フーナラ R18 女装


  The Pill


 いつ目が覚めたのか、その自覚がフーゴにはなかった。何分も何十分もぼーっと自室の天井を見ていたような気もするし、たった今眠りから覚めたようにも思える。
 仰向けの姿勢のまま、頭が重いと思った。元より朝に強いタイプであるということはない。それでも、いつもとは違う感覚だ。強い倦怠感。目蓋が重い。体に力が入らない。
 実は前の夜からその前兆はあった。が、気の所為だと思い込もうとしていた。だが今は、誤魔化しがきかないほどにそれは明らかだった。
 喉の痛みはない。鼻での呼吸も問題なく出来る。ただ熱は平均よりも高そうだ。頭の中に靄がかかっているような感覚が、時間が経っても消えない。インフルエンザ……ではない。と思う。そこまでの高熱ではない――と思う――。
 たぶん、ただの風邪だろう。1ヶ月ほど前から急な仕事が多く続いて、慌しくしていたのがやっと終わり、ここへきて気が抜けた所為かも知れない。加えて昨日は天気が悪く、気温も低かった。それで体調を崩した。言ってしまえば、ただそれだけのことだ。
 ぼんやりしたままの頭で、今日の仕事の予定を思い出そうとする。確か、急ぎのものは何もなかったはず。それなら、今日一日は大人しく休んでいた方が良いかも知れない。このくらいなら、さっさと薬を呑んで寝ていれば……。
(風邪薬……なんて、あっただろうか……)
 あったとしても、だいぶ古くなっていそうだ。最近風邪を引いた記憶がないから、新しく買ってはいない。むしろ実家を出てから初めてかも知れない。とりあえず買いに行く気力はない。よく独り暮らしは体調を崩した時が一番こたえるとは聞くが、なるほど、こういうことか。
 もし薬があったとしても、食事もせずに呑むのはまずいだろう。だが食欲はまるでない。医者に注射の一本でも打ってもらえば案外あっさり治るかも知れないが、今日は近くにある病院の定休日だったような気がする。色々とタイミングが悪い日だ。
 「とりあえずリーダーに連絡をしないと」と、ようやく思い付いた。やはり思考能力が鈍くなっている。いつもの彼なら、真っ先にそれを考えているだろうに。いや、そもそも“いつもの彼”なら、朝一番にリーダーに電話しなくてはいけない用事なんてないはずなのだが。
 枕元に置いてあった携帯電話に手を伸ばす。小さなその機械が、妙に重く感じた。いつもの倍近い時間をかけて、ブチャラティの番号を呼び出す。幸いにも、頭に響くコール音はすぐに切れ、「フーゴか、どうした」と尋ねる声が聞こえてきた。名乗る手間が省けたのも大変にありがたい。なにしろフーゴはその電話で何を話したか、後になって思い出すことがほとんど出来なかったくらいなのだから。「風邪を引いた」とは、伝えたように思う。「お大事に」と――あるいはそれに類する言葉を――聞いた記憶もかすかに。スケジュールの確認は、したんだったかしてないんだったか……。
 いつの間にか、彼は携帯電話を握ったまま寝てしまっていた。目覚めた時と同じく、自覚はなかった。気絶というほど大袈裟なものではない。ただ眠くて仕方がなかっただけだ。今の自分が望んでいる――必要としていると言い換えても良い――のは、食事でも医学の力でもなく、眠りだったと、そしてそれに抗おうとしなかったと、ただそれだけのことだ。
 どのくらい眠っていたのか――何時間のようにも、一瞬のようにも思えた――、再び目を覚ました時、フーゴの耳は玄関のドアが開く音を聞いていた。戸締りはしていたと思ったが……。空き巣? 強盗? それともこれは夢だろうか。
 しばらくすると、今度は寝室のドアが開く。そして、
「フーゴ?」
 彼の名を呼んだ声は、ナランチャのものだった。なるほど、彼なら合鍵を渡してある。ではこれは現実か。
「具合悪いって聞いたけど、大丈夫?」
 おそらくそれを聞かせたのはブチャラティだろう。あるいは様子を見てこいとの指示もしたのかも知れない。
 フーゴは手で体を支えながら、上半身を起こした。起き上がれたことに、少しだけほっとする――先程の時点ではそれすら全く出来そうになかった――。眠ったからか、幾分症状が良くなっている気がする。
(やっぱりただの風邪だな。これなら明日には……)
 開いたドアのすぐ内側に、ナランチャが立っていた。が、フーゴは、それを彼だとは一瞬認識出来なかった。やはり思考回路が正常に機能していない。あるいは脳味噌がまだ眠っている。その姿を見て、たっぷり5秒は硬直してしまった。
