フーナラ 全年齢 生存if


  I Can't Say


 今日の分の事務仕事を終えたパンナコッタ・フーゴは、ペンを置いて壁掛けのアナログ時計に目をやった。この後の予定は、留守番の交代要員が帰ってくるのを待ってからの“見廻り”が数件ほど。彼はギャングの一員であり、“見廻り”も――先の事務処理も――その任務の一部ではあるが、今日向かう予定の場所は、どれも危険はないと言い切ってしまえるようなところばかりだ――揉め事が起こりそうな場所へは、最初からもっと戦闘に適した能力の持ち主か、あるいは外見だけで他者を威圧出来るような者が向かうことが多い――。おそらく早々に――あっけなく感じるほどあっさりと――片付いてしまうだろう。その後は、明日の朝までは完全に自由だ。早めの夕食を済ませてしまっても良い。ゆっくり風呂に入っても良い。さっさと眠ってしまっても良い。だがもし自分の帰りを、これから帰ってくる予定の“彼”が待っていてくれると言うのなら……。
 フーゴは“彼”の予定を頭の中に思い浮かべた。全員分のスケジュールを書き込んだ手帳を開かなくても、それはしっかりと記憶している――特に自分と“彼”に関する事柄は――。“彼”に与えられた任務は、然程難しい物ではなかったはずだ。ならば、不測の事態に遭遇して、よっぽど疲れた様子で帰ってくるのでもなければ、何気ない風を装って――実際にそんな器用な真似が自分に出来るかどうかは置いといて――食事に誘ってみようか。“彼”のことだから、それなら仕事にも付き合うと言ってくれるかも知れない。そうなれば、一緒にいられる時間はますます長くなる。
(もうすぐ帰って……、いや、まだ少し早いかな……)
 どれだけ待ち侘びているんだと自虐的な笑みを浮かべたフーゴが改めて時計を見たのと、ドアが開け放たれる音、そして裏社会の人間のものとは思えないような明るい声が響いたのは、ほぼ同時だった。
「ただいまー!」
 少しも疲労しているようには聞こえない弾んですらいるような声に、フーゴの表情は無自覚のままに緩む。
「お帰りなさい、ナランチャ」
 フーゴが微笑みを向けた先には、「それのどこが笑顔だ。真の笑顔がどういうものなのか見せてやる」と言わんばかりの眩しい笑みがあった。
「フーゴ、お疲れ!」
 ナランチャ・ギルガはフーゴの2歳年上――ただしその容姿からも言動からも、そうとは見えない――の後輩――こちらは納得だ――である。それ以外の言葉で2人の関係を表すとなれば、『恋人同士』というのが当て嵌まる。だが、出会ってからの歳月、それに2人の年齢――あるいはナランチャの子供っぽさ――の所為か、傍目には仲の良過ぎる親友、もしくは兄弟のように見られていることも少なくはないようだ。誰の目からも明らかであるといえるような、もっと恋人らしい関係へと、もう少し踏み込んでみたいと思っているのは、果たして自分の方だけなのか……。フーゴがそんな悩みを抱えたことは、何度かあった。が、真夏の太陽を思わせるような笑顔を見ていると――それが自分に向けられていると――、「これはこれでいいか」と思えてくる。これから共に過ごせる時間を思えば、何も急ぐ必要はない、と。
「お疲れ様です。問題なく済みましたか?」
「うん、ばっちり!」
「ずいぶんご機嫌ですね」
 出先で何か良いことでもあったのだろうか。オープンしたばかりのカフェを見付けただとか、顔馴染みの誰かに何か――飴だとかチョコだとか――をもらっただとか、この辺りを縄張りにしているらしい猫がいつもよりたくさん触らせてくれただとか……。仕事がスムーズに終わったというだけでも、彼ならそれを笑顔へと変えることが出来るだろう。いや、“仕事を任される”こと事態が嬉しいのかも知れない。そんなささやかな喜びを全力で享受出来ること。それは、彼の才能のひとつと言ってしまっても良いかも知れない。
「もうちょっと時間かかるかと思ってたんだけど、すっごい順調に終わってさぁ。ブチャラティと一緒だったしな」
「そう……」
 フーゴの声は無意識の内に小さくなった。
 ナランチャは今の言葉を「仕事が早く終わった理由」として述べたつもりなのかも知れない。だがフーゴには、「彼が上機嫌である理由」のように聞こえてしまった。何故なら、彼は誰の目にも明らかであるほどに、ブローノ・ブチャラティのことを慕っている。
 フーゴとナランチャは特別な間柄である。そのことを疑ってはいない。それでも、ふとした瞬間に、“ナランチャのより特別な場所”にブチャラティはいるのではないかと思ってしまうことがある。
「良かった……ですね」
 眩しい笑顔が自分へ向けられたものではなく、ブチャラティが作り出したものだと思うと、浮かれていたような気持ちは一気に萎んでしまった。それでもフーゴは、そのことを悟られまいと、半ば無理矢理声のトーンを上げた。
