
 真正面に座る仗助は牛肉を食べている。表面をさらと焼いただけの、国によっては流通出来ない程生に近い。
 仗助の隣、ミスタの向かいに座る康一も肉――こちらは鶏肉をよく煮込んだ物――を食べている。日本人はそんなに肉が好きなのだろうか。
 更に隣のフーゴと向かい合う露伴はジャガイモの料理とグラスワインで頼んでいた。
 白昼共にゾンビ事件と遭遇したスタンド使いと何故夕食を共にしているのだろう。彼らもこのホテルに泊まるからだがどうにも違和感が強い。
 ジョルノがゾンビに襲われた男の傷を治している間に、フーゴが吸血鬼を目的に来たのならこの辺りに宿を取ってるのか聞いていた。実際に人間が襲われる事態が発生したのだから宿は離れた所にした方が良いと思っての事だったが、露伴はスケッチしながらこんな近くで出るとはツイていると、折角だから吸血鬼も出ないものかと返すのみ。
 早くから部屋の予約をしていたわけではないが吸血鬼騒動の所為で空きはかなり有ったらしい。ならば飛び込みでも泊まれるのではと訪れてみたら見事に部屋が取れた。空いている中で最も上等な部屋は彼らの隣の部屋だった。スタンド――使い――同士が惹かれ合っているかのようだ。
「仗助はサラダが嫌いなんですか?」
「嫌いじゃあねーけど、サラダはサラダだろ」
 主食にはならない、という主張らしい。仗助の中でサラダは肉や魚、あるいは小麦粉を使うメインより先に食べる前菜でしかない。
 メインを食べろと言いたいのだろう。しかしメインメニューの説明文を読んでも余り美味そうに思えなかった。食の都と呼ばれる国から海外に出てきて、食に期待ははなからしていない。
「ほら、これも食ってみろって」
 ナイフで一口サイズに切った牛肉をサラダの上に乗せる。
「……有難う」
 違和感が拭えなくとも悪い気はしない。彼らは、特に仗助は髪型が少々風変わりだが『良い人』だ。
「仗助も吸血鬼に興味が有ったんですか?」
「無ぇよ! いや、全く無いっつったら嘘になるけど。でも俺は露伴みたいに吸血鬼やゾンビを見たいからここまで来たんじゃあない。そういう奴らは関わらなくて済むならそれが1番」
「ボディガードをかって出たのではなく買収された?」
「『給料』は出ないぜ。代わりに掛かる金は全部露伴持ち。露伴はあの通りいけすかねー奴だが、放ってはおけねぇからな」
「僕だってお前のスタンドや父親が違えば先ずお前には頼まない。そこだけは信用してやっているんだ」
「はいはい、そりゃあどーも」
 苦手だ嫌いだと言いながら互いに本心はまた別の所に有りそうだ。ジョルノは笑いを堪えて牛肉を口に含んだ。
「……父親?」
 ふと流してしまったが、元に戻せるから怪我が治せるスタンドは兎も角、父親とは何の事やら。医者でもやっているのか。
「仗助君のお父さん、昔は吸血鬼を作った人を退治したんだって」
「吸血鬼を作った奴ぅ?」
 ミスタが鸚鵡返しに尋ねる。
「まあボケ始めた爺の戯れ言だから嘘も混ざってっかもしれねーけど。何せもう80過ぎてっからなァー……あの爺の事だからそこそこ元気にしてんだろうけど」
 18前後の子供が居る80歳とは随分年を取ってからの子供のようだ。口振りから同居もしていなさそうだし詳しくは聞かない方が良いかもしれない。
「仗助の父親は吸血鬼を生み出した柱の男というのを退治したらしい。僕はそれが本当だと思う。特別親しいわけではないが、話を聞いた時に出鱈目な嘘を吐いたり読んだ本の話をしているわけじゃあないと思った」
「ちょっと待って下さい、柱の男? 柱の男を退治?」
 フーゴが何度も瞬きをした。
「ゾンビを作る吸血鬼、吸血鬼を作る柱の男、柱の男を作ったのは誰なんだろうな。柱の男、という俗称もどこから来たのやらだ」
 仗助の父から直接聞いただけならば年寄りの認知の歪みからきた作り話と思ったかもしれない。だが実際にロンドンで吸血鬼によってゾンビにされた元人間暴れる場に居合わせた。ゾンビと吸血鬼と柱の男の話は事実だろう。
 柱の男が複数居て60年程前に退治しきれていなかったのか、主人たる柱の男を失い隠れていた吸血鬼が今更出てきて主人を真似してゾンビを増やし始めたのか。
「吸血鬼ってよォ、スタンドじゃあないんだろ?」
「ああ、爺もスタンド使いだけど、吸血鬼を退治したのはスタンドじゃあなくて波紋ってやつらしい」
「波紋?」
 英語――露伴のスタンド能力――で会話をしているが『波紋』という言葉は上手く翻訳出来ていない、別の意味を持っているのではないか。
 しかし仗助は右手に掴むフォークを目の前でぐるぐると回して見せる。
「特別な呼吸の仕方で体の中で波紋って呼ばれる太陽みたいな力を練って吸血鬼にぶつけるんだとよ」
 柱の男もまた物語上の吸血鬼と同じく太陽が苦手なのか。
 ゾンビが現れたのは日中だったが思い返せば建物の影、日光の当たらない位置に居た。
「吸血鬼を取材して退治もすればロンドンも平和になって一石二鳥だろう? まあ仗助は父親のように波紋の呼吸法は知らないようだがな」
 使えないと罵りたげな物言い。しかしそれでも仗助を金銭面の負担をしてまで連れてきたのは紛れも無く露伴自身。
「体の中で日光エネルギーを作るなんて――」
――ガシャン
 言い掛けた言葉はグラスか皿かが割れる音で途切れる。
 賑やかに酒を提供する店なので食器が割れるのは仕方無いだろう。店員達の「失礼致しました」の声もすぐに飛んできた。
 だからただ何と無く、音のした方を見てみたに過ぎない。深い意味は無いし皆も他の席の客達もまた自然とそちらに目を向けている。
 食器を落としたと思われる一人客の女性は真っ直ぐに起立していた。
 立ち上がる時にテーブルにぶつかり落としたのだろう。しかし何故立ち上がったのか。女性客はただ呆然と、寧ろ愕然としたように顔を下げて立ち尽くしたまま。
 ド派手なピンクのブラウスを着たスタイルの良い女性客は、脱色したらしい傷みきった金髪で俯き気味の顔を隠している。
「……あ……う」
 店員に「お客様、どうされました?」と声を掛けられてもろくに返事が出来ていない。しまいにはわなわなと体を震わせ始める。飲み過ぎからの体調不良か。
「金髪の女性……まさか」
「あぁーッ!」
 絶叫しながら上げた顔はどろりと腐り溶けていた。
「ゾンビだ! エコーズ!」