「……なに、その格好」
 思わず指を差していた。そのことは気にしない様子で、ナランチャは「これ?」と自分の服装を見下ろした。
 彼が着ているのは黒っぽい膝丈のワンピースに、花弁を連想させるような白いひだ付きのエプロンだった。一見するとメイド服のようにも見えるが、頭の上には緑色の十字マークが付いたナースキャップらしき物が乗っている。とりあえず男が着る服ではないのは確かだが、それを着ているナランチャは間違いなく男だ――名前は女性名だが、実はフーゴのファーストネームだってそうだ――。
(なんだってそんな格好を……)
 やはり夢か。それにしてもこんな姿……。これが自身の願望だとでもいうのか。
 いや違う。こんな夢を見る理由に、ひとつだけ心当たりがある。フーゴはその服に見覚えがあった。
 それは、1ヶ月ほど前の出来事だった。

「お前、もうすぐ誕生日なんだって?」
 仕事を終えて帰ろうとしていたフーゴを、外へ通じるドアを開ける直前で呼び止めたのはミスタだった。
「なんですか、急に」
 彼にわざわざ自分の誕生日を教えた記憶はなかったので、何かの資料をたまたま見たかどうかして知ったのだろうとの見当は付いた。
「もうすぐって言っても、来月ですけど」
 一応の肯定の意を返すと、ミスタは「そうかそうか」と頷きながら、小脇に抱えていた包みを差し出した。
「これやるよ」
 会話の流れから察するに、「誕生日のプレゼントに」のつもりなのだろう。だが彼がフーゴに見せたそれは、おそらくその状態で売り場に置かれていたのだろうと思われる透明なビニールの袋に入っているだけで、包装もされていない。お陰で「なんですか」と尋ねるまでもなく、パッケージの文字が視界に飛び込んできた。
『コスプレ衣装・ナースVer』
 その横に、妙に化粧の濃い着用モデルの写真もあった。
 フーゴは軽蔑の眼差しでミスタを見た。
「待て待て、誤解するな。お前に着ろと言ってるんじゃあない」
「そう、ソレハヨカッタ」
 だぶん、酔った勢いか何かで――着る人間もいないのに面白いと思って――買ってしまったのだろう。だからと言ってその処分を押し付けないでほしい。ミスタの部屋にゴミ箱がひとつもないなんてわけでもあるまいし。
 だが、ミスタは何故か上機嫌そうな顔をしている。まだ“面白い”と思っているのか、あるいは今現在酔っ払っている?――アルコールのにおいはしないようだが――。
「いいか? これはな、お前の誕生日のプレゼントであって、お前へのプレゼントではない!」
「わけが分かりません。もう帰ってもいいですか。ここ寒いんですけど」
「待てって! これはナランチャに着せるための物だ!」
「…………はぁッ!?」
 フーゴは露骨に表情を歪めた。それに対してミスタは、ますます笑みを見せる。
「お前はよぉ、ちょっと真面目過ぎると思うんだよなぁ、うん」
「不真面目なのよりはいいと思いますが」
 その見本が目の前にいるとでも言いたげな眼差しで睨んでやったが、気付いているのかいないのか、ミスタはべらべらと喋り続ける。
「おにーさんは心配してやってんだぜぇ? やっぱ、遊び心ってやつは大事だよ、うん」
「意味が分かりません」
「ナース服って言っても、イタリアの色気のないやつじゃあないぜ。どっちかってーと、メイド服に近い。エプロンドレスって言うのか? ああいうやつだ。女物だがナランチャなら着られるだろ。あいつほせーし。丈は膝くらいだな。あんまり長いのより、そっちの方があいつには似合うと思うぜ」
「誰が説明を求めたッ! なんでこんなものっ……」
「お前等、付き合ってるんだろ?」
「……は?」
 フーゴは一瞬硬直していた。その直後に、一気に顔が熱くなっていった。季節は冬。イタリアの南部に位置しているこの街でも、充分に寒い――しかもここは温かい室内ではなく、玄関だ――というのに……。
 フーゴとナランチャがお互いを好き合っていることは、特別隠そうとはしてこなかったが、吹聴するようなこともしていない。それがチームに入ってまだそれほど長くはないミスタの目にも明らかだったとは……。人目を憚らずべたべたしていたつもりもないのだが、自覚がないだけで、ひょっとして……? 今までブチャラティやアバッキオに何か言われたことはなかった。ミスタが2人よりも鋭いのか、あるいは2人が大人の対応として黙っていてくれただけなのか……。
(ど、どうしよう……!?)