「で、そのブチャラティはどこに行ったんですか? 帰ってきてないの?」
 ブチャラティに留守を頼めれば、ナランチャと一緒に出掛けることが出来る。逆に言うと、彼がいなければこの鬱々とした気持ちをしばらくの間解消出来ずにひとりで抱えたままでいなければならない。ブチャラティがいるからこその浮かない気持ちだというのに、それを晴らすためにも彼の存在が必要だとは、なんだか皮肉めいている。いっそのこと面と向かって彼のことを嫌ってしまえれば楽かも知れないのに、それが出来ない程度にはフーゴにとってもブチャラティは欠くことの出来ない存在だ。色々と面倒な状況ではある。だが面倒だからと言って諦めてしまえるような感情でもない。逃げないと決めたからには、歩み続けていかなければ。
「ブチャラティなら」
「うん」
「捕まった」
「は?」
「そこの通り曲がったところで。近所のばーさんに」
「ああ、そういうこと」
 ギャングのくせに人のいいブチャラティは、年下の同性のみならず、年上の異性からもよく慕われている。帰りが遅いが何かあったかと思って電話を掛けたら、もうすぐそこまでは戻ってきているのだが、『相談事』が終わるまでは動けそうにないと言われたことが何度もある。今日もどうやらそんな状態らしい。
「だから書類持って先に戻ってろって」
 フーゴは「はい」と言って渡された封筒を受け取って、ブチャラティの机の上の空いている場所――それは、高く積まれた書類の山の所為で、いくらもなかった――へ置いた。
「よーし、これでほんとに任務完了だー!」
 書類を持ち帰るという最後の仕事を終えても、ナランチャの笑顔はまだそこにある。「暇になってしまった」という気持ちが入り込む隙がないほどのエネルギーを、一緒にいたブチャラティからもらったのだろうか。
「いいな」
 ブチャラティと一緒の任務が与えられたナランチャが、ではない。フーゴが羨ましいと思わずにいられない相手は、ブチャラティの方だ。
 フーゴの半ば無意識に近いその呟きを、ナランチャは聞き逃してはくれなかったようだ。彼は不思議そうな顔を見せた。
「ん、なに? あ、フーゴはまだ仕事残ってるんだっけ? もう出る? オレは留守番かな?」
「いえ、もう少ししてから。それに、そういう意味で言ったんじゃあありません。ただ……」
 余計なことは言わなければ良かったと思った時には、もうフーゴの口はぽつりと言葉を零していた。
「ぼくも、ブチャラティみたいになりたいな、と思って……」
 ほんの数時間一緒にいるだけでナランチャに「嬉しい」と思ってもらえるような、そんな人に。
 ナランチャは首を傾げた。それはそうだろう。彼でなくとも、「こいつはいきなり何を言い出すんだ」と思われて不思議はない。
 先程から思考が迷走している。余計なことは考えず、もうさっさと見廻りに出てしまおうか。そう思って「なんでもないです」と前言を撤回しようとすると、それよりも先にナランチャが口を開いた。
「なれば?」
「はい?」
 今度はフーゴが首を斜めにする。
「なんですって?」
「だから、ブチャラティに。なってみたら?」
 言い直されても意味は分からないままだ。彼は何を言っているのだろう。ブチャラティなら、それを汲み取ってやることが出来るのだろうか。
(ああ、またおかしなことを考えている……)
 フーゴの思考が追い付く――追い付けるのだろうか――のを待たず、ナランチャは「あっち」と言いながら事務所の奥を指差した。そちらには、リーダーの執務室、あるいは応接室として使っている部屋がある。
「なんですか?」
「来て!」
 言うや否や、ナランチャは駆け出した。
「ちょっと、ナランチャっ?」
「はーやーくっ」
 フーゴは慌てて後を追った。

 日差しが入り込む部屋の中には、机とそれを挟むソファが置かれている。その他には、極普通の家具と、誰かが気紛れで置いた――どこかからの貰い物かも知れない――フェイクグリーンがあるくらい……。
 いや、違う。
「ポールナーレフー!」
 ナランチャが駆け寄って行ったのは、棚の上に置かれた水槽だった。その中にいるのは、一見するとただの亀が1匹。だがその“中”に、ひとりの男の魂が――魂“だけ”が――存在している――住んでいる――ことを、フーゴは知っている。組織に関わったがために命を落とし、トップが替わったとはいえ組織への恨みを抱えていてもおかしくないくらいであるはずの彼は、しかし今では彼等の協力者の立場でいてくれている。
「今日は起きてる?」
