ジャイジョニ 全年齢 幼児化

関連作品:Like a Star(利鳴作)


  Little Son


 日の暮れ始めた細道をジョニィ・ジョースターは愛馬で移動していた。
 ひたすらに1本道でもう丸一日は馬を走らせている――と言っても余りスピードは出していない――が見事に何も無い。
 自動車ならば2台も並べない細道の左右は切り立った崖。横から飛び出す者が無いだけでなく、誰とも擦れ違わないし追い抜かれない。
 だから今右隣で、ほぼ同じ速度で馬を駆るジャイロ・ツェペリと2人きりと言える。
 互いの愛馬はカウントしない。馬が見ているからと抱擁や接吻を我慢するのは性に合わない。
 ジャイロはよく喋る性分なのでこの崖下の細道に入ってからも色々と話をしてきた。昨晩細道の中でも横幅がやや広い箇所で野宿した際にも下らない話をした。
 だが時に会話が途切れる事も有る。それが2分経ったか否かという時に、丁度話題になりそうな物がジャイロの横顔をちらりと盗み見た目に入る。
「ジャイロ、あれ何だと思う?」
 右側は優に5mは下らない高さの崖になっている。その垂直に近い斜面を何かがゴロゴロと転がり落ちてきた。
「さあ? このままじゃあぶつかり……人間か?」
 見上げて一旦は呑気な声を出したが、一転して馬を下りて鉄球を片手に身構える。
 レースの阻害を目論む攻撃を避けてこの道を選んだのだからまんまとやられて堪るものかと思った。しかし転がる何かが人間であるとわかり、近付くにつれてその考えはすっかり変わっていた。
 次第次第にスピードを上げるそれは確かにこのままいくとぶつかるかもしれない。となると右に、より近しい位置に居るジャイロは大ダメージだし『それ』の方もただでは済むまい。
 意識が無く手足に力が入っていない人間。まして未だ幼い、3〜4歳位の子供。
 自分達――もしくは他のレース参加者。あるいは全くの無関係なこの道を通りそうな人間――を狙っているわけがない。足を滑らせたか、突き落とされたか。
 ハンディキャップが有り生きる事に精一杯の身で名も知らぬ他人を助けられると驕らないタイプを自称してはいるが目の前で死なれるのは流石に避けたい。それもあんなに小さな子供。
「ジャイロ!」
「了解!」
 手指に収まる小さな鉄球1つに回転を掛けてジャイロは放った。転がり落ちてくる子供の『左腕』に当たる。
 回転の掛かった鉄球の力はぶつけた箇所へのダメージが0になる事は無い。大抵の人間は右利きなので右は避けたいし、足に当てては何の意味も無い。頭や腰は論外だ。
 狙い通り左の二の腕を『撃たれ』た子供の体は大きく跳ね上がり、崖面から離れて宙に浮いた。
 落下速度を減らした体がジャイロの広げた両腕の中にすとんと落ちてくる。
「おっと」
 予想よりも重たかったのか足元をぐらつかせた。
「本物だ」
 重たさが。体重まで再現した精巧な人形ではなさそうだ。となると最初に浮かぶ疑問は。
「生きてる?」
 崖を転がりボロボロになった服越しに体温を感じるか否か。尤も心臓を停止した直後では温かいままだ。
「息をしている」
 眠っているのか気絶しているのかは不明だが、取り敢えずこの子供の生命の心配をする必要が無いのなら何よりだ。
 見た所手足が可笑しな方向に曲がっていたりもしない。袖を捲れば左腕に小さな打撲痕が有るかもしれないが、頚椎を損傷するより何百倍もマシだろう。
 ジャイロの腕の中の子供は服だけでなく顔も髪も擦れてみすぼらしい事になっている。
 が、元の作りは大変に良い。
 白く柔らかそうな肌に癖の強い金糸の髪。鼻筋はすらりと通っているし薔薇色と称したい頬も丸い。安っぽい挙げ句ほつれて穴も開きそうな服が冒涜的にすら思えてきた。
 誘拐され捨てられでもしたか。上で何が起こっているのか、とジョニィは子供が落ちてきた崖を睨み上げる。
「どうしたもんかね」
 ジャイロの声に再び子供の顔を見る。もう少し幼ければ、あるいはジャイロがもう少し年ならば、下手くそながらも我が子を抱く父親に見えそうだ。
「道を抜けるのに半日として、ここの真上まで戻ってくるのに1日。この子供を落とした親か何かがすぐに見付かったとしてもかなり大きなロスだ。だからと言って今まで走らせてきた道を戻るわけにはいかない」
「こっちの道を選んで1日は経っているから遠回りになる」
「それだけじゃあない。俺達がこっちの道を選んだのには理由が有る」
 やり取りを煩く思ったのか子供の唇が微かに動いた。
「お? 起きたか?」
 イエスと答えるようにゆっくりと両の目蓋が上がる。
 ぱちりと開いた瞳は大きく色素が薄く、じっとジャイロを見上げた。
「おはよう」
 ジャイロの色々と可笑しな挨拶に答えるべく子供は口を開き、しかし何かを思い出したようにすぐ噤む。
「知らない人とは喋っちゃあ駄目って?」
 ふざけて問うと子供はこちらを向き首を横に振った。
 言葉は理解出来るが。
「お前……喋れないのか?」
 未だ幼く性別のわからない顔――顔としては美少年のような、伸ばしっ放しに見える髪としては美少女のような――に一瞬躊躇いを浮かべたが、ジョニィの顔を見たままこくりと頷く。
「あーとも、うーとも言えないのか?」
 ジャイロの方を向いて頷く。先天性なのか後天性なのか一時的なのかわからないが、言葉を発する事が出来ないらしい。
 1度首を捻ってジャイロはしゃがみ、その場に子供を下ろした。
 辺りを見渡して落ちている細い木の枝を拾い、ガリガリと地面に文字を書く。
『Gyro』
「俺の名前はジャイロ。お前さんは?」
 手渡された木の枝を子供は両手でぎゅっと握り締めるが地面に向かおうとはしない。
「いや、未だ文字書けないんじゃあないか?」
 見た所3歳かそこら。辛うじて自分の名前のスペルを覚えている可能性は無きにしもだが、身形――服装。崖面を転がる前から質の悪い生地――からすると教わっていない貧しい出自を思わせた。
「そうなのか?」
 繰り返し頷いた。意思の疎通は取れている。