 こんな時、どんな顔をすれば良いのだろう。フーゴには、こういった話題に対する耐性がほぼない。年齢相応の生活を送ってきていないのがその理由だ。幼い頃から大人達に混ぜられて、思春期の少年なら誰もが一度は振られたことのあるだろう恋愛話や下ネタに接する機会が皆無に近かった。と言っても、フーゴが“そのような”知識に疎いというわけではない。彼は様々な本を読んで、己の知識を増やしてきていた。その中には望んだわけでもないのに勝手に増えていったものもある。だが、どの本にも年上の後輩からずばり同性の少年――ただしこちらも年上――と恋仲であることを指摘された上で仮装染みたナース服を押し付けられそうになった時の対処法は書かれていなかった――当たり前だ――。
「一歩踏み出すには、なんか切欠が必要だと思うわけよ。人生の先輩からの親切心ってやつだな。そもそも、学生時代に皆とわいわい、聞きかじった程度の性知識を付け焼刃のそれとはバレないように虚勢張りながら披露したり、自分の経験回数を2倍にも3倍にもサバ読みして自慢しあったり、そんな青春時代を知らずに過ごしてきたなんて、なんとも可哀想じゃあねーか!」
「余計なお世話ですッ! そんな薄汚れた青春クソ喰らえだ!!」
「だがなフーゴ、お前達はまだやり直せる! 今からでも青春を謳歌すべきだとオレは思うぜ!」
「ちょっと一回黙れ!!」
 そもそもその思考とナース服がどう結び付くのだ。どんな切欠だ。
「真面目な話、お前、相手が男だからって、なんだかんだで躊躇ってるんじゃあないのか?」
「は?」
「そこでだ、幸いにもナランチャの見た目は“ああ”だし」
「あ?」
「女の格好でもさせちまえば、まず男には見えねーだろ」
「おい待て。お前ナランチャをどういう目で見てる。返答次第では殺すぞ」
「後は盛り上がっちまえばなんとかなるって!!」
「先輩面したわりにクソみたいなアドバイスだな!?」
「あ、誤解すんなよ? 女だったとしても、ナランチャはオレの好みとはかけ離れてる。スタイルはもっといい方がいいし、髪は長いのが好きだし、ちょっと派手なくらいのブロンドがいいなぁ。あ、でも東洋系もちょっと捨て難いよなぁ」
「ああそうそれは良かった!」
「あっ!? 待てよ、お前もしかして童貞か!?」
「はあぁぁッ!?」
「そうか、いきなりは自信ないよなぁ」
「言ってない!!」
「最初はプロに任せるってのもいいかもな。よし、おにーさんがいい店を紹介してやろう」
「話を聞けッ!!」
「よし聞こう」
 しまったと思ったが遅かった。ミスタはにやりと笑った。
 フーゴは深い溜め息を吐いた。そしてたっぷり5秒は黙ってから、ようやく口を開いた。
「……ぼくと、ナランチャは……、あんたが思っているような関係じゃあありません」
 言ってから、これでは意味が正確には伝わらないと気付いた。むしろ真逆の解釈をされそうだ。案の定、ミスタは「は?」と間の抜けた声を出した。
「付き合ってないだと!? 嘘だろ!? だってお前等、一緒に帰って次の日一緒に出てきてること何度もあったろ!? まさか曖昧な関係のまま!? お前こそ不真面目じゃあねーかっ! いや、そういうのは不誠実っつーんだぜ!」
「だから聞けって! ああもうッ、なんでこんな話……。だからっ、つまり、その……、ぼく達は“まだ”じゃあない」
「へっ?」
 ミスタはおかしな顔をした。
「……“もう”?」
 フーゴは視線を逸らして頷きを返す。
「ヤったのか」
 自分の顔が真っ赤になっていることを自覚しながら再度頷く。
「なぁんだ」
 何故かミスタは安堵したような顔をした。
「そーかそーか。そーゆーことなら……。しかしそれでその反応ってのも……。もしかして、“しくじった”のか? あんまり深く気にしない方がいいぜぇ。トラウマにでもなったら大変だ」
「なんですぐ話を飛躍させるんだッ」
「じゃあ“ちゃんと”“できた”んだな?」
 フーゴは熱の引かぬ顔を背けて両の拳を強く握った。ミスタはそれを肯定と解釈したようだ――今度は正しく伝わったようだ――。
「おーおー、真っ赤になっちゃって。なんだかんだでまだ子供だよなぁ。可愛い可愛い。で? どーだったあぁぁぁ?」
 にやにやと笑う顔が近付いてくる。赤面しながらでは迫力に欠けていることは承知で、フーゴはそれを睨み付けた。
「いい加減怒りますよッ」
 一発くらい殴っておこうか。生身でなら――スタンドを使わなければ――許されるのではないだろうか。しかしミスタは「はいはい」と軽くあしらいながら、顔の位置を元の距離に戻した。
「ったく、なんですかこれ……。恥ずかしい性癖をカミングアウトさせられてる気分だ」
「え、なに、お前そんなのあんの?」
 フーゴは空気が音を立てそうなほどにミスタを睨んだ。無意識の内にその背後にスタンドのヴィジョンを出現させていなかっただけ、ミスタには感謝していただきたい。
「冗談だよ、じょーだんっ」
 少し深く息を吸うと、やっと空気の冷たさをわずかに感じることが出来た。それでもまだ、顔の熱は引き切っていない。心臓の鼓動も平常時より早い。
「お前やっぱり少しお堅いんじゃあねーの?」
 俯き加減の顔をミスタが覗き込もうとしてきた。
「……ぼくだけのことじゃあないんだ。勝手に吹聴したら、悪いだろ。……ナランチャに」
 自分が笑い者にされるだけなら別に良い――拳のひとつやふたつは向けるかも知れないが――。だが、生きることの喜びを教えてくれたあの少年の眩いばかりの笑顔が悲しみに歪むようなことは、誰にも許したくはない。
 知らず知らずの内に真剣な面持ちをしているフーゴを見て、ミスタは「あらら、ホントに真面目」と呟いた。
 結局真新しいナース服はその場で突き返した。ついでにミスタをドアから蹴り出し、鍵を掛けて締め出した。帰ろうと思っていたところだが、もう数十分かけて書類の整理をして行くことは、すでにフーゴの中で決定事項となっていた。ミスタが自室の鍵も財布も全て事務所の机の上に置きっぱなしであることにはとっくに気付いていたが、それを外に出してやるつもりも、逆に持ち主を中に入れてやるつもりも微塵も湧かなかった。外は寒いだろうが、可哀想とも思わない。
(むしろ風邪引け!)