 肉体を失ってなおこの世に留まり続けるのはなかなかに大変――エネルギーを消費する――であるらしく、1日の多くを眠って過ごしているらしい彼、ジャン・ピエール・ポルナレフは、今日はたまたま目を覚ましていたのか、ナランチャの呼び掛けに応じて姿を見せた。
「何か用かな、ナランチャ」
 極普通の少年であれば気安く話し掛けたりなんて出来ないような“凄み”を感じさせるその男――申し訳ないことにまず外見が“普通”とは言い難い――に、ナランチャは軽過ぎるくらい軽く、「うん」と頷いた。
「あのさ、この間、スタンドの実験台が欲しいって言ってただろ?」
「実験台とは人聞きが悪いな」
 苦笑を返しながらも、他の言葉に言い換えるつもりはないらしいポルナレフは、落ち着いた様子でフーゴとナランチャの顔を交互に見た。
「君達2人が“実験台”になってくれるというのか? 何も礼は出ないぞ?」
「ちょ、ちょっと待ってください。スタンドの実験って、どういうことなんですか」
 亀の背中から生えた小さい男に向かって話し掛けることの違和感を無視し切れないフーゴ――そもそも彼はこの男が仲間になったその場に立ち会ってはいなかったがために、詳しい事情は伝聞でしか知らずにいる。その所為もあって、ナランチャのように気軽に接することが出来るほどの付き合いはまだない――は、ナランチャに向かって質問をした。ナランチャはそれに――亀の背中から生えた小さい男に向かって話すことにも――どうということはないというような顔をする。
「ほら、ポルナレフのスタンドで、精神が入れ替わったことがあっただろ?」
「ええ。そう聞いてますけど……」
「そっか、フーゴは見てないか。それをさ、制御出来るようにって、特訓してるんだよ。なっ?」
「つまり、まだ完全には制御出来ていない?」
 それは大丈夫なのだろうか。不安が顔に出たのか、ポルナレフは改めて唇を歪めるように苦笑を浮かべた。
「ナランチャに捕まえてきてもらった虫や小動物で実験した時は、少なくとも命の危険が伴うようなことはなかったよ。何度か試したがな」
「だってさ!」
 ナランチャはそれが自分の能力の成長であるかのように嬉しそうな顔をしている。
「もう少し訓練すれば、任意で能力を解除することも出来るようになるだろう」
「おお、すげーじゃん!」
「つまり、今はまだ出来ないんですね……」
 本当に危険はないのだろうか。聞けば聞くほど不安になってくる。
「というか、待ってください。つまり、ぼくが、その……、ブチャラティになるというのは、ぼくの姿だけが変わるというのではなく、ぼくとブチャラティの精神を入れ替えるということなんですね?」
「うん、そうそう」
「それなら、勝手に話を進めるわけにはいかない。ブチャラティの了承をもらわないと……」
 いや、こんな不確かで安全かどうかも分からないようなことに――しかもわけの分からないフーゴのワガママを理由に――ブチャラティが付き合ってくれるはずがないではないか。それとも、ナランチャは自分が頼めば――あるいは無断でそれをしたとしても、自分が後から謝れば――ブチャラティは許してくれるとでも言うのだろうか。ブチャラティとは――フーゴとのそれとは別の意味で、あるいは、フーゴと以上に――“特別”な関係だから、と?
「そんなの駄目です。そんなの、ブチャラティに言えるわけが……」
「オレなら構わないぞ」
「うわぁ!?」
 不意の声に飛び退くと、背後ににこやかな笑みを浮かべたブチャラティが立っていた。一体いつの間に“ファン”から解放されて帰ってきたのだろう。
「やっと“追手”を撒くことが出来た」
「それは近所のばーさんのことですか……」
 『ファン』より人聞きが悪い響きだ。
「ブチャラティ、お疲れ様!」
「ああ、ご苦労。ポルナレフも、元気そうで何よりだ」
「お陰様でな」
 簡単な挨拶を交わし終えると、ブチャラティは3人の顔を順に見廻した。その表情は穏やかだ。
「さっきの話だが、オレなら構わないぞ。オレの体をしばらくの間フーゴに貸してやってもいい」
 大まかな話の流れは掴んでいるらしい。つまり、つい先程帰ってきたところというわけではなさそうだ。そうならそうで、声を掛けてくれれば良いものを。
「ふむ、フーゴとナランチャではなく、ブチャラティとフーゴを入れ替えるのか?」
「そうそう」
「待ってください。ブチャラティ、その……、いいんですか?」
 ポルナレフの手前、「危ないかも知れないのに」という言葉は呑み込んで、「理由も聞かずに?」とフーゴは尋ねた。
 ブチャラティは呑気に「構わない」と返す。
「面白そうじゃあないか」
「そんな、適当な……」
「可愛い部下の頼みだと言うなら、断るわけにはいかないさ」
 ブチャラティは片目を瞑りながらそう言った。ナランチャに向かってではなく、フーゴの方を見ながら。
(今のはぼくのことなのか?)