「じゃあ何か好きな物を描いてみな」
 唐突な言葉に子供は丸い目を更に丸くした。
 素直にしゃがんで、木の枝の先端で地面に何かを描き始める。
 文字はわからなくとも見た物を描く事は出来る。勿論3歳前後の子供――これだけ幼ければ『言葉』に自信が無いのかもしれない――なので写実的な絵画を仕上げたりはしない。
 長い顔、小さく立てた耳、黒い目、胴体、細長い4本の足、細く先端に毛の有る尾、そしてたてがみ。
「馬?」
 ジャイロの言葉に大きく頷いた。
「そうかそうか」
 機嫌の良さを隠さない声でジャイロは子供の体を両手で持ち上げ、そのまま自身の愛馬のヴァルキリーの顔へと近付ける。
 色素の薄い瞳でじぃっと見詰め、子供はヴァルキリーの目と目の間を小さな手で撫でた。
 ヴァルキリーの方も目を細めるように子供に委ねきっている。
 馬の方から子供に何かする心配は無くても、子供の方は何をしでかすかわからない。子供に限らず大人でも老人でも。まして今は莫大な賞金のレースの最中、妨害の意図を持つ者も居るかもしれない。だから馬を見知らぬ者に近付けたくない。
 そんなジョニィの意思を知ってか知らずか――恐らく知っているからこそ「大丈夫だ」と伝えるべく――スローダンサーが数歩踏み出し子供の方へ鼻を向けた。
 おいおい……
 そうは思うが止めない。すぐに気付いて子供はスローダンサーの方へも手を伸ばしてくる。
「喋れなくて文字も書けないなら名前はわからないが、年や性別位はわかる筈だ」
 馬に触れる直前にジョニィが言い放ったので子供は驚いて手をピタと止めた。
 その手を開いて手の平をこちらに向けてくる。
「指5本で5歳?」
 頷く。次いでジョニィを、それからジャイロを人差し指で指した。
「何だ? ああ、俺達と同じ男って事か」
 ジャイロの言葉には2回頷く。
 一応は『会話』が成立しているので少し楽しくなってきた。
 愛着が湧いてきたという悪い兆候だ。子供を落ちてきた所へ返すだけでも時間の大幅なロスだというのに、親や家を探そうと考えてしまいかねない。既にここに置いて行かずに崖の上へは連れて行こうと思ってしまっている。
「そっかお前男かあ。天使みたいだから性別が無くても良さそうなのになあ」
 漸くスローダンサーに触れた子供がその体を高々と掲げられた。
 日が沈み始めて朱色が混ざってしまってはいるが、確かに天使か何かのようなこの子供に晴れた空はよく似合う。
 そう思いながら眺めていた天使もとい子供がジョニィの体の前に降りてきた。
「……何?」
 こちらに背を向ける形で足を開いているので、このまま馬を駆り出しそうな様子。
「おいジョニィ、お前こんな小さな子供を置いていく気か?」
「いや少なくともここを抜けた先までは連れてってやらないとって思っているけど」
「じゃあ行こう」
 早速進もうとジャイロは愛馬に乗る。
「ジャイロが連れて行くんじゃあないの?」
 拾ったのはそっちだろ、という言葉は省略して。
「サイズ的に俺はL、ジョニィはM、その子供はS。って事は馬の負担や諸々を考えたらそっちに乗ってもらうべきだろう」
 非の付け所の無い理由に何も言い返せない。
 子供が降ってくる前と同程度のやや低速で馬を走らせ始めたジャイロに遅れを取らないよう、ジョニィも愛馬の横腹を軽く手首の内側で叩き走るように指示した。
 馬が動き出しても子供は騒がなかった。声を出さないのは勿論、暴れたり嫌だという素振りを見せたりしない。
 スローダンサーも嫌がらない。快適とすら言える速度で揺られながら癖が強い上に乱れている金髪を後ろから見下ろす。
 その頭がくるとこちらを向いた。
「どうした?」
 たてがみを指す。
「手綱は駄目……って、そうじゃあないみたいだな。スローダンサーに触りたいのか? 撫でる位なら良いよ。それ位じゃあ驚いたりはしないから」
 了承の頷きを見せてから再び前を向いて子供は「いいこいいこ」とでも言いたげにたてがみを撫でた。
 髪を梳かしてやっているような。梳かされるべきは転がってきた所為でぐちゃぐちゃになった子供の髪の方だろう。土までついている。
 ジョニィは手で土を払ってやった。
 微かに頭を上げたが、拒む事無く子供は大人しくしている。
 毎朝母親にされているのだろうか。これだけ見事なブロンドなら、親もさぞかし誇らしいだろう。
「でもお前、今日はママに会えないからな」
 その言葉には体をびくつかせて、撫でる手を止めこちらを向いた。
 寂しげな、潤み出しそうな目でじぃと見詰められる。
「そんな顔されても困る。見ての通りここから先も1本道で、もう日も沈み始めているんだから仕方無いだろう? こんな所でスローダンサーに全速力を出させるわけにはいかないし、出した所で、寝ないで走らせたって日付は変わる。パパに会うのは早くても明日の昼間」
 まして落ちて来た所に親が今も居るとは限らない。遅くなれば一体会えるのはいつになるのやら。
 ところが子供はぶんぶんと頭を激しく左右に振った。
「な、何だよ……」
 1度止めた頭をまた何度も強く振る。
「何言いたいのかわかんないんだけど……って、もしかしてパパって言ったのが不味かった? 父親が居ないとか」
 動きを止めた顔は何かを考えて1度瞬きをして、それから頷いた。
 仕事で一時的に家を離れているのか、死別したのか、愛人の家に行ってしまったのか、最初から母親しか居ないのか、存在を認めたくないのか。ともあれ父親の話題はタブーらしい。
「何か悪いな。ゴメン。ママに会えないって話も、別に会わせたくないとかじゃあないんだ」
 わかっていると頷いて、それでも寂しい気持ちに変わりはないのだとやや俯く。
「ゴメンって。お前がそんな顔をしていたらスローダンサーも困っちまう。あ、この馬の名前、スローダンサー」
 そうなのかと目を丸くした。
「自分の名前も名乗っとけよー」
 隣からジャイロの指摘が入って思い出した。未だ名乗っていない。
「ジョニィ。ジョニィ・ジョースター」