 それが、先月のこと。
 実際に風邪を引いたのはフーゴの方だったということか。いや、あれからしばらく日数が経過しているから、関連はないだろうが。
(そんなことより、なんでナランチャがその格好で!? これは夢!?)
 フーゴは間違いなくあれを受け取ってはいない。触れてすらいない。ナランチャに渡せるわけもない。となれば、それをした人物は、ひとりしかいないだろう。
「看病するなら、これが正装だって、ミスタが」
 ナランチャはこともなげに答えた。
「やっぱりあいつか!!」
 頭の中ににやにや笑うミスタの顔が浮かび上がる。ナランチャに余計なこと――フーゴがした話の裏付けを取るだとか、要らん“アドバイス”だとか――を喋っていないと良いが……。
「これ着てったら、フーゴ元気になるって。元気になった?」
(人が弱ってる時にあの男はッ。ぼくになんの恨みが!? 後輩いびりなんてしてないぞ!?)
 小一時間寒空の下に放置したのを根に持っているのだろうか。なんて心の狭い男だ。
 いつの間にかナランチャは、ベッドの横まで近付いてきていた。彼は心配そうな眼差しを向けてきている。それはありがたいのだが、おかしな服装の所為で視線をどこに留めて良いのか分からない。
「薬は?」
 呑んだのか、と、ナランチャが首を斜めにする。フーゴは否定の仕草で答えた。頭を振ると、わずかに鈍い痛みがあった。
「呑まないと」
「食事、食べてないから」
「駄目なの?」
「空腹時はやめた方がいい」
「へぇ」
 本物の看護師がそんなことも知らなかったら大問題だなと、どうでも良いことを思っていると、その看護師モドキが手に提げていた紙袋から真っ赤なリンゴを取り出した。
「切ってやるよ」
 病人にリンゴ。ベタだが、そのくらいなら食べられそうな気がしないでもない。薬を食後に呑むことも知らない彼にしては適切な選択と言えるだろう。おそらく誰かからのアドバイスだ――たぶん、リンゴ嫌いのブチャラティ以外からの――。
 ナランチャはナイフを取り出し、早速リンゴに当てようとする。
「待って」
「何?」
「そのナイフ……」
「オレのだよ?」
 つまり、普段から持ち歩いている戦闘用――新調したという話は聞いていないので、おそらく使用済み――。
「キッチンに果物ナイフあるから! 人切ったやつやめろ!」
「えー、細かいなぁ」
 ナランチャはぼやきながらもキッチンに向かった。その後姿を見送り、フーゴは溜め息を吐く。なんだか余計に疲れた気がする。
 数分もすると、ナランチャはカットしたリンゴをちゃんと皿に乗せて、フォークまでつけて運んできた。指でも切っていないかと心配したが、大丈夫なようだ。運ばれてきたリンゴは、食べ易い一口大に切られていた。これも誰かからの助言だろうか。
 フーゴが皿を受け取ると、ナランチャはベッドの横にしゃがみ込んだ。
「それ食べたら薬呑めるんだよな?」
「でも、たぶん薬なんて置いてないです」
「オレ持ってきた」
「ほんとに?」
 ナランチャはリンゴが入っていた紙袋に手を突っ込み、そこから取っ手付きの小さな白い箱を取り出した。前面の中心に彼が被っているキャップに付いているのと同じマークが入っているのが見える。事務所に置いてある救急箱だとはすぐに気付いた。
「ミスタが持って行けって」
 ではそれもこの衣装の一部か。しかし見せ掛けだけではなく、中身も入れられたままであるようだ。事務所の方で今正に怪我人でも出ていたら困ることになるなと少し思った。
「えーっと、何使ったらいいんだ? なんか色々あるぜ。胃薬、目薬、解熱剤……これかな? 鼻炎薬、塗り薬、あ、座薬?」
 口に含んでいたリンゴを噴き出しそうになった。ほんの数秒前までは薬を持たせてくれたミスタに少しだけ感謝しようと思っていたが、撤回だ。
「自分で選びますっ!」
 フーゴはナランチャの手から箱を取り上げた。
 時々使っているはず――主に任務中に受けた病院にかかるほどではない軽い負傷の手当てに――のそれは、記憶にあるのよりも重たかった。中身が増えているようだ。本当に必要と思ってか、それともただの悪ふざけでか、誰か――見当は付く――が足したのだろう。
 2段になっている箱の上段に、総合風邪薬があった。一応確認してみたが、使用期限は切れていない。
「これでいいかな」
 開封して、瓶から小さな白い錠剤を取り出す。パッケージには『16歳以上、1日3回、1回3錠』と書いてあった。少し前に誕生日が来て今は16歳だが、その前だったら呑めなかったのか。そんなことよりも呑む量が多いのが面倒臭いな。そう思っていると、リンゴの皿を片付けたナランチャが、水を入れたコップを持ってきてくれた。
「あ、どうも」
「うん」
 フーゴが薬を呑み終わり、空のコップも片付けてしまうと、ナランチャは再び先程の位置にしゃがみ込む。他にも用事を言い付けられるのを待っているようだ。真っ直ぐ向けられる視線が、なんだか落ち着かない。それでも、薬が効いてきたのか、30分もしない内に眠たくなってきた。目蓋を開けているのが辛い。