 康一が真っ先に声を上げて椅子から飛び降りた。直ぐ様スタンドがそのヴィジョンを現す。
 スタンドが重力を強めるより先に、袖から出る手もすっかり腐らせたゾンビが可笑しな姿勢で体を跳ねさせた。
 ゾンビの居た席の椅子もテーブルもずしりと沈む。
 突如女性客がゾンビと化し、更には目に見えない謎の力でテーブル等が壊され、客達は次々に悲鳴を上げた。
 従業員達もまた困惑していた。若い女性店員は勿論の事、高級店なので喧嘩紛いも早々無いからかマスターであろう男性店員も身動きが取れない。
 いつからゾンビになり始めていたのだろう。席に案内される時は普通の人間だったのだろうか。この店で吸血鬼によってゾンビにされたのか、それともゾンビになるまでにタイムラグが有るのか。有るとしたら吸血鬼の方で調整出来る? ゾンビとなる人間による? なんて事を考えている場合ではない。
「全員『外』へ!」
 ジョルノの声はよく通り、同じテーブルにつく5人以外は一斉に出入口へ向かって走り出す。
「日に2度もゾンビが出る事なんて有るのか」
「露伴先生!」
「わかっている、ゾンビの資料はもう充分だ」
 僕が欲しいのは吸血鬼の方だ、と言って露伴もスタンドを出す。しかし少年のような見目の通りに攻撃力には期待出来なさそうだ。
「きゃあぁっ」
 短い悲鳴。枯れたようなその声の持ち主はゾンビに腕を掴まれた老婆。
 彼女の夫であろう老人が杖でゾンビの背を叩く。服を巻き込みながら体を溶けさせているゾンビだが老人の細腕では大したダメージにはならないらしくそのまま老婆の腕に噛み付いた。
「テメーっ! クレイジー・ダイヤモンドっ!」
 仗助が叫び背後に治癒能力を持つとは予想出来ない機械的で雄々しいスタンドが姿を現した瞬間。
――パンッ
 銃声が響いた。ゾンビの眉間を撃ち抜いたミスタは真顔で構えていた拳銃を下ろす。
「仗助、僕の代わりに手当てを」
「……あ、ああ」
 聞き慣れない銃声に1度は足を止めた仗助が老婆の近くに駆け寄り、如何にも力強そうなスタンドを怪我した箇所に触れさせた。
 次いで露伴も老夫婦に近付く。ゾンビを間近にスケッチするのではと不安に思ったが、彼はスタンドで老夫婦を本にし何かを書き込んだ。恐らく今の出来事を忘れるように、という内容だろう。
 その後にこの6人の中で最も『警戒させない容姿』をしている康一が外に出るように声を掛けた。面白い連携の取れ方をしている。
 出入口の方を振り向くとフーゴが逃げ遅れ銃声に立ち止まった人々を誘導していた。
 ゾンビはここから出られないから先ずは外へ――嘘も方便だ。背を屈めて小さな子供にも逃げるように言っている。
 シルクハットを被った厚着の、数時間前に会ったあの少年。
 フーゴに対してつまらなさそうに返事をしていた――日に2度も遭遇すれば映画か何かに思えているのかもしれない――少年が不意にこちらを向いた。
 ギャング組織内は構成員の大半は年上なので年下の人間と話す機会がほぼ無い。幼い頃も同世代と話す事が余り無く、言ってしまえば苦手に思っていた。だと言うのに手招きしそうな程こちらをじいと見ている。
 あの子供、僕を気に入っていたりして。
 格好良いだの綺麗だのの賛美を言っていた。未だ世辞を知らない年だろう。
「何だあのガキ」
「ミスタ」
「あのガキもゾンビになんのか?」
「何物騒な事言っているんですか」
 隣――1歩後ろだが――に立つミスタは妙に気を立てている。近くに居るとビリビリとした空気の振動を感じそうな程に。
 ミスタは今日だけで2人も人間を殺している。ゾンビになってしまったとはいえ元は人間。まして数分前に『殺害』したのはほぼ人間の姿をしていた。精神的にとてつもない負荷が掛かっているのだろう。
 まさか罪も無い子供をついでだからと撃ち殺したりはしないだろう。2発撃ったので弾倉に残っているのは4発か、と尋ねたりしなければ。
「あのゾンビの死体はどうする?」
「僕がコマドリにでもします」
「また寿命が短そうな鳥だな」
「寿命……吸血鬼にも寿命は有るのでしょうか」
 さあ、とミスタは首を傾げた。
 架空の存在、伝説の生き物――化け物――としての吸血鬼は不老不死のイメージが有る。だがもし人間と同程度の寿命であれば、仗助の父親が主人たる柱の男を退治して60年余り。0歳から始まったのなら未だ死に直面する事は無いが、色々と身辺整理を考え始めても可笑しくはない。
 それに不老不死とは肉体の話であって魂は違うとしたら。体は生きられると主張していても心は死にたがっているとしたら。
 直に死に行く事を悟り、最後の抵抗に自らの子孫を残そうとゾンビを増やしているのだとしたら。あるいは三文映画のように渇きに耐えられなくなってきているのだとしたら。生に直面して精を狂わせる人間がすぐ近くに丁度居る。

「ほら」
「どうも」
 ミスタから渡されたコップを受け取ってジョルノはすぐ口を付けた。中の水は一気に半分程まで減る。
 決して美味しい物ではなかったし常温なので冷たさも感じなかったが渇いていた喉は一気に潤った。
 後は服を着るだけ。下着のみを穿いて体の熱が引くのを待っていた。本当は汗が引いて若干寒くなり始めているのだが倦怠感に包まれた体は動かせない。天蓋まで付いたキングサイズのベッドの中央で、大きな枕に背を預け足を伸ばし座っている。
 一方でミスタは既に服を着終えている。立ったまま水を飲み干し、空になったコップをナイトテーブルに静かに置いた。
 大きな物音を立てて眠るフーゴを起こしてはならない。
 部屋にはベッドが2つ。キングサイズの豪華なそれと、もう1つは豪奢なエキストラベッド。
 3人部屋に間違いは無いようだし部屋自体の華やかさ――仕切りで2部屋に分かれている程広いし、窓からはテムズ川とそこに掛かる橋とが見える――に文句は無いのでそのまま使う事にして、さて誰がどこに寝ようと話し合った。
 サイズ的に自分がエキストラベッドで、というジョルノの意見はあくまでもボスの休暇にしたいフーゴに却下され、結果彼がエキストラベッドを使っている。
 ミスタは頭から自分はキングサイズベッドに寝ると思っていたようで何も言わなかった。飛び抜けて、とは言わないが3人の中では1番体格が良いからか。