 呼ばれる事も書かれる事も無いのだから名乗る意味も無いのでは。
 そう思っている筈なのに、心の中の奥まった箇所で「5歳の子供はきちんと覚えられるか」という不安が踊っている。
 覚えられた所で何の得も無いのに。しかし覚えましたよと言いたげな頷きを見て顔が綻んだ。
「すっかり仲良くなったな」
「そんなんじゃあない」
 隣からのいやに楽しそうな声に早口で返した。この子供とは仲が良い悪いの関係ではない。
 第一に彼は自分の機嫌を取るのが当たり前だとすらジョニィは思う。
 左右に聳え立つ崖を登れる筈が無いし、馬の足で後半日以上の見立ての細道も子供に歩かせればどれだけ掛かるかわからない。見た所食料も飲み物すらも無い。
 そう、名前すら無い。有るのだろうがこちらに知る術が、他者に伝える術が無い。こんな何も持たない子供に『彼』という形容詞も不釣り合いな位だ。
「子供は苦手だとか言うと思ったぜ」
「苦手って程じゃあ……得意じゃあないけどさ」
 兄は居る――過去に居た――のでジャイロのような年上の方が若干話しやすいと思う。だがそれだけだ。子供・年下という大きな括りを苦手とは言いたくないので言葉を濁した。

 空が未だ夜空になりきる前にジャイロが「今日はここにするか」と馬を止めた。
「もう? 未だ進めると思うけど。ジャイロ、そんなに腹が減ったのか?」
「俺じゃあなくて、そっちの子供がそろそろ腹を空かせるかもしれないだろう?」
 顎で「そっち」と指したのはジョニィの前に座りただスローダンサーのたてがみを撫でる子供。
 辺りをキョロキョロと見回していたが崖面に面白味は当然無く、真上を見上げても何の因果か鳥1つ飛んでなく――レース主催の見張りの目すら無さそうなのは良いのだろうか――声が出ないので会話も出来ずで飽きてしまっているだろう。
 そういえば子供を乗せてからジャイロとも会話が特に無いような。下らない、もとい他愛無い話をする時間を楽しんでいたりするので複雑な心境だった。
 馬を降り地べたに尻を付けた方が会話が生まれるかもしれない。
「わかったよ、そうしよう」
 丁度道も今までと比べて辛うじてだが開けた箇所なので、ジョニィは馬の脇腹の上の方を手首の内側で軽く叩いて歩みを止める。
 隣で馬を止め降りたジャイロがこちらへ来て子供へ両手を差し伸べた。
 所謂「おいで」のポーズに子供の方も腕を広げ、ひょいと馬から降りてジャイロに抱き留められる。
 羨ましいとか妬ましいとかの感情が胸の内に渦巻き、2人に向ける目がじとりと重たい物になる。ジョニィはそんな自分に短く溜め息を吐いた。
 地面に下ろされ立たされる幼い子供に嫉妬とは。
「晩飯と寝床の用意は俺がやっておくから、ジョニィはコイツを見ていてくれ」
「コイツねぇ……」
「やっぱり呼び名が無いと不便だな」
 そうではない、とは言わない。名前を呼べないのは確かにもどかしい。
「取り敢えず了解」
 返事を受けてジャイロは背を向けた。野宿道具の荷を解く為に。
 2人のやり取りをしっかり理解しているらしい子供がじっとこちらを見上げてくる。
「見ているって言っても本当に見ている位しか出来ないんだけど」
 ジャイロにではなく本人に。それで良いよと子供は頷いた。
 乗る時同様に降りる時も回転の力を応用して地面に降り立つ。否、立ってはいない。両の足をだらりと伸ばした姿勢で座り込む。下半身付随のこんな自分が子供に何かをしてやれるわけがない。
「……どうした?」
 子供が大変に困りましたといった表情を浮かべている。
 しかし困るのはこちらだ。何を訴えたいのかまるでわからない。身振り手振りで伝えろというには目の前の子供は幼過ぎた。
 何も言えず眉を下げてジョニィを見詰めるだけの子供。
 視線の先は顔ではなく、両足。
「ああ、足か」
 自身の両の脚を指した。子供が何度も頷いた後、心配そうに右手を震わせながら伸ばし、しかし触れられずに引っ込める。
「触っても大丈夫だよ、怪我をしているとかじゃあないから」
 そうなのか、と首を傾げた。
「怪我と言えば怪我だけど。でももう……治ってはいないか」
 意味がわからずに子供は逆方向に首を傾げ直す。
「つまり、えーっと……触っても痛くないって言うかわからないから大丈夫だよ」
 それなら安心と子供は手を伸ばしジョニィの足にそっと触れてきた。
 子供らしいふにふにとした小さな手。指先の爪はとても小さくきちんと短く切られている。
 痛いの痛いの飛んで行け。そう声には出さずに円を描き撫でていた手が止まった。
「どうかした?」
 子供は触れていた足を見て、尋ねた顔を見て、足から離して手の平を見て、動かない足をまた見る。
 痛みも痒さも感じない。代わりに温かさも柔らかさもわからない。小さな子供はそれを『可哀想』とでも思ったのだろう。
「そういう、同情とかしなくていいから。されても困るし」
 言った所で伝わるまい。自身の感情の操作等小さな子供が最も苦手とする事だ。
「あーほら、何か描きなよ、先刻みたいに」
 辺りを見渡しスローダンサーが匂いを嗅いでいる、先程のそれよりも太い木の枝拾い手渡した。
「こっちはお前の名前も住んでる所も嫌いな物もなんにもわからないんだ。あ、馬が好きなのは知ってる。ほら馬とか他に好きな物描いてみろって」
 枝を手に暫し考える様子を見せ、子供はジョニィの前にしゃがみ込む。
 ガリガリと音を立てながら何かを描く。頭部、小さく寝た耳、小さな角、大きな鼻に両の穴を繋ぐ輪、胴体と足、棒線1つで表す尾。全体をぶち模様に塗った。
「……牛? お前馬だけじゃあなく牛も好きなのか」
 隣に何かが入っているコップの絵も描く。
 牛その物じゃあなくてミルクが好きなのか?
 聞けないまま子供は更に隣に何かを描き始めた。
 横向き、鶏冠(とさか)と嘴(くちばし)と上向きの尾と、ふさふさとした翼に細い足。その足元に幾つかの楕円も付ける。
「これはわかる。ニワトリだ」
 牛と鶏って……もしかして肉が食いたいってアピール?