「すみません、少し、寝てもいいですか?」
「うん」
 ナランチャは「もちろん」と言うように頷いた。
「あ、そうだ。これも」
 そう言って彼は、救急箱の中から冷却シートを取り出した。
「それも、ミスタが?」
「入ってたから、たぶんそう」
 まったく、余計なオプションを付けなければ、素直に感謝するのに。早速それを額に貼って、再び横になった。次第次第に眠気が強くなってゆく。「もう帰っていいですよ」と言うのを忘れたなと思った時には、もうその意識はほぼ完全にフーゴの手から離れていた。

 目が覚めると、窓の向こうの空はオレンジ色に染まっていた。この季節の日没はまだ早いとは言っても、決して短くはない時間眠っていたようだ。その所為か、薬が効いているのか――あるいはその両方か――、体調はだいぶ良くなったようだ。今が朝なら、これから仕事へ向かおうかと思えるほどだ。
(それにしてもおかしな夢を見た……)
 そう思おうとしたのに、ベッドの傍らには相変わらずおかしな姿をしたままのナランチャがいた。ああ、夢じゃあなかった……。
「改めて、なんなんですか、その格好」
 ベッドから上体を起こしながら尋ねた。ナランチャは「だから看病だってば」と答える。やはり夢ではないようだ。
「仕事はどうしたんです」
「ブチャラティに許可はもらったぜ」
「じゃあ今日2人も休んでるんですか」
「あと、ミスタは遠出」
「明らかに人手不足じゃあないですか」
 そんな状況なのに、わざわざ来てくれたのか。ありがたいが、同時に申し訳なくもある。それとも、ブチャラティはナランチャがフーゴの様子を少し見ただけですぐ戻ってくると考えていたのだろうか。
(うわ、ありそうだ……)
 今更帰したところで、きっと遅いだろう。ナランチャはそんなことは気にもしていない様子だ。
「なんか食べたいものある? あれば、買ってくるけど」
 散歩に連れて行ってもらえるのを待つ仔犬のような目で見上げてくる。流石に衣装に合わせてメイクもしているなんてことまではないようだが、素で長い睫毛が瞬きの度に震えるように揺れた。両手はベッドの淵を軽く掴んでいる。
「とりあえず、その格好なんとかしませんか」
 フーゴがそう言うと、ナランチャは立ち上がり、改めて自分の服装を見下ろした。
「着方間違ってる?」
「そうじゃあなくて」
「あ、背中縦結びになってる?」
「だからそうじゃあないっ。おかしな格好はやめろって言ってるの」
「そんなにおかしい?」
 ある意味ではおかしいし、別の意味ではおかしくない。だがおかしくないところがまたおかしい――ややこしい――。女物の服を平然と着ているところはまずおかしいのだが、それが似合ってしまっているところがまた普通ではない。と言っても、仕草や喋り方は全く女らしくはない。本人がそうしようとしていない――性別を偽るつもりではない――のだから、当然と言えば当然かも知れない。全体的に雑というか、ガサツというか……。どうしても纏う空気が少年のそれでしかないのだ。潜入調査のために女のフリをしろという任務が与えられたとしても、きっとすぐにバレてしまう。が、逆に言えば、そういった細かな部分まできっちり教え込めば、誰も彼を男だとは疑わないかも知れない。少し低めの身長、細い肩、伸び気味の髪、ついでに、外見の話ではなくなってしまうが、声変わり前かとすら思える高い声。じっとしていたら……――例えば、椅子に座らせて、きちんと脚を閉じさせて、その上に両手も重ねて置いたら……――ただ微笑みを見せるだけの人形のように振舞っていたら、きっと彼を美少女と呼ぶことに躊躇いを持つ者はいない――よほど特殊な美的センスの持ち主でもない限りは――。そこまでしなくとも、街中でちょっとすれ違う程度なら……? あっと言う間に美しい女性には声を掛けるのが礼儀だと思っているイタリア男の標的になりそうだ。あるいは、もっとヤバいタイプの男に目を付けられる可能性だってある。
(危なくて外になんて出せないな……)
 早めに着替えさせておいた方が良さそうだと思ったのに、
「あ、そもそも着替え持ってきてないや」
「じゃあその格好で外歩いてきたの!?」
 今出せないと思ったばかりだというのに。もしフーゴが買い物でも頼んでいたら、その格好のまま行くつもりだったのか。
「やめて」
 女だと思った痴漢に襲われることはなくても、知り合いにでも見られたら面倒なことにしかならなさそうだ――いや、来る時にすでに見られているかも――。ましてや、フーゴの部屋から出て行くところ――あるいはフーゴの部屋に入っていくところ――なんて見られたら……。どうかここへ来るまでの間に、ナランチャが誰とも会っていませんように。
「買い物はいいです。だから、ここにいて」
 フーゴがそう言うと、ナランチャは何故か嬉しそうな顔で「うん!」と答えた。何故そんな表情を……。何か誤解している? だが、それを考えられるほど、フーゴの頭はまだクリアになっていないようだ。