 まさかジョルノとフーゴが並んで寝るのを気に入らないからではないだろう。そんな嫉妬心有る筈が無い。恐らく違うだろうし、違うと言われそうだから聞けないままミスタの顔を見た。
「ん? どうした? ああ、疲れたのか?」
「……まあ」
 人生における全盛期と呼んでも良い程体力の有る年だが、本来の生殖とは根本からして違うセックスはやはり負担が大きい。
 ましてフーゴを起こさないようにと声を殺していた。ベッドのスプリングが音を上げる度に集中が途切れたし、終えた今ももし目覚められたら服を着ていない理由を何と話そうかと考えている。
 それでも人殺しの精神的負担よりはずっと軽いだろう。こうする事でミスタの気分が晴れるなら耐えられない事も無い。
 音を出さないように気を付けるという状況下ではいつも以上に大変だが、口を塞がれ「悪い」と囁かれたのは忘れられない。思い出した今も妙に顔が熱くなる。ジョルノは残り半分の水を一気に飲んでコップをミスタに手渡した。
「寝るなら」ナイトテーブルに並べてからそっとベッドに上がり「服着てからにしろよ」
 イギリスの繊維が悪いわけではないが、吸血鬼・ゾンビ騒動の後なので何が起きるかわからないからと私服のまま寝る事を提案したのはジョルノで、2人も賛同してくれた。フーゴも掛け布団の下はしっかり私服を着ている。
 服を着たままでは眠りが浅くなると言われているがどうなのだろう。横に向けている顔は見えないが、肩は規則正しく動いていた。
 聞いた話だと寝起きは良くない方らしいが寝付きは良いのか真っ先に眠ったフーゴに、声を掛けて起きない事を確認してから事に及んだ。流石にこんな状況は初めてだ。
「なァーにフーゴばっか見てんだよ」
 いつの間にやらすぐ隣に座っていたミスタに頭を抱え込まれる。
「起きたら困るから様子を見ただけです」
 頭を動かすが抜けられない。思いの外強い力を入れている。ようは抱き締められている。妙に胸が高鳴った。
「起きねーから大丈夫だって」
「どうしてそう言い切れるんですか」
「俺なら起きても寝たフリするから」
 確かに自分も同じ部屋で上司と同僚――しかも同性同士――がセックスをおっ始めたら狸寝入りでやり過ごすだろう。
「俺に飽きたからフーゴが良いとか言い出したら怒るぜ」
「言いません」
「フーゴより俺の方が何倍もお前の事好きなんだからな」
「それはどうも」
「何だよ、嬉しくねーのかよ」
 ぱ、と腕から解放される。そして改めて脇の下に手を通して体をぎゅうと抱き締められた。
「……嬉しいですよ」
 顔のすぐ近くに、近過ぎて見えない所に顔が有る。
「好き。ジョルノが好き。誰より好き。すっげーサイッコーに好き。好き」
 頭の悪そうな言葉達にジョルノもおずと両腕を上げた。
「もうジョルノから抜け出せねーな。お前に溺れきっている」
 少し捻りの聞いた言葉になったので手を背に回して抱き締め返す位してやろうと思った瞬間。
――コンコン
 部屋の玄関扉をノックする音。
「好きだ好きだ好きだーっ!」
「なら出て下さい」
「はい」
 素直な返事をしてミスタは体を離す。
 ミスタがベッドから降りて出入口へと向かう。その間にジョルノは自身の服に手を伸ばした。
「どちらさん?」
 ドアを開けながらミスタは尋ねたが返事が無い。出入口に目を向けるとミスタの背しか見えない。彼より背の低い女性従業員だろう。
 ならば何故返事をしない? そもそも何故こんな深夜に?
 余りイギリスに関する知識を身に付けないまま訪れてしまったが、コンラッドホテルの従業員がいきなり部屋を尋ねるのはどの国であっても可笑しい。
「何だよ迷子か?」
「迷子?」
 どういう事かと服を着終えたジョルノもベッドから降りる。
「やっぱりここだ」
 出入口へ向かおうとした足が止まる。返事とは呼べない言葉を発した招かれざる客の声は異様に幼く、聞き覚えが有った。
「会いに来た。あの子がいい」
「誰に会いに来たって?」
 ミスタが目線を合わせる為にしゃがむとその姿が見えた。予想通りあのシルクハットを被って厚着をした少年だ。
 快適な温度に保たれているホテルだからか今は大した厚着ではない。随分華奢な体躯だとわかる。
 そんな子供がミスタを押し退けるように部屋に入ってきた。
 何と無く止める事が、逆らう事が出来ない雰囲気が有る。そして近付かれたくない空気も。ジョルノは体を強張らせて1歩下がる。
 こんな子供相手に何を警戒しているのか――否、この子供は可笑しい。こんな真夜中に、名前も知らない人間が泊まる部屋に入ってくるのだから。
「こら、勝手に入ってきてんじゃあ――」
 しゃがんだまま少年の肩へと手を伸ばしたミスタだが、一瞬触れてすぐに離した。
 まるで触れてはならない物に触れたような。ジンクス等ではなく宗教で禁じられている物に触れてしまったような。一層静電気でも走ったかのように見えた。ミスタの顔には「しまった」と言わんばかりの表情が浮かんでいる。
「僕に……何の用だ?」
 低めの声で問い掛けると少年はぴたと足を止めた。
「とてもきれい」
「綺麗?」
「きれいなハニーブロンド。すごく、すごくきれい。顔もきれい」
 幼稚な誉め言葉を並べているが、少年の顔には年に似合わないニィと下卑た笑みが浮かんでいる。
「さっきの、そっちの」顔をフーゴの眠るエキストラベッドへ向け「男とはちがう。あの男もプラチナブロンドできれいだけど」
 何を言わんとしているのかわからない。だが嫌な予感で心臓がバクバクと煩い。
「あの男は『男』だからだめ」
「駄目とは……」
「でも君はいいんだ。男だけどちょっとちがうから」
 男らしさに欠けると言われているのだろうか。
 確かに雄々しいミスタの隣に居る事が多いので相対的に女性らしいとまではいかなくとも中性的に見えるかもしれない。
 まして受け身のセックスを重ね、ホルモンバランスが狂っているかもしれない。昼は男でも夜は女役だ。
「理想をやっと見付けた。あの可笑しな仮面を被らされてから、もう100年も経ってしまった」
 ジョルノの方を向き直した少年の支離滅裂な言葉。
「もうずっとずぅーっと夜に生きて――」
「お前」
「ん? なに?」
 ミスタに呼ばれて少年は振り向く。シルクハットが隠す頭部は子供らしく丸いであろうに子供らしさが見えてこない。声が嗄れていないのが可笑しいと思う程、老獪さを感じさせた。