 「可愛い」なんて言葉は、自分には該当しないだろうに。
(それ以前に、そもそもぼくはそんなこと頼んでなんかいないぞ!)
 それなのに話はどんどん勝手に進んでいこうとしている。自分の力ではどうにも出来ない“流れ”があるのだという現実を、何故こんなくだらないことで実感しなければいけないのだろう。
「フーゴなら、人の姿を悪用しないだろうしな」
(あ、今のはズルい)
 信頼の言葉を向けられて、嬉しく思うなというのは難しい話だ。フーゴには、黙り込む以外に術はなかった。
「それで、オレ達はどうすればいいんだ?」
 いつの間にか進行役はブチャラティに変わっている。仕事とは全く関係のないことであるはずなのに、リーダーの指示には基本従わねばという“習慣”のような意識が働いて、ますます断り難い状況になっていく。フーゴが溜め息を吐くと、それが実質了承の合図となってしまった。
「近くにいる者同士が入れ替わるから、ブチャラティとフーゴ以外の者は離れていてもらわなければならない。もちろん、人間以外も。猫でも潜んでいたら、ややこしいことになるぞ」
 他の仲間達はしばらく――あるいは今日はもう――戻ってこないはずだ。3人は手分けして“侵入者”――何度か外の木を伝って開いている窓から入り込み、書類に肉球のスタンプを残してくれたことがある――がいないことを確認した。何か問題が発覚してこの話自体なかったことになってくれればというフーゴの願いは叶わず、確認が済むと「それじゃあ始めようか」とポルナレフが告げる。
「ナランチャ、君はここにいてはいけない」
「あ、そっか。どっか出掛けてた方がいいの?」
 除け者にされたように感じたのか、ナランチャは少々不満そうな顔をした。そんなに“当事者”でいたいのなら、いっそ代わって欲しいくらいだとフーゴは心の中で呟いた。
(なんでこんなことになったんだ……)
 ナランチャの質問――不満――に、ポルナレフは否定の仕草で応えた。
「外まで行かなくても、反対側の部屋にでもいてくれれば大丈夫だ。広範囲にまで影響を及ぼせるほどのパワーは、今の私にはないからな。そうだな……、15分経ったら、2人を起こしに来てもらおうかな」
「分かった!」
 役割を与えられたことが嬉しいのか、ナランチャは大きく頷くや否や、部屋を出て行った。フーゴが文句を言うべき――言えそうな――相手は、あっと言う間にいなくなってしまった。
「なんか、すみません。おかしなことに巻き込んでしまって……」
 フーゴがそう言うと、ブチャラティは首を横へ振った。
「言っただろう、構わない、と。なぁ、ポルナレフ」
「私は“実験台”になってくれるというのだから、文句なんて言いようがないさ」
「根に持ってますね……」
 この男、いくつもの死闘を潜り抜けてきたような顔――姿――をしているくせに、案外細かいところで面倒な性格なのかも知れないなとフーゴは思った。
「でもそんなに気軽にスタンド能力を使って大丈夫なんですか? ……もし元に戻ることが出来なかったらとか、そういうことは考えないんですか?」
 動物での実験をしたと言っていたが、動物が「オレがこいつでこいつがオレだ」「今自分の体に戻った」とはっきり宣言してくれるわけがない。フーゴが尋ねると、ブチャラティは今初めてその可能性に気付いたというような顔をした。が、そこに躊躇いが生じることもなく、「食事をしようと思っていた店が休みだったらどうするのか」とでも尋ねられたような、その程度の表情だ。
「フーゴの姿のまま戻れなくなったら? そうだな、その時は16歳になり切って、青春をやり直すかな」
「言っておきますけど、ぼくだってすでに充分踏み外してますからね」
 ブチャラティはくだらない冗談と遣り取りにくつくつと笑うと、ポルナレフの方へ向き直った。
「そろそろ始めようか。ナランチャが待ち切れずに、早く戻ってくるかも知れない」
 それは大いにありそうだ。彼の場合、そもそもカウントダウン開始の時刻を確認しているかどうかも危うい。
「そうだな、始めよう」
 そう告げたポルナレフの背後に、黒い人影が現れる。
「これが、ポルナレフの……」
 その姿をしっかり見ようと思うのに、直後に襲ってきた抗えないほどの強い眠気に、フーゴの意識は“そこ”を離れた。

「おーい、起きろー!」
 子供のようにしか聞こえない声に、フーゴは目を覚ました。
(眠って……いたのか……)
 気が付かない内に、床に倒れていたようだ。それで頭を打って気絶していたというわけではないようだが、ソファにでも座った状態で始めれば良かったなと思いながら両手を支えに起き上がると、大きな瞳がこちらを見ていた。