 ここにいろとは言ったが、時刻はもう夕方だ。今はだいぶ動けるようになったと思えるし、ナランチャには帰ってもらった方が良いかも知れない。風邪は治りかけが一番感染し易いと聞いたこともあるし――すでに数時間同じ部屋にいて、今更かも知れないが――。
 貸せるような服があっただろうかと考えていると、ナランチャはまだ己の姿のどこがおかしいのかといぶかしんでいる。裾を持ち上げたり、背中側の様子をなんとかして見ようと体を捻る度にスカートの裾がふわりと広がる。内何度かはその中身まで見えそうになった。
「ナランチャっ」
「なに?」
「大人しくしててっ」
「え? なに? オレなんかした?」
 自覚がないというのはひどく厄介なのだなとフーゴは思い知った――自覚していてわざとやっているならもっと悪いが――。
「ああもうっ、熱が上がった気がする」
「マジで!?」
 ナランチャはいきなりがばっと身を乗り出してきた。ベッドに乗り上げ、フーゴの脚を跨ぐような姿勢。そのまま顔と手を近付けてきた。
「なっ……」
 額にはまだ冷却シートが貼ったままになっているからだろう。ナランチャは熱を確かめるために、フーゴの頬に触れた。今更冗談だと言い出せない雰囲気だ。いや、言いたくない? それなのに、彼の顔を直視することが出来ない。頭がぐるぐるする。本当に熱が上がってきたのかも知れない。
「ほんとだ。熱い」
 ナランチャもそう言った。だがそれはたぶん風邪の所為ではない。
「薬が足りないのかなぁ。もっと呑む?」
「そういうものじゃあない」
 もちろん薬のパッケージには『用法用量を守って』の文字が書かれているはずだ――が、よく考えれば、もう一度呑んでも問題ない程度の時間は経過していたのだろうが――。
「どうしたらいい?」
「うつったら困るから、帰ってください。着れそうな服探すから」
 ベッドから降りたかったが、ナランチャがどいてくれない。しかも彼は、首を横へ振った。
「やだ。まだ熱あるんだろ? ほうってなんて帰れない」
 彼は彼なりに一生懸命なのだろう。少しでも何か出来るなら、と。だからあっさりミスタにも騙される。フーゴのために。
 一瞬、心臓を軽く掴まれたような錯覚に襲われた。
(なんか……、ヤバい)
 すっかり眠気が覚めたと思ったら、今度は別の欲求が高まってきた。顔が近いのもいけない。
(どうしよう……)
 上体を支えている手を、ナランチャの腰に伸ばしたくて仕方ない。それにキスもしたい。だがまずいだろうか。まだ完治したとは言い切れない状況でそんなことをしたら、いよいようつしてしまうか? それに、キスだけで終われる気もしない。ナランチャはあくまでも真剣に心配してくれているが故に手を伸ばしてきた――のだろう――が、自分から触れてしまったら、きっと“先”までしたくなる。
 なんとかしてこの状況から脱しなければ。そう考えていると、
「……フーゴ」
 小さな声で、ナランチャが呼ぶ。その顔がわずかに赤みを帯びているように見えたのは夕陽の所為か。しかし、
「オレ、フーゴとキスしたい」
 そう言った2秒後には、2つの唇は重なり合っていた。それを自覚した時には、もう治っていないだとか、うつるだとか、そんなことは考えられなくなっていた。
 2人が離れた時、濡れた大きな2つの瞳がフーゴを真っ直ぐ見詰めていた。かと思うと、その視線が視界の外へと急に外れた。ナランチャは両腕を伸ばし、フーゴの肩に顔を埋めるように抱き付いてきた。囁くような声が間近で鳴る。
「もっとしたい。フーゴと……えっちしたい」
 心臓が大きく跳ねた。その音にかき消されそうなほど小さな声が更に言う。
「無理?」
 “それ”を望むか望まないかではなく、可能か不可能かを問われ、本心を見透かされているような気分になった。
「……今朝起きた時よりは、体調はだいぶ良くなりました」
 医者に容態を尋ねられた時のように答えることしか出来なかった。だが実際には、むしろ発熱時特有の謎のハイテンションになっている可能性も否定出来ない。病み上がりに何を考えているんだと、他人になら言っただろう。だが、囁くような声にも、肩に廻された腕にも、毛布越しの体重にも、抗うことは難しそうだ。それでもフーゴの口を開かせたのは、辛うじて残されていた理性だった。
「でも、ゴムないから……」
「あ、あるわ」
「は?」
「救急箱に入ってた」
 もちろんそんな物、事務所の常備薬のリストに入れたこと等一度もない。
(ミスタアアァァァッ!!)
 フーゴは心の中で叫んだ。
 ナランチャはベッドの下へ手を伸ばして、そこに置いてあった救急箱を持ち上げた。先程フーゴが確認しようともしなかった下の段から取り出されたのは、確かにコンドームだった。
「あと、“これ”も」
 もう一方の手が、ローションの容器を取り出していた。そんな物まで入っていたとは――道理で重いはずだ――。
(あの帽子野郎ッ!!)