「お前『ジャック』か?」
「ジャック? ぼくはそんな名前じゃあない」
 失礼な、と顔をこちらへ向け直した少年の肩を、ミスタは今度こそ離さないようにがしりと掴む。
「名前なんて聞いてねぇ。ジャック・ザ・ヴァンパイアかって聞いてんだよ」
 薄々浮かんでいたが言いたくなかった言葉をミスタが代わりに吐いてしまった。
 ゾンビのすぐ側に居て襲われない少年がジョルノの方を向いたまま口を開く。
「吸血鬼か、という質問に答えるのはむずかしい。定義がよくわからない。ぼくが人間をやめる前に発売された小説のキャラクターみたいじゃあないと吸血鬼と呼ばないのなら、ぼくはちがう」
 確かに口元から牙を覗かせていない。噛み付いて血を『吸う』鬼のみを吸血鬼と呼ぶなら該当しなさそうだ。
 だがもし爪を刺して血管から血液を啜り上げ自らの血肉に出来るとしたら。
 動く口から見える歯並びは悪くない。しかし手指の爪は手入れをしていないというだけでは説明出来ない程鋭く伸びて見えた。
「老人から若者に戻る事はできる。でもぼくは人間だった頃の最期の姿のままだ。年寄りになった自分を、だれにも見せたくない」
「はいかいいえかで答えろ」
 遮ってジョルノは深呼吸を1つする。
「君は僕に会いに来た」
「はい」
「僕の髪が綺麗だから」
「はい。顔もきれい」
「君は人間じゃあない」
 先程から人間を辞めたと言っている少年の唇が『はい』の形に動いて見えた。
「ぼくはただ、きれいな夜のげぼくが……欲しいッ!」
 飛び掛かってきた。背が低い為にクラウチングスタートを真正面から見ているようだった。物理的に飛んで、襲い掛かってくる。
「パープル・ヘイズっ!」
 暫定吸血鬼の少年の長い爪がジョルノに触れる前に、少年よりも余程怪物じみたスタンドが彼を取り押さえた。
 フーゴがエキストラベッドの前に姿勢を低く立っている。
「2人共、早く! 応戦しろ!」
 何とか子供1人の両腕を両手で掴み押さえているパープル・ヘイズにはそれ以上の事は出来ない。暴れられて猛毒入りのカプセルが割れてしまっては自分達も助からない。
「ゴールド・エクスペリエンス!」
 ジョルノもスタンドを出す。パープル・ヘイズと交代するようにゴールド・エクスペリエンスが床から木の根を生やし少年の体を包む。しかし手足を絡め取った筈の樹木はそのまま萎れていった。
 パープル・ヘイズの手から逃れた少年は枯れ木を跨ぎジョルノの方へ1歩踏み出す。
「やるなァ吸血鬼」
 軽口を叩きながらミスタは拳銃をしまった所へ目を向けていた。
 行為に及ぶ際に、服を全て脱いだ際にナイトテーブルの引き出しの中、冒涜的にも聖書の上に置いてそのままだ。手を伸ばして取れる場所ではない。ジョルノが取り出し放り投げて渡すのが1番早いだろうが吸血鬼の少年に取られてしまいかねない。
「……隣だ! 隣の3人を起こす!」
 ジョルノの宣言を聞きフーゴのスタンドが再び少年を取り押さえる。
 その隙にゴールド・エクスペリエンスが隣室との間のコンクリートの壁を植物へと変化させる。童話の茨姫の城の如く、棘だらけの茎がずるりと人間1人を通れる位の大きさに開いた。
 その先には身形を整えた仗助、露伴、康一の3人の姿。
「ドタバタ煩ぇーんだよ! 寝てられねーぜ!」
 怒鳴る仗助のスタンドがこちらの部屋へ入り、右手で力いっぱい吸血鬼の顔面を殴り付ける。
 小柄な吸血鬼の体など吹っ飛んでしまうだろうと思われたが、少年は殴られた左頬と表情とを歪ませるだけでその場から動かない。
 少年は見えていない筈のクレイジー・ダイヤモンドの手首を両手で掴んだ。
「……っ」
 仗助が己の右手首を押さえる。痛みのフィードバックに顔を歪めた。このままでは折られてしまいかねない。
「俺達そんなに煩かったか?」
 吸血鬼に阻止されない内にナイトテーブルから拳銃を取り出したミスタが、まるで友人を泊めた翌朝に部屋に怒鳴り込みに来た隣人と話すような調子で尋ねる。
「このままじゃあ他の階の奴らも起こしかねない位にな。ここでやり合うのは不味い。康一君、あの辺りに行けないか?」
 露伴が指したのは遮光性が高く締め切ると朝日が全く入らないからという理由で微かに開いているカーテン。リバービューを謳い文句にしているホテルらしく隙間から川が見えた。
 植物を枯らせる吸血鬼らしい吸血鬼なら、流れる川を苦手としているかもしれない。
「壁にぶつかったり地面に落っこちたりして僕達も怪我をするだろうが仗助に治させれば良い」
「おい露伴、聞こえてる」
「聞かせているんだ。お前だけは川に沈まないようにしてやったのはこういう時の為だぜ」
 回復役は最もその身を案じられる。ある意味損な役回りだ。前線に出るなと言われ、幾つもの怪我を見なくてはならない。
「はいはい。じゃあ俺がその窓ぶち破ったら、康一頼むぜ」
 クレイジー・ダイヤモンドが手首を掴む両手を更に掴む。
「壁でも何でもこの吸血鬼をボコボコにした後に俺が全部直す」
「わかったよ仗助君。そっちの3人、ちょっと痛いかもしれないけど――」
「覚悟なら決まっている!」
 2人の意見を代弁してジョルノが叫び、それに合わせてクレイジー・ダイヤモンドが少年の手を引き離した。
「ドラァッ!」
 クレイジー・ダイヤモンドが跳躍して窓際に立ち、カーテン越しに露伴が指した窓を砕き割る。
 がしゃんと激しい音と共に隣り合う2枚の窓ガラスは大小様々な破片を外へと撒き散らす。この音で目を覚ました宿泊客は大勢居るだろう。夜風が部屋の中に入り込んできた。
「エコーズAct.2!」
――ゴオォ
 恐らく『風』の音がした。余りにもわざとらしい、映画で後から付け足した効果音のようだった。割れた窓から入り込む風の音にしては煩過ぎる。
 その風の所為で体が浮いた。
 風は部屋の中央から発生している、と認識出来たと同時に窓の外へと吹き飛ばされた。自分だけではない。部屋に居た7人全員が強いなんて形容詞では足りない強風に煽られ、体を浮かせられ、そのまま外へ放り出される。
 ほぼ最上階から飛び降りて見る景色は何とも華やかで、見上げれば星空で見下ろせば川の流れるロンドンの街並み。突風で体を圧されながらも重力に逆らい前へ上へと空を泳いだ。