「時間だぜ。たぶん。少し早いかも知れないけど。でも、もう終わったんだろ?」
 やはりじっと待っていることが出来なかったらしいナランチャがそこにいた。彼はフーゴの姿をまじまじと見ている。そして、彼の向こうには、やはり今目を覚ましたばかりらしい“自分の姿”があった。自分の姿をしているのに、それはフーゴの意識と無関係に、完全に別の固体として動いている。
(ぼくが、2人……? いや……。入れ替わってる……。本当に)
 自分の体を見下ろすと、白地に黒のドットのような模様と、大きなジッパーが特徴的な服装がまず目に入った。鏡を見るまでもなく、断言して良さそうだ。フーゴの精神は今、ブチャラティの肉体の中に――そしてブチャラティの精神は、フーゴの肉体の中に――ある。
「すげぇ。大成功じゃん」
 “入れ替わり”の当事者達よりも先に、ナランチャがその感想を口にする。
「入れ替わってるって、分かるんですか?」
 そう尋ねた声は、自分のそれではなかった。
(なんだかすごく変な感じだ……)
 フーゴの質問に、ナランチャは「うん」と頷いた。
「こっちがフーゴで、こっちがブチャラティだろ? 分かるよ。あっ、体がブチャラティでも、オレの方が年上だからなっ!?」
「それは別にどうでもいいですけど。そんなにすぐに分かるものですか?」
 ナランチャはやはり「うん」と返す。フーゴにはそれが不思議でならない。まだ声を発してすらいなかったというのに。
「どうして?」
「えー? どうしてって……、なんとなく?」
 本当にはっきりした理由はないらしく、ナランチャは首を傾げている。一方フーゴの姿をしたブチャラティは、点検をするように自分の――フーゴの――体を見廻している。やがて彼はおもむろに袖の穴に手を突っ込んで、別の穴から指先を出すという謎の動きをし始めた。何がしたいのだろう。フーゴには分からない。
「これはすごいな」
 フーゴの声でブチャラティが言う。それはポルナレフの能力のことを指しているのか、それともフーゴの服のことを言っているのだろうか――後者の場合、何がどう「すごい」のかは完全に意味不明だが――。
「どうだフーゴ。オレになってみた感想は」
「……変な感じです」
 “自分”が自分以外の言葉を喋っているのも、自分から自分以外の声が出るのも。
「鏡を見ているのとも違うし」
「そうだな。鏡は左右が逆になるからな。そうか、これが他人から見たオレか。自分の後ろ姿を道具も使わずに見るなんて、なかなかないだろうな」
「なかなかというか、普通は無理と言うか……。この状況を利用して、散髪でもしますか?」
「いや、今は伸びていないようだ」
 ブチャラティは立ち上がり、改めて自分と“自分”の姿を交互に眺めた。それに倣ってフーゴも立ち上がる。いつもよりわずかに地面が遠くにある。
「なんだか落ち着かない」
「新しい靴をおろしたばかりの感じに似ているな」
 その程度にしか感じないのはすごいと思う。フーゴがそう言うと、「オレは2回目だから」と返された。
「なんか楽しそー。オレも誰かと入れ替わってみようかなー」
 呑気な様子でナランチャが言う。もしかしたら、彼等はポルナレフの“特訓”ではなく、ナランチャの好奇心の“実験台”――あるいは予行練習――にされたのではないだろうか……。
「残念だが、それはまた今度にしてもらおうか。人間の魂を引きずり出して入れ替えるのは、小さな動物の場合よりもエネルギーを使うようだ。私は少し休ませてもらうよ。何か問題が生じたら、その時は起こしてくれ」
 ポルナレフの声は亀の中から聞こえた。先程はその上半身を“外”に出していたのに。声の様子からは分からないが、本人が言うように、この能力を使うことによって精神力を大幅に消耗してしまったのだろう。遊び半分に力を使わせるべきではないとナランチャに言ってやりたいところだが、今正にそれをしている自分が言うのどうなんだと、フーゴは眉をひそめた。
 3人は亀を水槽に戻し、休息の邪魔にならぬようにと部屋を出た。その間フーゴはずっと――ただしブチャラティと交互に――ナランチャの好奇に満ちた視線が向けられているのを感じていた。ブチャラティの身長になった所為で、その発信源はいつもよりわずかに遠い――低い――位置にある。
「さて」
 ナランチャよりは近い――高い――位置から、本来であれば自分のものであるはずの声が言う。
「なかなか出来ない体験だ。今のところ危険もないようだし、せっかくだから、楽しむといい」
「と言われても何を……」
 一瞬、ブチャラティの視線がナランチャの方を見た……ような気がした。
(今の意味ありげなのは、何……?)