 子供はその周りに次々と、草や木や太陽、蝶や小鳥のような物を黙々と描いた。
 姿勢の所為でそれを覗き込んでやっているような感覚。
 地面への落書きに夢中な子供を放り置き、ジャイロに何か手伝うかと声を掛けたい、言ってしまえばジャイロと会話をしたいのだが。
 そう思いジャイロの方へ顔を向ける。
 と同時に、ぐいと帽子を引っ張られた。
「何だよ……」
 仕方無しに子供の方を向き直すと、こちらに木の枝を差し出している。
「描けって?」
 必死に何度も頷く。癖の強い金髪がふわふわと揺れた。
「絵心とかそういうの無いんだけど……」
 なまじ目の前の5歳児が何を描いたかわかる程度の画力を持っているだけに気まずい。
 面倒を見ていろと言われたのだから相手をしなくては。ジョニィは渋々木の枝を受け取る。
 馬や牛やニワトリを好んで草木も添える。もしや牧場の子供か何かだろうか。
 養豚している可能性も有るな、とジョニィはよれよれの線で豚を描いて見せた。
「これわかる?」
 首を横に振る。
「わかんない?」
 首を縦に振る。
「何でわかんないんだよ……じゃあ豚描いて、豚。豚はわかる?」
 木の枝を突き返した。
 子供はやや考えてから地面に向かった。ガリガリと音を立て、丸い顔に尖った耳、縦長の目、特徴的な鼻、丸い体に一回転した尾、4本の短い足と蹄(ひづめ)を描く。
 牧場の子供ではなく画家の子供かもしれない。
「楽しく遊んでる所悪いが晩飯だぜ」
 ジョニィと子供は揃って声のした方を向く。ジャイロは両手に皿を2枚、座った膝の上に1枚置いていた。
 皿の上にパン、パンの上に缶詰の肉。見える範囲ではシンプル過ぎる献立だが、組み立てた簡易テーブルの上にも皿が有る。強火で一気に煮込んだを通り越して煮詰めてしまったであろうスープが入っている筈だ。
 喜び勇んで子供はジャイロの方へ駆け寄る。
 そしてすぐに戻ってきた。
 ジャイロから渡された2つの皿の内の1つをジョニィの顔の前に差し出す。
「……どうも」
 2つ渡されたのではない。1つ渡された後に、もう1つは奪い取るように持ってきた。
 ジョニィのすぐ隣に座り込み、子供は早速パンに齧り付く。
「食うのは1人で出来るのか。まあ5歳だもんな。5歳ってもうちょっと大きくなかったっけ」
 大口を開けてもぐもぐと肉乗せパンを食べる姿は可愛らしいと言えば可愛らしいのだが。
「あのさあ……」
 何だ、と口の周りにパン屑を付けた顔をジョニィの方へ向けた。
「足は動かないけど動けないわけじゃあないんだ。小さいテーブルに向かって食う事も出来る」
 ジャイロとも一緒に食べたいのだけど、という提案。
 この子供が降ってきてからジャイロとの会話が極端に減っていた。普段ならば野宿や夕食の準備の間も何かと話をしている。
 子供は1度頷いてパンを乗せ直した皿を持ったままジャイロの方へ向かった。
 微かな距離とは言え1人寂しく食事をする羽目に陥ったと思っていたジャイロは子供が来たのですぐにその頭を撫でた。更に自分に寄り掛かるよう座らせる。
 羨ましいなと見ていると子供と目が合った。早く来いの意味か両腕を広げてきた。
 ジャイロがその顔にスープを掬ったスプーンを近付ける。
「その子供、スープも1人で飲めるんじゃあないのか!?」
 ジョニィは未だテーブルについておらず離れているから、を言い訳に大きめの声を上げた。

 こんな時間に寝ては夜明け前に目覚めるのでは、と思うような時間だが今日はもう寝る事にした。
 布団――寝袋――の中はきちんと暖かいが、背中は痛いし掛け布団――これもまた寝袋――は薄いしで寝心地は悪い。
「なあジャイロ」
「どうした?」
「全っ然寝付けないんだけど」
「同じく」
 昨日も一昨日もその前からずっと似たような時間に寝起きしていたのにいきなりこうなれば当然だろう。
「軽い運動でもしたら違うかな」
「それじゃあするか、運動」
「良いね。でもどうせなら激しい方が良い」
「ぐっすり眠れるやつだな、オーケー」
 ごそ、とジャイロが寝返りを打ちこちらを向く。
 ジョニィがそちらに顔だけ向けると真摯な目と目が合う。魅力有る眼差しとこれからの予感に体も心も疼いた。
「じゃあ――」
「この子が寝てからな」
 興醒め。
 2人の間にうつ伏せに寝そべっている子供は夕食前やその後のように木の枝でガリガリと地面に落書きをしている。
 寝る気を一切見せないこの子供が眠ってくれるのは一体何時間後の話だろう。
 もう少し性格が悪ければ殴って気絶させてしまうのに。そんな事が出来る筈も無いジョニィは子供に「お前さ」と声を掛けた。
 手を止めてジョニィの方を向く。
「絵描くの好きなの?」
 1度瞬きをしてから小首を傾げた。
「そうでもないのか? でも動物は好きだよな」
 今も馬の絵を描いている。
 2頭の馬は斜線を入れて色の違いを表している。恐らくこの2頭はヴァルキリーとスローダンサーだ。
「特に馬が好き」
 それには素直に頷いた。
「2頭も未だ眠れずにいるだろうな。お前見てくる?」
 大きく頷き寝袋布団から勢い良く飛び出した。そのまま2頭を繋いでいる方へ駆け出す。
「ジョニィ……」
「悪かった……」
 だが2人揃って追い掛け連れ戻す気力も無く布団に入ったまま。
「名前がわかれば、名前を呼んで戻ってこい位言えるんだけどな」
「無いわけじゃあないだろうけど。でも呼べないのは本当に厄介だ」
「何か良い感じの名前付けるか」
「そんな迷い犬相手みたいな事して大丈夫?」
 間に居た子供が居なくなり顔を付き合わせるような形のままジャイロは「大丈夫」と適当に言った。
「じゃあ何て呼ぶ?」
「何が良いか……候補は?」
「んー……金髪だしSun(サン、太陽)とか」
「おっ、良いねえ」
「だろ?」
 得意気に鼻を鳴らす。
 Sunは少しアクセントを変えればSon(サン、息子)になる。2人の息子という意味を勝手に込める位は許されるだろう。