 改めてナランチャの顔が近付いてきた。
「じゃあ、いい?」
「……うつりますよ」
「いいよ。うつしたら治るって聞いたことあるし」
「デマです、そんなの」
「でも、うつったらフーゴが看病してくれるだろ?」
 フーゴは諦めに似た溜め息を吐いた。
「その服は着ませんからね」
 本当にそれが正装だと信じられていたら困る。
 ナランチャはぷっと噴き出した。
「こーゆーの嫌い?」
 それは着られるのが、だろうか。それとも今の会話の流れで着るのが、だろうか。後者なら迷わず全力で答えるのだが。前者であったとしたら、散々おかしな格好だと否定してきた手前、今は少し悪くないと思ってるとは絶対言いたくない。
 ナランチャは笑っている。言っていないはずの声を聞かれたかのようで、おもしろくない。くすくすと笑うその声を黙らせるために、フーゴはもう一度唇を押し当てた。そのまま抱き寄せるように、背中へと手を伸ばす。エプロンのリボン――実は縦結びになっていることにはかなり早い段階で気付いていた――を引っ張って解く。……で、その後は?
「この服、どうやって脱がせるの?」
 ボタンか? ジッパーか? 前か? 後ろか? それともサイド?
「ああ、えっとね、なんか金具が……。あーもう、めんどくさいっ」
 その口調から、着る時にも苦戦したのだろうなと思った。もしかして誰かが手を貸した? どうしよう。問い詰めようか。“終わってから”にしようか。
 ナランチャはスカートの裾に手を突っ込んだ。かと思うと、中から下着――流石にそれは女物ではないようだ――を抜き取って、投げ捨てた。裾に隠れて、素肌は全く見えない。だがそれが逆に扇情的に思えた。
 ローションの容器――未開封だった――を開けて、フーゴは中の液体を自分の手の平の上に出した。改めて圧し掛かってきたナランチャの服の中に、今度はフーゴの手が侵入する。見えないまま、手探りで肌を辿り、小さな窄まりへと指が行き着く。くすぐったがるように、ナランチャは身を捩った。
「指、入れますよ」
「うん。入れて」
 だいぶ抵抗があるかと予想したが、思いの他すんなりと受け入れられて拍子抜けする。あっと言う間に2本目も入ってしまう。ローションのお陰で摩擦は減っているが、
「なんでこんなに解れてるの」
 そう尋ねた時、ナランチャはフーゴの寝間着の襟元に顔面を埋めるような姿勢でいた。お陰で、その表情は見えない。が、笑う声が聞こえた。
「秘密」
「ぼくが寝てる間、ひとりで何してた?」
「ヒミツ」
 ナランチャはふふふと笑った。
(人が寝込んでるって時に、どいつもこいつも……)
 フーゴ自身も。
 更に指をもう1本増やして――流石に少しきつかった――、フーゴは丁寧に慣らしていった。すでにナランチャが自分でそこに触れていたのだとしたら――きっとそうなのだろう――そろそろ焦れてくる頃か。その証明のように、スカートの一部――前――が不自然な形に膨らんでいる。空いている方の手で触れると、細い肩がびくんと跳ねた。服の裏地のすべすべした感触越しに、彼の温度を感じる。小さく呻くような声と一緒に吐き出された息も熱かった。熱が引き切っていない――かも知れない――フーゴと、良い勝負か、それとも、本当にうつったか。
 一度手を離し、寝間着のズボンと下着を下ろした――ついでにぬるくなっている額の冷却シートも剥がす――。フーゴの中心部もすでに形を作っている。先程救急箱から取り出されたコンドームを取ろうとすると、ナランチャの手が先に伸びた。
「貸して」
 手を差し出したが、首を横に振られた。
「オレがする。じっとしてて」
 そう宣言すると、細い指が袋を開けた。慣れた手付き……とまではいかないが、爪で傷を付けないように扱わなければならないことはもう覚えたようだ。裏表を確認すると、ナランチャはフーゴの勃ち上がった器官に手を添えた。
 フーゴの背中を、ぞくぞくとした感触が走り抜けた。発熱による悪寒ではない。
 “最初”は、ナランチャは何も知らなかった。コンドームの使い方も、中を指で慣らすことも、ローションを使った方が良いことも――だがローションはそういえば未開封のままだった。自分の部屋ではない場所で使って零した時のこと等を考え、遠慮したのか――。彼が覚えたのはそれだけではない。どうしたら自分が気持ち良くなれるか、また、どうしたらフーゴもそうなれるか。全部教えた。
(ぼくが、ナランチャに)
 彼はちゃんと覚えてくれた。きっと女らしく振舞う方法も、必要になって教えられれば身に付けられるのだろう。
(だから、教えない)
 そんな能力が必要な任務がきても、うちには適任者がいないからと他へ廻してもらおう。任務の最中にうっかり良からぬことを企てる輩に出くわしでもしたら困る。
(ぼくだけのものだ)
 誰にも奪われたくない。
(ぼくだけの可愛いナランチャ)
「できたっ」
 薄いゴムの膜をフーゴの陰茎に装着させ終えると、ナランチャは無邪気な子供のような表情を見せた。空になった袋は、ベッドの外に投げ捨てられた――後で拾ってゴミ箱に入れねば――。やはりガサツだ。
 続いてナランチャは、ローションの容器を傾けた。屹立を保ったままの熱塊を濡らすそれは、西日を受けててらてらと光った。
 さて、そろそろと思っても、相変わらず裾に隠れて何も見えない。面倒でもやはり脱がせるべきかと思っていると、やはり「どうしようか」と考えていたようであるナランチャが、不意に何か思い付いたような顔になり、かと思うと、腰を浮かせて体の位置を動かした。ナランチャの手が伸びてきて、フーゴの中心部に触れる。彼はそれを自身の双丘の合間へと導いた。触れた先端が、少しずつ中へと入り込んでゆく。
「んっ……。フーゴの、あつい……」
「まだ、少し熱あるから……」
 それの自覚が出来ているというのに、こんなこと。自分は馬鹿じゃあないだろうか。馬鹿は風邪を引かないと言うが、あれは嘘であるようだ。あるいはさっき呑んだ薬が、まさか風邪薬ではなくもっと別の作用をもたらす物だった。なんてことはないだろうな……?