 康一のスタンド能力は重力を極端に軽くする事も出来るのか、それとも飛ばされる際に一瞬見えた部屋の床の『ゴオォ』と読めた文字――どのスタンドかが書いた物だろうか――がもたらした効果なのか。
 吸血鬼の少年も強風のような衝撃に流されるまま。宙に居るのにそれでもジョルノを見ている。
 どこまで見詰め合い続けるのか――と思った矢先に体に強い衝撃が走った。
「ぐっ!?」
 左肩が鉄筋か何かにぶつかった骨に軋みを感じて空中遊泳は終わりその場に落ちる。
 足――正しくは膝。服越しに擦り剥いたかもしれない――を付いたのもまたコンクリートで、ジョルノは体勢を立て直してそこがテムズ川に掛かる橋の1つ、ホテルからも見えて気に入っていたウェストミンスター橋だと気付いた。
「……こんな所まで飛ばされたのか……」
 ぽつりと呟き辺りを見渡した。何にもぶつからず上手く転がり落ちたので怪我の無い康一、身体能力が高く受け身を取り立ち上がるミスタが目に入る。
 しかし反対側を見ると打ち所が悪かったのか四つん這いで俯き、顔面から血を落としているフーゴが見えた。
 自分が痛みを伴い傷を塞ぐより仗助に痛み無く治してもらった方が良い。そう思い更に視線を動かして恐ろしい光景を見てしまう。
 欄干の飾りでしかない高みに有る鋭い箇所に右腕を串刺しにされ意識を朦朧とさせている露伴。
 腕を引き抜けば一気に出血するので躊躇いながら腕を掴むだけの仗助。
 それをすぐ近くの同じ高欄の上に佇み眺めている吸血鬼の子供。高い位置であり下は川の為風が強く吸血鬼の服の裾がばたばたと揺れている。
「……来いッ!」
 ジョルノは高くに居る少年に向かい大声で叫んだ。今の仗助や露伴に危害を加えさせるわけにはいかない。
 背の低い吸血鬼が見下ろしながら例の下衆じみたにやり顔で笑う。狩られる側の心理を初めて味わっている。小さく名を呼びゴールド・エクスペリエンスを背後に立たせた。
 早く、早く自分だけの下僕(ゾンビ)に変えたい。半ば恍惚に近い笑いを浮かべたまま吸血鬼はひらりと飛びジョルノの目前へ――
「させるかあぁァッ!」
 日頃とは違い金切り声に近い甲高さにジョルノが驚く間も無く、叫んだ当人のミスタが後ろから吸血鬼に飛び付き羽交い締めにする。
 左腕で首を絞めながら、右手で頭をがしと掴む。取り押さえられた吸血鬼の顔はこちらを向いたままだが不快そうな表情に変わっていた。
「じゃま。お前みたいな奴がゾンビになって生きられると思うな。橋(ここ)から捨ててやる」
「それはこっちの台詞だ! ネアポリス湾と違って小汚いこの川に沈めてやる!」
 頭を放したミスタの手はすぐさま腰ベルトに掛けておいた拳銃に向く。
 そんな至近距離で撃っては、と止める間も無く西部劇も真似出来ない素早さで発砲した。バン、バン、バン、バン、と聞き慣れた銃声を聞いた。
 恐らくもう2回は引き金を弾いただろう。弾丸の補填をしていないので彼の嫌う4発しか撃てなかった。しかし全弾命中している。
 自身の左腕ごと絞め上げている細い首を撃ち抜いた。吸血鬼の頭と胴体とが血飛沫を上げながら分離した。
 どさと子供の体は目の前に立ち殺人現場を見るだけのジョルノの足元へ倒れ落ちる。嗚呼、ミスタの腕が一緒に落ちてこなくて良かった。肩から力が抜ける。
「100年ずっと、おんなじ姿だった」
 ミスタのズタボロの左腕に抱えられている生首が口を開いた。
「不老不死だから変える必要がなかった。でも今体がなくなったから困ってる。この人の体をもらおうかな」
 首から下が無いと思えない、先程や昼間と何ら違いの無い話し方。
「ううんやっぱり、この人の体よりも君がいい。きれいな顔と髪のげぼくにして、体はぼくが使う」
「煩ぇー! 死ねっつってんだよ!」
 残弾数0のリボルバーでゴンゴンと小さな頭を叩く。頭蓋に鉄の塊をぶつけられているのに吸血鬼は微動だにしない。
「脳だ! 脳味噌を狙え!」
 ゾンビと同じく脳を破壊しなくてはならないと見抜いたフーゴが、顔を上げ口に入った血を吐き捨てながら叫ぶ。
 そこへ仗助が駆け寄る。後ろにどうやったか救い出せた露伴も居た。スタンドで手当てしようと屈む仗助に、フーゴは更に声を荒げる。
「早くしろ! 仲間に何か有ったらブチ殺すぞ!」
「それよりもアンタの――」
「仗助」露伴は仗助の肩に手を置き顔を寄せ「あのクソガキの頭に波紋の呼吸ってやつをしろ」
「はァ? それ爺は出来るけど俺はやった事無いっつの」
 クレイジー・ダイヤモンドが素早くフーゴの顔の傷を治したが、礼を言うより先にフーゴは仗助の胸倉を掴み無理矢理立ち上がらせた。
「やった事が無いなら今やれ! 殴られたいのか!?」
 返事に躊躇う仗助にもわかっている。やってみるか、やらずにやられるかのどちらかしかない。
「仗助!」
 ジョルノも今にも持ち上げているミスタに噛み付かんばかりの吸血鬼を見たまま名を呼んだ。この一言で状況は変わらない。だが仗助の心の内は変わる。
「……やってやるぜ、吸血鬼野郎!」
 大して無い距離を仗助は全力で走る。目標は拳銃での殴打を諦めたミスタが無事な右手でしっかりと押さえ持つ吸血鬼の生きる頭部。
 殴り付けようと振り上げた仗助の手の甲に「グサリ」と書かれているのが見えた。
――グサリ
 文字通りの音を立てて、仗助の拳は吸血鬼の額にのめり込む。
 手が頭部に飲み込まれてしまった。有り得ない状況に吸血鬼もその顔を持つミスタも目を丸くした。
「何を……」
 気が動転しただけで1発殴られようが何の問題も無い。シルクハットが吹き飛んだりもしない。そう思い出して吸血鬼はすぐに仗助をじとりとした目付きで睨み上げる。
「波紋の呼吸ってやつをやってやるんだよ!」
 そう焦っていては、呼吸を乱していては恐らく出来ない。大きく息を吸って吐いて、吸って体の中で太陽の光のような黄金に作り変えて吐き出して。
 仗助が目を閉じて呼吸を深い物に切り替えると、吸血鬼の頭は目に見えて慌て出した。
「……や、止めろっ!」
 知識に無くても波紋の呼吸は自分にとって恐ろしい物だと認識した吸血鬼は歯を食い縛ると、ジョルノの足元にうつ伏せている頭部の無い遺体がびくびくと動き出す。
 身構えたジョルノの目に、吸血鬼の胴体がその服を巻き込みながら『変化』する様子が映った。1つの幼い胴体から30羽は居るであろう蝙蝠(コウモリ)の姿へ。