「金髪だし空から落っこちてきたし丁度良い……いやもっと可愛い名前にしてやろう。天使に因んでエンジェルとか、智天使に因んでセラフィムとか」
「どれもあの顔には合わなさそうだけど」
「じゃあ時間を司るクロノスはどうだ」
「神話混ぜるのは危ないんじゃあない? 天使じゃなくて神様とか、どこから怒られるかわかんないし」
 すっかり愛着が湧いてしまった気がするあの子供が落ちてきた崖の上で一体何が有ったのだろう。
 自分達が崖の下を遠回りしようと決めた理由の、女スタンド使いが何かをやらかしたのでなければ良いのだが。
 本人曰くレース関係者。若く肌が白く派手な髪型をした女が「自分はスタンド使いだ」と言ってきた。
 自分の言う男を上位に入賞させろ。それが無理ならせめてこの区間で1位にさせて賞金を取らせろ。金が目当てだ。このスタンドが見えているなら金の為にお前達から『3つ』奪ってやる――早々にコ―スを変え離れたので詳細はわからないが、その女の隣に控えていたスタンドは3つ奪う事が出来るのだろう。
 スタンドを出してスタンド使いの参加者を脅し、またスタンドを持たない参加者をも妨害する。
 それでも未だ金を欲している辺り奪った物を自分の物には出来ないようだ。
 もしや物ではなく概念を奪うのではないか。馬と戯れている子供は名前と声と文字を奪われてしまったのではないか。しかし子供から3つ奪った所でレースの勝敗に何の変化も無いだろう。
 となると、あの子供は参加者の息子ないし弟や孫で、3つの内の1つとして奪われ放り投げられたのでは、という辺りまで考えが膨らんだ。
「……とんでもない被害者だ……」
「何て名前を付けるって?」
 奪われた名前を呼べば声と文字も戻ってくる、なんて都合の良い展開が待っていたりしないだろうか。
 それよりも違う名前を与えてしまうと声や文字も戻らなくなる、なんて制約が有っては困る。
「ジャイロ、やっぱり名前を付けるのは止めとこう」
「どうした? まあ別に良いけど」ゴロンと寝返りを打ちうつ伏せになって「おーい!」
 名前ではない呼び掛けだが馬2頭と子供1人はこちらを振り向いた。
 そう、名前が無くても取り敢えずはやっていけている。
 寧ろ下手な愛着を持たない方が良い。しかし手遅れの可能性は高い。ジャイロの「もう寝るぞ」という手招きに駆け寄る様子を見て、今ばかりは羨ましいではなく純粋に可愛らしいと思った。
 これはもう今晩『運動』の機会は無いな、と割り切ったジョニィの掛け布団を捲り子供はもぞもぞと入ってくる。
「おいおい、ジョニィの方で寝るのかよ」
 先程は丁度中央だったのに。しかし譲る気は無いらしく胸にしっかりと抱き付いてきた。
「子供はやっぱりパパよりママのが好きってやつか」
 父親――代理――を自称しては父親の話を嫌がる子供の気は惹けないと教えてやるべきか、黙っておいて仲良くなれない様子を見て内心で笑うべきか。
 それにしてもこの子供は体温が高く鼓動も早い。小さな生き物はそれだけ心臓を打つのが早いという話を思い出す。
 何かを抱き締める事で安らぎを感じるという話も思い出した。就寝前の幼児に宛がうぬいぐるみの要領で小さな体を抱き締めてみた。

 崖の上から降ってきた子供を拾って大体18時間といった所か、やや曇り気味の空の下をこれと言った会話無く2人――を乗せた2頭と、拾ったその子供――は進んでいる。
 昨日より僅かに速度を上げて。左右が崖なのである意味安全地帯だからと体力の温存を重視していたが、それよりも子供を何とかしたいという気持ちの方が大きい。
 それは勿論置いて行くといった選択肢の有る筈も無く。彼が生まれ育った家に、あるいはそれを探してくれそうな人の所へ。
 但し全速力を出してはジョニィの前に座る子供に負担が掛かる。他者の様子は伺い知れないがこちらの現状を知られる心配は無いし妨害の可能性もかなり低い。だから昨日よりも少し早い位の速度だった。
「低くなってきたな」
 今日は全然話をしていないな、と思った矢先にジャイロから声が掛かる。
 彼が指すのは左右の崖。もうすぐこの道も『崖下』ではなくなる頃。
「改めて、どうする?」
 この子供を。
 乗ってすぐは昨日と同じく馬のたてがみを撫でていた子供だが、今はぼんやりと――恐らく口を開けて――空を見上げている。少し前までは器用に馬に張り付いて転寝していた。
「落っこちてきた所まで返すかそれ以外か。ジョニィ、お前ならどうする? もしお前が1人きりで走ってる所にその子供を拾ったら、この後どうする?」
「難しい質問だな……」
 1人であってもジャイロと2人であっても行動は変わらないつもりだが。
「……家を探して送り届けるのは、しないと思う」
 ただでさえこの道ならぬ道を通っているのに、更に大幅なタイムロスはしていられない。
「探してくれそうな人に頼む。金にがめつい奴が良い。送り届けたら、レースの後に金を払う約束をして、絶対にこの子供を家まで届ける奴に託したい」
「お前の意見はよくわかった」
「ジャイロは? ジャイロの場合だったらどうする?」
「同意見。もしくは……一層誰かに貰ってもらうかな」
「貰ってもらう?」
「孤児院探して預けるとか。全部終わってから親を探してそこに預けてるぜって言う。あとは……まあその子供が嫌がるかもしれないが、でも大丈夫なら子供の居ない夫婦に貰ってもらうとかな」
「それはヤバいんじゃあないか? それこそ野良犬とか野良猫じゃあないんだから」
「父親も母親も居ない状況でも全然泣かないし、このご時勢じゃあそんな事は無いだろうが口減らしに崖から捨てられた可能性は0じゃあない」
 そんな可能性は数%だって認めたくない。母親に会えないと聞いた時は少しばかり焦っていた。しかしジャイロの言う通りでもあった。口がきけず文字も覚えられない子供を捨てない確証は無い。
「……だったら、子供が居ない夫婦に任せるんだったら」
「自分が引き取るって?」
 レースを制し足が戻れば、子供1人育てる位出来るだろう。