 もしかして、勘付かれているのだろうか。こんなおかしなことをしようと思ったその理由を。ナランチャに慕われているブチャラティが羨ましいと思ったことを。気付いているから、なんの説明も求めずにいるのか。
「オレは出掛けてくる」
「え、どこへ……」
「青春を謳歌しに。……と言いたいところだが、“フーゴの”予定は、これから見廻りだろう?」
 しまった。すっかり忘れていた。時計を見ると、もうそろそろ出ないといけない時間だ。
「それはぼくが」
「いやいや」
 ブチャラティはゆるゆると首を振ると、入り口から見て一番奥に位置する机を指差した。
「“ブチャラティの”仕事は、“あっち”」
 そこには先程ナランチャから預かって置いた書類の封筒がある。そして、その両サイドには、別の書類が山のように積まれている。
 フーゴが口を開こうとすると、それより先に、何も知らない人間が見れば「16歳の少年らしい」と思いそうな笑みを浮かべたブチャラティが、「よろしく」と言い残して素早くドアを開け、外へ出て行った。
「……嵌められた?」
 今なら「あのクソガキめ」なんてセリフを吐くことが可能だろうか。だがフーゴはそうする代わりに長い溜め息を吐いた。他人の姿でいる時に限って厄介事に巻き込まれたらと心配するくらいなら、事務所に篭って仕事でもしている方が良い。そう思うことにして、大人しく山の一番上に置かれた書類を手に取った。同じ心配はブチャラティにも起こりえるはずだが、彼なら大丈夫だと信じる他ないだろう――これがナランチャならそんな悠長なことは言っていられなかっただろうが――。
「仕事すんの?」
 ナランチャが顔を覗き込むようにしながら尋ねてきた。
「ええ。この量はちょっと気の毒でもありますし。少しくらいは手伝っておきます」
 望んだわけではないが、自分がやるはずだった仕事を引き受けてもらった形にもなってしまったし。これで自分だけが何もせずにいるのは、流石に申し訳ない。
「でも、ブチャラティになって、なんかやりたいことがあったんじゃあないの?」
「言ってませんよ、そんなこと」
「遊びに行ったりしないの? 普段行けない場所とか」
「別に」
 ナランチャがどんな場所を想定しているのかは知らないが、そんなことがしたかったわけではない。ただブチャラティの方がナランチャに好いてもらえるかもと思ったなんてことは、言えないだけで。
「じゃあなんのために入れ替わったんだ?」
 そんなのこっちが聞きたい。
「多忙なブチャラティと仕事を変わってあげられたからいいんだ。と、思うことにします」
「リーダー孝行?」
「ええ。ポルナレフにも協力出来たようだし。提案した君の功績ってことにしてもいい。それと、後のこともいいですから、君はもう帰ってください。ぼくはどうせブチャラティが戻らないと体が帰ってこないから、留守番は任せてください」
 もうこれ以上余計なことを考えるのはやめて、仕事に集中しよう。そう、リーダー孝行。結構なことではないか。外を歩けば少なくない確率で近隣のばーさんを始めとする一般人に捕まってしまいがちなブチャラティに自分の姿を貸し、息抜きとして簡単な仕事と代わってやった。それでいい。くだらないことは考えないのが正解だ。
「あ、違う」
 椅子を引いて腰を降ろそうとしたのを、ナランチャの声が妨害した。帰れと言った言葉は、完全に無視された――あるいは忘れられた――ようだ。
「……なに」
「ブチャラティの席はそこじゃあないだろ」
 フーゴは普段自分が使っている席に座ろうとしていた。確かに、ブチャラティの姿がそこにあるのは、見たことがない。
 別にどこに座ったって構わないじゃあないか。それで他の人の席が足りなくなるわけでもない――というよりも、実は元より足りていない。が、デスクワークをしないメンバーがいるために、全ての席が埋まることはまずない――のだから。そう反論してやろうと思ったが、手にした書類の処理には、別の資料を見る必要がありそうだった。それが置かれているのは、ブチャラティの机の上――あるいはその引き出しの中――だ。この書類だけではなく、他にもそういったものが出てくる可能性はある。その度に机の間を行き来するのは馬鹿らしい。