 不気味さに怯みかけていると蝙蝠達は一斉にバタバタと音を立てて飛び立った。
 目標は切り離された頭。蝙蝠は超音波を発する生き物だが鳴き声も普通に立てるとジョルノはこの時初めて知った。キィというネズミのような鳴き声を上げてミスタの体に体当たりをする。
「うぉ、何だこれ!? オメー何したんだ!?」
 頭を持つ右腕や既に穴の4つ開いている左腕に蝙蝠の羽がぶつかる。痛みより精神的な気味の悪さにミスタは顔をぶんぶんと振った。
「太陽から逃げる。この男達と朝日から逃げて」日陰で人間を吸血し体力を回復してから「夜になったらまた来る」
 仗助の見よう見まねの波紋の呼吸よりも恐ろしいのは本物の太陽。
 イタリア及び日本から来ているのでわからないが、イギリスはもうすぐ日の出時刻なのかもしれない。中途半端な波紋の呼吸で橋に括り付けられて、首から下を切り落とされた瀕死の状態で日光を浴びては堪らない、とまで考えて焦り出したのかもしれない。
 早く離せと蝙蝠は仗助の右手とミスタの左腕とを中心に突進を繰り返す。
 蝙蝠の大群が3人――2人と1つの頭――を覆い、1つの黒い塊となりそのまま浮き上がった。
 成人男性2人分の体重を、30羽以上とはいえ蝙蝠達に持ち上げられるわけが無い。普通の蝙蝠と吸血鬼の体が変化した蝙蝠は色々と違うようだ。
 黒い塊は先の吸血鬼の宣言通りミスタを、そして同じく邪魔者の仗助を打ち捨てるべく橋から離れ川の上へ移動した。ジョルノはそちらへ駆け寄って手摺状の低い欄干を掴み、身を乗り出して叫ぶ。
「お前は被せられた、と言っていた!」
 蝙蝠の大群は形を変えて、額に拳を突き刺されたままの吸血鬼が顔を出した。
「望まないのに吸血鬼にされてしまった、という事だろう。お前も被害者の1人だ」
 相変わらずジョルノをじっと見る時の顔は変わらない。世界に1人しか存在しないと言わんばかりの熱い視線。
「誰だって死にたくないし死なれたくない。生きる為にどうしても月に1度は人の血を吸わなくちゃあならないだけなら、僕はお前を許していたかもしれない」
 仗助もミスタも黒一色に飲み込まれてしまっている。唯一出ている吸血鬼の顔の近くでも蝙蝠達は羽ばたいている。
「生きる為に僕の血狙うというなら、拷問に掛けて2度と近付けなくはするだけだろう」
 そして少しの援助もしたかもしれない。
 弱きを助けるつもりは無いが、これだけ綺麗だと慕われては対立組織との抗争で出た遺棄する死体辺りをくれてやっても良い。
「最近頻度高くゾンビを作っているのはどうしてだ? 体を壊して血を吸わないと死にそうにでもなったのか?」
 それとも100年を生きて誰も残らない寂しさに滅入ったのか。
 彼の欲しがる夜の下僕とは『仲間』の事であったりするのか。
「ぼくは、あの可笑しな仮面のせいで、人間じゃあなくなった」
 だがそれを嘆いているのではない。その証に吸血鬼の少年は拳めり込む額から血を流しながら得意気に笑った。
「ぼくは人間よりもずっとすぐれた存在。生き物の頂点に立ったんだ」
 手摺を掴む手に力が入る。
 怪力であれば苛立ちに任せて橋を壊してしまいそうで、ジョルノは自身が人間で良かったと改めて思った。
「……ッ!? な、何だっ!?」
 人間ではない少年の笑みが消える。
「離せ! ぼくの脳みそから手を離せっ!」
「――コオォォォォォ」
 仗助の呼吸の音が聞こえてきた。ただの息ではない、これが波紋の呼吸と呼ばれる物だとわかる音。音ですらないかもしれない。この空気の振動は鼓膜以外の部分もビリビリと震わせてきた。
 吸血鬼のジョルノへの返答を聞いて仗助の中の太陽のように輝く黄金の精神が彼に正しい波紋の呼吸をさせる。
 書いた効果音の通りの現象が起きるのは露伴のスタンドの応用能力なのだろうか。それとも仗助自身か康一が隠し持つもう1つの能力か。ともあれその効果音の通りに仗助の右手は止めろと叫ぶ吸血鬼の額に刺さったまま。
 そこから夜の眷属へ太陽の光が注ぎ込まれるのを離れているジョルノも感じた。
 不思議な気分だった。その疑似的な太陽の光を自分も浴びたいようで、自分こそその光から逃れなくてはならないようでもある。
「あ、あ、う、あ……ぼく、は……」
 吸血鬼の断末魔はとても小さな物だった。
 自分は、の後に言葉を続けられないまま首から頭頂まで次第次第に灰へと変わる。
 やがて顔の全てが灰になった。サラサラと舞う灰の中から仗助の手が見えた。それから漸く、蝙蝠の全てが同時に灰に変わり消え去った。
 蝙蝠が剥がれて仗助とミスタの姿が現れる。2人揃って重力に従いそのまま落下する。
「あ」
 コメディ映画の如く落ちた2人には申し訳無いと思いつつジョルノは吹き出して笑った。
――バシャン
 何とも情けない水音でジャック・ザ・ヴァンパイア事件は幕を閉じ、もう誰もゾンビにされない。嘲笑に近かったそれは安堵の笑みに変わる。
 しかしこの事をどうやってロンドン内外の人々に知らせようか。それと川に落ちる音が聞こえてきたが違和感が有った。続く冷たいだの汚いだのの言葉が無いし、何より1人分しか聞こえなかった。
 ジョルノは再び身を乗り出して、腹を支点に足を浮かせて川を覗き込む。
 目に映るのは水面に胡座(あぐら)をかく仗助の姿。
「ミスタは?」すうと息を吸い大声で「仗助! ミスタは!?」
 すぐに仗助が顔を上げた。
「あの怪我だからヤベーって! 俺川ん中入れねーんだよ! っつーか水ん中だと余計に血が出るよなァ!?」
 嗚呼確かに、仗助の胡座をかいている足元の水だけ可笑しな色が混ざっている。
 目がすっかり慣れてしまったからか夜更けだというのに大量の血液が仗助の周りをとろりと漂っているのが見えてしまった。
 ミスタの左腕から出ている血。どんな傷も元通りに治せる仗助は――先程露伴が言っていた、彼のスタンドに『川に沈まない』と書かれたであろう所為で――川に手を入れる事も出来ない。
 浮かび上がろうとする意思の持てない人間はただ沈む。
「ミスタっ!」
 名前を叫びジョルノは欄干を乗り越えて川へと飛び込んだ。
 バシャン、と音を立てて吸血鬼だった灰が散らばり浮かぶ水面の奥へ。
 テムズ川はゴミ等の不法投棄は無いようだが水質自体が綺麗ではなく視界は悪い。否、単に水中で目を開けた経験が無いだけかもしれない。
 居た!