 これだけ馬が好きなのだから自分を継ぐ騎手に育てても良い。大規模なレースの勝者は足が不自由だった。その跡継ぎは声が不自由、となれば新聞社だって大喜びで持ち上げる。
「それこそ止めておいた方が良いぜ」
「何でだよ、薄情だな」
 人が良さそうな知らない人間よりもお前が見る方が良いと言ってもらいたかった。
 子供を育てた事は無いし弟や妹も居ない、親戚や近所の小さな子供を預かった経験すら無い。この子供の事を考えれば止めるのは当然だ。寧ろ「どうせ冗談だろう」と思われなかっただけマシか。
「そっち」
 不意の思考を途切れさせるジャイロの声。
「道になっているな」
 どっちの事かと指した左前方を見ると、崖が急に終わり細いながらも『道』になっている。
 左に曲がれば、左は崖で右は人が通らないらしい雑草地の細い道を行く事になる。益々目的地――右前方――から離れてしまう。
 しかしこうして人が踏み歩いた道が有るという事は真っ直ぐ進むよりも幾らか早く住人、文字通りこの辺りに住む人間に会える筈だ。住人が一時的、あるいは半永久的にこの子供を預けるに値する人間かどうかはわからないが。
「行こう、ジャイロ」
 手綱を引いて馬をすぐに曲がれるよう左に寄せた。
「良いのか?」
 どこに住人が居るかわからない。居ないかもしれないし、預けられる人間ではないかもしれない。来た道を戻るより幾分マシな程度で大幅な遅れになるかもしれない。
「良いんだ」
 それでもこれ以上共に居て愛着を持つのは宜しくない。
 充分執着していると指摘されそうな気がしたが、ジョニィは子供の頭を撫でた。どうしたのかと子供がゆっくり振り向く。
「お前さ、自分の帰る家ってどんな所だと思う?」
 昨日の昼まで居た家なのか、今から出会う人間の家なのか、近くの孤児院なのか、まさかジョニィの家なのか。
 口のきけない子供の返事は当然無かった。

 崖の終わりを左折して少し進むと民家が見えた。小綺麗な2階建てで外に洗濯物が干されている。
 洗濯物から予想するに最低でも大人1人と子供1人――恐らく壮年位の男と10代位の女――の暮らす家。窓も割れていない。見える範囲に他の建物が無い事も含めて、ジョニィに背を預けて空を見上げている子供を預けるならばここしかない。
 お別れだな。
 こんな感情が胸の奥に燻って(くすぶって)しまうなんて。もっとジャイロとの時間を奪いやがってと怨める憎たらしさが有れば良かったのに。
 馬を降りて繋ぎ、荷の中から折り畳み式の軽量車椅子を取り出した。
 自走出来る車椅子だが敢えてジャイロが押す。頼み事を聞き入れてもらいこちらにとって円滑に交渉を進めるには『同情』という要素は非常に重要だ。
 足の不自由な青年、口のきけない少年、彼らを支える福祉職に思わせられる事を願って。
「はーい」
 ドアを開けたのは1人の少女。
 背が低く14〜5歳に見える。が、大きなギョロリとした目はもう少し、否、もうかなり上に見える。
 顔だけを見て声だけを聞けば40代にも差し掛かっていそうで、しかし体型はそう思わせない。背が低いだけではなく、スラリではなくひょろりとした感じがどうにも幼い。
「えぇと、どちら様? こんな所に有る家に訪ねてくるなんて夫のお客さんね」
「夫か……」
 ジョニィの背後でぼそとジャイロが呟く。顔や声から察せられる方の年齢のようだ。
「ゴメンなさいねえ、夫は今お仕事中なの」
 真っ昼間なので当然だろう。
「コーヒーを淹れるから上がって頂戴。そっちの可愛い坊やにはココアを入れてあげるわ」
「俺達は貴方の旦那さんの知り合いじゃあありません」
「あらそうなの? でも立ち話をするのも何だから、どうぞ入って」
 ジャイロの真摯ぶった言い方にも、少女のような体格の女性はにこやかさを崩さない。
「そこの段差、貴方持ち上げられる?」
「はい」
 嗚呼良い人そうだ。彼女なら一安心だ。良かった。
 ジャイロに車椅子を押させながら――ちゃんと『押してもらう』に見えているだろうか――子供に「行こう」と声を掛ける。
 ダイニングに腰掛けるよう言われたのでジャイロはジョニィの車椅子をテーブルの椅子の無い辺に留め、子供をジョニィの向かいにある椅子に座らせてから自分も椅子を借り座った。
 テーブルに向かう椅子は3つ。子供を座らせた椅子は真新しく、ジャイロが座る物と真向かいに有るそれとは年季が入っている。
「この先は細い道になっていてね」
 トレイに4つのカップ――ペアカップが2組――を乗せて恐らく家主の女がキッチンから戻ってきた。
「なぁんにも無いの。崖しか見えない何も無い、馬でも2日は掛かる道なのよ」
 カップをジョニィ、ジャイロ、誰も居ない席に順に置き、最後に子供の前に置いた。
「夫に会いに来たんじゃあないなら迷子さんね? これより先に進むともっと大変。3人共引き返しなさいね」
 女は見た目に反して年寄り臭い仕草でコーヒーを啜る。
「いや俺達は……貴女の言う『先』から来ました」ジョニィの方に目を向け「見ての通り少し訳有りで」
「まあそうだったの」
「そこにその子が居たんです」
 両手でカップを持ちココアに息を吹き掛けている子供へと目を向けた。
「崖から落ちたみたいです。口がきけなくて家の近くから落ちたのか誘拐されて落とされたのかわからない。でも俺達が連れ歩くわけにはいかない」
「少しの間預かってもらえませんか」
「ジョニィ」
「用が済んだら迎えに来ます」
 牽制されたがジョニィは続ける。
「それから親を探したり、親代わりになる人を探したり、そういう事はこっちでします。だからレースが終わるまで、それまでで良い。この子を……預かって下さい……」
 キョトンとした顔でこちらを見てくる子供と離れ難く思う必要なんて無いのに。
「……そういう事です。それとも俺達が向かう方に孤児院か何かが有りますか?」
「孤児院ねえ……すぐ近くの街には無いけれど、その向こうまで行けば有るとは思うわ」
 コーヒーの残るカップを置いて夫人――座ってしまえばまさにそんな見た目だ――は「うーん」と唸った。