 ナランチャの視線がついてくるのを感じながら、フーゴは一番奥の席に座った。見慣れている場所なのに、いつもと違うアングルで眺めるのがなんだか落ち着かない。これで仕事が捗るだろうか。しかも数秒もしない内に再び駄目出しの声が掛けられる。
「座り方はさぁ、もっと……“こう”した方がブチャラティらしいぜ」
 ナランチャは両手で「こう」と体の向きを指示した。
「足組むならこっちが上な」
「そんなの決まって……? ああ、反対だとゴミ箱を蹴るのか」
「そうそう。書類を持つ手はもう少し高いかなー」
 あくまでもフーゴを「ブチャラティにならせる」つもりであるようだ。頼まれてもいない“演技指導”をしながら、ナランチャは楽しそうだ。
 ブチャラティ孝行が出来て、ポルナレフの実験――もとい特訓――に付き合ってやることも出来た。加えてナランチャが楽しそうだとなれば、くだらない気の迷いも、無駄にはなっていないはず……と思うことは、どうやら出来そうにない。特に3つ目、最後に追加されたナランチャの件は。
「詳しいんですね……、ブチャラティのことに」
 フーゴが知っているブチャラティのことといえば、好きな音楽だとか、嫌いな食べ物だとか、その程度のことだ。それだって親しくもない相手であれば知りえないことではあるだろうが、ナランチャはもっと細かいようなことまでブチャラティを観察して、知っているようだ。それこそ、――意識的に記憶しているのか、それとも自然に覚えてしまったのか、どちらであったとしても――心から慕っていないと出来ないことだろう。
「あとは口調だよな。軽いわけじゃあないんだけど、丁寧ってのともちょっと違う感じで――」
「もういいです」
 本物のブチャラティのことを思い浮かべているのであろうナランチャの言葉を、フーゴは鋭い刃物で切り捨てるように遮った。
「もう、いいですから。良く分かりました。……ぼくはブチャラティにはなれないって」
 これまでの流れでいくと、「諦めるなよ」とでも場違いな励ましの言葉を掛けられるだろうか。
 だがフーゴのその予想は外れた。
「そりゃそうだろ」
 辛辣にすら聞こえるほどの、あっさりとし過ぎる口調。
「マジでブチャラティになりたかったの?」
 フーゴは両の拳を強く握った。
(今の今までそうさせようとしてたのは、君じゃあないか……!)
 ただの暇潰しの遊びのつもりだったのか。「ブチャラティになりたい」なんて、出来もしないことを言うフーゴを笑うためだけに? 「お前はあの人とは全然違う」ということを思い知らせようとでもしていたのか。
「そりゃあブチャラティは強くて優しくてかっこいいけどさぁ」
 フーゴは握った拳で何か――誰か――を傷付けるか、それともその手を開いて自分の耳を覆うべきかを悩んだ。
(聞きたくない)
 ナランチャが他の誰かを賛美する言葉なんて。もうひと言も。
「オレはブチャラティ“みたい”になりたいとは思っても、ブチャラティ“に”なりたいとは思わないかな」
 微妙なニュアンスの違いを含んだ言葉に、フーゴは少しだけ冷静さを取り戻した。
「……それは君が自分に自信を持っているからでは?」
 他人を羨む必要がないくらい容易く自分を肯定することが、きっとナランチャになら出来るのだろう。だからこともなげにそんなことが言える。
「フーゴは持ってないの?」
 その質問に、フーゴは沈黙で答えた。
 ナランチャは手近な椅子を引いて腰を降ろした。フーゴの顔を見ながら、机に肘をついて頬杖をつく。フーゴが何か言うのを待っているつもりなのだろうか。だが待ち切れなくなったのか、結局は自分の方から口を開いた。
「フーゴが自信ないんだとしても、オレ、フーゴはフーゴのままがいいな」
「それは……どういう……?」
 ナランチャはふふっと笑った。
「フーゴのかっこしてても中身がブチャラティだと、それはフーゴじゃあないし、中身がフーゴでも、見た目が違うとやっぱりなんか違うし」
「……じゃあ、もしぼくが完璧にブチャラティになれたとしたら?」
「その場合って、ブチャラティはどうなってんの? フーゴになるの? 完璧に?」
「……いえ、ブチャラティはブチャラティのままで」
 おそらくブチャラティがフーゴになりたいなんて願うはずがないだろうから。
「フーゴはいなくなてブチャラティが2人になるの? なにそれ、変」
 確かに。
「フーゴがいなくなるのは駄目」
 ナランチャはきっぱりと答えた。
「オレはフーゴのままのフーゴが好きだ」