 すぐ近くに、足元と呼べる箇所に沈みゆくミスタは居た。痛みに顔を歪め押さえている左腕から血が立ち上る。
 手を取るべくジョルノは旋回して頭を下に向けた。
「ミスタっ!」
 思い切り開けた口からも鼻からも一気に水が入り込んでくる。
 しかし声に気付いてミスタは顔を上げた。目が合った。ジョルノが右手を伸ばすと右手を伸ばし返してきた。
「ミスタ! ミスタっ!」
 2度繰り返しただけで大量の水が器官に入ってくる。
 痛くて苦しくて、溺れ死んでしまいそうだ――そんな折に指先と指先が掠め合った。
 ゴボゴボと自分の吐き出す空気の音が煩いが後もう少しだ。そう思った矢先に手が握られる。
 意識が一瞬飛んだ。最後の力を振り絞って引き上げたのか、ジョルノの方が沈んだだけなのか、水中の浮遊感でよくわからないがミスタの腕の中に居た。
 胸に顔を当てている。ミスタの手が後頭部をしっかりと掴んで押し付け離さない。ジョルノも両手で強く抱き付く。
 このまま2人で水底に沈むのだとしたら。川の底では一体どんな夢を見るのだろう。

「がはッ!」
 喉から可笑しな音がした。ジョルノはそのまま込み上げる水――胃からの逆流ではないのか胃酸は感じられない――を吐き出す。
 右を下に、自分の腕を枕に横になっていたので口から溢れた水はそのまま地面に生える雑草に掛かった。
 げほげほと噎せながら体を起こす。右足の上に置いていた左足を避けて股を開く形で座り、片方の鼻の穴を手で塞ぎ強く息を出した。鼻汁ではなく水が吹き出る。
「……はぁ、はぁ」
 呼吸が楽になった。息も上手く出来ない悪夢から覚めたような気分だった。
「はぁ……夢?」
 ロンドンに観光旅行に来てウェストミンスター橋からテムズ川に飛び降りて溺れ死んだのは夢だったのか。
「どんな夢見てたんだよ」
 低く若い声に顔を向けると仗助が胡座をかいている。川の上に座っていた時と同じ姿勢だ。色々と夢ではないらしい。
 姿勢は同じだが上着――改造学ラン――は脱いでいた。脱ぎ捨てられた服も仗助自身の髪も濡れている。
「仗助が潜って助けてくれたのか」
 有難うという言葉だけでは足りない。沈みゆく所を助けてくれたならば2人の命の恩人だ。
 ジョルノと、ミスタの。
 ミスタは? と尋ねたかったが、川に飛び込む前にも言った事をまた言うのは気が引けた。
「いや俺は潜っちゃあいねーよ、水ばっしゃばしゃ掛けられたから濡れちまっただけで。露伴に『ロンドンの川には沈まず浮かぶ』って書かれてっからよー。だからどうしたもんかと焦ったぜ。でもオメーのボディガードはちゃんとボディガードするんだな」
 仗助が顎でジョルノの後ろを差すので振り返る。
 朝日なのか夕日なのかわからないが顔を出しきらない太陽の光を背に浴び膝を立てて座るミスタが「よう」と片手を上げた。
「すげー光景だったぜ。ジョルノにこれ以上水を飲ませないようにって顔押さえながら、左腕なんて今にも千切れそうになってんのによ。血が足りないのに気は焦って、顔面蒼白ってーのはあんな顔の事を言うんだな。でもジョルノを守るってのは見事に果たした」
 そうまで誉められてミスタは照れ臭そうに顔を赤くする。
「怪我してんのに人間1人抱えて海面まで上がってくるとか大変……って、海じゃあねーか」
 その怪我は既に治っている。痛み無く服まで全て戻せる仗助が羨ましかった。
 僕だってミスタに痛い思いをさせずに助けたい、救いたい。何よりも大切だから。
「ミスタぁーっ!」
 ジョルノは勢い良くミスタへ飛び付く。
「うおっ……と」
 勢いが良過ぎてミスタはよろめいたが、それでも抱き留めてくれた。
「好きだ、ミスタが好き、誰より好きだ!」
「……え? 急に、どうした?」
「もう抜け出せない! 僕はミスタに溺れきっている!」
「それはちっと前に俺が言った……いやまあ良いんだけど」
「だからっ! だから……特別だから……」
 続く言葉が出てこない。まさか「貴方は僕の特別だから、僕を貴方の特別にしてくれ」なんて言えやしない。もっとわかりやすく噛み砕いて「恋人にしてくれ」なんて更に言えるわけがない。
 だから今こうして生きて、そして自分を抱き締めてくれるだけで良い。
「はいはい、わかった。わかったから泣くな」
 頭をぽんぽんと撫でてくれるのは嬉しいが、そんな事を言われては仗助に泣いているのが知られてしまう。
 嗚呼そうだ、仗助がすぐそこに居るのに、好きだと告げて泣きじゃくるなんて。
「いーよなァー、そちらさんは素直で」
 早速仗助が茶化してくる。
「うちのはそんな事滅多に言わねーっつーか、言われた事無ぇな」
「あ? 仗助お前恋人居んの?」
「居る」
「なのに男3人で旅行とかすんの? 私も連れてってーとか言われねーの?」
「まあそこは」
 旅先で出会っただけの人間には話せない相手――夫が居るとか、未だ幼いとか、実の姉であるとか――なのだろうか仗助は誤魔化した。
「それよりもそっちはさっきっつーか昨日の夜っつーかも宜しくしてたんだろ? 羨ましい限りだぜ」
「宜しくしなかったら恋人じゃあないだろ」
「まあ俺達だってしないわけじゃあ……あんまり無いけど、付き合ってっから別に良いし」
 仗助の言う通りだ。恋人同士でも滅多に肉体関係を持たない人間なんて大勢居るだろう。事情が有って出来なくても交際は解消されないのが普通な位だ。
 同時にそれはどんなに夜の営みを繰り返しても恋人になれないという事。ストレスの捌け口に肌を重ねているだけで、その為に上辺(うわべ)だけの愛の言葉を並べられてきただけで、付き合ってくれと言われた事は1度も無い。
 こちらはこんなに真剣に想っているのに。体だけではなく存在そのものが愛しくて溺れきっている。
「ヤる事ヤんねーでいつ恋人同士になるんだよ」
「お付き合いの始まりはそりゃあ、付き合ってくれー、良いぜー、ってやり取りの後だろ?」
「何だァそりゃあ? そもそも『付き合い』って何だよ」
「交際は交際だろ。恋人同士になる事」
「恋人同士になるのにわざわざそんな事言い合うのかァ? 日本人ってわけわかんねーな。セックスの後に気持ちが変わんなかったらキスして好きだって言えばもう恋人だろう」
 その法則でいけば自分達は恋人になるが良いのかと聞いてしまいたかった。
 情事の後には必ず唇へキスをしてくる。最初の時もそうだったし、先程した時もそうだった。俺はお前を愛していると囁いての口付けはそれだけで絶頂しかねない幸福だ。
 否、ミスタは自分達が恋人である事を前提に仗助と話していないか?