「私は田舎の出身でね、そこの街にも奥の都市にも全然詳しくないのよ。竹細工の篭(かご)作りが出来ればそれで良いから、夫の「望む街から離れていても良いから広い敷地と広い家」に住む事にしただけで」
「あの」ジョニィはおずおずと「そんなにこの家からすぐ近くの街ってやつは離れているんですか?」
 確かに地平線の見えそうな程に何も無い道が広がって見えたが。
「相当なものよ。だから夫は休みの前にしか帰ってこないの。次の日も仕事が有るならそのまま街に泊まるわ」
 広さを重視する夫が望んだ家に毎日は帰ってこないとなると随分と離れているのだろう。
 そんなに離れているならここから『学校』に通うのは厳しそうだ。ほぼ真上を向きココアを飲み干した子供を心配に思う。
 やはりここに預けるべきではないのか。しかし学校なり何なりを理由に、レースが終わり次第迎えに来て引き取る事が出来る。逆に最高の条件かもしれない。
 本当の親を探すという選択肢が無い状況では。親は必ずしも尊敬出来る人間ではない。だがこの子供の親は一般的な、子が尊敬出来る親かもしれない。嗚呼一体、どうすれば。
 とんとん、と足音が聞こえた。
「お客さん?」
 次いでした声の方を見ると、階段から降りてきた1人の男が立っている。
 背格好はジャイロに近い。しかし頭が綺麗に禿げ上がっており年を感じさせる。それでいて顔立ちだけ見るとかなり若くジャイロよりもジョニィに近いかもしれない。
 目の前のちぐはぐな女の夫かもしれない。顔や体型が実年齢からずれた者同士の夫の方が口を開いた。
「アンタらは……レースの……」
「旦那さんSBR知っているんですか?」
 だとしたら不味い。
 レースの優勝を目指して拾った子供を預けたがっていると知られたら、身体に不自由を抱えた者と介助をする者という形で同情を買う作戦は失敗になる。
「ああこの人は夫じゃあないのよ」
「えっ?」確かに夫は仕事中だと言っていた。街に居るのだと思い出し「じゃあ……」
 まさか息子なのか、それとも意表を突いて父親だったり義父だったりするのか、とジョニィは瞬きを繰り返した。
「向こうの、貴方達が来た方の崖からね、落ちてしまったらしいのよ。あそこの崖は落ちたら上れない高さで、だからこの家を訪ねてきたの。一昨日の事よ」
 この子供よりも早く落ちた人間が居るのか。今日も誰かが落ちてきていないと良いのだが。
「旦那さんも奥さんも足の怪我が治るまで居て良いと言ってくれたんだ……手当てをしてくれたし、飯も沢山出してくれたし、この通りちゃんと歩けるようになった。有難うございます」
「ふふ、どう致しまして」
 夫婦揃って人が良さそうだ。子供を一時的に預けても大丈夫だろう。
 寧ろ子供が懐いてこの家の子になると言い出すかもしれない。迎えに来た時にフラれたら辛い、まで勝手な妄想を繰り広げる。
「なあちょっと待ってくれ、お前さんもしかしてレース参加者なのか」
「そうだよ。尤もこの頭じゃあわからねーだろうけどな。上位者ってわけでもねーし……いや、この区間では上位に食い込めた。あの変な女さえ居なければ、1位にだってなれたかもしれない!」
 まぁまぁと宥める夫人に頷きを返しつつも、禿げた男は抑えきれずに早口で続けた。
「真っ白い美人だけど頭のイカレた女だよ! ここを通すわけにはいかない、引き返さなきゃ3つ奪うとかわけのわからない事をほざきやがって!」
 ジャイロが小声で「あのスタンド使いの女だ」と言ってくる。
「何も無い所を指してこれが見えるかとか言い出して、馬で蹴飛ばしてやろうとしたら……急に馬に乗れなくなったんだ……」
「乗れなくなったって? まさか、3つの内の1つに馬を奪われたのか!?」
「いや、馬じゃあない……『乗馬』を奪われたんだ……余り早くはないけど大人しく言う事のよく聞ける俺の馬が突然暴れ出して、崖の所から俺だけ落ちた……気を失っていたのは多分一瞬だと思う。目覚めたら崖の下で、髪が全部抜けていて――」
 失礼ながらもジョニィはジャイロと共に笑いを堪えた。
「――名前だけが思い出せない」
 この言葉で浮かび掛けた笑いは消え去った。やはり名前という概念を奪えるようだ。
 馬ではなく馬に乗る能力という概念までも奪う恐ろしいスタンド能力。
 しかしスタンド使いの女を思い出すと、既に奪われた後の目の前の男になら出来る解決策が1つ有る。
「あのさ、多分なんだけど」
 ジョニィは必死に自分が勝つ為ではなく、禿げた男が取り戻す為の手段をアドバイスしているだけを装った。
「その女をぶん殴って脅せばせば元に戻れるよ」
「何だって?」
「3つ奪えるって事は3つしか奪えないって事で、もう腕とか内臓とかそういうのは奪われないと思う。だからその女を見付けて「返さないとブッ殺す」って何発か殴れば返してくると思う」
 何を奪われるかわからない自分達には出来ない。しかし奪われた後ならそれを気にする事無く挑める。
 ましてあの若い女のスタンドはそこそこ力強そうな見た目をしていたが、女自身はそうでもない。どうやらスタンド使いではないらしいこの男なら、スタンドを見せての脅しは効果が無い。
「俺達もチラッと見たけど未だあの崖の所に居そうだな」
「……そうか」
 ジャイロの追い討ちを聞いて男はぎゅっと両の拳を握り締めた。
 他にも金目当てだと胸を張ってまで言っていたので金を握らせれば解決しそうだが。
「ちょっと、行ってくる」
 男は夫人の「行ってらっしゃい」の言葉を背に受けて、歩けるまでに治った足で外に出た。
 歩いて向かえば相当掛かる。
 しかしいつスタンド攻撃を喰らったかは不明だが、一昨日にはこの家を怪我した足で訪ねてきたのだから男は恐らく相当にタフだ。
「それで、その子の孤児院のお話?」
「いや、孤児院はこっちで何とかする。迎えに来るまでの間だけ、この子を見てもらいたいってだけの話だ。頼む、頼みます」
 問題は迎えに来るのがいつになるか見当も付かない事。明日明後日ではないし、来週中も有り得ない。来月か? それとも来年か? 本当に来られるのか?