 結局これは、一時的に中途半端な――誰にもなり切れていない――人物を2人作り出すだけのくだらない遊びでしかなかった。だからこそ、ナランチャはそれをやらせたのだろう。それ以上の結果が生まれる――本当にフーゴがフーゴでなくなる――ようであれば、きっと彼はこんなことを発案してはみせなかった。
(結局ぼくがひとりで勝手に迷走していただけか……)
 一気に力が抜けたが、他人の姿でだらしなくしているのは良くないと思い留まり、机に突っ伏すのはやめておいた。ナランチャの言葉に赤くなった顔は、この際バレバレでも仕方ないと思いつつ、悪足掻きのように両手で覆って隠すことにする。案の定、それはあっさり見付かったようだ。
「なんか顔赤くねー? 風邪?」
「この体はブチャラティの物だから体調を崩していたのかどうかはブチャラティに聞かないと分からないけど、たぶん、違うと思います」
 フーゴは何度か咳払いをして――もちろん風邪の症状ではない――、ついでに深呼吸もした。
「ぼくはブチャラティよりも、君“みたい”になることを目指すべきだった」
「オレ?」
 ナランチャは自分の顔を指差しながら首を傾げる。
「そう。君みたいに、素直で、シンプルで――」
「強くてかっこ良くて将来有望で?」
「はいはい」
「じゃあ、今度はオレと入れ替わってみる?」
「いいえ」
 フーゴはすぐさま首を横へ振った。そんなことがしたいわけではない。ナランチャとて、そういう意味での発言ではないと分かっているだろう――たぶん――。
「君を見習おうとは思うけど、君そのものになりたいわけじゃあない」
 どれだけ好きでも、自分を抱き締めるわけにはいかない。
「それに、君にぼくになってほしいわけでもない。ぼくも、君のままの君が好きだから」
 そう言った途端に、ナランチャの表情が固まったように見えた。かと思うと、それは一瞬にして真っ赤に染まった。「なに?」と思ってから、やっと思い出す。
(しまった、ブチャラティの姿で……)
 これではブチャラティがナランチャを口説いているようだ。それでそんな顔をされても嬉しくない。というか、うっかり“その気”になられでもしたら大いに困る。
「あ、その、今のは……」
「もうっ!」
 ナランチャはわずかに怒ったような声を上げた。
「なんでブチャラティの格好でそういうこと言うかなぁ」
 全くだ。
 少し長い前髪の下から、見上げるような視線が向けられる。そして、
「フーゴのままの時に聞きたかったぜ」
「……ごめんなさい」
 思わず謝ってしまった。
 ナランチャはがたんと音を立てて椅子から立ち上がった。怒ってそのまま帰るつもりだろうか。やはりブチャラティの姿を借りたままの状態での謝罪は謝罪としては認められないか。
 しかしナランチャはつかつかと近付いてきた。
「なあ、そのポルナレフのスタンドさ、しばらくほっといたら勝手に元に戻るらしいから」
「『らしい』……」
 そういえば元に戻る時のことは何も聞いていなかった。
「戻ったらさ」
 机に手をついて、ナランチャはぐいっと顔を近付けてきた。
「……はい」
 至近距離に狼狽え、思わず声が少しだけ上擦った。
「戻ったら、ちゅうしよ」
「……はい?」
「だってブチャラティには出来ないし」
 そんな提案をしてもらえるんだったら、ブチャラティになるなんてやめておけば良かった。自分の姿のままでいたら、“それ”は“今”だったのかも知れないのに。
(やっぱりおかしなことは言い出すべきじゃあない)
 身分相応……いや、これは少し違うかも知れない。そもそも肉体を交換した時に使う用の言葉なんてあるだろうか。
 とにかく、もう少し自信というものを持てるように努力しよう。そして今は、とにかく早く戻りたい。フーゴはそう思った。


2019,08,10


関連作品:I Want Say(雪架作)


セツさんがシルバーチャリオッツレクイレムACT2(笑)の使用許可をくださったので有り難くパクらせて拝借させていただきました。
無事元の姿に戻ったフーゴがブチャラティに「オレの姿の時に何かしたか? アバッキオがすごい形相で睨んでくるんだが……」って言われるのは、また別のお話……(笑)。
<利鳴>

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