(いくらミスタでもそこまでは……)
 薬の瓶は開いていなかったはずだし……。
 生命の危機を感じると、子孫を残そうという生き物としての本能が強く働き、性的な欲求が高まる。なんて話も聞くが、今のこの場合はそんな大袈裟な話ではない。そこまでの高熱は出ていない。ただの風邪だ。そのただの風邪に構っていられないほどに、ただ、その少年が欲しいだけ。
 赤い頬。少し濡れた瞳。短く漏れる声と呼吸の音。全てがひどく愛おしい。女らしさはないと言ったが、今は女以上だと思う。
 せっかく下がりかけた熱が、また上がってしまうだろうかという危惧はあった。2日連続で休むことになるのはちょっとまずいな、とも。が、どうなってもいいと、すぐに考えを改める。先のことは後で考えよう。どっちみち、もう間もなく目の前にいる愛しい者のこと以外、何も考えられなくなるのだから。いや、もうすでにそうなっているのかも知れない。

 翌日――意外にもというべきか――、フーゴの熱は見事に引いた。汗をかいたから? あの説も根拠があるんだったかないんだったか……。
 が、代わりのように――こちらは案の定――ナランチャが熱を出して動けなくなった。本当にうつして治してしまった。入れ替わりのように治ったのは、ただの偶然だとは思う――信じたい――が。
 今日一日休みたいとの連絡に、リーダーは「風邪が流行ってるのか」と独り言のように呟いた。超局地的に流行っているというか、流行らせたというか……。
『症状は?』
「熱が」
 フーゴと同じである。
「あとは、関節痛というか……」
 関節というか、腰というか……。
『そうか。大事にするように』
「ええ、伝えます」
 電話を切ってから、こんなに朝早く――昨日よりも更に早い――ナランチャ本人ではなくフーゴが電話をかけるなんて、昨夜一緒にいましたと声高らかに宣言するようなものだと気付いた。間違いなくフーゴがうつしたと思われるだろう。否定は出来ない。
 寝室に戻ると、ナランチャは眠っているようだった。何か食べさせて薬を呑ませるべきかと思ったが、眠っているのを起こすのも可哀想だ。
 熱に浮かされ、頬を赤く染めている様を見ていると、不意に性行為の最中の姿を思い出してしまった。
(人が弱ってる時に、ぼくは何を考えているんだッ)
 だが、昨日のナランチャも、ひょっとして同じことを……? と、一瞬思った――フーゴが寝ている間に、彼はひとりで……――。
 とりあえず、このまま眺めているのは良くない。いっそ、少し外出してこようか。ナランチャが好きそうな果物か何かを買って、薬……はまだ昨日のが残っているが、そのまま使って大丈夫だろうか――何か他の薬であった可能性は、完全に捨ててしまっても良いものか……――。あとは何が必要か。あの服――今は洗濯機の中に放り込まれている――は絶対に着ないぞ――サイズの問題がなくても――。他に見舞いと言ったら……。
(花……とか?)
 だが見舞いの花を自分の部屋に飾るというのもおかしな話だ。それに、ナランチャはあまり喜ばないかも知れない。似合うようにも思わない。ナランチャと花、というイメージがないのだ。だが、エプロンドレスが似合う美少女と花なら……?
 フーゴはぶんぶんと頭を振った――もう頭痛はしなかった――。とりあえず、買い物に出よう。ついでにナランチャのアパートによって、彼の服を取ってくる。やっぱり薬も新しく買おう。その後はナランチャの容態次第ではあるが、今日も仕事をサボるというわけにはいかないだろう。事務所にミスタがいたら、少し面倒なことになるかも知れない。きっと――いや、絶対――からかってこようとする。
(どうやってかわそう……。いや、その前にとりあえず食べる物と薬……。あと着替え……。仕事は何をしないといけないんだっけ?)
 病み上がりの頭で、考えなければならないことは山のようにあるようだ。


2018,01,10


関連作品:Guancia Cadere(雪架作)


DrugとPillをそれぞれテーマに共同企画やろうぜ! という話だったのに、薬要素少なッ!!
そもそも薬=看病ネタくらいしか思い付かなくて……。
そして気付いたらいつの間にか女装ネタもぶち込むことになってて、そっちが楽しくなってしまいました。
まだまだ寒い季節が続くかと思いますので、みなさま風邪にはお気を付けくださいませ。
年明け早々インフルで寝込んだわたしが言うなって話ですが。
<利鳴>

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