 仗助の勘違いに乗っただけなのだろうか。しがみつく手を僅かに緩める。
「何で付き合う前からそんな事ヤッちまうんだよ!? イタリア人おっかねーな!」
「体の相性大事だろ。あ、お前偏見有る? 今更だけどカトリック教徒だったりホモフォビアだったりしねーよな?」
「しないしない」何故なら、と続く事は無く「でもジョルノはそれで、そんな始まりで良いのかよ?」
「ジョルノはイタリア人だから良いんだよ」
 その言葉を聞きこれだけは言っておかなくては、と急いで顔を上げた。
 泣きじゃくった後特有の赤らんだ鼻が恥ずかしい等と言っていられない。潤みのおさまらない目でじっと見上げる。
 真摯な眼差しを睨み上げられたとでも思ったのか、ミスタは怯むように2度瞬きした。
「ミスタ、僕日本人です」
「……え? あ、そうだった」
「正確には母親が日本人で僕はハーフ。今の義父(ちちおや)がイタリア人だからずっと昔にイタリアに越してきただけ。それまで日本に住んでいたし、イタリア人の血は入っていない」
 返答を考えジョルノの顔を見ていたミスタだが、思い付かずに助けを求めて仗助に目を向ける。
「まあジョルノはあんまり日本人には見えねーけど、でも本人がそう言うんだったら、何か言ってやる事有るんじゃあねーの? 今じゃあなくても、俺がちょっと離れてからでも」
「いいえ」
 仗助の言葉を遮るとミスタは再びジョルノの方を向いた。
「今言って下さい」
 2人きりになってからなんて遅過ぎる。
「朝焼けが背景なんてグレートだぜ」
 仗助が聞いているのは逆に好都合。証人が居るだなんて交際を通り越して結婚でもしてしまいそうだ。

 飛行機は遥か上空をイタリアに向かい進んでいた。
 キャビンアテンダントは最初に英語、次にイタリア語を話す。露伴に書いてもらった英語を理解出来るという一文は綺麗サッパリ消されているので今はもう前者は聞き取れない。
 それでも飲み物は何が良いか問われた事はわかる。
 ジョルノは温かな紅茶を頼んだ。体が冷えているわけではないが、イギリスで色々と飲んだ紅茶はどれも美味しかった。1つも味にハズレが無かったとは言わないが、それでも飲んでいる時間は全て楽しかった。
 フーゴはオレンジジュースを頼み、寝ている者には要らないと断った。窓際のジョルノと通路側のフーゴの間でミスタはすうすうと寝息を立てている。
 紅茶を受け取り早速一口飲む。これもダージリンティーのようだが、今朝のホテルで出た夏摘みダージリンの微かに甘さを感じる味わいにはやはり敵わない。
 窓の外に目を向けると「ジョルノ」とフーゴに呼ばれた。
「疲れたんじゃあないですか? 寝ていて良いですよ。万が一の事が有っても僕が起きていますから」
 用心棒は眠りこけている事だし。
「大丈夫です」
「しかし夕べも余り寝ていないのでは? ミスタもこの調子だし」
 昨晩泊まったホテルはシングル1部屋とデラックスツイン1部屋が空いていた。フロントでフーゴがジョルノに1人部屋が良いかデラックスルームが良いか尋ねた。ボスだから、というのも有るだろうが『ジョルノの休暇』として来たからの方が理由としては強いらしい。
 広い部屋が良いと答え、ミスタが「俺も俺も!」と主張し、フーゴが1人部屋となった。階も違うしシングルルームがどんな部屋だったのかわからない。一方でデラックスツインはデラックスの名に相応しい広さと窓からの眺め。
 ツインルームなのにベッドは1つしか使わなかった。一応片方を荷物置き場としては使ったが、ミスタとは同じベッドで寝た。勿論行為に及んだ後で。
 部屋が違うのだからフーゴには知られていない筈だが――2人夜明けまで飲み明かしたとでも思われているのかもしれない。
「ジョルノの疲れを抜く為の旅なのに、色々と疲れさせてしまった気がする」
「例えばジャック・ザ・ヴァンパイア事件とか?」
 そのものずばりを言ってジョルノもフーゴもくすくすと笑い合う。
「ミスタももう少しジョルノに負担を掛けないように気遣えないのか……それこそジャック・ザ・ヴァンパイアの出たコンラッドロンドンでは流石に言ってしまおうかと思った。あんな事件が有ったから気が昂っているとはいえ、それをジョルノにあたるような――」
 言葉の途中でフーゴは息を呑み、オレンジジュースの入っている紙コップに口を付けた。
 不味い事を言ったとでも言いたげな態度。まさかミスタの言う通り狸寝入りだったとは思いたくない。
「……河川敷に3人を迎えに行った辺りからジョルノは、こう、晴れ晴れとして見える」
「良い休息になったからです。有難う、フーゴ」
 川に飛び込む位の気持ちを持っていた事に気付けた。そして欲しかった言葉を貰い、伝えたかった言葉を告げられた。全ては旅を企ててくれたフーゴのお陰だ。
 それにとても素晴らしい出会いも有った。思い返すと、そしてこれから先を思うと胸の奥が暖かくなる。
「またこういう機会を作って下さい」
「わかりました、工面してみます。ボスと右腕とが居なくても、僕1人でも1週間は回せるように」
「え? フーゴも一緒に行くんですよ」
 ミスタの寝顔越しにフーゴを見ると酷く驚愕していた。
「通訳は現地で雇った方が……」
「フーゴがその国の言葉に自信が無いならそうします。でも一緒に来てもらいます。拒むのならボスからの命令だと騒ぎ立てます」
「そんな事をしなくてもついて行く……」挟まれ会話されても尚眠る顔を見て「……けれど、2人きりの旅行をしたくはないんですか?」
 これは完全に『そう』思われている。
 まあいいか。
 秘密裏――知られていては秘密でも何でもないが――に交際しているのは事実。交際相手の次に近しいフーゴに隠し事をする必要なんて無いししたくもない。
 恋人と2人きりの旅も面白いだろう。だがそれは先の話。次の旅先は決まっているし、そこにはミスタとフーゴとジョルノ自身の3人で行かなくてはならない。
「3ヶ月以内には行きたいけれど都合は付けられそうですか? 折角だしクリスマスをそこで迎えるのも良さそうだ」
「クリスマスを?」
「日本のM県というのは雪が降り積もるそうです」
 次に仗助と露伴と康一に会うのは小さな町に綺麗な雪の舞う頃が良い。


2018,10,05


関連作品:Pacchiano Neve


ミスジョルちゃんをイメージしたオルゴールを作った所「天道虫が溺れてるような見た目、しかも曲中に「溺れてく」が入っている」という物が出来上がったので、取り敢えず2人共溺れさせてみました、色んな意味で。
タイトル通り本当に書きたかったのは「イギリスを舞台に仗助が波紋の呼吸で吸血鬼を退治する話」なんですけどね。
書いたのは夏ですが秋の夜のロンドンの川に飛び込んで風邪引かないなんて3人共何とかに該当しちゃいそうです。
<雪架>

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