「わかりました」
 夫人は目を閉じてゆっくりと頷いた。
「遂に私達夫婦に子供が出来るのね」
 そのままにこりと微笑む。
 先程出て行った男を快く家に置いていたのは、夫婦2人きりで夫も泊まり込みの仕事だから本音としては寂しく思っていたからなのかもしれない。
 可愛がってくれそうだ。寧ろこれだけ悪意を知らないのは不味いのでは、とすら思えてきた。
 その位安心しきってジョニィは笑みを浮かべる。
 カタン、と音がした。
 見ると子供がカップをテーブルに置いていた。視線に気付いたかジョニィの方を向く。
「良かったな。危ないから、一緒には行けないんだ。普段はあんなにゆっくり走らないし、邪魔をされる事も有る。ああ、ママが探しているかもしれないか。その時は――」
「その時まで宜しくね、坊や」夫人の方を向き直した子供に笑顔で「お名前は何て言うの?」
 喋れないし文字を書く事も出来ない子供はふるふると首を横に振った。
「大人になったなぁ、ジョニィ」
「は? 何だよ急に」
「苦いコーヒーも飲める大人になったみたいで何よりだ」
 ジャイロは満足そうに目を伏せコーヒーを啜る。
 こんなに砂糖たっぷりのコーヒーが飲めた所で大人も子供も無いだろう、と思ったが言わなかった。

 調子が出ないのは来た道を戻っているから、後退している気がするからだろう。
 決して何かを失ったからとか、そんな理由ではない。
 崖の下の小路と呼べる辺りを過ぎると『崖』その物が無かったかのような平坦な道が続いている。
 後ろを振り向けば確かに崖は有る。存在を知らないと踏み外してあの小路に落ちてしまう。
「うっかり落ちた、なのかね」
 ジャイロも振り向いて同じ事を考えたらしい。
「そうなんじゃあないかな」
「ハゲのおっさん」
「あ、そっち?」
 てっきりあの子供の話かと思った。
 それを見抜いているようで、わざと引っ掛かるような言い方をしてきたのだとしたら許し難い性格だ。
「もしあのおっさんがスタンド使いの女に能力解除せたら」
「ハゲてるだけで未だおっさんって程年じゃないと思うけど。っていうかあの人、馬から振り落とされたって言っていたしうっかり落ちたとは違うと思うけど」
「あの子供も喋れるようになると思うか?」
「……なると良いね」
 最初に話す言葉は何だろう。次に会う時――有れば。無いかもしれないし、その覚悟は出来ている――にどんな声か聞けるのかだろうか。
 数時間前に子供が撫でていたたてがみに触れる。
「元気出せって」
 ジャイロの言葉に、一瞬スローダンサーが喋ったのかと思い驚いた。
「充分元気だよ、元気」
「それじゃあスピード出して大丈夫か?」
 遅れを取り戻さなくてはならない。ましてここは崖に守られ妨害行為の無い道ではない。誰に追い抜かれるか、誰に邪魔をされるか。
 だがすぐに了承出来ない。あの速さの中を更に加速させるだけの気力が今は湧いてこない。
 そんなジョニィの耳が馬の走る音を捉えた。走るというより彷徨い歩くとでも言いたくなるような、迷いが沢山に詰まった音が少しずつ近付いてきた。その姿が見える。
「ジャイロ」
「ああ、あいつの馬だな」
 ディエゴ・ブランドーの馬。
 どの馬も見ればわかる、とまでは言わない。ただあの男は因縁が深過ぎるので――今乗っていなくても――普段乗っている馬だという事はわかる。彼の馬は彼の馬らしくなく、目的地が無い、もしくはわからないのか足音に軽快さが無い。
 何故か主もそれ以外の人間も誰も乗せていない。ディエゴの積荷と思しき物しか見当たらない。
「……何でディエゴが居ないんだ?」
 主人の名を聞き付けたか馬は2人の方に近寄り、ジョニィとスローダンサーの匂いをすんすんと嗅いだ。
 ディエゴは極力関わり合いになりたくない男だが乗る馬に罪は無いので取り敢えず嗅がせておく。
 威嚇したり噛み付いたりしてこない。寧ろ助けを乞うように鼻を鳴らした。
「荷物も背負ったままだな」
 まさか偵察に来たわけではあるまい。幾ら賢くとも、スタンド能力で何かしらの細工をしたとしても、馬単身で送り込む事は恐らく無い。その状況なら隠れて見張るのではなく敢えて馬に乗ったまま平然を装ってくるだろう。
「いやにジョニィばかり嗅ぐな」
「嫉妬?」
 からかいの言葉を返したが言われた通りの気がしてきた。手綱辺りを中心に何かを探し当てるべく嗅ぐ姿は一層痛ましい。
「……お前、どうかしたのか?」
 撫でてやろうと伸ばした手も匂いを嗅がれる。何かを見付けたかのように一際長く。
 漸く嗅ぐのを止めたと思うと触れさせるより先に、今2人――を乗せた2頭――が来た道へと歩き出した。
「おい、どこ行くんだ?」声を掛けても当然何も言わない馬に「そっちにディエゴが居るのか?」
 やはり主人の名には反応するらしく一瞬こちらを向いた。しかし足は止めない。
 すぐに前を向き、ゆっくりだがどんどん離れてゆく。
 この先には子供を預けた家しか無いぞと言ってやるべきだろうか。あの子供なら新たな馬が来たと喜びそうだし、夫人もまた干草を与えるなりして可愛がってくれそうだ。その位幸福に満ちた家だった。
「ディエゴもあのスタンド使いの女から馬を奪われたのか?」
 奪った物はスタンド使いの物にならないようなので浮いてしまった馬がウロウロしているとか。
「ジョニィ、馬以外何奪われたと思う?」
「髪の毛」
「先に言われた」
「馬、髪の毛、最後の1つは?」
「悩むな。プライドでも奪っといてくれりゃあ良いんだが」
 嗚呼漸くこの時間が来た。こうして特に意味の無い、そして2人にとって大変に有意義な会話を繰り広げる時間。
 ゴールまでにどれだけ出来るだろう。永遠に続けられない事はわかっている。
「声や文字や名前よりも、取られて困る物にしてやろうぜ」
「それが良い。シミとか皺とか弛みとか取り上げたってつまんないし」
「年とか保険料とかはそのままで――」
 ジャイロは言葉を詰まらせる。同じ事を考え付いたジョニィもまた黙り込んだ。
 例えば、もしもの話。ディエゴから年齢を奪ってみたら。
 性格は排泄物級に悪いが見てくれだけは良い。金髪碧眼の美男をそのまま美少年に。
 資産家の元へ婿入りしたがそれまでは、特に幼少期は貧しかったとしたら服装はみすぼらしく。
 そんな生活で捻くれてしまった性格も5歳の時点ならば素直で可愛らしいとして。
「あの可愛い子供、早くスタンドが解除されて喋れるようになると良いな。名前とか」
「文字も書けるようになるともっと良い。名前とか」
 勝手に名前を奪われたと思い込んでいたが、喋れず文字も書けない子供から名前を奪った所で何の意味も無い。
 それよりも年齢を奪い子供にして、声と文字とを取り上げれた方がずっと良い。名乗る事が出来ない幼い子供は実質何も出来ないも同じ。
 可愛らしく可哀想な子供だった。そろそろ彼の事を考えるのは止めて進もう。もしかすると何も奪われていない、ただの子供かもしれない。親を探さず他人に預けるなんて余計な事をやらかしたのかもしれない。
 迷子の子供に要らない事をしやがって、と罵られるのは辛いだろう。だが何かを奪われた子供が居ないのは良い事だ。年齢を奪われた誰かさんだったという事さえ無ければ全て世はこともなしだ。


2019,06,10


ディオジョナとディエジョニ合わせしようよと盛り上がったのに何故か子連れジャイジョニを書いていた…
4部であれも好きこれも好き、5部でモブ姦いぇーいって騒いでるのに、何故か7部はガチ固定のようです。
何回かヴァルキリーをヴァルキュリアって書いてたしスローダンサーもヴァルキュリアって書いてました。
<雪架>

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